浩幸のアメリカ行きが急遽三日後に決まり、百恵は仕事を休んで、その準備に大わらわだった。浩幸の自宅の鍵を借り、必要な物をあちこち探し回りながら、ようでもない所を開けたり閉めたり、男やもめの家内に半分呆れながら、それでも浩幸のためにしている行為が嬉しかった。
その頃、浩幸の渡米を太一から聞いた美幸は、長野市役所に行き、恐る恐る戸籍謄本を取り寄せていた。両親が逮捕されて以来、妹の香澄と二人で家を守り、そこに毎日のように太一が差し入れを持ってくるのを口実に、部屋で二人で遊ぶのである。山口医院に戻れるはずもなく、他に仕事を始めることもできず、不安な毎日を過ごす中で、太一から浩幸の話を聞いたのだった。
「姉貴の彼氏、アメリカで手術するんだって」
「えっ……?」
その瞬間、美幸の動悸が高鳴り、親のいない寂しさも助けて、居ても立ってもいられなくなったのだ。
───謄本の実父の表記を見て、美幸は観念したように「やっぱり……」と思った。次の瞬間、涙が止めどなくあふれてきて、その足で山口医院へ向かったのである。
穏やかな日の射し込む病室では、百恵が足りない日常品を浩幸に尋ねながら、
「印鑑はどこにしまってあるの?」
と聞いていた。
「書斎のデスクの一番上の引き出し。鍵は花瓶の中に置いてあるよ」
「持ち出す薬品の届けが必要なんですって。なんか海外に行くって大変ね」
百恵は嬉しそうに再び病室を出ようとした。と───、
向こうから扉が開いたかと思うと、目に涙を溜めた美幸が立っていた。
「み、美幸ちゃん───、どうしたの?」
美幸は何も答えず、そのまま動かぬ浩幸のところにツツツ……と小走りに駆け寄ると、やがて声もなく泣き出した。
「お父さん、お父さん、お父さん…………」
「美幸かい?」
浩幸は天井を見つめたまま驚いた声をあげると、「そうか、気づいてしまったんだね……」と言った。泣き続ける美幸の気配に、浩幸は言葉を続けた。
「たいへんな思いをさせてしまったね。でも、もう心配はいらない。困った事があったら、何でも僕の所へ相談においで。そうか……、もし僕が居ないときは、西園先生に相談してごらん。きっと何でも助けてあげるから……。そうだ、この医院に戻っておいで。みんなには僕からちゃんと話しておくから、心配はいらないよ」
「どうして───?どうして黙っていたの?」
美幸の涙は止まらなかった。百恵は「美幸ちゃん……」と言いながら、彼女の肩を優しく叩いた。美幸は百恵に抱きついた。
「お姉さん!ごめんなさい!私があんな事したばっかりに、私、お姉さんを苦しめた!本当のお父さんを苦しめた!」
「大丈夫よ。浩幸さんはアメリカで手術をすれば、今まで通りここに戻ってくるんだから!何年も経てば、きっと全部いい思い出に変わるわ」
「ほんとう……?」
百恵は笑って頷いた。
「だから、浩幸さんが言うとおり、この医院に戻ってらっしゃい」
美幸は再び百恵の胸で泣き崩れるのだった。
美幸の帰った病室で、百恵は両手で浩幸の頬を優しく撫でていた。日は沈み、辺りはすっかり暗かった。
「あさってか……」
百恵は立ち上がると窓のブラインドを閉じた。
「そうだ!もう準備は整ったし、明日一日あるでしょ?どこか行きたい所ない?」
「仕事はどうするのですか?」
「明日も休み、取っちゃった!」
「困ったものだ……」
「がりょう公園に行きましょうか?車椅子で、しっかり頭を固定しておけば外出も大丈夫だって、西園先生が言ってたわ!」
「僕は傀儡だ。好きなようにして下さい」
浩幸はそう言うと微笑んだ。
「あっ、もうこんな時間。いっけない!帰って大樹君のご飯作らなきゃ!」
百恵は嬉しそうに「ご飯が済んだら大樹君と一緒にまた来るから!」と言い残すと、まるで新妻のような喜びで病室を出て行った。
百恵の気配が消えて行くのを感じながら、浩幸は深い苦悩に沈むのであった。それは大樹と百恵の事である。手術が失敗に終わり自分が死んだら───?逆に、仮に成功したとしても、それは今と全く別の姿をした自分になることを意味する。大樹に「パパだよ」と名乗ったとしても、それを受け入れてもらえない事は明らかだった。ならば、自分は死んだ事にして、パパの親友とかを名乗って近くにいてあげる事が一番良いような気がした。真実はいずれ分かれば良い事である。それにしても百恵に対する処遇が分からなかった。
もし、自分が死んだ場合───
