(十六)脳移植の弊害

 「やっぱり浩幸さんだったのね……」
 百恵は警戒の素振りを含みながら、ゆっくりジャン=ジャックの脇に腰掛けると、戸惑いながら浩幸とは違うその身体に頬をすり寄せた。
 「よかった……」
 そして、止めどなく涙を流した。
 しばらくそうしていると、やがてジャン=ジャックは百恵の肩をつかんで自分から遠ざけたかと思うと、ゆっくり立ち上がった。
 「君はなんにも解かっちゃいないんだ」
 不思議そうな表情を作る百恵をよそに、ジャン=ジャックは静かに語りはじめた。
 「僕が君と一緒にいてはいけない理由───、脳移植の弊害のことを───。愛し合えば愛し合うほど、その結末が残酷になってしまうことを───。僕はもう、以前の山口浩幸ではないんだよ」
 「いいえ、あなたは浩幸さん!」
 「いや!僕はジャン=ジャック・デュマ、実年齢四十二歳の二十八歳フランス人。いや、もっと正確にいえば、ジャン=ジャックの身体を拝借したヤドカリだ。もっと言えば、別人の身体に魂を宿した化け物だ。おまけに拒絶反応が起こって、いつ死ぬかも分からない」
 「でも、生きて帰ってきてくれたじゃない!」
 「僕はもう、君が知っている浩幸じゃない。なぜなら、僕には家族がもうひとつ増えたからです。フランスのデュマ一家です。彼らは、僕が脳死状態のジャン=ジャックの再来だと心から喜んでくれました。一生一緒に生活して欲しいとも言ってくれました。父親も母親も弟妹達も、僕を強く抱きしめて泣いてくれました。あれは初めての経験でした。抱きしめられた時、僕の心の中で、それまでまったく体験したことのないある種の感情が涌いていたのです。それは、果てしない愛に満ちた、言葉では言いようのない喜びでした。そしてそれは、明らかに浩幸のものではなく、ジャン=ジャックのものであることは、最初は僕も知りませんでした」
 百恵は戸惑った。ジャン=ジャックの姿を見るとき、あれほど浩幸と二重写しに見えていた彼が、今はまったく別人に思えたからである。第一、浩幸は自分の感情について話すことなどまったくなかったことを思い出していた。
 「なんだか、おしゃべりになったみたい……」
 「ああ、そうさ。ジャン=ジャックという男は、よほど話し好きだったらしい。僕が何を言おうか考えている間にも、感情がたかなると次々と思ったことを口走る。こうなると僕にも止めることができない───。君は心臓にシナプスのような器官があることを知ってるかい?デュマ一家に抱きしめられた時の得体の知れないあの喜びの感情は、この心臓のシナプスによるものだと分かったのです」
 「シナプス───?」
 ジャン=ジャックは、百恵の再会に対する感傷とは裏腹に、心臓には脳に似た器官があるということを語りだした。
 アメリカにおいて心肺同時移植を行った患者で、性格や趣味、好みなどが変わったという報告は珍しくないという。しかしその変化が、臓器を提供したドナーと一致しているという点に、近年の関心が高まっている理由がある。一例をあげればこんなものがある。
 一九八八年、原発性肺高血圧症という難病女性が心臓と肺の同時移植を受けた。手術は成功し順調に回復したが、彼女は自分の心と体に思いもよらない変化が起こっていることに気づいたのだった。それは、それまで好んで口にしたことのなかったビールを突然飲みたくなったり、大嫌いなピーマンが大好きになったり、術後、車の運転を許可されると、一度も行ったことのないファーストフード店に車を乗り入れチキンナゲットを注文していたというのである。また、歩き方も男性的になり、身近な人にも分かるほどであったという。そしてある日、不思議な夢を見る。
 ───暖かい夏の日、彼女は広々とした野原に立っていた。横には長身でほっそりした見知らぬ若者がひとり、その名さえ知っていた。そして二人は別れのあいさつにキスをした。
