(十八)母娘になるはずの間柄

 翌日の新聞の三面記事のトップは、各新聞社が競うように山口脳神経外科医院における医療ミス問題を取り扱っていた。早番の百恵はその内容を、毎朝コスモス園に届けられる三社ほどの新聞で確認した。折しもテレビの朝のニュース番組では、ブラウン管に映る見馴れた山口医院のある風景が、まるで危険地帯ででもあるかのような報道が成されていたのである。
 内容はどれも同様だった。入院患者の点滴に毒物が混入されて死亡したというもので、点滴に筋弛緩剤が誤って混入されたのは、入院患者の主治医であった院長浩幸の、点滴に使用する薬品の指示ミスというものだった。説明では要するに、山口医院では点滴の薬品の指示は、チェック式の指示書によって行われていたが、そのチェック項目を誤って記載してしまったというのである。
 その時点で百恵は首を傾げた。あれほど仕事に厳格な浩幸が、そのようなつまらないところでミスを犯すとは思えなかったからだ。しかも点滴に使われる薬品と、毒物に指定されている薬品を一緒のチェック表に載せる事自体、聡明な浩幸にしてありえない事だと直感した。
 「なにかある───」
 百恵は遠くを見つめた。
 「いやあ、えらい事になってしまったねえ!」
 日勤で出勤してきた須崎理事長が、ロビーのソファで俯く百恵の姿を見て、やけに嬉しそうに言った。百恵は「おはようございます」とだけ言うと、仕事に戻った。
 その日、定時で仕事を終えると、百恵は一直線に山口医院を訪ねた。受付で浩幸の所在を尋ねると、事件性の疑いをかけられて警察に行っているということで、そのまま院長室で待たせてもらうことにしたのだった。
 清楚で整理整頓がいきとどいている部屋の窓辺から外を眺めれば、コスモス園が一望できた。棚の中の書籍や壁に飾る絵画やカレンダーのセンスから、彼の人柄を感じながら、百恵はソファに腰掛けて、机に置いてあった読みかけの医学書を開いた。しばらくすると、西園が「院長!」と言いながら入って来たかと思うと、百恵に気づいて「こりゃ、失礼……」と頭を下げた。
 「コスモス園の馬場百恵です。山口先生は警察に行かれているそうで、しばらくここで待たせていただいています」
 「ああ、あなたでしたか……?直接お話をするのは今日が初めてですね。理事の西園です。とは言っても、お話は院長から度々お伺いしておりますよ。ご婚約おめでとうございます。今度こそ、院長を幸せにしてあげて下さい」
 百恵は恥ずかしそうに頷いた。
 「山口先生のご様子はいかがですか?」
 次いで百恵が言うと、西園は少し困ったふうに、
 「ああいう性格ですから表面には出しませんが、相当まいっていると思います。支えになってあげて下さい。私ではもう、どうにもならんのです」
 と答えた。
 「山口先生の医療ミスだって報道されてますけど、嘘なんでしょう?」
 西園は口をつぐんだ。
 「西園さん、お願いです!教えて下さい!」
 「外部には言えない事情もありますよ……」
 「私、外部じゃありません!」
 そこへ、院長室の扉が開いたかと思うと、普段と変わらぬ様子の浩幸が戻ってきた。
 「やあ、馬場さん。何をしに来たのですか?」
 その言葉は、心配する百恵にとって、あまりに冷淡に聞こえた。西園は気をきかせて静かに席をはずした。
 「何をしに……って……、先生があんな単純な医療ミスをするはずがないと思って……」
 「報道の通りですよ。僕の指示ミスによって、とんでもない問題になってしまった」
 浩幸は淡々と答えた。その淡泊な言葉が急に憎くなって、百恵は大声で「うそ!」と叫んだ。
 「馬場さん、いったい何が言いたいのですか?」
 「先生……、ひょっとしたら、誰かをかばっているんじゃないかって……」
 浩幸は目を細めた。
 「かばうも、かばわないも、僕が自分の犯したミスを認めているんです。それに、医院で起きた事故は、院長の僕が責任をとるのは当然の話でしょう!」
 百恵は閉口した。
 「これで多分僕は、全ての役職を降ろされる。下手をしたら医師免許さえ剥奪されてしまうでしょう。悪い事は言いません。馬場さんも一刻も早く、こんな僕から離れて行った方がいい……」
 浩幸の冷淡さの根源を知った百恵は食い付いた。
 「何を言うの……?私、浩幸さんが医者だから好きになったんじゃありません!院長だから、医療法人の理事になる人だから愛したわけじゃありません!本当の事を話してよ!」
 今度は浩幸の方が閉口した。
 「私、美幸ちゃんと何か関係があるんじゃないかって思ってます。だって、彼女、昨日も今日も仕事を休んでいるはずよ……」
 言葉を詰まらせた浩幸は、やがて「なぜ、その事を……?」と、面妖そうに言った。
 「美幸ちゃん、今、私の家にいるんです」
 浩幸は驚きの表情を隠せなかった。
 「で……、何か話しましたか?」
 百恵は首を横に振った。
 「とっても落ち込んだ様子で、何を聞いても答えてくれないんです」
 「そうですか……」
 浩幸はやがて観念したように、「貴方には何を隠しても無駄のようですね……」と呟いた後、事件の全容を話したのだった───。
 百恵には彼の心情が痛いほど分かった。故意か過失か知らないが、娘の犯した過ちを、全部自分が背負い込もうというのである。仮に弟の太一が犯罪を犯したとしても、きっと自分も同じ事をしただろうと思うのだ。真実を知った百恵は、一目散に家へ戻るのだった。

