(十)隠せない癖

 「貴方の人生にとやかく口を出すつもりはありませんが、コスモス園の立場で言えば、今貴方に辞められるのは大きな痛手です。考え直してはいただけませんか?」
 ジャン=ジャックは自動販売機で買ったコーヒーのひとつを百恵に手渡すと、向かいに静かに腰をおろした。百恵は紙コップのコーヒーを両手で挟んだまま俯いていた。
 「貴方をそんなに苦しめているものは何ですか?企画書の事ですか?それとも特別養護棟の仕事ですか?それとも……」
 「全部です。なんだか私、自信がなくなっちゃいました……」
 「今日はずいぶんと素直なんですね。分かりました全部話を聞きましょう」
 「話す事なんてありません……。それとも話せば、デュマ先生が私の心の果てしない空虚感を満たしてくれるとでもいうの?」
 ジャン=ジャックは困ったふうにコーヒーを飲んだ。一口飲むと、紙コップの口をつけたところに残った一滴のコーヒーを右手の親指で拭き取った。その小さな仕草の中に、百恵は浩幸の同じ癖を重ねながら、ジャン=ジャックの手許のコーヒーを見るともなしに見つめていた。
 「さて、困った……」
 ジャン=ジャックは百恵を見つめて微笑んだ。
 (まただ…………)
 百恵はその微笑みの中に再び浩幸を見つけてそう思った。浩幸は、どんな障害に突き当たった時でも、必ず笑顔を作る事を忘れなかった。スキャンダル報道で騒がれた時も、医療ミス問題で窮地に立たされた時も、また、身体が動かなくなり手術のため渡米する時も。障害が大きければ大きいほど、その微笑みもより優しく見えた。そして、今、百恵が仕事を辞めようという意志を伝えた時のジャン=ジャックの表情もまた、その微笑むタイミングから唇の歪め方まで浩幸のそれと寸分の狂いもない。
 「では、こうしようではありませんか。ひとつひとつについて、解決策を見つけていきましょう。まず、企画書ですが、これは毎日仕事が終わってからでも、僕の所に来て一緒に考えましょう。大樹君の事が心配なら、貴方の家でやってもいい。これでどうですか?」
 百恵は不思議そうな顔でジャン=ジャックを見つめ返した。
 「次に特別養護棟の仕事についてですが、こればかりは貴方の代わりを僕がやるというわけにはいきません。もし増員が必要なら早急に手を打ちますし、雰囲気で気持ちが滅入ってしまうというのであれば、休暇や交替の体制を考え直しましょう。どうしましょうか?」
 「そんな心配までしていただくなくても……。多分、今は落ち込んでいるだけだと思いますので、増員の心配も交替番の組み直しも必要ありません」
 「分かりました。それでは細部についての雰囲気の見直しは、企画書の中で考えていきましょう。次は何でしたかね?」
 百恵は呆れたように微笑んだ。その微笑みを見て、
 「何がおかしいのですか?」
 と、ジャン=ジャックが言った。
 百恵は言おうか言うまいか少し考えた後、手にした紙コップのコーヒーを一口飲むと、
 「デュマ先生の思考回路、浩幸さんと同じなんですね……」
 と言った。ジャン=ジャックは再び微笑むと、「また、その話ですか?」と答えた。
 「何故……?何故そんなに似ているの?」
 百恵は先程切れたビーズの指輪の粒をポケットから取り出した。
 「何ですか?それは……?」
 「見覚えありませんか?ビーズの指輪です。浩幸さんと私の結婚指輪。さっき切れてしまったんです」
 「貴方の心を苛んでいる最大の原因はそれですね?」
 「それって?」
 「ムッシュヒロユキの事ですよ……」
 百恵は奥歯を噛み締めた。と同時に右目から涙がポタリと落ちた。
 「困りましたね……。そればかりは僕にもどうにもならない。死んだ人間は蘇りません。いっそのこと、思い出と一緒にそのビーズもろともゴミ箱に捨てておきましょう。貸して下さい」
