(二十四)脳移植

 浩幸の精密検査の間中、百恵はずっと彼を殺そうとした犯人の事を考えていた。その脳裏には、俊介の別れ際の言葉が気になって仕方がなかった。「百恵が最も愛した人を、最も憎んで帰る」という。
 「まさか……そんな事はない……」
 と思いながらも、疑いはどうしても払拭できなかった。何度も電話をしようと思ったが、怖くてできない。もし、そうだとしたら、その発端の原因は紛れもない、自分ではないか───。百恵は恐怖におののいた。
 「新津君のはずがない、新津君のはずがない───」
 一方では彼を疑っている自分がとても嫌な人間に思えた。大学時代からの古い付き合いの友人を、信用できずに疑っている事自体、いけない事だと思った。電話ができない理由はそこにもあった。いずれ見つかる真犯人をめぐって、彼女の心はかき乱されていた。
 警察からの情報は何もなく、CT検査もそろそろ終わろうとする頃、百恵の携帯電話が鳴った。相手が俊介だと分かった百恵は慌てて電話を取った。
 「新津君───!」
 「今、実家に着いた。休みながら来たから随分時間がかかったよ。昨日、言い忘れた事があってさあ、それで電話をしたんだ───。これで本当に最後だから───」
 俊介は少し間を置いた後、
 「百恵───、愛してる……」
 ───彼じゃない……
 百恵は咄嗟にそう思うと、俊介を疑っていた自分に大きな罪悪感を覚えた。そして次の瞬間、彼にすがろうとする気持ちが湧いていた。以前浩幸に振られた時も、どうしようもない孤独な心を支えてくれたのも俊介だった。そして今も、浩幸が死にそうになっている事を話せば、彼はその不安を包み込んでくれるであろう事を知っていた。
 しかし、言えなかった。否、言わなかった。
 百恵は、
 「ありがとう───」
 と言って電話を切った。これより数日後、凶器に使われた野球バットが発見され、真犯人は特定されていった。そして、コスモス園施設理事の須崎慎二は、間もなく殺人未遂容疑で逮捕されたのである───。
 CT検査を終えた浩幸が、救急ベッドに乗せられたまま病室に戻ってきた。
 「西園先生、どうなんですか?」
 心配した百恵の言葉に、西園は何も言わず、検査結果を見せようともしなかった。その気配を察した浩幸は、
 「百恵さん、仕事は行かなくていいのですか?検査は無事に終わった……。どうやら異常はなさそうですので、心配せずに仕事に戻って下さい……」
 と、ベッドで上を向いたまま、口だけ動かして言った。西園は目を細めて百恵から視線をそらした。
 「今日はお休みします。浩幸さんがこんな状態なのに、私、仕事なんか行けません」
 「百恵さん、僕は大丈夫ですよ。だから、仕事に行って下さい。貴方が来るのを楽しみにしているおじいちゃんやおばあちゃんが沢山いるはずです」
 「でも!」
 「僕は普段の私服の百恵さんも好きだが、定期診察の時に見る介護服姿の貴方が一番好きなのですよ。お願い……。僕を悲しませないで───」
 百恵は涙を浮かべて、「わかった……」と言って、西園に頭を下げて仕事に向かった。
 百恵を見送った西園は、「院長!」と言うと、浩幸は妙に落ち着き払った声で、
 「僕も脳外科医です。包み隠さず、検査結果の詳細を見せて下さい」
 西園は涙を流しながら、検査結果を浩幸の顔の正面にかざし、頭を大きくうなだれるのであった。「次、次……」と、浩幸は結果の紙を西園にめくらせながら、やがて、
 「脊髄損傷ですね……。これは質が悪い」
 と、静かに笑いだした。
 「このまま抛っておいたら、三ヶ月もしないうちに、僕の首から下は腐っていき、やがて脳も死んでいくってわけですね………」
 まるで人ごとのような言葉に、
 「院長!」
