警察に自首した美幸の告白で、事件は直ちに解決に向かった。両親には絶対迷惑をかけまいと、必死に自分一人の犯行だと言い張った美幸だったが、やがて警察の執拗な捜索によって、その真相が浮き彫りとなった。そして事件発生からおよそ一月後、殺人容疑の首謀者として林武が、共犯者としてその妻美津子は逮捕されたのだった。美幸は虐待による脅迫における犯行の上、未成年ということもあり、書類送検されたのみで済んだが、逮捕される両親を見たとき、殺人以上の罪悪感を覚えずにはいられなかった。
その新聞記事を読んだ須崎はわなわなと震え出し、浩幸に対する憎しみは、もはや抑えることはできなくなっていた。
───ここで、新津俊介について述べておかねばなるまい。
彼のアパートに、彼が百恵に送った婚約指輪やホワイトパールのブレスレッド、それに事あるごとに贈った数々の品が郵送で送られてきたのは、彼が浩幸に暴行を加えた夜から数日後のことだった。同封の百恵の筆跡の手紙には、浩幸と結婚する旨、俊介に対する感謝の気持ち、それに長年待ち続けてくれた彼に対する罪悪の気持ちが長々と記されていた。それを無言のまま読み終えた彼は、成す術もなく、頭をうなだれて涙を流した。どのくらい放心状態のままでいただろう、彼の心に残ったものは、浩幸に対する怨恨だった。しかし彼は、それに対してどうすることもできなかった。やがて、
「生まれ故郷に帰ろう……」
と思った。百恵のいない長野に、彼が住む理由などひとつもなかった。やがて百恵との思い出が染みつく身の周りの品々をひとまとめにすると、車に乗って、千曲川の河川敷に向かった。そして、思い出を断ち切るように、その品の一つひとつをたおやかな川の流れの中に投げ捨てたのだった。それから彼は会社に退職願を提出し、その数ヶ月後、大学以来住み慣れた長野を後にするのである。
最後に、どうしても百恵の顔が見たかった。そして震える指先で、おそらく最後になるであろう百恵の携帯番号を、短縮ダイヤルでなく、空で覚えた数字をひとつ一つ確かめながらゆっくり押した。
百恵の携帯電話が鳴ったのは、遅番の休憩時間、七時を少し回った頃だった。百恵は携帯のディスプレイに表示された相手先を確認すると、大きなためらいを覚えながら電話を取った。
電波の端末に立つ二人は、お互い言葉も見つからず、暫くは無言のままでいたが、やがて、
「百恵…………」
俊介が言った。
「俺、田舎に帰るよ……」
百恵は申し訳なさで胸がいっぱいになり、目に涙を溜めながら、
「いつ……?」
と聞いた。
「今晩、発とうと思う……」
百恵は「そう……」と、一言いった。そして、それ以上の言葉が出ない自分を冷たい女だと感じた。
「最後に、百恵の顔が見たいんだ……。今日、遅番だろ?八時にコスモス園の駐車場に行くから、俺の最後の願い、聞いてくれる?」
百恵は小さなためらいを感じながら、「うん……」と返事をして電話を切った───。
そして、八時の駐車場で、まるで何かとてつもない大きな影に呑み込まれたような、げっそりと痩せこけた俊介の姿を見つけた時、介護服姿の百恵は、彼を抱きしめてあげたい気持ちでいっぱいになった。しかし、それはけっしてしてはいけない事だということは知っていた。百恵は俊介の前に立つと、「新津君……」とだけ言った。
「元気そうで安心した。山口先生の医療ミスも誤解が晴れて、よかったね……」
「新津君…………、バカ……。毎日、ろくにご飯も食べてないんでしょ!毎日インスタント食品やカップラーメンばかりじゃダメって言ったじゃない!お腹がすくとどうせスナックばっかり食べてんでしょ!それに、夜はしっかり寝ないと……!」
百恵はすっかり昔の世話焼きに戻って、涙を流しそうになりながら昔の小言を並び立てた。
「俺はもう、百恵の子供じゃないよ。そんな事言わないで。帰れなくなるじゃないか……」
そして、「最後に謝らなければいけない事がある……」と話を次いだ。
「実は俺、あの山口先生の医療ミスの報道を聞いたとき、正直“ざまあみろ”って思ってしまった。そして医療ミスでなく、赤の他人の犯罪だと知ったときも“ちくしょう”って思った。俺って最低だろ?百恵が愛したものは全部愛そうと誓ったはずなのに、今の俺は、百恵が最も愛した人を、最も憎んだまま帰ろうとしているなんて……。結局俺は、百恵を愛し切れなかったのかも知れない───」
百恵は俊介を見つめて何も言わなかった。
「ごめんな…………」
俊介は百恵に手を差し伸べた。その顔に、精一杯の笑顔を作りながら───。
