(十一)争えぬ血

 企画書を一緒に作ることになった百恵とジャン=ジャックは、数日後からさっそく残業時間を利用しながら、山口医院の院長室でその作業に取り組むこととなった。悩む百恵をよそに、ジャン=ジャックの表情は終始明るく、具体的な内容を出すたびに細かい所まで問い詰めるジャン=ジャックに振り回されながら、百恵は必死に頭を回転させるのであった。
 つい熱が入ったある日、百恵はふと時計を見ると八時を回っていた。その仕草に気づいたジャン=ジャックは、
 「大樹君が心配なのですね?貴方の家に場所を移しましょうか?」
 と言った。つい先ほどは、百恵の携帯に大樹の伝言が入ったままだったのだ。
 「ちょっと私、家に行って大樹君の面倒を見てからまた来ます」
 百恵が立ち上がろうとすると、
 「それにはおよびません。僕も一緒に行きましょう。いずれ、僕の住む所になるはずの家ですから」
 ジャン=ジャックは含み笑いを浮かべると、コートを羽織り、早足の百恵と一緒に歩き出した。
 果たして家に着けば、お腹を空かせた大樹が百恵に飛びつき、
 「お姉ちゃん、遅い!もうお腹ペコペコだよ!」
 と言ったかと思うと、後ろのジャン=ジャックに気づいて「こんばんは」と、頭をペコンと下げた。
 「ごめん、ごめん、いますぐ作るから。焼肉と卵焼でいい?何してた?」
 「なんでもいいから早くしてよ!」
 「はい、はい」
 その光景を見ながらジャン=ジャックは微笑んでいた。
 「それじゃ、ご飯ができるまで、僕と遊ぼうか?何をする?」
 ジャン=ジャックは大樹を抱き上げてソファに腰掛けた。ふと、オーディオが並ぶ棚に、百恵と浩幸の写真を見つけた彼は、キッチンで準備を始める百恵の姿に目を移した。
 「プレステしよ!」
 「ようし!」
 すぐに馴染んだ大樹とジャン=ジャックに苦笑しながら百恵は、
 「デュマ先生も夕食まだですよね?一緒に食べますよね?」
 「なんだかご馳走になりに来てしまったようだ」
 と、まるで自分の家にでもいるかのようなくつろぎようで、大樹とゲームを始めてしまった。
 テレビ画面を前にして居並ぶ二人の後姿を見ながら、浩幸がいる家庭生活を重ねて、百恵は冷蔵庫から豚肉を卵を取り出した。企画書のことなどすっかり頭になく、料理に手間をかけようと、そのことばかりに専念し始めた。それは母として、また妻として、家族のためなら全てを犠牲にし得る古代より繰り返されてきた女性の本能的な所業だったかもしれない。いつしか百恵は“家庭”というものを感じていた。
 「おじさん、いい?あの鳥が出てきたらやっつけるんだ」
 「ううん、なかなか難しいなあ……」
 そう言いながらも、次第にゲームにのめり込むジャン=ジャックは、やがてみるみる上達して、一面をクリアし、二面も難なくクリアし、三面目に入っていた。興奮していたのはむしろ最初にゲームのやり方を教えていた大樹の方だった。目まぐるしく展開される画面に夢中になって、「おおっ、すっげ!」を何度も繰り返した。自分にない技術をジャン=ジャックに見つけた時、興奮は次に尊敬に変わり、やがて畏敬へと変じていった。そして大樹は、最高に高度な技を彼の技術の中に見つけた時、
 「パパ…………」
 と、ジャン=ジャックを驚いたような表情で暫く見つめた。
 ジャン=ジャックのスティックを動かす手がピタリと止まった───。それは、気づかれるはずのない完璧な嘘が、突拍子もないところから露呈した、唖然とした驚きによる作用だった。暫くは身体が硬直したまま動くことすらできないのである。百恵の“浩幸ではないか”という攻めは、単に女性の直感という曖昧な感覚に基づいているため、それはどうにでも逃れようはできた。しかし、それに対し大樹の直感は、父と子に流れる血が目覚めさせたものに違いなかった。その言葉は、まるで心を突き刺すナイフのように、彼の心を深くえぐったのである。いかなる事情があろうとも、帰らなければならない所があるとすれば、まだ成長半ばの母のない実子のところに違いない。その人間として本質的な使命に背を向けなければならなかった期間に、大きな罪の意識を隠しながら、ジャン=ジャックは思わず瞳を潤ませた。
 「おじさん、パパだね……?───だって、あの技できるのはパパしかいないもん……」
 ジャン=ジャックは大樹を見つめ返した。父にとっては言葉も見つからない、無言の再会だった。
 「やっぱりパパだ。おかえり、パパ。ご飯食べたら、久しぶりに一緒にお風呂に入ろうよ」
 大樹の言葉に、思わずジャン=ジャックは涙をこぼして大樹を抱きしめた。
 「どうして……、どうしてパパだと分かったんだい?」
 「なんとなく……。でも判るよ。だって同じだもん」
 ジャン=ジャックは、いままで胸につかえていた大きな影が、急に晴れていくのを感じていた。そして暫く大樹を抱きしめたまま、
 「百恵さんには内緒にしていてくれる?」
 と言った。
 「どうして?お姉ちゃん、パパのことずっと待っているんだよ」
 「お前にも、いつか分かる時がくる……」
 すると大樹は立ち上がり、キッチンの百恵の所に走っていった。ジャン=ジャックはヒヤリとして立ち上がった。
 「お姉ちゃん、ご飯まだ?」
 ジャン=ジャックはどっと冷や汗を流した。
 「もうちょっと待ってて。今日はデュマ先生もいるからちょっと手によりをかけているの」
 「それなら先に、ぼく、おじちゃんと一緒にお風呂に入って来ていい?」
 「いいけど……、デュマ先生と?」
 「そうさ!」
 大樹はそう言うと、ジャン=ジャックの手を引いてバスルームに入っていった。百恵は不審そうに首を傾げた。