 と西園は泣き出した。
 「何を泣いているんですか?泣いている暇などありませんよ」
 「しかし!現在の医療技術ではどうすることもできません!」
 その言葉を聞いた浩幸は静かに笑った。
 「僕が大学時代、アメリカに留学していたのをご存じでしょう。カリフォルニア州オレンジ郡にある医学専門大学です。そこで僕は世界的な脳外科の権威ノーマン=トゥェーン教授の元で、その研究チームに加わり、一年ほど様々な実験を試みていました。何の実験だと思います?」
 「…………」
 西園は何も答えなかった。
 「脳移植ですよ───」
 浩幸は話を続けた。
 「当時にしてマウスを使った脳移植実験は、ノーマン教授の指導の下、その実験を見事成功させていた」
 西園は驚きの表情を隠せなかった。
 「もっとも、世界中の倫理学会の反発を受けて、公表されることはありませんでしたが、その時すでに脳移植が可能な事を証明していたんです。そして、将来的に人間にも応用できることを確信していました───。このままにしていたら僕はただ死を待つだけです。“座して瞑想に耽るよりむしろ討つべし”───これは諸葛孔明の言葉でしたかね?そして、世界中に脳移植手術ができる医師がいるとすれば、ノーマン教授ただ一人です……」
 「まさか……院長……」
 「僕はまだ死ねません!成さねばならない使命がまだまだ山ほどある!世界に例を見ない手術ですが、例え一パーセントの可能性でも残されているのだとしたら、僕はそれに懸けてみます!」
 西園の落ち込んだ表情に血の気が戻った。
 「西園さん、僕のお願いを聞いていただけますか?」
 「勿論です!何でもおっしゃって下さい!」
 浩幸は上を向いたまま微笑むと、
 「世界中の病院を虱潰しに探して、僕の血液、免疫、組織細胞に極めて近い、と言うより同じ適合性を持った脳死患者を大至急見つけ出して下さい!そしてノーマン教授に連絡を取り、脳移植手術の段取りの手配を大至急お願いします!時間がありません!一ヶ月以内です!できますか?」
 「院長……。分かりましたこの西園、命に変えて見つけだして見せます!」
 西園は大急ぎで自分の研究室に飛び込んだ。浩幸は静かに目をつむり眠りについた。
 西園はその日以来、山口医院やコスモス園での診察を、院内のもう一人の医師である伝田強志に全て任せると、自分は研究室に閉じこもり、インターネットなどの情報網を駆使し、浩幸の身体と同じ体質の脳死状態患者を見つけるために、まるで何かに取り付かれたように没頭したのだった。一ヶ月というのは、浩幸の脳細胞の現状を維持しうる限界の期限であることは西園も知っていた。それを越えれば浩幸の各臓器機能の低下が始まり、脳に影響を与えはじめてしまうのだ。もはや一刻の猶予も許されなかった。

 浩幸のそんな状態も知らず、ただのショック症状と知らされた百恵は、きっとすぐに快復方向に向かう事を信じて、それから毎日仕事の合間をぬっては浩幸に付き添い、献身的な看病を続けていた。
 「百恵さん、毎日本当にすみません───。何て感謝を言えば……」
 「何を言ってるんですか?こう見えて私、介護士なんですよ。浩幸さん一人の介護をするくらい、ぜんぜんへっちゃら!それより、毎日浩幸さんに会える事の方が嬉しいの」
 「百恵さん……」
 浩幸は天井を見つめたまま、思い詰めたように呟いた。
 「なんですか?」
 「大樹の事なんですが……、もし、僕に万一の事があったら、大樹の事、よろしくお願いします───」
 百恵は悲しそうな顔をした。
 「大樹君は浩幸さんと私の子供でしょ?当たり前じゃない!大丈夫、ただのショック症状なんだから、きっとすぐに良くなる!だから、そんな心配をするのはやめましょ」
