(十三)霞のむこう側

 霞のむこうにジャン=ジャックがいた。
 今日は特別養護棟の診察日で、珍しく彼自らが各部屋を回って歩いた。普段なら西園か、あるいは伝田がその役割を担うはずであったが、たまたま二人が留守をしていたためそのような形になった。いっそ看護師の尾佐田かお調子者の大川に巡回の付き添いを任せようと思ったが、尾佐田は有休、大川はジャン=ジャックの姿を見るや否や、いつになく忙しい様子で席をはずしてしまった。
 「山口さん、よろしいですか?」
 いつもの笑顔に断るわけにもいかず、結局、浩幸の面影を追う泪目でかすれる、彼の姿を見なければならなかったのだ。
 ジャン=ジャックは一部屋ごとに、要介護者の身体を百恵に支えさせながら、聴診器などを巧みに操りながら、カルテに症状を書き込んだ。その仕事に対する目つきは浩幸とまったく同じだと思うたび、百恵の目線は宙を泳いだ。
 「大樹君が毎日先生のところにおじゃましているようですけど……」
 部屋から部屋への移動の間、たまりかねた百恵がそう聞くと、ジャン=ジャックは一瞬不審そうに百恵をみつめた後、
 「彼に気に入られたようです」
 と目を細めた。
 「いったい二人で何をしてるんですか?」
 「勉強ですよ。宿題を見てあげています。それからゲームなんかの手ほどきもしますね」
 「お忙しいのに、ご迷惑じゃないですか?」
 「僕にとっても良い息抜きになりましてね。彼のおかげで仕事もはかどります」
 百恵は言葉をつまらせた。
 「そうだ、この間のビーズの指輪はなおりましたか?」
 今度はジャン=ジャックが話をそらすように聞いた。百恵は何も答えずに左手の薬指のそれを見せた。ジャン=ジャックは苦笑した。
 「先生と会ってから、なんだか大樹君の様子がおかしいんです。何か心当たりはありませんか?」
 そう聞いたとき次の部屋に辿り着き、
 「さあ、仕事ですよ。お願いします」
 とはぐらかされ、百恵は要介護者の洋服を脱がせにかかった。

 やっぱり彼は浩幸さんに違いない。
 でも、どうして隠す理由があるのだろう?
 私をお嫁さんにするって言ったじゃない……。
 私と結婚するって言ったじゃない……。
 でも……、そういえば、愛してるって言われた事ない……。
 やっぱりうそだったの?
 それってレストランでハンバーグを注文して、「承りました」と言ったくせに、サラダとライスが運ばれたきり、肝心のハンバーグが出てこないのと一緒じゃない?
 あるいはおそばが急に食べたくなって、ずっと待ち望んで見つけた美味しいおそば屋さん。胸を高鳴らせてもりそばを食べたまではよかったけれど、いくら待ってもそば湯が出てこないの。もしかしたらそれと同じ状況───?
 そんな時、きっと私は言うわ、
 「あのお、ハンバーグまだですか?」って。
 「そば湯が欲しいんですけど……」って。
 浩幸さん、あなた私を愛していたじゃない!違うなんて言わないで!
 でも、目の前の彼はジャン=ジャック……。
 彼が違うと言うのにそんなこと……。

 「山口さん、いいですね」
 「えっ……?」
 ジャン=ジャックはあきれたように同じ言葉を繰り返した。
 「宮田さんの症状は落ち着いています。しばらく抑制帯をはずしておきますので、たまに外の空気を吸わせてあげて下さい」
 「はい!」
 百恵は慌ててすぐわきの介護記録に書き込んだ。
 「困りますね、大事な話をしているのに上の空では。もっと仕事に集中してください」
 百恵はジャン=ジャックを睨みつけた。
 「またその目だ。山口さんは、僕に対して二種類の表情しか見せません。ひとつは何か遠い思い出を回想しているような悲しみの目。もうひとつは僕に恨みでも抱いているかのような憎しみの目……。違いますか?もう少し、普通に接していただくわけにはいきませんか?」
 「先生の思い過ごしです。私はいつも普通です」
 ジャン=ジャックは苦笑したまま「さっ、次に行きましょう」と立ち上がった。

 その日も大樹が帰ってきたのは夜の七時をまわっていた。
 ゲームに夢中の彼の横顔を、夕食の済んだ洗い物の水を流したまま見詰めた。
 「ねえ、大樹君……」
 最初の呼びかけに気づく様子もなかったので、百恵はも一度同じ名を呼んだ。
 「なあに?」
 大樹はテレビから目を離さず答えた。
 「これから一緒にお風呂に入らない?」
 「ひとりで入るからいい」
 「どうして?ママと入るの、いや?」
 百恵は大樹に対して初めて自分のことを“ママ”と言った。それは彼女にとって、とても勇気のいることに違いなかった。言おうか言うまいかいつも迷いながら、結局“お姉ちゃん”とか“私”としか言えなかったのだ。二人で暮らすようになってから、その繰り返しを何千回と重ねてきた。その大きな葛藤を越えて“ママ”という言葉を口にさせたのは、「このままではいけない」という切実な思いだった。そしてその言葉を言った瞬間、胸がキュンとなったと同時に重い倦怠感が胸を締め付けた。遂に言ってしまったという照れや暗黙のタブーを侵してしまった罪悪感か、あるいは愛の告白の心境にも似ていて、裁判で断罪された原告の心境のようでもあり、複雑といえばこれほど複雑な心境もなかった。いずれにせよ、次の大樹の反応が百恵の全てだった。
 案の定、その言葉に反応した大樹は、やや不審そうな面持ちで、テレビ画面からダイニングの百恵に目線を移した。
 「お姉ちゃんの裸には興味ないよ」
 そう言ったかと思うと、再びゲームに熱中してしまった。
 思わずこぼれた雫のむこうに、まだ小さな大樹の姿がかすんで見えた。百恵は濡れた手で泪をぬぐいながら、やりかけの皿洗いを続けることしかできなかった。

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