(二十)光明

 林武と美津子は、少なからず焦燥していた。事件以来、美幸が家に戻らないからである。警察に捜索願を出そうともしたが、事件との関連性に気づかれてしまう事を恐れ、それすら出来なかったのだ。
 「いったい何処へ行ってしまったの……?」
 美津子の心配は、日に日に募った。
 「バカな奴だ!これでは自分がやりましたと言っているようなものじゃないか!何故親の言う事を聞けなかったのか!まあ幸い、山口が医療ミスを認めてくれたから良かったが、犯罪性の方向に焦点が当たったとしたら、こちらまでとばっちりをくらうところだった!」
 武の言葉に、
 「そうはならないわ!私は最初からこうなる事を知っていた。山口は、あなたと違って、自分の子どもを犠牲にする事なんかできない人なのよ」
 美津子が言った。
 「きさま!まだあいつの事を言うのか!」
 武は美津子の洋服の襟をつかんで右手を振り上げた。
 「殴ればいい!美幸を殴っているように、私も殴るがいいさ!所詮、思い通りにならないと、暴力で訴えるしか知らない無能な男のくせに!」
 さすがに武も、美津子だけは殴れなかった。曲がりなりにも心から愛した女性なのである。武は美津子を押し倒すと、荒立たしく玄関へ歩き出した。
 「どこ、行くのよ!」
 「美幸を捜してくるんだ!警察に自首でもされたら大変だ!」
 武は力任せに玄関の扉を閉めると、そのまま行ってしまった。

 河上吾郎の邸宅は、長野市から鬼無里村へ向かう途中の、簡素な雑木林の中にある。
 百恵を乗せたニュービートルは、やがてその広い敷地内に停車すると、静かに車を降り立った。
 「大きなお家……」
 感嘆の声をあげた百恵に、「さあ、行きましょう」と、浩幸は先に歩き出した。手入れのいきとどいた山水庭園を眺めながら、玄関に程なく近づくと、手ぬぐいを頭にまいた汚らしい身なりの老人が、山から下ってきたのと鉢合わせをした。
 「ほお……、こりゃ珍しいお客さんだ……」
 老人がそう言うと、
 「その節はありがとうございました」
 と浩幸が頭を下げたので、百恵もそれに従って挨拶をした。身なりからは想像もできなかったが、彼こそ河上吾郎に相違なかった。会議で見かけた彼は、スーツ姿の上品な印象で、目の前の人物と同一であるとは思えない。老人は手にした袋を広げると、セリやナズナやウドや雑木の葉など自慢げに見せ、
 「今、山から採って来たんだよ」
 と言ったかと思うと、「ばあさん!」と叫んで妻を呼びつけ、「ちょいとこれで天ぷらを揚げてくれんか。お客さんにご馳走するのだ」と嬉しそうに言った。そして二人を広い客間に通すと、「ちょっと着替えてくるから待っていてくれ」と、そのまま姿を消したのだった。下座に二人居並んだところへ、しばらくすると、先程の『ばあさん』と呼ばれた妻がお茶を運んで来て、浩幸の顔を見ながら懐かしそうに微笑んだ。
 「山口正夫先生のご子息の浩幸ちゃん……?まあ、こんなに大きくなって……」
 浩幸は「ご無沙汰しています。もう不惑の年を越えました」とはにかんだ。そして彼女は百恵の顔をのぞき込むと、一礼した後、笑顔を残して下がっていった。
 「幼い頃、父に連れられてよく来たものです。お金を借りに……」
 浩幸はそう言うと苦笑した。山水庭園が一望できる開けはらわれた引き戸から、涼しげな風が吹き込んでいた。やがて着流しの和服に着替えた河上が、厳かに入ってきた。
 「だいぶ世間を騒がせているようだな。毎日、新聞を楽しく読まさせていただいているよ」
 「面目もありません……」
 河上は哄笑すると、次に百恵に目を向けて、
 「貴方はこの間の会議に殴り込みをかけてきた娘さんですね。愉快だったぞ。特に責任の取り合いが面白かった。もう一度やってくれないかね?」
