五月五日は百恵の誕生日である。端午の節句であるこの日、男の子として産まれるはずの百恵は、オチンチンをどこかに忘れてきた。男の名前しか考えていなかった馬場家の大人達は、苦し紛れに浮かんだ“モモエ”という名をその子に付けた。以来、“ババモモエ”という、女の子には似つかわしくない自分の名前にコンプレックスを持ちながら、今までずっと生きてきた───。
人に話せば必ずうけるその話が、浩幸の前ではまるでちぐはぐなつまらない話に終わった。高尚な歌曲が流れる店内、食べ慣れないフランス料理を前に、百恵はその話をする自分がとてもバカバカしく思え、途中まで話すと、
「ところで先生のお誕生日はいつですか?」
と聞いた。
「僕は七月七日です。七夕の日……。なんだか誕生日まで似ているので驚いているんです」
───その日、百恵の誕生日と知った浩幸は、早番の百恵にそっと声をかけたのだった。
「馬場さん、お誕生日おめでとう。今晩、もし、よろしければ、食事にでも行きませんか?僕からのささやかな誕生日プレゼントです」
誘われた百恵は一も二もなく「はい!」と返事をしたのだ───。
こうして入った長野市内のホテル内にあるフランス料理の店であったが、いざ二人だけの空間ができあがると、歌曲が流れる高尚な雰囲気も助けて、なかなか話す言葉も見つからなかったのである。ただ、フォークとナイフが皿に当たる音だけが響いて、その度に二人は照れながら食事を進めたのであった。
「やっぱりこんな緊張する店はやめればよかったですね。僕もどうも苦手だ。貴方に素敵な夜の思い出をプレゼントをしようと思ったのですが、僕のミステイクでした……」
浩幸は照れながら言った。
「いいえ……。とっても嬉しいの。私、今日こうして先生と緊張して食べたフランス料理の事、多分、一生忘れません。ありがとう……」
百恵の言葉に浩幸は微笑んだ。
「この食事が済んだら、パブにでも行きましょう。雰囲気を変えて、飲み直しです」
百恵は嬉しそうに「はい!」と答えた。
「私、先生の事、知っているようで、実は何にも知らないんですね……」
パブに場所を変えた二人は、カウンター席に座ってグラスを傾けた。そしてウーロン茶を飲みながら百恵がそう言った。浩幸はウイスキーを含みながら静かに笑った。
「それは僕も同じです。貴方の名前が馬場百恵という他は、誕生日が今日五月五日で、優れた介護スタッフで……、それ以外は何も知りません……。それなのに僕たちは結婚をしようとしているんですよ?信じられますか?」
浩幸はおかしそうに笑った。
「もっと先生の事を教えてください。好きな食べ物は何ですか?好きな色は何ですか?好きな花は何ですか?好きな歌は何ですか?」
「そんな一度に聞かれても答えられませんよ。いいじゃないですか、少しずつお互いを知っていけば。そんな事より、僕は貴方の事の方が心配なんです。結婚なんてものは変な話、役所に婚姻届けを出しさえすれば成立する。しかし、実際の生活はそういう訳にはいかないし、法律的な束縛も発生してきます。貴方が僕と結婚することが、本当に幸せなのかどうか、僕はそれが気掛かりで仕方がないんです。大樹のこともあるし、美幸のこともある……。本当に僕でいいのですか?」
「私、本当に全然平気なんです。浩幸さんさえいれば、他に望むものなんてありません」
百恵は浩幸の事をはじめて“浩幸さん”と呼んだ。その感覚は妙に甘酸っぱくて、彼女の下半身の極部を熱くしていた。
「美幸の方はともかくとして、大樹とは一緒に生活することになります。もし、仮に大樹が貴方のことを嫌いだと言っても、貴方は大樹の母親になってくれますか?」
百恵は浩幸を見つめて頷いた。
「仮に僕と貴方の間に子どもができたとして、貴方は実の子でない大樹を、自分の子どもと全く平等に育てられますか?」
再び百恵は頷いた。
「すみません。いじわるな質問ばかりして……。でも、大樹は僕の命なんです。それだけは分かって下さい」
「知っているつもりです。コンビニに来ていた先生の、大樹君を見つめる表情はとても温かかった。私もその温かさに包まれたいと思ってました。でもこれからは、先生を見つめるのと同じ目で、大樹君を見つめようと思います。私、できるような気がするんです」
浩幸は何も言わずに煙草を一本取り出すと、その先端に火をつけた。
