(十七)罪の影

 浩幸と百恵が丁度フランス料理の店にいた頃である。
 部屋で寝ころびながら、暇そうにゲームをしていた太一の携帯電話が鳴った。太一は相手の番号を確認すると、喜び勇んで電話に出た。
 「美幸?どうした?仕事終わったの?これから会おうか?美幸……?」
 「…………」
 「美幸、美幸じゃないのか?」
 太一は美幸であるはずの相手に何度も話しかけたが、受話器の向こうの人間は、無言のまま、何ひとつ話そうとはしなかった。
 「美幸……、どうした……?美幸!……、美幸じゃないのか!美幸!……」
 「太一………………」
 やがて相手はそう言ったきり、再び黙り込んだ。太一は「美幸!」を何度繰り返したか分からない。ようやく美幸も力のない声で「太一……、太一……」を数度繰り返したかと思うと、
 「私……、人殺した……」
 受話器の向こうですすり泣きの声が聞こえ始めた。
 「美幸!そこを動くな!今すぐ行くから!」
 太一は驚愕すると電話を切って家を飛び出し、自転車を飛ばした。美幸の居場所はおおよそ見当がついた。彼女の尋常でない声、その状態で自分に電話をくれた事、きっと何かの事件に巻き込まれ、たった一人すがる場所が自分のところであったとすれば、それは初めて出逢った場所に違いないと思ったのだ。案の定高校時代の帰り道に辿り着けば、路肩の段差に力無く座っている美幸の姿を見つけたのだった。
 「美幸───!」
 太一は自転車を抛り捨てると、そのまま美幸の肩を抱き上げた。放心状態の美幸は、やがてゆっくり太一の存在を確認すると、
 「太一……!」
 と言ったまま、その胸に顔をうずめて泣き出した。
 「どうしたの?美幸……、いったい何があった?」
 「私、怖い───」
 美幸はそれ以上の事は何も言わない。太一も何も聞けずに、自転車の荷台に彼女を座らせると、そのまま自転車を押して歩き始めた。そして、トボトボ歩きながら「家まで送ろうか?」と言った。
 「家はイヤ!」
 「じゃあどこへ行こう……」
 「…………」
 二人は行く宛もなく、彼女の家のある長野市方面とは反対方向へ向かって、そのまま夜通し歩き続けたのだった。

 翌朝、早番の百恵は、太一の靴と自転車がないのを見て、
 「あの子ったら朝帰り?困ったものね!」
 と呟きながら出勤した。
 その頃太一と美幸は、とある農家のビニールハウスの中で一夜を明かしていた。目覚めた太一は自分に寄りかかる美幸の肩を叩いて、「仕事は行かなくていい?」と聞いた。美幸は静かに目覚めると、「行かない……」と呟いた。
 「俺の家に来る?昼間は両親も姉貴も仕事でいないから……」
 美幸は小さく頷くと、二人はゆっくり須坂方面に向かって歩き出した。昨晩歩き通して、山之内町まで来てしまったらしい。二人が家に着いた頃は、家には誰もいない、丁度頃合いの良い時間帯だった。太一は美幸を家にあげると、自分の部屋に案内した。そして目に付いた無造作に散らかる女性グラビア雑誌やアダルトビデオを慌てて押入に隠すと、
 「何か食べようか?」
 と、キッチンから、食パンやら昨日のおかずの残りやら缶ジュースやらを、部屋に持ち込んで美幸に与えた。彼女はそれを食べ終えると、だいぶ落ち着いたようであった。
 「お風呂にも入りなよ。いま沸かすから……」
 太一はお湯を沸かして美幸をお風呂に案内した。そして「ゆっくり入ってきてかまわないから」と、脱衣室を出た。しかし、部屋に戻ってはみたものの、お風呂の美幸が気になって仕方がない。そのうちタオルがない事に気づいて、それを届けて、
 「美幸!タオル、ここに置いておくよ!」
 「ありがとう!」
 すりガラスの向こうに、シャワーの音と白い身体が動いていた。脇に目を移せば、美幸の下着が目に飛び込んできた。若い太一は込み上げる性欲を抑えつけながら、ようやく脱衣室を出たのだった。
 風呂上がりの美幸に太一は聞いた。
 「家の人は心配していない?」
 「いいの。もう家には帰りたくない……」
 「それじゃ、しばらくここに住む?姉貴が帰ってきたら相談してみるよ。きっと分かってくれるから」
 「でも……」
 「心配しなくても大丈夫だよ。俺がなんとか説き伏せるから」
 太一には昨日の彼女の言葉がずっと気になっていた。『私、人殺した───』、それと『怖い───』という。しかし、その事を聞き出す勇気もタイミングも見つからなかった。結局、日常会話で時間を埋めることしか思いつかず、やがて二人はゲームをやりだした。冒険物の、ヒーローがヒロインを救い出す内容のロールプレイングゲームで、敵を倒して二人が再会したシーンで、太一と美幸のコントローラを動かす手が止まった。二人は単調な繰り返しのBGMの中で、そっと口づけをした。そして太一はそのまま美幸を押し倒すと、彼女の胸を触り始めたのだった。美幸は拒む事もせず、太一の行為を受け入れた。それは二人にとって、ごく自然な成り行きだったに違いない。加えて言えば、美幸にとっては、罪悪の影に押しつぶされそうな心を、太一に抱かれる事で紛らわせることができると思った。拠り所のない孤独な心を、支えてくれるのは彼しかいなかったのだ。そして、太一に包まれることで、その全てを忘れたいと思った。
 やがてすべてが終わって、二人は何も話さず身体を寄せ合っているところへ、帰宅した百恵の軽自動車の音が聞こえてきた。
 「やばっ!姉貴が帰ってきた!」
 二人は慌てて衣服を着た。