 「見せ物じゃありません!」
 と百恵が言うと、浩幸は慌てて彼女の太股をつついて言葉をとめた。
 「で、今日は何の用事かな?医療ミスの尻拭いの相談か、それとも結婚の挨拶かな?」
 浩幸は「両方です」と答えた。河上は二人の深刻な顔には無関心な様子で、
 「ばあさん!天ぷらはまだですか?」
 と叫ぶと、遠くで「はい、ただいま!」という声が聞こえた。
 「この時季の葉っぱは何でも食える。うまいぞ!ちょうどよい時季に来た。たんと召し上がって帰れ」
 浩幸は「ありがとうございます」と頭を下げた。
 「こうして君の顔を久しぶりにじっくり見ると、やはり正夫君の面影があるの……」
 河上はそう言うと懐かしそうに昔話を始めたのだった。
 「まったく頬返しがつかない頑固者だった。当時はまだ痴呆とかアルツハイマーなんて言葉は一般的でなかったから、年をとってボケれば、猫も杓子もボケ老人、ボケ老人と言っておったもんだ。ところが正夫君はボケは病気だなんて言い出したんだ。わしの方は、介護施設の老人を、医者になんか取られたら商売あがったりだ。そこで二人は大喧嘩さ」
 河上は再び哄笑した。
 「ところが正夫君は天下御免の貧乏人だ。金に困ると決まってわしのところに来て、バツが悪そうに頭を下げる。その時ばかりは痛快だったねえ!しかし、今となっては彼の説が主流になってしまったよ。あの頃から優秀な医師であった事はわしも認めざるを得ない。正直言って、今回の統合計画も、わしにとっては大きな驚きだったのだよ。正夫君の隣りにちょこんと座っていたあの小さな君が、わしの創設したコスモス園を配下に置こうというのだからね……」
 「そういうつもりで進めて来た事業ではありません」
 「分かっておる───。しかし、わしはそう思ってしまったのだよ。でも今では、わしは引退して既に老いた。そして時代の成り行きはわしにも分からない。若い世代の人達に、全てを任せようと思って何も言わないで見ているのだよ」
 そこへ揚げたての天ぷらが届いた。河上は嬉しそうに「おお、きたか、きたか。さあ、遠慮せずに召し上がれ」と言うと、
 「ところでお嬢さん、お名前は?」
 百恵は少し緊張した面持ちで「馬場百恵です」と答えた。
 「なんじゃ?とすると、浩幸君と結婚すれば“山口百恵”になるじゃないか!愉快、愉快、わしはうちのばあさんが嫉妬するくらいの百恵ちゃんの大ファンでな、昔は彼女のポスターを書斎の壁いっぱいに貼り詰めて、鼻の下を伸ばしていたものだよ!」
 河上は三度哄笑したかと思うと、目の前の天ぷらをうまそうに食べ始めた。
 「さあ、あなた達も食べて食べて……」
 浩幸と百恵は「いただきます」というと、遠慮しがちに箸を取った。
 「お嬢さん───」
 河上は、真面目な顔に戻ってそう言った。
 「見かけによらず浩幸君は女性にはとんと不器用だ。そのせいで苦労してきた事は貴方も重々知っておるだろう。どうか今度こそ幸せになれるよう、貴方がしっかり面倒を見てあげて下さい」
 百恵は照れながら「はい」と答えた。
 「そういえば、昔、こんな事があったなあ…………」
 河上は久しぶりの来客に、さぞ嬉しそうな笑顔を浮かべながら、いつまでも話しを続けるのであった───。
