百恵に出会ってからの大川は、何につけ献身的に仕事に取り組むようになってきた。特に、遊園地の発案を聞いてからは、「俺、百恵先輩についていきます!」と一層励み出し、その企画書作りにも積極的に関わりながら、その労力を惜しまなかった。業者とのやり取りや遊具の見積もりなども、百恵の指示が飛べばすぐに動いた。そんな大川を、最近の百恵は頼もしく思い始めていた。
ある残業の寒い日、スタッフルームで百恵と大川の二人で仕事をしていると、大樹が一人でやってきた。
「お姉ちゃん、お腹がすいたよ」
時計を見れば八時近くになっている。
「やだ、こんな時間……」
百恵は財布から千円札を取り出すと、
「これでコンビニで何か買って食べてくれる?でも、カップラーメンはダメよ。もう少し経ったら帰るから、それまでお利口にしていられる?」
大樹は大きく頷くと帰っていった。
「先輩、なんなら、後は俺がやっておくから、先に帰ってもいいっすよ」
「ありがとう。でも、あとこれだけだからやっちゃうわ」
百恵は、PCのキーボードを打ちながら、市内の文化活動団体やサークルのリストを作りながら言った。
「先輩、聞きましたよ」
「何を……」
百恵はディスプレイを見つめたまま、キーボードの手を休める事はなかった。
「ご主人の事……。あの山口医院の前院長だって聞いて驚いちゃいましたよ!」
「いったい、誰がそんな事を言ったのよ」
「リハビリの山中さんす」
「まったく、おしゃべり同士は仲がいいのね」
「なんか、すごい恋愛だったんですってね。前院長が羨ましいっすよ……」
「余計な事言ってないで、指先を動かしなさい」
「さっき来た男の子も、先輩が産んだ子どもじゃないんでしょ?だって先輩の事、“お姉ちゃん”って呼んでた」
「いいかげんに口を閉じないと怒るわよ」
「アメリカに単身赴任だなんて嘘ついて……、俺、ずっとショックだったんすから」
「ああっ、いけない!ほら、あなたが無駄口ばかり言ってるから間違えちゃったじゃない!」
「すいません。でも、これで俺にもチャンスがあるってわけだ……」
「何か言った?」
「いえ、別に……」
大川は嬉しそうに仕事を進めた。
こうしてできあがった企画書ができたのは、ちょうどクリスマスイブの晩の事だった。スタッフルームから外を眺めれば、介護スタッフ達が飾り付けた電飾の明かりに、折しも雪が降り出したところで、百恵はできあがった企画書をかざして、早速立ち上がった。
「どこ行くんすか?」
「どこって、決まってるじゃない。デュマ先生のところよ」
大川は呆れたように、
「もうこんな時間だし、明日にすればいいじゃないっすか?今日はクリスマスイブっすよ」
と言った。百恵はふと思い出したように、「そうね」と答えると、「ケーキ買って帰らなきゃ」と付け加えた。
「大川君もご苦労様。君のおかげで助かったわ。これでこの企画書が通ればいいんだけど……。ありがとう。今日は彼女とデートでしょ。もう、帰っていいわ」
「彼女?そんなもんいないっすよ!デュマ先生のところに行くなら、俺にもお供させてくださいっ。なんだか先輩だけじゃ心配っす」
二人はお互いをからかい合いながら、やがて一緒に山口医院へ行くことになった。
果たして山口医院の院長室に入れば、二人は暫くソファに腰掛けて、企画書を読み終えるジャン=ジャックの反応を待った。百恵は途中、大樹の事が心配になって、家に電話をしに席を外した。お弁当を買って食べた後は、本を読んでいるという言葉に安心した百恵は、「もうすぐ帰れるから」と伝えて電話を切った。再びソファに腰掛け、緊張する大川の横顔を見れば、慣れない空気の中で彼女を見つめ返して微笑んだ。やがて、ジャン=ジャックは企画書を閉じると、二人の前に腰掛けて、
「特別養護棟をイベント企画会社にでもするつもりですか?」
と、一言いった。二人は言葉を失った。
「収容されている方達の顔がまったく見えない。こんな催しばかりを書いた企画書なら、地元のプロダクション会社にでも頼んですればいい。そんな労力があるなら、もっと老人達のためにどうしようかと考えた方がいいとは思いませんか?一つの催しを開催するのに、一体どれだけの労力と費用が発生すると思っているのですか?老人擁護を別の事と勘違いしていますよ」
「そんなつもりで……!」
百恵が言った。百恵は特養棟の屋上で語った思いを再び話した。
「そんな事は前にも聞きました。しかし、あの時、僕の頭に思い浮かんだ光景と、この企画書の内容から思い浮かべる光景とは全く別のものに思える。これでは最高会議の議題に出すことすらできません」
百恵は食い付いた。しかし、二人の言い合いは平行線をたどるばかりで、全く結論を見いだす事はできなかった。その会話に入り込めず、大川はただおろおろと、話の成り行きをみつめていることしかできなかった。結局、企画書はそのまま百恵の手元に戻ってきて、その根本から練り直さなければならない雰囲気になっていた。
「山口さん、貴方は介護士として大事な何かを忘れているんじゃないですか?」