百恵は謝らなければならないのは自分である事は分かっていた。しかし彼の新たな旅立ちの最後の言葉が、「ごめんなさい」で終わってしまったら、それまでの良い思い出が全て嘘になってしまうような気がして、
「私、新津君と結婚するより、ずうっと幸せになるんだから!」
そう言って、目を潤ませながら俊介の手を握り返した。
「さようなら……」
やがて俊介はそう言い残すと、車に乗って去って行った。
百恵の心に、何かひとつ、大きな穴がポッカリ空いた感覚があった。それは、再び取り戻すことの出来ない、大学時代からの大切な男友達との別れだった。一抹の寂しさを抱えたまま、十時に仕事を終えた百恵は、ため息混じりに車に乗ったのだった。
「浩幸さんは何をしてるだろう……」
そう思ったとき、コスモス園からの蛍ヶ丘大通りへの突き当たりに、何やら物々しい赤いパトロールランプの点滅が見えた。近づけば、その仰々しい赤い光は、山口医院の駐車場に止められた数台のパトカーのものであることが知れた。数人の警察官が、野次馬の人だかりを遮りながら、何やらただごとでない雰囲気に驚愕した百恵は、車をそのまま道路に抛り出すと、その人だかりに駆け寄った。看護士数人と警察官数人が話をしている足下を見れば、大量の黒い液体が、地面の低い方を探して流れているではないか。
「血……!?」
百恵はすぐにそれと知れた。
「いったい、何があったんですか!」
隣にいた野次馬のおじさんを捕まえて聞けば、
「ここの院長が殺されたらしい……。まったく物騒な世の中だよ」
おじさんの言葉の意味を理解した瞬間、百恵の頭の中が真っ白になったかと思うと、キーンという激しい耳鳴りが暫く鳴り止まなかった。ようやく意識を取り戻した時、
「いやーーーっ!!」
と、辺りに言葉だか悲鳴だか分からない発狂の声が響いた。百恵は我を失ったまま、
「どこっ!? 浩幸さんはどこっ!」
と叫んで、黒い液体に向かって飛び出した。すかさず警察官の一人が百恵の身体を取り押さえ、「現場検証中ですので近づかないで下さい」と言った。
「放して!放してよ!どこっ!浩幸さんはどこなのよ!放して!」
百恵は警官の顔や身体を気狂いしたように叩いたが、やがて警官に抑えつけられたまま膝を崩して号泣し始めたのだった。
「被害者のご家族の方ですか?」
百恵は警官の腕にしがみつきながら、
「妻です!お願い!だから浩幸さんのところへ連れてってえ!……」
「被害者は今、この医院の中です」
警官はそう言うと、百恵の身体を支えながら、医院の中へ案内して行った───。
手術室の“手術中”の赤いランプが点灯していた。百恵は廊下に据えられた長椅子に座り、目の前を通りすぎるナースを捕まえては、
「どうなんですか?浩幸さんはどうなんですか?」
を繰り返した。ナース達は何も言わずに目礼して、自分の仕事に専念している様子で、誰一人として百恵の質問には答えてくれなかった。
どれほどの時間を数えたろう。やがて手術中のランプが消えると、中から疲れ切った西園が姿を現した。
「西園さん!浩幸さんは?浩幸さんは、無事なのですか?」
「ああ、馬場さんですか……」
西園は近くの長椅子に力尽きたように座った。
「なんとか一命は取り留めましたが、打ち所が悪い……。意識さえとりもどしてくれればいいのですが……」
「生きているんですね!」
「鈍器のようなもので、頭を数カ所殴られています。いったい誰が……」
西園は顔に両手を覆って、愕然としたままだった。百恵の脳裏に一瞬俊介が思い浮かんだ。しかし、「まさか……」と思った。彼はこんなことをできる人間ではないと咄嗟にその考えを否定した。
「とにかく、意識が戻るのを待つしかありません。すみませんが院長に付いてあげて下さい」
西園はそう言い残すと、そのまま力を落とした様子で医師の控え室へ姿を消した。
間もなく、手術室を出てきた看護士が押す、浩幸を乗せた救急ベッドに寄り添いながら、やがて一般病棟の個室に着くと、「院長をよろしくお願いします」と言って看護士達は出ていった。百恵は痛々しい浩幸の身体をそっと抱きしめながら、「死なないで……」を繰り返し続け、その日は一睡もしなかった。頭を包帯でぐるぐる巻きにされ、人工呼吸機を口にした浩幸は、本当に死んでいるかのようだった。百恵はその手を握りしめたまま、胸がえぐられる思いで無心で祈り続けた。
───もし、この宇宙の中に、万物を生み出した“生”への働きがあるのなら、どうか浩幸さんを生かしてください!何もない宇宙の塵が集まって、星を生成して生物を産み出す力が本当にあるのなら、どうか浩幸さんの死んだ細胞を生き返らせて下さい!
