亡くなった患者の遺族から、浩幸のところに一通の手紙が届いた。そこには今回の医療ミスに対して、告訴をする意志がない旨の内容が縷々記されていた。
『───主人は幸せだったと思います。数年前に植物状態になってから、先生には絶大な励ましをいただき続けながら、つい先日の往生まで、最後まで諦めずに面倒を見ていただいたこと、感謝の言葉もございません。実を申し上げますと、看病に疲れた私たち家族は、何度先生に安楽死のご相談を申し上げようとしたか分かりません。ある時は、そんな弱気の私達を叱咤激励して下さった先生が、まるで昨日の事のように思い出されるのです。
今回の事件に際し、その先生の姿を思い返すにつき、私達は先生の医療ミスであるとは、どうしても考えられませんでした。仮に医療ミスであったとしても、先生を責めるつもりは毛頭ございません。なぜなら、主人が死ぬ前から、既に私達は、主人の命を半分諦めていたわけですから……。主人の死は、きっと天命だったに違いありません。その事をお伝えしたく、このお手紙をしたためた次第でございます。
ところが、あの日の翌日、弁護士の林武様がお見えになり、告訴をすべき事件だと強く言い寄って参りました。私はそのような意志がないことをお伝えしたのですが、どうもしつこく、毎日のように来るのでございます。話を聞いておりますと、何か先生に恨みでも持っているかのようなのですが、何かお心当たりはございますでしょうか?いずれにせよ、私には告訴をする意志はございませんので、どうかご安心下さい。───』
浩幸は、“林武”の文字を見たとき、「やはり」と思った。しかし、それに対してどうこうしようという気持ちはまったくなかった。新生コスモス園の舵取りを担える事になった今、過ぎ去った出来事はあまり重要ではなかったのだ。それに、美幸や美津子が苦しむ事の代償が、自分の履歴に傷を付ける程度で済むならば、それは不幸中の幸いに違いなかった。彼は無表情のまま手紙を封筒に収めると、デスクの引出の奥の方にしまい込んだ。
一方、武にとっては全てが裏目に出る結果となり、合わせて須崎の憤りも尋常でなかった。
「いったい林さん、どう責任を取ってくれるんだ?俺はあんたを信じて、あんたの言われる通りにした。ところがどうだ?蓋を開けたら元の木阿弥、奴が医療ミスを犯したところで、何も変わっていないじゃないか!」
どうにも腹の虫がおさまらない須崎は、武の家を尋ねて罵った。
「そんなに目くじらを立てて怒らないで下さいよ。私の方も、遺族が告訴しないと言い張るので困っているところです。まあ、奴に医療ミスのレッテルを貼っただけでも、ある意味成功ですよ」
「バカを言っちゃいけない!奴の社会的立場を奪うのが目的だったはずだろう!」
「なあに、医療ミスは医者にとっては致命的だ。もっと時間をかければ、奴の医師免許を剥奪する事だって可能だ。もう少し穏やかにお願いしますよ」
「これが穏やかにいられるか!次期施設長が事務長に降格なんだぞ!この責任は何らかの形でとってもらうからな!」
須崎はそう言い捨てると、息を荒げて帰って行った。
「小市民め……」
その後ろ姿を見ながら、武は嘲笑した。
一応の騒ぎは収まったものの、医療ミスに関しては尾を引いたままだった。一連の事件で犯罪性を感じた警察は、浩幸の提示する参考書類に疑問を持ち始めていた。娘をかばおうとする聡明な浩幸にして、真実は隠し通せるものではなくなってきていた。事情聴取のため、何度警察に出向いたことか。その度、大きな疲労を覚えるのであった。
そんな浩幸を気遣って、百恵は時間が空くと、彼を自分の軽自動車に乗せて、様々な場所へ連れ回した。雷滝や破風高原、北斎館や人形博物館───、浩幸にとってそれは、つかの間の気休めだった。
「百恵さん、僕はどうも警察というところが嫌いだ……」
ある時浩幸は呟いた。