「そんなことありません!もういいです、分かりました!もう一度練り直します!」
百恵は勢いよく立ち上がると、大川に「行くわよ!」と無愛想に言うと、そのまま院長室を出てしまった。大川は慌てて百恵の後を追うと、「失礼しました」と院長室の扉を閉めた。
「しかしあれはないっすよね。残業嫌いの俺が一カ月、百恵先輩を助けて一生懸命やったのに、また最初っからやり直しっすか?」
医院の廊下を歩きながら大川が言った。
「暇?」
「えっ?なんすか?」
「だから暇かって聞いているの!クリスマスイブでしょ!私の家でケーキでも食べないかなって思っただけ!」
「暇っす!ぜんぜん暇っす!でも、いいんすか?俺、狼になっちゃうかも知れないっすよ」
「なれるもんならなってみなさいよ!」
「よっしゃあ!」
大川はガッツポーズを作った。医院を出たところで、百恵は財布を取り出し一万円札を大川に渡すと、「これでケーキと何か適当に買ってきて」と言った。そして、子供が待っているからと、医院のすぐ隣の家を教えた。
「ケーキはどんなのがいいっすか?それに夕飯もまだ食べてないでしょ?何がいいっすか?ビールとかも買ってきていいっすか?それに子供さんの飲み物も買って来た方がいいっすよね?」
「そのスースー言うのやめてくれない?なんだか余計に腹が立つから!全部大川君に任せるから、何でも適当に買って来なさい!」
百恵はそう言うと、家の中に入ってしまった。
大川が買い出しから戻って来たのは、夜の九時近くだった。百恵は突き返された企画書を読み返しながら、腹が立った勢いで大川を家に入れる約束をしてしまった事に小さな罪悪感を覚えていた。両手に大きなビニール袋を抱え、嬉しそうに部屋に入ってきた大川は、袋から商品を取り出して机に並べた。大樹は次々に出てくる品を面白そうにながめ、自分のために買ってきたという品に飛びついた。ケーキをはじめ、シャンパンにジュース、お弁当が二つにスナック菓子やサンドイッチ、子供のために買ってきたというおまけ付きのキャンディや胃腸薬まである。百恵は大川の前に右手を差し出した。
「なんすか?」
「そのスーやめて!おつり」
大川は頭を掻きながらポケットからお釣りの数百円を百恵に渡した。
「細かいところまで気が付くようだけど、経済観念はゼロね……」
と呟いた。
「俺に任せるって言ったじゃないっすか。ボジョレー・ヌーボーがちょっと高かった。さすがにドンペリは買えなかったけど、ほら、ケーキだっておいしそうでしょ?」
「まあ、いいわ。もう遅いし、早く食べて解散しましょ」
百恵はそう言うと、キッチンから包丁を持ってくると、ケーキを八等分した。
「なんかクリスマスの雰囲気がまるでないっすね……。音楽とかかけませんか?」
「そこにCDあるから、勝手に選んでかけて!」
百恵は終始不機嫌そうだった。大川は教えられたCDデッキのところに来ると、数あるCDの中からジョン・レノンを見つけた。その中の“Happy
Xmas (War Is Over)”をかけようとしたとき、ふと、CDデッキの上に置いてあった写真に目がとまった。笑顔で並んだ百恵と一人の男のツーショットの写真である。
「へえ、これが百恵先輩のご主人ですか?俺が就職した時は、前院長という人は大変な状況だったみたいだから、俺は一度も見たことがないんす。ずいぶんと若かったんすね」
「ああ、それ……?」
百恵は急に悲しそうな表情を作ると、
「実は、私と浩幸さんとで撮った写真なんて一枚もないの……」
と言った。「でも、これ……」と、不思議そうに言う大川に百恵は答えた。
大川が手にした写真は合成写真だった。浩幸の隣には二人目の妻であった好美が映っていたという。覚えたてのPCで隣の女性の上に、自分の写真をトリミングして貼り付けたと言う。
「だって、悲しいじゃない……。結婚した人との写真が一枚もないなんて……」
「へえ、パソコンでこんなこともできるんすね……」
大川の言葉をよそに、百恵の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「百恵先輩…………」
「ごめんなさい。浩幸さんの事を思い出すと、涙が出ちゃうの……。さあ、食べましょ!」
「百恵先輩……、愛しているんすね、ご主人のこと……」
「その話は終わり!さあ、食べよ、食べよ!」
大川はその重そうなたった一粒の涙で、百恵の浩幸に対する思いを知った。そして、軽いノリで百恵に近づこうとした自分が急に恥ずかしくなった。と、同時に、百恵の浩幸への一途な思いの中に、とても入り込む事ができない事を悟った。いたたまれなくなった大川は、
「しまった!千枝ちゃんと会う約束があったんだ!」
と言うと、まるで逃げるようにその場を立ち去ったのだった。百恵は慌ててお弁当とケーキとお酒類を大川に持たせると、「また、明日」と玄関まで見送った。
大樹を寝かせた後、百恵は浩幸との合成写真を手にしてみつめると、再びとめどなくあふれる涙の始末に困った。