(十六)医療ミス

 浩幸が容態が悪化したという入院患者の病室に到着したとき、西園と数人の看護スタッフがその男性患者の周りを取り囲んでいた。心電図を見れば、明らかに脈拍が乱れ、心拍数も低下している。
 「院長……」
 浩幸の到着に気づいた西園は、蒼白した顔で彼を見つめた。
 「急性の呼吸不全を起こしています。二時間ほど前には何の異常も見られなかったのですが、原因が全く分かりません……」
 「血液ガス分析は───?」
 「今、検査中です。一通りの処置はしましたが、回復しません。原因が不明なのです。これ以上対処のしようがありません!」
 西園が答えた。
 「ご家族への連絡は───?」
 「済んでいます!」
 そこにいた一人の看護士が言った。
 「二時間の間に、この患者にした処置は───?」
 「はい、痰の吸引と、点滴の交換です」
 別の看護士が言った。
 「第一発見者は───?」
 「私です。脈拍の異常を見つけ、すぐに西園先生に連絡をとりました」
 浩幸は周囲を見渡し、点滴に目をとめた。
 「直ちに点滴を交換しなさい!そして今している点滴の成分分析を急いで!」
 「はい!」
 「それから現在点滴中の患者のものと、薬剤室全ての点滴を再点検しなさい!」
 「はい!」
 「今日の点滴係は───?」
 「武田さんです」
 「すぐに彼を呼びなさい!」
 「はい!」
 「これより気管切開オペを行う!直ちに準備して!」
 矢継ぎ早に飛び交う浩幸の指示で、病室は大混乱になった。患者は直ちに手術室に運ばれ、緊急オペが始まった。
 しかし、時は既に遅かった───。あらゆる手段を尽くしたが、その患者は浩幸の目の前で死んでいったのだった。
 駆け付けた家族に浩幸は一言、「ご臨終です……」と言った。血糊の白衣を着たまま、院長室に辿り着くと、そのままソファに倒れるように座った。間もなく西園がやってきて、焦燥を隠せない様子で、
 「院長…………」
 と言った。
 「ご家族の対応をお願いします。分析結果が出次第、僕もそちらに行きます……」
 浩幸は疲れ切ったように天井を仰いだ。
 しばらくすると、点滴の成分分析を終えた看護スタッフが、血相を変えて飛び込んできた。
 「院長!たいへんです!点滴の中に筋弛緩剤が大量に含まれていました!」
 「なんだって!」
 浩幸は分析結果の記された記録紙を見ると、
 「いったいどういう事だ……?」
 とつぶやいた。そこへ到着したのが、今日の点滴係の武田だった。眠そうな目をこすりながら、「院長、こんな夜中に呼びつけて、何の用ですか?」と、不機嫌そうに言った。
 「これを見たまえ」
 武田は分析結果を欠伸をしながら眺めると、突然目を見開いて、
 「な、なんですか?これは……!?」
 と叫んだ。
 「身に覚えがないようですね。この点滴が一〇二号室の患者さんに付けられていました」
 「ええっ!」
 武田はそう叫んだまま、言葉を失ってしまった。
 と、突然、検査結果を持ってきた看護スタッフが大声で泣き始めた。
 「私がいけないんです!今日、盛田さんの点滴の交換をしたのは私なんです!私がちゃんと調べてやれば、こんな事にはならなかったんです!」
 「いや、あなたのせいではありませんよ。あなたは看護士として当然の役目を果たしている……。そんな事より、武田君が帰ってから点滴の交換が行われるまでの間に、何者かが筋弛緩剤を注入したとしか考えられない……。薬剤室に入れるのは山口薬局の職員と看護士、それに医師だけです。いったい誰が……?」
 浩幸の頭はめまぐるしく回転していた。
 「院長、西園先生がお呼びです」
 別の看護士が呼びに来た。
 「今、行きます」
 浩幸は看護記録と分析結果をひとまとめにすると、院長室を後にした。