 「美幸ちゃん、ちょっと話があるんだけど……」
 太一の部屋を開けると、二人はゲームに興じていた。百恵はかまわず美幸の腕を引っ張ると、そのまま自分の部屋に連れ込んだ。
 「ちょっと、姉ちゃん、俺は……?」
 置いてきぼりをくった太一に、
 「あなたは関係ないの!女同士の話!」
 と、部屋のドアを勢いよく閉めた。
 百恵は手にした新聞を広げると、「これを見て!」と美幸の前に置いた。三段抜きの太ゴシックで書かれた“山口脳神経外科医院医療ミス”の文字を見たとき、美幸が動揺して目を泳がせたのを見逃さなかった。
 「美幸ちゃん、お願い!本当の事を話して!このままじゃ浩幸さん、医者をやめなきゃいけなくなるかも知れないの!」
 百恵の瞳に涙が溜まっていた。その涙を見つけると、美幸は鼻で笑って、
 「あんた、あの院長の何なのよ……」
 と嘲たのだった。
 「私、浩幸さんの婚約者よ!来年、結婚するの!」
 そう知った時、美幸はとても悲しそうな目をして百恵を見つめた。
 「あんた、騙されてんだよ!早いとこ別れた方がいいよ」
 次の瞬間、百恵の平手が美幸の左頬を叩いていた。
 「ああ!ごめんなさいっ!」
 美幸は叩かれた頬をおさえて百恵を見つめた。しかしその瞳には、叩かれた事に対する反発の陰険さはなく、出合い難きものにでも出くわしたような、何年もかけて探し求めていたものを見つけた時のような、驚愕と歓喜が混在していた。兼ねてから家庭内虐待に苦しんでいた美幸は、いわば殴られることには慣れていた。彼女を殴る父武の平手は、恨みと憎しみに支配されているような、殴られた後の痛みにヒリヒリとした嫌悪感が残り、いつまでも痛みが癒えないのである。だから美幸は、それが“殴られる”という事だと信じていた。ところが百恵の平手打ちは、それに対して全く異質のものであったことは、殴られた左頬が即座に知らせてくれた。信じられなかったが、痛みがモアモアと温かい。美幸は“殴られる”にも、対極の二種類があることを初めて知った。
 「ほんとにごめんなさい!殴るつもりなかった───」
 百恵は美幸の左頬に右手を当てた。次の瞬間、美幸は思わず百恵に抱きついた。
 「お姉さん……、私、怖い───」
 「美幸ちゃん……」
 そのまま百恵は、美幸のか弱い小さな身体を包み込んだまま、何も言わずに時を数えた。
 「私ね、お父さんに何度も殴られた───」
 美幸は涙をボロボロ流しながら、今の心情をいっぺんに語り始めた。
 「頭……、顔……、お腹……、足……。お父さんはいつも私を力いっぱい殴るの。私が抵抗すると、いつもその何倍にもなって返ってきた。私、怖くて、怖くて、いつもお父さんの姿に怯えてた……。でもね、殴られた後、いつもお母さんが私をこうして抱きしめてくれるの───。“美幸、大丈夫よ”って……。お母さんの胸はとても温かくて、そして優しくて……、私は時間を忘れて、ずっとこうしてた───」
 百恵は「そう……、そう……」と言いながら、喘ぐ彼女の心を拒むことなく受け入れた。“あなたは浩幸さんの子ども……”何度も出かかったが、美幸や現在の両親の事を考えると、どうしても言えなかった。ただ、浩幸に成り代わって、彼女を抱きしめてあげる事が、今の百恵にできる全てであった。
 やがて美幸が小さな声で言った。
 「お母さんみたい…………」
 百恵は美幸が可愛くなって、ぎゅっとその身体を抱きしめた。

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