(十四)ジャン=ジャックの恋人

 蛍ヶ丘の西側に長野電鉄線が走る。
 上りの終着駅を長野駅とし、下りは志賀高原の麓、温泉街でもある湯田中駅まで走るローカル電車である。以前は信州中野駅から分岐して木島平までの路線もあったが、廃止となり今は線路に沿って生えざらしの雑草があるだけである。
 蛍ヶ丘駅は、須坂駅と小布施駅の中間点にあり、線路を境に東側は住宅街、西側には大小の工場が立ち並ぶ。朝夕はそれでも学生やサラリーマンの往来があるが、日中はその利用者もまばらで、一時間に一、二本訪れる電車に病院通いの高齢者や子連れの主婦がある他は、あとは閑散とした風が吹いているだけだった。
 蛍ヶ丘駅と須坂駅とはほぼ一直線の線路で結ばれ、その東側には線路と平行に走る道路がある。電車の窓際から見れば、追い抜く車の速度は遅く感じられ、追い抜くまでの間、世の中の時間の流れまでゆっくりとしたものになる。
 須坂駅───。
 百恵が長野方面からやってきた電車に乗り込んだのは、ちょうど学生たちが学校を終え、その帰路に若干混雑した時間の頃だった。市街の入所希望者のお宅に介護状態の聞き取り調査に出かけた百恵は、その帰りに長野電鉄を利用したのだった。別に自家用車で出ればよかった話だが、天気もよかったし、学生時代に乗りなれた電車に久しぶりに乗って見ようと気まぐれが起きたのだ。
 座席は座ろうと思えば座ることができたが、数人の女学生がつるんで高笑いをしていたり、老夫婦やサラリーマンやらがまどろんでいたり、たったひと駅乗るだけなのだからと、出入り口の窓際になんとなく移り変わる景色を眺めていた。
 まだ雪の残る北信五岳を背景にして、銀色の二両編成の車両と白い車とが重なったとき───、
 ふと、追い越そうとする白い車に目をやれば、百恵の瞳孔が俄かに見開かれた。それは忘れもしない浩幸の愛車であったワーゲンニュービートルと同じ車種だった。しかも、運転手に目をやった時、身体が硬直した。
 ジャン=ジャック……。
 助手席に乗っているのは紛れもない、山口医院に勤める若く美しい看護師に違いない。名前は確か相模咲子。一昨年前、山口医院に就職してきた大学出たての優秀な娘である。統合になってから、何度かコスモス園の方にも顔を出しているから間違えるはずもない。二人はまるで恋人のように微笑み合っていた。しかも咲子の方は助手席から乗り出すような格好になって、運転するジャン=ジャックの目のあたりに手を伸ばしているではないか。ジャン=ジャックの方もそれを拒みもせず、嬉しそうにされるままに微笑んでいる。
 「まあ……」
 百恵は複雑な心境でゆっくり追い抜く車を凝視した。

 なあんだ。そういうことだったのか……。
 自分が浩幸だって名乗れないわけね。
 あんなにきれいな恋人ができていたんですもの。
 私はただの横恋慕。
 ばっかみたい、わたし……。

 百恵はそのままジャン=ジャックの顔を泪目で睨みつけていた。
 それにしてもおかしな心境である。自分の愛した夫浩幸かどうかも分からないくせに、自分の中ではすっかり彼と二重写しにして、ジャン=ジャックに対して嫉妬しているのだ。相手がジャン=ジャックなのか浩幸なのか、百恵にとってどちらでもよいような気にもなってきていることに、その時はじめて気づいたのだった。

 いったい私は誰を愛しているのいうの……?

 瞳にたまった雫がその重さにたえきれず、スッと頬を伝った時、ジャン=ジャックは百恵の方に視線を移した。その一瞬驚いたふうの表情をとらえた時、電車はそのままニュービートルを追い越した。

 その出来事は、ジャン=ジャックにとっては都合のよい誤解となった。
 例の企画書作りが一段落して、最後の修正項目のお伺いをたてに久しぶりに山口医院の院長室に入った時のことである。ドアがノックされ、入ってきたのが相模咲子であった。咲子は百恵を一瞥すると、まるで嫉妬をあらわにしたような素振りでジャン=ジャックに一枚の書類を手渡し、
 「例の患者の容態ですが、あまり思わしくありません」
 と言った。ジャン=ジャックは渡された書類に目を通すと、同席の百恵に、
 「すみません。ちょっと待っていてください」
 と、そのまま咲子と席をはずしてしまった。残された百恵はすることもなく、暫くは書棚に並ぶ浩幸の集めた書籍のタイトルを順に読むしかなかった。
 やがて十分もすると、再び咲子が訪れてこう言った。
 「ジャン=ジャック先生からのご伝言です。『今日はもうここには来れないからお帰り下さい。修正案については書面にて提出ください』とのことです」
 百恵は「そうですか……」と、立ち上がると、そのまま荷物をまとめて部屋を出ようとした。
 「あなた、ジャン=ジャック先生のなあに?」
 棘のある言葉は咲子のものだった。百恵はそこに立ち尽くすよりほかはなかった。
 「どういう意味ですか?」
 「どういう意味もないわ。先生のことを愛しているのかってこと」
 「ま、まさか……」
 「愛してないなら別にいいけど、やめた方がいいと思うわ。聞いたわよ。あなた、前院長の奥さんだったらしいけど、死んでからジャン=ジャック先生に迫ってるらしいじゃない。みっともないわ」
 「だ、誰がそんなこと───?」
 「いずれにせよ、ジャン=ジャック先生を愛しているのは私。邪魔をする人は許さない。もう、彼には近づかないで」
 そういい捨てると、咲子は百恵より先に部屋を出てしまった。

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