がりょう公園の散歩を終えて病室に戻った二人は、最後の別れを惜しむようにじっと見つめ合っていた。沈む夕陽が病室の窓から見えた。飯綱山の上、入道雲に反射する赤や紫や黄色の光が、そこだけ異次元の世界を演出していた。そこへ、飛行機雲を引くジェット機が、通りすぎて行く。住処に帰る鳥たちは、どことなく悲しげで、ゆっくりと動く自然の中で、二人の表情は恍惚として、いつまでも視線をそらすことはなかった。
「浩幸さん?キスしていい……?」
百恵は顔を赤らめながら言った。浩幸は何も答えず微笑みを浮かべ、静かに目を閉じた。百恵は動くことのない浩幸の唇に、自分の唇をそっと重ね合わせた。どれくらいそうしていただろうか、やがて、唇を離した二人は微笑み合った。
すると百恵は何かを思い出したように、病室の棚に置いたハンドバックを持ってくると、中から二つに折りたたんだ白い書類を取り出した。
「ジャ、ジャーン!」
甘い雰囲気を一変させる効果音を入れながら、百恵は明るい顔で、その紙を浩幸の顔の前にかざした。見れば婚姻届けに相違ない。届出人のところには、既に夫の欄に山口浩幸の名が、そして妻の欄には馬場百恵の文字と押印が押してある。浩幸は驚いた。
「い、いったい、何をしようというのですか?」
「何をするって、決まっているじゃないですか。結婚式ですよ!」
百恵は精一杯の明るさを装ってそう言った。
「ば、ばかな……」
「私、いろいろ考えたんですけど、やっぱり、浩幸さんが行く前に結婚しておいた方がいいと思って。だって、大樹君の事にしても、浩幸さんのお家の事にしても、奥さんがいた方がいいわ。浩幸さんもその方が安心でしょ?」
「それはいけない!」
「なぜ?」
「何故って……」
「私、もう決めたの!いずれ結婚するんだから、いつでもいいじゃない!それなら早い方がいいでしょ───」
「ダメです!」
「どうしてなの?」
百恵の瞳に、水色の涙が溜まった。
「私……、私……、本当はとっても不安なんです。浩幸さんがアメリカへ行ってしまったら、もしかしたら、もう戻って来ないんじゃないかって……。不安で、不安で仕方がないの───」
「百恵さん……」
「お願い、私を一人にさせないで……」
やがて浩幸は諦めたようにため息を落とした。
百恵は動かぬ浩幸の右手に彼の印鑑を握らせると、その手を支えながら朱肉を付けて、夫の欄の“印”の字の上に、ゆっくり印鑑の先端を押しつけた。離せば艶やかな朱色の、丸で囲んだ“山口”の文字が、白い紙の上にくっきりと残っていた。そして余白にもう一回、同じ事を繰り返した。百恵は、完成した婚姻届を浩幸に見せて微笑んだ。
「まったく……困った女性だ……」
百恵の瞳から、桃色の涙が流れ落ちた。浩幸はその涙を見ながら、二人目の妻であった好美の最後の涙を思い出していた。
「これで私達は結婚したのね……」
浩幸は何も言わずに目を閉じた───。
こうして、お父さんも、お母さんも、ましてや弟の太一も知らないところで、私は結婚した───。でも、思っていたより結婚なんて、そんなに難しいものでないことを知った。婚姻届に必要事項を書き込んで、彼の印鑑と私の印鑑を押すだけ。あとは役所に持って行けば、それで終わり。なんだか思い詰めた恋愛の割に、入籍する事がこんなに簡単な事に拍子抜けした感じ───。
浩幸さんは反対したけれど、私はどうしても浩幸さんと離れたくなかったの。それが例え三ヶ月という短い間であったとしても、今の浩幸さんの状態を考えた時、とてもそんな長い時間を待つことなんて、私にはできなかった。
そして、今結婚しておかなければ、なんだか浩幸さんは私の手の届かない、ずうっと遠くの方へ行ってしまうような気がして───。
印鑑を握らせた彼の手は温かかった。どうしてこんなに温かいのに動かないのかと不思議に思った。確かに彼の手には血液が巡っていたの。私はその手を握って押印をついた。彼の名前と私の名前が並んだとき、私はなんだか無性に嬉しかった。片思いだった時のこと、あの切ない思い出は、きっとこの一瞬の喜びのためにあったのだと思う。
でも浩幸さんの身体は動かない。もしかしたら、一生、彼の介護をすることになるかも知れないとも考えた。でも、私が介護士になったのは、そのためかも知れないと納得できる。
私には彼が必要なの───。
明日、浩幸さんがアメリカへ発ったら、私はこの婚姻届を役所に届け出ようと思う。そうすれば、彼が手術をする間、彼は一人でなくなるし、私も一人ではなくなるでしょう。絶対手術は成功するって思えるの!
彼の寝顔に、私は再びキスをした───。
こうして私は───、“山口百恵”になった。
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