(十九)葬り去られた夢

 依然美幸は、事件についての真相を語ろうとはせず、そのまま数日が過ぎ去った。
 こともあろうにそんな状況下の中、医療ミス問題に追い討ちをかけるように、今度は浩幸と百恵の夜の密会の如き報道が、いくつものスキャンダル雑誌によって成されたのである。その内容は『医療ミス、懲りずに候!反省よりも彼女に夢中』と、事件直前のパブでの二人が、あたかも事件後の出来事のように報道されたのだった。誰が撮影したのか、楽しそうに会話をしている二人の姿は、誰が見ても非常識きわまりないものであり、百恵はその内容を読む気にもなれなかった。もはや浩幸がいくら弁明をしたところで、馬の耳に念仏だった。
 コスモス園単独の最高会議では、総意による山口浩幸の追任処分が決定し、その内容書類が医院側へ届けられた。浩幸はそれに目を通すと、破ってゴミ箱へ投げ捨てた。
 「院長、どうなさるおつもりですか?」
 西園が暗い声で言った。
 「仕方がないじゃありませんか……。残念ですが、どうする事もできませんよ。しかし統合計画自体、九〇パーセント以上がうちの出資で進めてきたものです。いくらなんでも、それを覆すことはできません。僕が降りさえすれば、全てが今まで通りです。後は西園さん、あなたに任せる以外にありません」
 「そ、そんな……。院長のいない戦野で、私はどう舵取りをすればよいのですか!」
 「西園さん、今はじめて話しますが、介護医療の充実は、僕の最大の夢でした。人は老いてやがて死んでいく。僕は何人もの患者さんを看取る中で、人の人生の偉大さを常々感じてきたのです。名もない庶民が必死に生きて、ある日突然病を知らされる。しかし死の宣告を受けてまでも、人はその最期の瞬間まで、生きて、生きて、生き抜こうとしている……。僕の母もそうでした。父もそうでした───、重度のアルツハイマーの患者でさえ、生きようとするのですよ!いったい何故だと思いますか?」
 西園は目に涙を溜めて、何も答えなかった。
 「あなたがよく言うでしょ、“使命”だって……。人は皆、この世に生を受けて、誰もがこの世で果たさなければならない使命を根元的に持っているような、僕にはそう思えて仕方がないんです。せめてその方々の最終章を、僕はこの手で祝福して差し上げたかった───」
 浩幸の頬に、蝸牛の通り道に似た光ができた。それは西園が見る、浩幸が初めて流す涙であった。西園は「院長!」と叫んだまま嗚咽した。
 「あなたの感情の起伏の激しさにも困ったものです……。まるで百恵さんと同じだ……」
 浩幸は窮地の中で、可憐な百恵の笑顔を思い出していた。
 「分かりました!この西園!命に変えて、院長の理想を実現して参ります!」
 「そう気張らなくてもいいですよ、普通にやれば───。どうもあなたと話をしていると疲れる……」
 浩幸は涙をぬぐおうともせず、静かに微笑んだ。
 その後、浩幸は百恵の携帯電話を鳴らした。その日公休だった百恵は、すかさず受話器を取ると、「浩幸さん!」と言った。
 「これから会えませんか?貴方の顔が見たい……」
 「お仕事の方は大丈夫ですか?」
 「医師会から、三ヶ月間職務を自粛するよう通達が来ました。これから暫くは、貴方とゆっくり会える……。もし神がいたとするならば、これはその配慮に違いありません」
 百恵はその楽観ぶりに微笑んだ。
 「私の家に来ませんか?美幸ちゃんがいるんです」
 浩幸はしばらく考えた後、
 「それはできません」
 と呟いた。そして、
 「大樹も一緒に連れて行こうと思うのですが、いいですか?」
 「もちろん!」
 そして、がりょう公園で会う約束をした二人は、静かに電話を切ったのだった。

