(九)忘れゆく真実

 特養棟に配属されてから、百恵は自分の中で、何かが変わってしまった事を薄々感じていた。それは年が明けて、目に映る風景が、雪によって全てを白い造形物に変えた光景を見つめているときだった。自分の心が、その光景と同じ無機質の存在と同化したのであろうか?あるいは雪の寒さで、心まで凍らせてしまったのだろうか?ひょっとしたら、痴呆老人達の頭の中も、こんな感じではないかと思った。

 私っていったい何者だろうか───?
 なりたくてなった介護福祉士だったけど、この特養棟に追いやられて、自力で動くことのできない痴呆老人達の介護をして、介護責任者なんておおそれた役職を与えられて、それが一体なんだというのかしら……。
 毎日、毎日、決められた時間に出所して、決められた仕事をこなし、やりがいも生きがいも見いだせず、ただ、年をとるのを待ってるだけなんて、とっても悲しい事じゃない?
 目的もなく漂う小舟のように、ゆるやかな波に力なく揺られて、ただ持ってきたお弁当を食べる事だけが楽しみで、その他の楽しみといえば、船出した港に戻ったら何をしようとか、愛する人を思い浮かべようかとか、眠る時間までのつかの間に、起こりもしない空想に心和ませながら、目覚めれば昨日と全く同じ時間が始まっている───。まるでデジャブーに支配されたリングの軌道からはずれる事なく、昨日と全く同じ体験をその翌日も繰り返す。
 喜びも苦しみも、悲しみも悦楽も、希望も哀れみも、絶望も夢も、愛も怒りも、恨みも慈しみもない世界───。私はその空っぽの空間に心身を漂わせ、やがて昇り来るはずの日の光すら思い浮かべることができないの。
 人はその人を取り巻く環境の中に住み、やがてその環境に同化する。そして、その環境が、現代という社会が作り出したものである限り、そこから逃れる事なんてできやしない。そして私は全てを忘れていくの。
 やるべきこと───
 大切な友人───
 愛した人も───
 そして自分の名前さえ───
 そして私と同じ類の人達と出会って微笑み合うの。うわべだけの微笑み、表面上の付き合い、どうでもよい社会のニュースに話を合わせながら、やがてその人達にも心を閉ざす。
 そうして果てしない孤独な心さえ忘れてしまって、私も重度の痴呆症になるのよ。
 どうなったっていいじゃない……。
 流されよう、呑まれよう、巻かれよう───、それが一番楽な生き方───。
 何十億といる人間の中で、私一人が気張って何になるの?何十億年と流れる歴史の中で、私一人が粋がってどうなるの?そんな事より、大樹君の夕ご飯の献立を考えよう。
 こんな仕事、辞めようか…………。

 ふと、ディスプレイに映る企画書に目を移した時に、すべてがバカらしく思えてきて、やがて打ち込む文字は、辞表の言葉の断片に変わっていた。そのうち、それすら打ち込む気力を失ってからは、席を立って廊下をゆっくり歩きだした。
 ひとつの部屋の前で立ち止まって中を覗けば、指一本動かすことのできない老人が、ぎらぎらと輝く不審の眼差しでこちらを見つめている。その威圧に耐えきれず、百恵は廊下を走り出した。
 と、その時、片時も離すことのなかった左手の薬指にはめてあったビーズの指輪が、突然、音もなく切れたのであった。
 「あっ!」
 百恵は蒼白になりながら、雪に埋もれたコンタクトレンズを探すように、辺りに散らばった小さなビーズの粒を拾い集めた。そうして一粒、一粒、思い出を拾うように廊下を這う格好で探していると、
 「何をしているの?」
 看護士の尾佐田が通り様に言った。
 「大切なビーズの指輪が切れてしまって……」
 「ふうん……」
 てっきり探すのを手伝ってくれるのかと思えば、尾佐田は何も言わずに立ち去ってしまった。百恵は果てしない孤独を感じて涙した。
 ようやく拾い集めたビーズの粒をポケットから取り出したティッシュに包むと、百恵はそのまま雪の舞う庭に向かって歩き出した。どこに向かおうとしているのか自分にも分からなかった。思考能力などほとんどない。ただ、雪に残る足跡をたどれば、山口医院へのびていく。その先にいるはずのジャン=ジャックに会えば、きっと退職をしたい心情を伝えるのだろうという予測はあった。
 コスモス園の前の細い小径を大通りに向かって歩けば、冷たい風が襟元から吹き込んだ。また、運動靴の隙間には雪が入り込み、靴下は瞬く間に濡れていった。そして凍りついた心は、吐き出す息を一層白くして、睫毛には白い雪を積もらせていた。
 ふと、圧雪の轍に足を移した瞬間、滑らせて後方に倒れかかった。そのまま尻餅をつこうとする身体を支えたのは、黒いコートを着た背の高い男であった。向かいからその男が歩いて来たことすら気付かずに歩いていたのだ。
 「こんな軽装で、どこへ行くのです?」
 黒い男が言った。その男の腕にしがみつきながら、百恵は彼がジャン=ジャックであることを知った。
 「デュマ先生……」
 「バカですね。こんな雪の日に介護服のまま出歩くなんて。風邪をひきます」
 ジャン=ジャックはそう言うと、自分のマフラーをはずして百恵の首に巻き付けた。その時、百恵の鼻をかすめたのは、浩幸と同じ匂いに相違なかった。
 「これからコスモス園に行くところです。山口さんは?」
 「えっ……?」
 はっと我に返った百恵は、その状況を理解することに苦しんだ。
 「先生にお話がありまして……」
 「僕に……?まさか、仕事を辞めようなんて相談じゃないですよね?」
 「どうして、それを……?」
 「顔に書いてありますよ」
 ジャン=ジャックはそう言うと、「とりあえず施設内に入りましょう」と、百恵を従えながら歩き出した。百恵はその後ろ姿に浩幸を感じながら、やがてコスモス園のロビーに入ると、そこに置かれたソファに座らされた。

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