 亡くなった患者の妻は泣き、その娘は悲愴な顔付きで俯いていた。
 「最善を尽くしましたが、私の力不足で……。お詫びの言葉も見つかりません……」
 浩幸はしばらく頭を下げたまま動かなかった。
 「先生、頭を上げて下さい。いずれ主人が死ぬことは、覚悟していましたから……」
 妻は涙を拭きながらそう言った。
 「実を申しますと、娘とずっと話していたんです。このまま植物状態の主人を生かしておくことが本当に良い事なのかって……。でも、先程の先生の“ご臨終です”って言葉を聞いたとき、なんだか胸の奥につかえていたものが、急にふっきれたような気がしたのです。あの主人の寿命をここまで延ばしてくれて、逆に感謝をしなければいけません……」
 妻は再び泣き出した。
 「先生、直接の死因は何なのですか?」
 娘が言った。浩幸は少し考えた後、
 「急性呼吸不全です……」
 と答えた。しかし、その原因となった点滴の事はどうしても言えなかった。娘もそれ以上の事は聞かなかった。
 やがてその母娘は、主人の亡骸に手を合わせてから、肩を落として帰って行った。
 二人を見送った浩幸と西園は、しばらくは院長室で無言の時間を過ごしたが、点滴の成分分析を見た西園が声をあげた。
 「これはいったい……!?」
 「何者かが点滴の中に注入したとしか考えられないのです」
 「えらいことになりましたな……。マスコミにでも知れたら大事です。幸い遺族の方は穏便におさまっているようですし、このまま伏せておくのが良いでしょう」
 「先程、あの娘さんに死因を聞かれた時に、僕は事実を言えなかった。正直言って、この医院の事や、コスモス園統合の事が頭をよぎって、どうしても言えなかったのです。でも、それはいけない事だ……。これは全て僕の管理不行き届きです。遺族の方には事実を伝え、正式に謝罪しましょう。この責任は全て僕がとる」
 「院長、でも、それでは!……今までやってきた事が水疱に期します!お留まりください!」
 「西園さん、僕は今まで淡々と仕事をやってきましたが、何も人道をはずしてまで医者をやろうなんて思っていないんですよ。もし、僕が万が一の事になったら、この医院の事は、全てあなたに任せます。そもそもこの医院は、あなたと、僕の父が作り上げてきたものじゃないですか」
 「院長…………」
 西園は目に涙を溜めてつぶやいた。
 「あなたやっぱり“赤ひげ”だ…………」
 西園の言葉に、浩幸は小さく微笑んだ。
 「私は院長のそこに惚れたんです。分かりました。何も院長が責任を取るには及びません。私が全てやりました。記者会見を開いてその全てを告白いたします」
 「それはいけない!父が悲しむ……」
 「先代の忘れ形見をお守りするのが私の使命です」
 「僕はこの医院の院長だ!これは命令です!僕の命令に従いなさい!」
 西園は奥歯をかみしめて浩幸を見つめた。
 「そんな事よりいったい誰がこんな事をしたかだ。一刻も早く犯人を見つけ出さないと。再発は絶対に許されません───」
 ところが翌日、山口脳神経外科の周囲には、既に多くの報道陣が群がりはじめていた。院長室からその光景を眺めていた浩幸は目を細めた。
 「一体、どこから漏れたのだ───?」
 「院長!マスコミの方が院長を出せってきかないんです!」
 看護士長が息せき切って院長室に入るなりそう言った。
 「これでは収拾がつきませんね。分かりました。三時に記者会見を開きますので、時間を伝えてそれまでお引き取り願って下さい。診療時間中は患者さんの迷惑になりますからと!」
 「はい!」と、看護士長は再び出て行った。そこへ診察中のはずの西園が、大きな身体から汗を流して駆け込んできた。
 「院長!林美幸君が出勤しておりません!」
 一瞬は「まさか!」と思ったが、次の瞬間脳裏には、今までの美幸の言動や、美津子の言葉が走馬灯のように去来した。
 「まさか、彼女の仕業では……」
 西園の言葉に、精一杯の平常心を装いながら浩幸は、「分かりました。仕事に戻りなさい」と言っただけだった。

 早番で、三時前には仕事を終えた百恵は、何やら騒然としている山口医院の前で車を止めて、焦燥を隠せない様子で医院内へ駆け込んだ。すると、既に記者会見が始まろうとする会場では、会見席の中央に浩幸が座り、その両脇に西園と伝田の二人の医師が座していた。
 「三時になりましたので質問をさせていただきますが、まず今回の事件の経緯を聞かせて下さい!」
 報道陣らしき群衆の中の誰かが口火を切った。次の瞬間、百恵の意識が遠のくと、頭の中が真っ白になった。
 「私の方から申し上げます」
 西園が、事件の経緯説明を始めた。
 「昨晩十時四十三分、入院中の植物状態の患者が突然急性呼吸不全を引き起こし、応急処置を施しましたが回復が見られず、やむなく十一時三十分、急遽、気管切開の執刀を行いましたが、執刀中に死亡いたしました」
 「執刀はどなたが行ったんですか?」
 「私です」
 浩幸が言った。
 「情報によりますと、点滴の中に筋弛緩剤が混入されていた疑いがあるとの事ですが、その事実関係をご説明下さい」
 「どこからの情報ですか?」
 西園が息を荒立てて言った。
 「これは記者会見です。情報の出所が問題ではなく、事実かどうかが問題です!質問にお答え下さい」
 「事実です───」
 浩幸の言葉に会場が騒然とした。
 「ご指摘のとおり、死亡された患者さんの点滴に筋弛緩剤が混入されていました」
 浩幸の淡々とした言葉に、報道陣の質問の雨が激しく降り続いた。
 「それは医療ミスであるということを認める発言ですか?」
 「なぜ点滴の中に毒物が混入していたのですか?」
 「患者は植物状態であったといいますが、安楽死と関係があるのですか?」
 「点滴の調合の作業工程はどうなっていますか?」
 「これが医療ミスであった場合、あなたはどう責任をとるおつもりですか?」
 「コスモス園との統合における影響は?」
 その矢のような質問責めに、百恵はまるで自分に降りかかっているような錯覚に陥り、やがて膝を落として倒れ込んだ。それに気づいた浩幸は、「人が倒れました。少しお待ち下さい」
と言って立ち上がると、ツカツカと百恵のところに歩み寄り、その細い身体を抱きかかえた。
 「どうしてここへ……?」
 「先生……、先生……、浩幸さん……」
 「とりあえず病室で休みましょう。僕も貴方には惨めな姿を見せたくない。なあに、心配はいりませんよ。僕には百恵さん、貴方がいます───」
 浩幸は、そのまま百恵を負ぶって病室へ向かった。

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