 「もし、君と結婚をしないで僕が死んだとしても、大樹の事だけは一生見守っていてあげて下さい。もしかしたら、僕は手術をするかも知れない。しかし、その手術は日本ではできない手術です」
 「そうなったら、私も付き添いで行きます。だって、妻ですから、当然でしょ」
 「それはダメです。貴方にはコスモス園がありますし、大樹にも学校がある……」
 「そんなに難しい手術なの?」
 百恵の表情が曇った。
 「なあに、簡単な移植手術ですよ。三ヶ月もすればすぐに日本に帰って来れる」
 「本当に三ヶ月……?」
 浩幸は笑って答えた。
 「それじゃあ、その前に、入籍だけしちゃいましょ?浩幸さんは来年なんて言ったけど、あなたがいない間、大樹君の面倒を見るにもその方がいいでしょ?私、別に入籍の時期にはこだわっていないんです」
 「それはいけない!だって……」
 浩幸は言葉を詰まらせた。
 「君のご両親に申し訳ない。やはり結婚はきちんとした形で行いましょう───」
 「でも……」
 「お願い……。僕の言う事を聞いて───」
 百恵は黙って頷いた。

 事件から二週間が経過した日中、ものすごい勢いで、紅潮させた顔の西園が、浩幸の病室に飛び込んできた。
 「院長!院長!───見つかりましたよ!」
 「本当ですか!」
 浩幸は俄に歓声をあげた。
 「二十八歳、フランス人男性です!血液型も同じ、細胞組織、免疫の適合性もほぼ院長のものと同じです!六ヶ月前に飛び降り自殺を図り、脳挫傷で脳死状態になっています!」
 「ご家族との交渉は?」
 「これからです!」
 「僕の率直な意志を伝えますので、そのままご家族とドナー側の医師へ伝えて下さい」
 「はい!」
 そして、家族との交渉に手間取ったものの、浩幸の熱い情熱と誠意が伝わると、ドナー側の家族は「息子が蘇るのなら……」と、戸惑いながらも承諾してくれたのだった。そうして浩幸は脳移植手術のため、アメリカへ向かう事になるのである。
 少し後の話になるが、その機内で浩幸は、付き添いで同行する西園に、自分の気持ちを全て伝えていた。山口医院の事、コスモス園の事、大樹の事、美幸の事───、そして、話が百恵の事に及んだ時、浩幸の瞳には涙が溜まっていた。
 「僕の脳移植手術が成功したにしろ、失敗したにしろ、彼女には、僕は死んだと伝えて下さい───。別人の姿をした僕が“山口浩幸”だと知ったら、彼女はどれほど驚くでしょう……?せめて、この姿のままの山口浩幸を、彼女の思い出の中に永遠に残しておいてあげたいのです───」
 「院長…………」
 西園は涙をぬぐった。
 「そして、僕の遺言として、こう伝えて下さい」
 浩幸は瞳を閉じて、その言葉を伝えた。
 「僕が貴方を愛した事は真実です。しかし、貴方はまだ若い。もう死ぬ僕の事は早く忘れて、別の愛するべき男の人を見つけて幸せになって下さい。大樹の事も、美幸の事も、すべて西園さんにお願いしましたので、貴方が心配する必要はもうありません。僕の最後の願いです。どうか誰よりも幸せになって下さい……」
 西園は大粒の涙をボロボロこぼしながら、浩幸のその言葉を書き留めた。
 「手術が成功すれば、僕は名前を変えて山口医院に戻ります。統合時には間に合わないかも知れませんが、戻れば僕の姿形と名前が変わっているだけで、後は今まで通りですよ。何もあなたが泣く事はないでしょう」
 「これでは馬場さんがあまりにも……」
 「仕方がありません……。僕と百恵さんの運命なのですから……」
 アメリカ行きの飛行機は、いつまでも沈まない夕陽の中を、下界に広がる雲海を見下ろしながら轟音をあげて飛び続けるのであった。

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