 百恵と浩幸と大樹の三人は、まるで本当の家族のように公園内を歩いた。動物園を散策し、小さな水族館に入った後は、その前の遊園地で全てを忘れて遊びに興じた。百恵と遊ぶ大樹は、絶えず大声で笑いながら、その微笑ましい光景を、浩幸は含み笑顔でじっと見守っていた。
 やがて三人は、ボート乗り場の前に来ると、
 「乗っていきますか?」
 浩幸は、百恵と大樹とをボートに乗せて、やがてゆっくり竜ヶ池の中をこぎ出した。
 「私、この池のボートに乗るの初めてなんです!家がすぐ近くなのに変でしょ?」
 「そういうものですよ。近くにありすぎると、その良さが見えないものです。僕だって百恵さんの素晴らしさに気づいたのは、ごく最近の事なんですから……」
 「まあ、先生ったら!」
 「ああ!白鳥!」
 大樹が遠くの白鳥を見つけてはしゃぎ出した。
 「ねえ、パパ、あそこに行ける……?」
 「ようし!任せておけ!」
 浩幸はその白鳥に向かってこぎ出した。程なく白鳥のいるところにボートが近づくと、白鳥は逃げる様子もなく悠々と泳ぎだした。大樹は手を差し伸べたが届く距離ではなく、やがて「やい!白鳥!」と声をかけることに専念し始めた。
 「白鳥を見ると“みにくいアヒルの子”を思い出します」
 浩幸が言った。
 「みにくいアヒルの子は、どんなに苛められたって、また馬鹿にされたって、じっと耐えて、最後は白鳥になってみんなを見返してやりました。でも彼は、生まれながらに白鳥になる資質を持っていたんです。仮にあのアヒルの子がカラスだったら、物語はどうなっていたでしょう?きっと死ぬまで屈辱を味わいながら、すさんだ気持ちのまま廃人になるか、アヒルの兄弟達に復讐したに違いありません……。そうは思いませんか?」
 浩幸はボートをこぐ腕をとめると、胸のポケットから煙草を取り出して吸い始めた。そしてゆっくり煙を吐き出すと、
 「僕は白鳥なのだろうか?それともカラスなのだろうか?」
 ぽつんと呟いた。
 「浩幸さんは、浩幸さんでしょ……」
 百恵は彼を見つめて微笑んだ。
 「白鳥になるか、カラスになるか、浩幸さんが決めればいいじゃない?私、平気よ!たとえ浩幸さんが悪魔になっても、地獄の底までついていきますから……」
 「それはやめてもらえませんか?死んでまでついて来られたのでは、亡霊に付きまとわれているようで、怖くて夜も眠れませんよ」
 百恵がクスリと笑うと、浩幸は哄笑した。その様子を大樹はぽかんとした顔で見つめた。
 「しかし今回の事件で、夢なんてものはいともたやすく壊されてしまう事を知りました。とても残念ですが、コスモス園の総意として、僕を追任する通達が来ましたよ……」
 「総意って……、私は反対よ!」
 「もう決定したのですよ……」
 百恵は悲しそうな顔をした。しかし気を取り直した様子で、
 「浩幸さん?私、最近ずっと考えているんですけど、もし、浩幸さんの行き場所がなくなったら、二人で老人養護施設を始めませんか?小さくたっていいじゃない!そんな大勢のお年寄りを看る必要もない。本当に介護を必要とする人達のための、真の意味の介護施設……」
 浩幸は百恵のあどけない発想に一笑すると、「いいかも知れませんね」と答えた。
 「しかしそれはできません……」
 百恵は浩幸を見つめて「どうして?」と言った。
 「山口医院は、僕の父、先代赤髭の命の結晶なのです。僕は長い間、ずっと父を恨んできました。医院を経営しているくせに、その経営力の無さにずっと泣かされてきたからです。しかし年をとるに従って、だんだん父に近づいている自分を見つける時があります。やはり親子の血は争えないのですね……。この年になってようやく父がやってきた事の意味が分かるような気がするのです。僕は、その父が残した施設を、どうあっても守らなければいけない。病で苦しむ人達のために……」
 「やっぱり先生は“赤髭先生”の子どもってことですね」
 「僕をそう呼んだのは、西園さんと、貴方で二人目です……。でも僕は、赤髭よりブラック・ジャックの方が好きだ」
 「どちらでもいいわ……」と百恵は笑った。
 「明日、河上吾郎氏を訪ねようと思います。ほら以前、一回目のスキャンダル騒動の時に僕らを助けてくれた、コスモス園の最高顧問……」
 「私もお会いしてみたい……」
 「ただの爺さんですよ。しかし、影の力は絶大です。悪く言えば、医療介護界を牛耳る黒幕とでも言いましょうか。彼なら何かヒントをくれるかも知れません。本当に会いたいですか?」
 百恵は「少し怖いけど」と言いながら頷いた。
 「明日の仕事は?」
 「二連休ですから、緊急の仕事ができない限り大丈夫です」
 「そうですか。いずれ百恵さんの事も紹介しなければいけない人物です。ついでですから一緒に行きましょうか?」
 「はい!」
 「ねえ、パパ。そろそろ帰ろうよ……」
 すっかり忘れていた大樹の声に、二人は「ごめん、ごめん」と言いながら、百恵は大樹を抱き上げた。
 三人を乗せたボートは、竜ヶ池を照らす夕陽の中を進み出した。

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