 湯煙のバスルームで、大樹は久しぶりにはしゃいでいた。その笑い声が反響して、いっそう楽しさを増していた。
 「やっぱりパパだ」
 「どうして?」
 「パパはぼくとお風呂に入った時、いつもぼくのオチンチンから洗うんだ」
 「そうだったかな?」
 「そうだ!僕ひとりで頭洗えるようになったんだよ!まだパパ、一度も見てないでしょ!」
 「おいおい、あまり大きな声で話さないでおくれ。百恵さんに聞こえてしまうだろ」
 そうして二人は身体を流し合った後、向かい合いになって湯船に浸かった。
 「ねえパパ、いつおうちに帰ってきてくれるの?」
 「ああ、そのうちな……」
 「お姉ちゃん、パパと結婚したって言ってたよ。三人で一緒に住めばいいじゃない」
 「大樹はパパがまったくの違う人の姿になって、びっくりしていないのかい?」
 「そりゃびっくりしてるよ。でも、パパはパパでしょ」
 「百恵さんはね、パパが“山口浩幸”ってことを知らないんだ。そしてパパはね、このまま知らない方がいいと思っているんだ」
 「どうして?」
 「お前も大きくなったら分かると思うが、男と女の縁起ってね、親子の縁起と少し違っていて、切ろうと思えば切れてしまうんだ。好きとか愛してるとか、時間が経てば変わってしまうものなんだ」
 「“エンギ”って?」
 「関係ってことだよ。そのうち分かるよ」
 「ふうん……。ねえ、これから毎日医院へ行ってもいい?」
 「仕事中はダメだ。でも仕事が終わってからなら来ていいよ。ただし、百恵さんに知られないようにするんだよ」
 「わかった!」
 お風呂からあがった二人は、テーブルに並べられた手料理に歓声をあげた。その大樹のジャン=ジャックへの懐きように、百恵はジャン=ジャックへの懐疑をますます深めていた。

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