種を植え、芽が吹き、花を咲かせ、実を付け、種を産み、その種が再び同じ事を繰り返す自然の神秘よ!そして、生物が生まれ、成長し、老いては死んで、また生まれ、生き物の命を永遠ならしめる生命の神秘よ!どうか浩幸さんの細胞の中に入って、浩幸さんを蘇らせて!人体には自然治癒力があるのだから、それらの力よ、浩幸さんの身体に集まって、その治癒力に加勢して!
そして……、そして本当に人々を救い、人を幸せに導く宗教があるのなら、その教主様、どうか浩幸さんをお救い下さい!私は全てを捨てて、貴方様に帰依しますから!この命を捧げますから!だから、だから浩幸さんを助けて下さい!
お願い───、お願い───、お願い───
浩幸さん、浩幸さん!気がついて!私の声が聞こえる?聞こえたら返事をして!お願いだから!
涙は既に枯れ、かすれた声もついには出なくなっていた───。
やがて、いつの間にか朝が訪れた。しかし、浩幸は依然動かなかった。
そこへ、ランドセルを背負った大樹を連れた西園が入ってきた。
「何か変化は……?」
百恵は首を横に振った。
浩幸の姿を見つけた大樹は、「パパ……」と言い寄って、頭の包帯を見て「ねえ、パパ、頭ケガしたの?」と、彼の身体を何度も揺すった。
「パパ?ねえ、パパ……?パパったら!」
百恵は思わず大樹を強く抱きしめ、かすれ声で言った。
「パパ、今ね、眠っているのよ。大丈夫、もうじき目を覚ますから……。お姉ちゃん、今日一日中、パパのところにいてあげるから、心配しないで学校へ行ってらっしゃい」
「それじゃあ、パパが起きたら伝えておいて!きのう、一人でお風呂に入って、ちゃんと頭を洗ったからって!」
百恵は込み上げる悲しみを堪えながら、「わかった……」と、大樹の小さな姿を見送った。
「西園さん!本当に浩幸さんの意識は戻るのですか?」
西園は何も言わなかった。そしてひとつ百恵の肩をポンと叩くと、
「そう、信じるしかないでしょう。私も正直、震えていますよ。でも、大丈夫。あの院長の事ですから、そのうち『そうだ、仕事をしなきゃ』なんて言いながら目を覚ましますよ……」
百恵は小さく微笑んだ。
「私は患者さんの診察がありますのでこれで行きますが、もし、院長の意識が戻ったら、すぐにナースコールをして私を呼んで下さい」
病室を出て行く西園の大きな身体が小さく見えた。百恵は再び浩幸の手を握りしめ、ひたすら祈り続けたのだった。
お昼を回り、やがて睡魔で遠のく意識の中で、百恵は彼との出来事を回想していた───。コンビニでの出合い、コスモス園での再会、桜吹雪のがりょう公園、コスモス園の屋上で話した事、蛍を見た事、ホテルでの出来事、雪の菅平、須田城址、そして最近連れ回した雷滝や破風高原───。その時々に微笑む浩幸の顔が鮮明に蘇るのであった。
『私を置いて、逝かないで…………』
そう、思った時───、
「百恵さん……」
百恵はハッと目ざめると、確かに聞こえた浩幸の声の出所を見つめた。
「そこにいるのは、百恵さんですか……?」
「浩幸さん……?そうよ!わたしよ!」
百恵は浩幸の身体に抱きついた。
「よかった…………、気がついたのね……。今、西園先生を呼ぶから!」
百恵は慌ててナースコールのボタンを押した。
「西園先生!浩幸さんの意識が戻ったの!すぐに来て!」
百恵の慌てようを余所に、浩幸は続けて、
「身体が動かないんだ……」
と言った。
「きっと目覚めたばかりで身体がなまっているのよ」
「首も動かない……」
「いますぐ西園先生が来るからね……」
「百恵さん、どうして僕はここにいるの?そうだ、仕事をしなきゃ……」
そう言うものの浩幸の身体は微動だにしなかった。
「百恵さん……、どうしちゃったのかな?僕……、身体が動かないんだ……」
そこへ、西園が勢いよく飛び込んできた。
「院長!気がつかれましたか───!」
「その声は西園さんですね……。西園さん、僕の身体が動かない……」
「えっ?指先を動かしてみて下さい」
「ダメです。手も足の指も動きません」
「何ですって?直ちに精密検査を行いましょう!」
西園は数人の看護士を呼び寄せると、浩幸をCT室へ運んで行った。ともあれ、意識を取り戻した事に安心した百恵は、疲れ切ってそのまま床に膝を落としたのだった。