(十二)離れゆく心

 ジャン=ジャックが家に訪れてから小さな異変が起こった。それは大樹の様子の変化であった。残業で帰りが遅くなるときは気がつかなかったが、定時で帰る時は、必ずといっていいほど家にその姿がないのである。
 長野の冬の日は短い。夕方の五時といえばすっかり陽が落ちて、夜の帳がおりる。家に着いた百恵は真っ先に暖房を入れるのが最近の日課になっていたが、本来なら寒さに耐えかねた大樹がその仕事をするはずだった。
 「どこに行ってたの?」
 夕飯の用意を始める百恵のところに帰ってきた大樹に聞けば、
 「友達のところ」
 と気のない返事が返ってくる。友達の名前を突き詰めれば、
 「お姉ちゃんには関係ないじゃないか!」
 と、怒り出す始末。ギャングエイジの年頃と初めのうちは諦めていたが、それにつけてもそわそわしたり、考え事をしていたりで、以前とまったく違う対応に戸惑うことが多くなったのだ。
 その日も食事を終えて、自分の部屋に向かおうとする大樹に、
 「宿題をみてあげようか?」
 と言えば、
 「もう終わらせてきた」
 と、少し焦った様子で答える。「友達と一緒にやったのね。それじゃ答え合わせをしてあげるから」と、嫌がる大樹のランドセルから宿題帳を取り出せば、全問正解の上に、まだ習っていないはずの公式まで記してある。不審に思って、
 「こんな難しい公式、誰に教わったの?」
 と問いつめれば、
 「いいじゃないか!」
 と、百恵の手からノートを取り上げて、怒ったまま部屋に籠もってしまった。
 浩幸が手術のためアメリカへ渡り、その後の生活を一緒にするようになった百恵と大樹だったが、思えばその生活は双方にとってぎこちないものであった。婚姻届を出して、法律上は大樹の父親と結婚したとはいえ、母親というものを知らない大樹にとっては、百恵の存在は自分の世話をしてくれる女の人という認識以上の感覚を得ることは難しかった。“お母さん”とか“ママ”とか呼ばせる事を、百恵も強要しなかったし、したところでそれが実感として存在し得ることはできなかったろう。
 一方、百恵にとっても愛した男性の子どもということで、必要以上の感情は持っていたものの、その接し方にはどことなく余所々々しさを見せずにはいられなかった。実の親なら我が子の道義をはずした行為に強く叱責しなければならないところを遠慮してしまったり、強く抱きしめて包容しなければならない場面でも、つい遠慮してしまうケースが多くあった。その上、最近のような態度をとられては、遠慮にますます拍車がかかるのは必然であった。それでも我が子として育てようと決めた決意を固持していたが、何か大事な事を隠す大樹の態度を見たとき、
 「自分には母親は務まらないのだろうか───」
 と、大きく自信を喪失してしまうのである。
 社会に目を移せば、生後間もない実の子を虐待したり、殺害したりする母親もいる。百恵のように母親になりたくてもなりきれない女性もいる。母親としての合格ラインがあるとすればそれは何なのか?百恵には分からなかった。
 バスルームで身体を洗い、ふと、湯煙の鏡に映る自分の身体を見つめた。
 「確かに私は女よね……」
 この家に大樹と住み始めた頃、「一緒にお風呂に入ろう」と誘った事がある。その時、大樹は非常に照れて、その誘いを拒否したが、「あの時一緒に入っていれば……」と後悔をする。以来半年以上、一緒にお風呂に入るどころか、大樹の裸体すら見たことがない。なのにジャン=ジャックとは、大樹の方からお風呂に誘っていたではないか。男と女の違いはあるだろうが、百恵にとっては大きなショックだった。そうして百恵は自分の乳房を眺めながら、
 「女なのだから母親になる資格はあるはずよ……」
 と、そう思いながら湯船に浸かった。
 寝顔の大樹は浩幸の子どもに違いなかった。その額、目尻、鼻筋、口許、どれをとっても浩幸の顔を小さくしたそっくりの作りである。百恵はその隣で頬を撫でながら、行く末の不安に涙を流した。
 翌日、定時で仕事を終えた百恵は、玄関先で大樹を待とうと外に出た。吐く息は白く、間もなく両手はかじかんだ。外灯に照らされた空間には、小さな雪の粉が舞っていた。車が行き交う蛍ヶ丘の大通りを堺に、北と南に区分される町内の、果たしてどこに大樹がいるのか、そんな事を考えながら、すぐ隣の山口医院の玄関から嬉しそうな子どもの声が聞こえた。百恵はハッとして塀の影に隠れて、その声のする方向を凝視した。
 「じゃ、また来るね!」
 医院の入口に誰が立っているのか、建物の陰でそれは分からなかったが、出てきたのは明らかに大樹であった。大樹は名残惜しそうに何度も手を振りながら、やがて家に向かって小走りにやってきた。百恵は家に入り込む時間もなく、そのまま玄関前でばったりと鉢合わせをしたのであった。
 驚いたのは大樹である。咄嗟に「ただいま」と言ったものの、その場に立ち尽くすのみだった。
 「山口医院に行ってたの?」
 百恵の質問に窮した大樹は、何も言わずに家の中に入り込んだ。
 その晩の食事は、互いに話す言葉も見つからず、大樹はテレビの番組から目を離さなかった。茶碗と箸のふれ合う音だけが耳につき、ついにいたたまれなくなった百恵は、
 「どうして山口医院に行ってたの?」
 と聞いた。最初テレビに夢中になって聞こえない振りをしていた大樹だったが、「ねえ、教えてよ」と執拗に聞く百恵にようやく目を向けた。
 「友達が入院してるんだ。だから、そのお見舞い……」
 「小学生が脳神経外科に入院?だあれ?ほんとかどうか調べればすぐに分かるのよ。お願い、本当の事を教えてくれないかな?」
 大樹は観念したように箸を置いた。
 「ジャン=ジャック先生のところだよ」
 「デュマ先生のところ……?何をしに?」
 「だから女は嫌いだ。しつこいんだよなあ……」
 百恵は悲しくなって目を潤ませた。
 「聞いてはいけないの?大樹君は私の事、お母さんだと思ってないかも知れないけど、私はあなたのお母さんだと思ってるのよ。お母さんが子どもの事、知りたいと思うのは当然のことでしょ?」
 潤んだ瞳の涙がこぼれた。大樹は目をそらせた。
 「この前、ジャン=ジャック先生がうちに来たとき、お勉強を教えてあげるから遊びにおいでって言われたんだ。だから僕、算数で分からないところがあったから教えてもらいに行ってたの……」
 「友達のところって、嘘だったのね?」
 「嘘じゃないよ!ジャン=ジャック先生と親友になったんだ!」
 大樹はそう言うと、ご飯を食べかけのまま、自分の部屋に行ってしまった。
 百恵は困惑した。あの日、百恵が食事を作っている間、お風呂に入った大樹とジャン=ジャックとの間に何があったのか?もしかすると、ジャン=ジャックがこの家をのっとるために仕組んだ巧みな罠か。とすれば、ジャン=ジャックがそこまでして大樹と一緒に生活したがる理由は何なのか?
 ジャン=ジャックがもし浩幸だったら───。
 または、彼の言うとおり浩幸でなかったとしたら───。
 「意固地になっているのは私の方……?」
 百恵は、涙で塩気のついたご飯を口に運んだ。

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