 ジャン=ジャックは百恵の手からティッシュにくるまれたビーズを取り上げようとした。すかさずそれを守ろうとした拍子に、再びビーズが床に飛び散った。百恵は慌てて床に這う格好になって、再びその小さな粒を拾い始めた。ジャン=ジャックは謝ろうともせず、呆れた顔で暫くはその百恵の様子を眺めていた。
 「そんなに大切な物なのですか?」
 百恵は眉間にしわを寄せた涙目でジャン=ジャックを睨み付けた。
 「あなたは人を愛した事がありますか?」
 ジャン=ジャックは目を細めた。
 「愛した人が、突然目の前からいなくなった寂しさが分かりますか?愛した人との思い出を消し去ることのできない辛さが分かりますか?思い出すたび胸が締め付けられるようなこの苦しみが分かりますか?愛した人に再び会うことができないかも知れないこの孤独が分かりますか?この悲しみが分かりますか?」
 百恵はそう言うと、涙で濡れる床に手を置きながら、ひたすらビーズを拾い集めるのだった。ジャン=ジャックは思い詰めたようにコーヒーを飲み干し、
 「すいません。貴方がそれほどまでにムッシュヒロユキの事を思っているとは知りませんでした……」
 と、百恵と同じ格好になってビーズの粒を拾い始めた。拾いながら、ジャン=ジャックはまるで独り言をつぶやくように言った。
 「山口さんは信じないかも知れませんが、僕にも愛した女性がいました。気の強い、言い出したら一歩も引かない一途な女性でした。そう、ちょうど山口さんとそっくりな性格の女性です。しかしある時、僕は怖くなりました。その女性が僕を愛してくれるのと同じくらいに、僕は果たしてその女性を愛し続けることができるのだろうかと。僕には自信がなかった。そして僕が変われば、きっとその女性も変わってしまうに違いない。そう思った時、僕はその女性から逃げ出したのです。僕は変わらないものはないと信じますから、いつまでもその女性が僕を愛してくれるなんてことは信じられなかったのです。昔の話です。でもそれで良かったと思っています。あのまま結婚したところで、どこまであの愛を継続できたか?人生なんて、思い出だけが美しいものですよ。それなら壊れゆく愛を守ろうとするより、永遠の愛を思い出のショーケースに飾っておいた方が幸せだと思いませんか」
 「それはホントの愛を知らない人の言う言葉───」
 「本当の愛……?山口さんは、僕がその人を愛したということを否定するのですか?」
 「先生と議論するつもりはありません。で、その女性は今……?」
 ジャン=ジャックは百恵を見つめたまま何も言わなかった。やがて、
 「死んだと聞きました」
 と言った。そのまま二人は無言のままビーズを拾い終わると、再びソファに腰掛けた。
 「とにかく辞めるなんて思わないで下さい。ムッシュヒロユキの作った施設だ。貴方が辞めたらいったい誰が彼の構想を実現していくのですか?」
 「デュマ先生がいるじゃないですか?それに西園先生もいる……」
 「貴方でなければできない事があります」
 「分かりました。多分、気持ちが落ち込んでいるだけだと思いますので……。ご心配をおかけしました」
 百恵は慇懃に頭を下げるとゆっくり立ち上がった。
 「コーヒーは飲まないのですか?」
 百恵が置き忘れたコーヒーカップを持って、ジャン=ジャックが言った。
 「せっかく買ってくれたのに、すみません」
 「それじゃ僕が……」
 そう言うとジャン=ジャックは、何の衒いもなく紙コップのコーヒーを飲み干した。百恵は驚いてその光景を見つめた。
 「僕の顔に何か……?」
 「い、いえ……別に……」
 「貧乏性なんです。幼い頃から食べ物を残すたびに、両親にきつく叱られたものです」
 ジャン=ジャックは笑いながらその紙コップを右手でつぶすと、「企画書は今晩からでも始めましょう」と言い残して、ナースステーションの方へ歩いて行ってしまった。

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