 その後、彼女が過去の死亡記事を調べていると、彼女のドナーが夢に出てきた男性と同じ名前であったことを知る。そしてドナーの両親に会った彼女は、十八歳で事故死したドナーの話を聞いたのだった。彼の好きだった物は、ピーマンとフライドチキンと冷たいビール。そのほか彼女が夢で見、心で感じた変化の様々が、その男性のものであることが分かってきたのである。そこからドナーとレシピエントの関係を調べるうちに、次第に同じ様な例が次々と出てきたのであった。手術後に突然水が怖くなった人は、ドナーが溺死していた例や、手術後麻酔から覚めるとき、鮮明な殺人現場の夢を見た男性は、そのドナーが実際に殺人事件の犠牲者だったという例などである。
 もしかしたら、心臓にも脳のような記憶する部分があり、移植された患者の心の部分にまで作用を及ぼしているのではないかという論説である。それは、これまで常識とされていた、意識や記憶が脳に局在するという概念を覆すもので、もし証明されれば、脳死問題に大きな波紋を投じることは間違いない。さもなくても、古来より心臓死を重視してきた事実、加えて“心”というものを示すのに、胸に手を当てたり、心臓を表すハートを描いたりすることは万国共通であろう。また、苦しくなったり緊張したりすると胸が締め付けられたり、怒ると腹が立ったりする感覚は、脳信号の所作とはいえ、心が胸のあたりに存在していてもけっしておかしくない現象である。いずれにせよ現代の科学や医学では“心”のメカニズムについてはほとんど解明されておらず、その分野は心理学や倫理学や哲学や宗教などに委ねるしかない。いずれにせよ、心臓にも記憶が保存されている可能性があることが分かりはじめているのである。
 ジャン=ジャックは難しい話をいっぺんに終えると、「疲れた」と言って、百恵の隣りに腰掛けた。百恵は、その横顔を悲しそうに見つめた。話の内容については医学にたけた浩幸のものに違いないと思えたが、語る人間の態度や口調は、どうしても浩幸とは重ならなかったからだ。
 「僕はすっかり昔の性格を失った。だから僕は、山口浩幸であって山口浩幸ではない。ジャン=ジャックであってジャン=ジャックでない。ひとつの身体に二人の人間が実在してしまった感は日に日に強まるばかり……。やがて僕の心は、ジャン=ジャックに支配されてしまうのではないかという恐怖にまで陥ります。いったい僕は誰なのか───」
 ジャン=ジャックは大きなため息を落とした。
 「これで分かったでしょう。僕はわずかの命をながらえるために人格まで捨てた。そんな妖怪みたいな男と結婚したって、貴方が幸福になれるわけがない!」
 二人は言葉を失ったまま暫く見つめ合った。やがてジャン=ジャックは腕時計をのぞき込むと、カバンから免疫抑制剤を取り出して、ペットボトルの水と一緒に呑み込んだ。
 「この薬を一回でも飲み忘れたら、僕は間違いなく死ぬでしょう」
 百恵はそれでもジャン=ジャックに抱きついた。
 「でも、よかった……、真実のことがわかって……」
 ジャン=ジャックの心には、手放そうとして、諦めようとして、忘れようとしていた百恵に対する思いが、にわかに甦ってくるのを感じていた。しかし、彼女を愛すれば愛するほど、彼女には幸せになって欲しいと強く思った。やがて、締め付ける百恵の腕をほどいて、
 「僕のことは諦めて……。どう考えても、君と一緒には暮らせない」
 と言った。
 「私のこと嫌いになったの?それとも咲子さんのことが好きになった?」
 ジャン=ジャックは“咲子”の名を聞いて、先日車を運転しながら見かけた電車の中の百恵の姿を思い出した。彼にとっては都合のよい誤解だった。そしてひとつ微笑むと、
 「僕は咲子さんを愛している。だから君とは暮らせない……」
 と言った。
 百恵はジャン=ジャックから静かに離れた。
 「なあんだ……。それならそうと最初から言ってよ……。内在性心臓神経細胞なんて難しい話し聞いて損しちゃった……」
 百恵は涙声で咳き込みながら、やっとの思いで口にした。
 臥竜山の頂上に、ひとしきりの春風が吹いた。

>> Home

セーブ・ザ・チルドレン 世界中の子どもたちを支援しています