つい先日は、大樹を一生見守るようにお願いしたが、所詮赤の他人である百恵に、そこまで面倒を見てもらうわけにはいかなかった。彼女にも人生がある。死んだ男にいつまでも縛られて余生を送るとしたら、それこそ悲劇のヒロインになってしまうではないか。浩幸はけっしてそれは望まなかった。彼女も来年はもう三十路である。早いところ別の男と結婚して新たな人生を送ることが、彼女にとって一番良いことであろう。何度考えても、浩幸の結論は変わらなかった。
逆にもし、手術が成功したら───
自分は全く別人の姿で、彼女と対面する事になる。それは浩幸にとって、何よりも恐ろしい事だった。仮に自分が“山口浩幸”だと名乗ったとして、その後の彼女の反応を考えるとき、おそらく自分の前から立ち去ってしまうであろう事が予測できた。なぜなら、百恵と出会う前の、あれほど愛した美津子が別人の姿で自分の前に現れたとしたら、おそらく自分は逃げるであろうと思ったからだ。それに、百恵が愛しているのは、今の自分の身体を持った山口浩幸であり、それが別の姿になってしまえば、彼女に愛される保障など全くない。二十年待ち続けたとか、DNAがどうとか、宿命だとか、まるで“生命”の次元で話をする百恵の言葉は、正直浩幸には信じられなかった。やはり自分の持論であった“女は感情の生き物”という方が絶対的に正しいと思っていたし、常に堅実の道を選びながら生きてきた浩幸にとって、一か八かの賭をすることは逆立ちしてもできることではなかったのだ。ならば自分が浩幸であることを隠し、これまであった彼女との出来事は、全て美しい思い出のショーケースの中に閉じこめて、遠くで彼女の幸せを見守る事の方が、自分にとっても、百恵にとっても価値があることだと考えたのだ。それは、浩幸にとっての、百恵に対する最大の愛情表現であったに違いない。
『───いずれにせよ、僕は彼女とは結婚できない……、しない方がいい……』
浩幸は白い天井を眺めながらため息を落とすと、静かに目を閉じた。
翌日は医院のワゴン車を貸してもらい、浩幸をがりょう公園へ連れて行った。車椅子に力無く座り、自らの力で首を動かすこともできない浩幸の姿を見ながら、百恵はずっと心で泣いていた。
『きっと手術はうまくいく───』
百恵に笑顔を作らせている力があるとすれば、それはその希望だけであった。百恵はゆっくり車椅子を押しながら、昔、彼と一緒に歩いた所を、忠実に辿るのであった。
「桜の頃、百恵さんとここを歩きましたね。本当に綺麗な桜だった……」
「その時、浩幸さんはあそこの茶店でおでんを買ってくれました。私は全部食べきれず、かじりかけのタマゴを浩幸さんに返したの。そしたらあなたは、その食べかけのタマゴを全部食べちゃった。私、びっくりしたんですよ!」
浩幸は、「貧乏性なのは今もかわりませんね」 と笑った。
二人はしばらく何も語らず、夏の風に吹かれながら池のほとりをゆっくり歩いた。話したい事は山ほどあった。しかし、何を話せばいいのか、明日アメリカへ旅立つ浩幸への励ましの言葉は何も見つからなかった。やがて二人は須田城址への入口に辿り着いた。
「のぼりましょうか?」
百恵が言った。
「登りたいけど、車椅子じゃ無理だ」
浩幸が答えた。
「大丈夫!」
百恵は車椅子を押しながら山を登ろうとしたが、段差の著しい石の階段を上がっていくのは不可能だった。やがて百恵は諦めて、
「浩幸さんが手術を終えて帰って来たら、また来ればいいわ!」
と微笑んだ。その言葉に、浩幸は悲しい顔を作った。
『もし、僕が手術に成功して再び帰ったとしても、貴方は、僕が僕であることに気づかないでしょう……。今日は、僕と貴方にとっての、最後のがりょう公園なのだから……』
浩幸は、悔しがる百恵の横顔を感じながら心で思った。
「百恵さん……」
浩幸が言った。振り向いた百恵の表情は、どこまでも透明な優しさに満ちていた。
「もし、僕が死んだら、僕の事は一日も早く忘れて、誰か貴方にふさわしい別の男の人を探して、結婚して下さい。そしてどうか幸せになって下さい……」
百恵の心で、今までこらえていた涙の糸が、プツンと音をたてて切れた。
「どうしてそんな事を言うの?浩幸さんが死ぬはずない───。だって浩幸さん言ったじゃない!そんな難しい手術じゃないって……」
百恵は、次々にこぼれ落ちる雫を、もうおさえる事ができなかった。その涙の矢が浩幸の胸に突き刺さって、もうそれ以上の事は何も言えなかった。
「冗談ですよ。僕が死ぬと言ったら百恵さんはどういう反応を示すか、試してみたかっただけです……、ごめん───。僕はすぐに戻ります。だから心配しないで……」
百恵はほっとしたように、手の甲で涙をぬぐうと、
「いじわる……」
と言って笑った───。それから二人は、何も語らず、池のほとりをそのまま歩き続けた。