「近いうちに、貴方のご両親にもご挨拶に伺わなければいけませんね」
浩幸の口から一筋の白い煙が吐き出されると、百恵は恥ずかしそうに俯いた。
「なんだか夢のよう……。私、本当に先生と結婚するのかしら……?」
「おやおや、今更心変わりは困りますよ。僕の心を奪っておいて……。それより式はどうしましょうか?僕は三度目ですから、出来ることなら控えたいと思っているのですが、貴方は初婚です。そういうわけにもいかないでしょう?」
「形式なんか、あまり重要ではないと思ってますから、全て先生の意向にお任せします」
「そういうわけにもいきませんよ。特に貴方のご両親は、一人娘の花嫁姿をどれほど楽しみにしていることか……。それに新婚旅行にも行きましょう。どこがいいですか?」
「あまりお金のかからない近間でいいです」
「まさか高山温泉というわけにはいかないでしょう!」
浩幸は煙草をもみ消しながら大笑いした。
「フランスなんかいかがですか?パリに一週間くらい滞在して、ルーブル美術館通いなんていいと思いませんか?それとも絵は嫌いですか?」
「こう見えて私、大学時代は絵画サークルで、絵の勉強をやったんですよ!」
「ほう……?誰の絵が好きなんですか?ゴッホでしょ。でなければモネかセザンヌだ」
百恵は驚いた表情で浩幸を見つめると、「どうして知ってるんですか?」と声をあげた。
「なんとも貴方らしいじゃないですか。気狂いのような色使いをしたかと思えば、とても繊細で、感じたものを感じたままに表現する印象派。百恵さんにそっくりです」
「なんだか誉められているんだか、けなされているんだか分かりませんね」
「誉めているんですよ!だって、僕はそんな貴方が好きなんですから」
百恵はすっかり二人だけの世界に酔いしれて、
「先生……、私も少し、お酒をもらっていいですか?」
と言うと、浩幸のグラスを手に取り、彼の唇の当たっていたところに自分のそれを重ねて、ほんの少し口に含んだ。そして、含んだ途端に咳き込んだ。
「ほらほら、無理をしないで。酔っぱらって、今日の大事な話の内容を忘れたらどうするのですか?」
百恵は「ごめんなさい」と言った。
「ところで式の話の続きですが、時期はいつ頃にしましょうか?」
「今年はコスモス園との統合で先生もお忙しいでしょ?それが終わって落ち着いてからでもいいんじゃないですか?」
「よかった。今年中なんて言われたらどうしようかと思ってました。それじゃ、来年の今頃、そうだ、貴方と僕の誕生日の中間をとって、六月六日というのはいかがですか?」
「なんか、UFOが飛んできそうですね……」
「???……」
「“ドラえもん”の絵描き唄です。大樹君が三歳の時にビデオ借りて一緒に見ていたんじゃないんですか?浩幸さんは黒澤明作品。私、大樹君から聞いて、全部知ってるんです!」
浩幸は笑い出した。
「それで百恵さんは、その黒澤作品を全部見ていたりして……」
図星であった。百恵は顔を真っ赤にしてウーロン茶を飲み干した。
「それじゃちょうど都合がよかった。結婚式が終了したら、そのままそのUFOに乗って、宇宙旅行とでもしゃれ込みましょう!」
百恵は浩幸の素顔を始めて見ていた。それは、院長としての気取りもない、施設統合の立て役者としての高邁さもない、初めてコンビニで出逢った時の素朴で温かそうな人柄と同じであった。百恵は、本当にこの人のお嫁さんになるのかと思うと、無性に嬉しくなって涙が込み上げた。
「先生、手を握っていいですか……?」
百恵は精一杯の勇気をしぼってそう言った。浩幸は照れたように「どうぞ……」と言った。そして二人は掌を重ね合わせると、互い違いに指をはさんで強く握り合った。
暫くは、掌を通して、無言のままお互いの体温を感じ合っていると、やがて浩幸の携帯電話が鳴った。
「失礼……」
浩幸はそう言うと、手を離して電話に出た。
「ああ、西園さん。こんな時間にどうしました?」
そう言った浩幸の表情が、次の瞬間、みるみる曇っていくのが見てとれた。電話を切った浩幸は、慌てて席を立った。
「どうしたのですか?」
百恵が言った。
「すみません。こんな事をしている場合ではなくなりました。入院患者さんの容態が急変したそうです。すぐに戻りましょう!」
浩幸は血相を変えて店を飛び出した。