 一方百恵は、先程の記者会見の事が気になって、太一の自転車と靴を見かけたものの、その隣りにあった女性用の靴には気づきもせず家に上がり込むと、まっすぐ部屋へと籠もってしまった。いつもなら、自分がいれば「ただいま」くらいの声をかけてくれる姉の様子を不審に思った太一は、美幸を見つめて首を傾げた。
 「ちょっと行って来る……」
 太一は美幸を置いて部屋を出た。
 百恵の部屋をノックして、出てきた姉の表情は、まるで試合に敗れたスポーツ選手のように、疲れ切っていた。
 「どうしたんだ?姉ちゃん……」
 「ごめん、誰とも話したくないの。一人にさせて……」
 部屋の戸を閉めようとしたところを、太一は足を隙間につっこんで遮った。
 「相談……、相談があるんだよ!」
 「ごめん、後にしてくれる……?」
 「それが今でなきゃダメなんだ!」
 「もう!なんなのよ!」
 百恵は泣きそうな顔で言った。太一は百恵の腕を引っ張ると、強引に自分の部屋へ連れ込んだ。鉢合わせした百恵と美幸は、しばらく何も言わないで見つめ合った。
 「み、美幸ちゃん……?」
 「おじゃましてます……」
 百恵は更に複雑な心境にとらわれた。浩幸の医療ミスの件で頭を悩ませていたかと思えば、今度は浩幸の娘が目の前にいるではないか。しかも彼女は浩幸が実の父親であることも、自分と浩幸が結婚することも知らないのである。太一の恋人であるとはいえ、どう接すればいいのか考えもつかなかったのだ。百恵は太一を居間に連れ込んだ。
 「太一!いったいどういうことよ!」
 「ちょっと事情があって、彼女、家に帰れないっていうんだ。しばらく家に泊めてほしいんだけど……。でも、俺の部屋に泊めるわけにいかないじゃない……、だから……」
 太一は両手を合わせて頼み込んだ。
 「なあに?私の部屋に泊めろっていうの?」
 「姉ちゃん、お願い!」
 「もう!そりゃかまわないけど……。仕事もここから通うつもり?」
 「まだ俺も詳しく事情を聞いていないんだけど、しばらく仕事も休むみたい……」
 「もう、どうすんのよ!」
 太一はひたすら頭を下げて頼み込んだ。やがて百恵も断りきれずに、弟の切なる頼みを承諾せざるを得なかった───。
 その晩美幸は、百恵のベッドに横になると、よほど疲れていたのか早くに小さな寝息を立て始めた。その美しい寝顔を見つめながら、百恵は無意識のうちに、彼女の頭に何度も手櫛を通して髪を整えていた。それは、母親が娘にしてあげる行為に相違なかった。
 「私が十歳の時の子どもか…………」
 そう呟くと、
 「ありえなーい!」
 百恵は美幸の顔の横に自分の顔を横たえると、そのまま眠りについた。

>> Home

セーブ・ザ・チルドレン 世界中の子どもたちを支援しています