(十五)がりょう公園での歌

 咲子の出現は百恵にとって、少なくとも嫉妬というより諦めに似た感情を与えるに充分だった。仮にジャン=ジャックが浩幸でなかったにせよ、自分以外の女性と付き合っているということに、大きな失望をしたのである。それは明らかに浩幸に対してではなく、ジャン=ジャックに対して抱きはじめていた感情が起こさせたもので、もし彼が浩幸であったならば浮気に対する嫉妬になり得たが、百恵の心にあったものはそれとは違うものであった。
 浮かぬ心のまま季節は流れ、四月に入り、新たに特別養護棟に配属される者もなく、一度は花も咲くかのような温かい陽気を感じずにはいられない日もあったが、花冷えの日は、到底感じることのできない春の訪れに、そのまま冬に逆戻りしてくれればいいのにと考えた。
 例年だと須坂の桜も満開になる時節、今年は冬の寒さが著しかったためか、開花が一週間程度遅れるとの見通しが出ていた。その日振り替え休暇を取った百恵は、思うこともなく、足は自然とそろそろ桜まつりの準備がはじまるがりょう公園へと向かっていた。
 『ジャン=ジャック先生を愛しているのは私。邪魔をする人は許さない!』
 咲子の言葉に胸を曇らせながら、須坂動物園の脇からあがる須田城址へと登りはじめた。
 まだまだ冷たい風が吹いていた。松の木々の間に続く小径を、一歩一歩足を進めるたびに、百恵の脳裏にはここでの浩幸との出来事が、次々と浮かんでは消え、消えては浮かんだ。というより泉のように湧き出る感傷を抑えることなどできなかった。
 足をくじいて彼の背中に負ぶさったこと───。
 頂上でプロポーズされたこと───。
 そして、はじめての口づけ───。
 中間あたりに設けられている展望台のような休憩所でひと休みした百恵は、そこから一気に頂上めざして登りつめた。そしてあと一息のところまでやってきた時、立ち止まって遠くに見える千曲川の光をみつめた。その更に遠くには、雪を残した北信地方の山々が悠然としていた。
 ふと───、
 百恵は自分の耳を疑った。

 ♪ Puisqu'ici-bas toute ame
   Donne a quelqu'un
   Sa musique, sa flamme,
   Ou son parfum;

   Recois mes voeux sans nombre,
   O mes amours!
   Recois la flamme ou l'ombre
   De tout mes jours!

   ………………

 どこからかかすかに聞こえてくるメロディは、間違えるはずもない、あの寒い冬の朝、同じこの場所で聞いた、あの歌声と同様だった。百恵は何かの妖精にばかされているのではないかと思いながら、そろそろと頂上に登りつめた。
 歌っていたのは背の高い、黒いジャンパー姿の、栗毛頭の痩せた男であった。しかし百恵の目には、その後ろ姿が浩幸に映ったのは当然であった。プロポーズの日と全く同じ条件がいくつも重なったのだから。
 「浩幸さん……」
 思わずつぶやいた百恵の声に、男の歌ははたと止まると、やがて男はゆっくり振り向いた。
 「………………、デュマ先生……」
 百恵は重なる同じ間違いに言葉を失った。一方ジャン=ジャックも驚きの表情を隠しきれずに立ち尽くした。
 「や、山口さん……。ど、どうしてここへ……?」
 二人の間に春を思わせる風が吹いた。
 「その唄……。ど、どうしてその唄を知ってるの?」
 百恵の表情は、以前浩幸に対して作られたそれとまったく同じ微笑みに変わっていた。
 「その唄?あ、ああ、いま歌っていた唄ですか?フランスではけっこうメジャーな曲ですよ。それが何か?」
 ジャン=ジャックの応対に、俄かに表情が曇ったかと思うと、
 「覚えてないですか?」
 百恵は我れを忘れていた。叶うならば、湧き出た感情に任せてジャン=ジャックに抱きつきたかった。
 「あなたが私にプロポーズしたときに歌ってくれたじゃない!あのあと私、その唄の意味が知りたくて、ずいぶんと調べたのよ!私にこんな思いをさせといて、どうして隠すのよ!」
 「唐突に何を言い出すのですか?僕には何のことやらさっぱり……」
 「とぼけないで!」
 思わず百恵は叫んでいた。その目にはいつもの質の悪い水滴がたまっていた。
 「私、大樹君から全部聞いて知っているのよ!あなたが浩幸さんであるってことも!」
 百恵ははっと我れに返って言葉を止めた。この大樹を利用した口からの出任せは、ずっと以前から考えていたことだった。百恵にとって最後の賭であり、切り札だった。しかしこの手段だけはけっして使ってはいけないと思っていた。自分と浩幸との関係の間に大樹をはさむことは、そのまま二人だけの世界とは別次元の話しになってしまうし、それは即、彼女にとって浩幸との恋愛関係を崩すことを意味していた。しかし、はちきれそうな心の躍動を押さえ付けておくことは、もはや彼女にはできない相談でもあった。やぶれかぶれというより、女の直感が確信を持って飛び出たのであった。
 ジャン=ジャックは硬直したまま、しばらく何も言わなかった。やがて全てを観念するようにつぶやいた。
 「そうですか……。大樹から聞きましたか……」
 そして大きなため息を落とすと、そのまま長椅子に腰掛けた。
 「絶対言わないって約束したのに……。あいつときたら、仕方のないやつだ……」
 ジャン=ジャックは空を見上げたまま、
 「でも、そうですか……、大樹は貴方をそこまで信頼していましたか……」
 と、百恵に顔を向けた。
 「大樹は、僕との約束を絶対守ると信じてました。何故って、親子って分かるんですよね。なにもかも……。僕はもう、貴方とは縁を切ろうと思ってました。でも、ひょっとしたら心の奥底のどこかで、貴方を手放したくないと思っていたのかもしれません……。貴方の勝ちです。あの大樹からこの秘密を聞き出したのですから……」
 百恵は急に苦しくなっていた。嘘で愛する人を報復させたことに、果てしない罪悪感が胸を締め付けたのである。やがて身体がわなわなと震え出すと、
 「ごめんなさい!……」
 と、突然泣き崩れた。
 「大樹君、いくら聞いても何も話してくれませんでした。大樹君から聞いたなんて全部うそ。私、あなたのことが憎くなって、それでつい、誘導尋問みたいなことをしてしまったの……!」
 ジャン=ジャックは愕然と肩を落とすと、呆れたようにカバンをごそごそやりだしたかと思うと、ようやく見つけたくちゃくちゃの煙草を一本取り出し、口にくわえて火を点した。
 「ダメ!」
 すかさず百恵はそれを取り上げると、地面で火をもみ消した。
 「まったく!……かなわないな……、君には……」
 ジャン=ジャックは怒りの表情を隠しきれずに立ち上がった。

>> Home

セーブ・ザ・チルドレン 世界中の子どもたちを支援しています