 それは何十年も前に持ち上がったコスモス園の撤去問題だった。当時盛んに行われた道路整備に伴い、蛍ヶ丘周辺に振興住宅街を指向した行政が、その区画整理の計画を打ち出した時である。当時、周囲一面に桑畑が広がるコスモス園に、ある日突然撤去要請が舞い込んだ。内容を見れば、行政側が一方的に、区画整理のため現在の場所からの移転を強要してきて、施設を行政に売り渡すか、豊丘の山奥へ移転するかの二者択一の選択を迫った問題であった。時代はまだ高齢社会はおろか、高齢化社会すら叫ばれる以前の話で、老人介護といっても社会的にそれほど重要視される位置を占めてはいなかった。行政における福祉さえ、その意味さえ理解されていなかったのである。そういう時代に河上は老人介護を目的とした施設を作ったわけだが、その役割を本当の意味で理解してくれる者は、当時にして老人を入所させる家族と、山口正夫だけだったという。正夫は河上と喧嘩をしながらも、来るべき高齢社会を予見していた。その上で介護施設の必要性をけっしておろそかには考えていなかったのだ。河上は悩んだ挙げ句に正夫の前でこう言った。
 「正夫君、僕はコスモス園を手放そうと思う……」
 その時正夫は烈火のごとく叫んだのだった。
 「吾郎君、見損ないましたね!いずれ日本は高齢化社会に突入する。それを承知で君は介護施設を作ったんじゃないのかね!今、やめるならば、最初からやらなければよかったですね。ああ、コスモス園に期待した私の見当違いだった」
 「正夫君、そうは言うがね、行政から睨まれてみろ。どうすることもできないよ」
 「吾郎君、本当に君は、老人介護の仕事をやる気があるのかい?」
 「もちろん!」
 その言葉を聞いた正夫は、コスモス園存続のために日夜をわかたず奔走したのだった───。
 「なんせ人望だけは桁外れに厚い人だったからね……。彼はまるっきり政治には興味を示さなかったが、県会議員、いや、国会議員にもなれたんじゃないか?」
 河上はここまで話すと再び天ぷらを口にした。
 「仕事が趣味の人生でしたから……」
 浩幸が言葉を添えた。
 「彼は瞬く間に地域住民を味方に付けた。そして行政に対して、コスモス園撤去反対の意思表示をしたのだよ。いくら行政でも市民を敵に回すわけにはいかなかった。その態度がコロリと変わってね、そうしてコスモス園は現在に至っているんだよ」
 百恵は初めて聞く話に感動していた。
 「わしは正夫君にいくら金を貸したか覚えてないが、もし、あの時、彼が味方してくれなかったら、今頃どこかの老人ホームで、しがない余生を送っていたに違いない。わしは、彼に貸した金など問題でないくらい大きな借りが、正夫君にはあるのだよ」
 河上はその話を終えると、
 「少しいい気分になってきました。お酒でも飲みましょうか?」
 と言うと、妻に酒を所望した。
 「すみません、僕は車ですので……」
 浩幸に続いて百恵もすかさず、
 「私もお酒飲めませんから……」
 と言った。
 「なんですか?つまらない夫妻ですね───」
 河上はそう言うと、運ばれた酒を一人で飲み始めた。そして、
 「今日、浩幸君がわしのところに来たのを見ると、どうやら、その恩を返す時がきたようですな……」
 と言った。
 物分かりの早い河上は、浩幸の追任処分を取り消す手を尽くす事を約した。彼が動けば全国の医療介護施設の重鎮達を動かすことは、いとも容易い事なのだ。
 「あの統合計画は決して悪くない。介護と医療の両立を考える上で、今後の時代をリードしゆくモデルとなろう。君は、わしと正夫君の理想だった夢を、まさに実現してくれようとしている。老いぼれながら、全面的に協力させてもらうよ」
 浩幸は深々と頭を下げた。
 「しかし医療ミスは駄目だ。わしの専門外だし、分も悪すぎる───」
 河上はそう言うと、笑顔を浮かべながら酒を飲み続けた。

 それから間もなく、西園の驚く表情をよそ目に、浩幸の追任処分は取り消された。

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