「警察が好きな人なんているのかしら?何も悪い事などしていないのに、警察の人を見かけるとドキリとして、なんだか逃げたくなるのは私だけ……?」
浩幸は「僕もです……」と、ニヤリと笑った。
「同じ人間のはずなのに、彼等はいつも高みからものを言う。法という権力を持つと、ああも人間は高邁になれるものでしょうか?」
「浩幸さんの好きなユゴー。レ・ミゼラブルの中に、“警察は法の奴隷”だってあったわよ」
「つくづく同感しますよ」
百恵には、警察で根掘り葉掘り聞かれて、精神的に参っている彼が心配でならなかった。できることならば、一刻も早く真実が分かって、浩幸に安らぎを与えてやりたかった。しかしそれは同時に、娘を警察に売るのと同じ事なのだ。
「これ以上、本当の事を隠す自信がなくなりました……」
百恵は何も答えられなかった───。
その夜、百恵は毎日部屋に居候する美幸と話をした。
「ねえ、美幸ちゃん……、いつまでこのままでいるつもり?」
「やっぱり迷惑ですか……?迷惑ですよね……」
美幸は悲しそうな顔をした。
「そういう意味じゃないのよ、私はぜんぜんかまわないの。だって美幸ちゃんは妹みたいなものだもの……」
美幸は安心したように微笑んだ。
「でもね、ご両親が心配していると思う……」
「あんなの親じゃない!私が帰ったって殴られるだけ……」
「それに仕事だっていつまでも休んでいたらいけないと思う……。私、浩幸さんに話しといてあげるから……」
「戻れるわけないじゃない、あんな事したんだから───」
美幸は慌てて口をつぐんだ。
「あんな事って?」
「なんでもない……」
百恵は悲しそうな目をした。
「美幸ちゃん、あのね……」
百恵は言おうか言うまいか迷ったが、浩幸の事を思うと言わないわけにはいかなかった。
「浩幸さん、あなたのしたこと全部知ってるのよ……」
美幸は驚いた表情で百恵を見つめた。
「それなのに、あなたの事をかばって、全部自分のミスだと言い張っているの……」
「バッカじゃないの?」
百恵の真剣な目つきに耐えきれず、美幸は目線をそらした。
「なぜそこまでして、あなたをかばうか分かる?」
「きっと昔、私のお母さんにひどい事したから、その罪を償おうとしているんじゃないの?」
「ひどい事……?」
「そうよ!だってお母さんが言ってたもん!あの院長に殺されかけたって!」
「何を言ってるの?あなたのお母さんと浩幸さんは昔……」
百恵は慌てて言葉を止めた。
「なあに?お姉さん、何か知ってるの……!?」
「なんでもない……」
「何か知ってるのね?教えて!お願い!」
百恵は言葉を詰まらせた。美幸は百恵の身体を何度も揺さぶった。
「お姉さんが言わないなら私も言わない!」
「美幸ちゃん……」
百恵は、本当の事を隠しておくことがいけない事のように思えた。浩幸が警察に隠していることも、親子の関係の視点から考えればけっして理解できないことではないが、果たしてそれが美幸にとって本当に良いことなのか?嘘を平気で飲むような人間になることが、美幸にとって本当に幸せになることなのか?そして、真実の親子の関係を隠しておく事も、果たして本当に良い事なのか?百恵には分からなかった。ただ、厳然とある真実に対して、それを知らない事は不幸ではないかと思った。真実を知って、初めて人は蘇生できると信じた。
「美幸ちゃん……、あなたの名前、どうして“美幸”ってついたか、考えた事ある?」
「名前……?それがどうしたのよ!そんな話をしてるんじゃない!教えて!」
しかし、やはりそれ以上は言えなかった。心の中で、浩幸の笑顔が浮かんでいた。『浩幸さん、ごめん……、私、言っちゃった……』───、自責の念は百恵を苦しめた。
「もういい!お姉さんなんか、嫌い!」
美幸はそう言い捨てると、毛布にくるまったかと思うと、百恵に背を向けて寝てしまった。そして、百恵の視線を背中で感じながら、美幸は自分の名前についてずっと考えていた───。