(十四)悶々とした日々

 美幸の心は晴れなかった。
 このところ仕事が終わって家に帰れば、医院の様子を執拗に聞き出す母美津子の態度に不審を感じていたのだ。入院患者は何人いて、そのうち植物状態の患者はいるのかとか、その患者達の治療法はどうなのか、あるいは点滴の薬品は何を使っているのかなど、およそ一般的には知り得ない情報を事細かに質問するのである。
 「お母さんも昔、薬剤師をやっていたからとても興味があるの」
 とは立て前で、その本心が別のところにあることは美幸も薄々勘づき始めていた。
 「お母さん、あの院長と昔、何があったの?」
 たまりかねてそう聞いたとき、美津子は豹変した。
 「あんなひどいこと、あなたにも言えない!今、生きているのも不思議なくらいよ!お願いだから、あんなひどいことを思い出させてお母さんを苦しめないで!お母さんはあなただけが希望なのよ……。だから、あなたはお母さんの言う通りにしてくれるだけでいいの」
 美津子は涙を流しながら美幸を抱きしめた。
 「そうだぞ、美幸。あの院長は悪魔だ。巷の評判を聞いても分かるだろう。昔、母さんは、あの院長に殺されかけた。おまえはその復讐のためにあの医者に行った事を忘れるな!」
 武が話に割り込んできてそう言った。
 「復讐って、私に何をしろと言うのよ!」
 美幸の言葉に、はじけるようにピンタが飛んだ。
 「殴らないでよ!」
 「いちいち口答えするな!」
 「あなた、やめてよ。美幸が可哀想よ……」
 美津子は再び美幸を抱きしめた。
 「美幸、よく聞いて。あの院長は医者の仮面をかぶった鬼なの。あの人のせいで人生をめちゃくちゃにされた人は母さんや父さんだけじゃない。五万といるの!そして、その不幸な人達の姿を、私や父さんはいやと言うほど見せつけられてきたの。あの人に対する復讐は正義なのよ!それを忘れないで……」
 「お母さん……」
 「時間がないんだ。正義のために、父さんと母さんと一緒に戦ってくれるな?」
 極端に優しい口調の武に、美幸は頷いた。美津子は更に強く美幸を抱きしめた。そして、
 「美幸、よく聞いて。あの先生に医療ミスをさせるの」
 と、その謀略を話し始めたのだった。
 点滴に筋弛緩剤を混入させることが、美幸にできそうな最も容易な手段と考えた美津子と武は、点滴係が帰った隙に、植物状態の患者用の点滴に、それを混入させることを命じた。筋弛緩剤とは筋肉の動きを弱める薬で、投与すると呼吸不全を引き起こし、死に至らしめる日本では毒薬に指定されているものである。「あなたのやる事はそれだけよ」と、美津子はまるで呼吸をするくらい自然に言った。
 「後は知らぬ顔をして、いつものように仕事をしていればいいの」
 「お母さん、でも、それって……」
 美幸は蒼白になった。
 「なにも明日しろなんて言わないわ。母さんの屈辱を理解してくれた時で……」
 「でも、できるだけ早くにな」と武が言葉を次いだ。
 「なあに、心配はいらん。死ぬといったって、余命わずかな植物人間だ。安楽死という考え方もある。それに点滴ができる看護士は知識、技術、経験等が備わっている能力ある者にしかできないはずだから、お前みたいなヒヨコにはできない。筋弛緩剤を入れた後は、知らぬ存ぜぬを通すだけだ。万が一ばれたって、お前は法律上未成年者だ。母さんや父さんが今言った画策さえ黙っていれば、情状酌量で法の裁きも軽くて済む。そんな事より、何人もの人間を苦しめてきた奴が裁かれる事の方が重要なのだよ。分かってくれるね」
 しかし美津子には分かっていた。仮に美幸の所行が露顕したにせよ、浩幸は彼女をかばうことを。だからこれほどまでに危険な計画を実の娘に託せたのである。
 美幸の苦悩の日々は続いた───。

 一方、太一は高校を卒業すると、受験した大学にことごとく失敗して、四月からは浪人生を謳歌していた。もっとも美幸にうつつを抜かせて、ろくに勉強もしなかったから当然の報いとは本人が一番知っていることで、百恵に言わせれば「浪人は馬場家の宿業」と、極めて楽観的な捉え方をしていた。一方、看護士として働き出した美幸は交代番などで忙しくなったが、彼女の時間に合わせた生活をしていた太一に、不自由は感じなかった。美幸の空いた時間に合わせて、昼となく、夜となく、デートを重ねていたのである。
 ところが四月も半ばを過ぎた頃から、太一は美幸の変化を感じていた。とあるファミリーレストランで食事をしながら、
 「どうしたの?最近元気がないように見えるけど、何かあった?」
 と聞いた。美幸は注文のトーストを半分だけ食べて手を置くと、
 「ねえ、太一のお姉さん、うちの院長と恋人同士?」
 と、神妙な顔付きで言った。
 「さあ……?でも以前付き合っていた人とも別れたって言ってたし、それに最近妙に嬉しそうなんだ。もしかしたら、そういうこともあるかもね。でも、どうして?」
 太一はコーラを飲みながら不思議そうに言った。
 「私、太一のお姉さん、あの院長とは別れた方がいいと思うのよ。とっても評判が悪い先生だし、昔は悪い事をたくさんやっていたんだって」
 「信じられないな。姉貴の話を聞いている限りでは、優しくて、かなりやり手の先生だっていう印象しかないけど……」
 「騙されているんだと思う。早く別れさせてあげた方が絶対いい。太一のお姉さんが不幸になったら、太一も悲しいでしょ?」
 「そりゃ、たった一人の姉貴だからね。俺にとっては母親みたいなところもあるんだ」
 「それじゃ、なおさら……。私、太一の悲しむ顔も見たくないんだよ……」
 美幸は辛そうな表情で俯いた。太一は一笑に伏すと、
 「大丈夫だよ!姉貴だって馬鹿じゃないし、でも、もしあの院長先生の事が好きなら、好きな人と一緒になった方が姉貴にとっても幸せに違いないよ……。でも、美幸が何故そんな心配をするの……?」
 美幸はどぎまぎしながら、「なんでもない……」と呟いた───。
 その次に二人が会ったのは、五日後の同じファミレスであった。美幸の表情は一段と暗く、太一の言葉も半分上の空で聞いている様子だった。
 「ねえ、どうしたのさ?何か悩みがあるなら何でも話してよ」
 美幸は何も答えず、精一杯の笑顔を作るだけだった。やがて、
 「ねえ、太一……」
 思い詰めた声はかすれていた。
 「もし……、もしもよ……、もし、私が犯罪を犯したとしても……、太一は、私のこと、好きでいてくれる?……」
 美幸は、窓の外に見える変わりゆく信号機の色を見つめながらそう言った。太一はドキリとしながら、その悲愴な表情を見つめた。
 「どうしたのさ?いったい何をしようとしているの?」
 美幸は何も答えなかった。しかし太一はその答えを追求することはせず、やがて一笑すると、
 「当たり前じゃないか。月並みな言葉だけど、世界中の人間が敵になろうとも、俺は美幸の味方だよ」
 と答えた。美幸は信号機から太一に視線を移すと、とても小さな声で「ありがとう……」と言った。そして、
 「なに神妙になってんのよ!私が犯罪犯すわけないじゃない!」
 と、無邪気に目の前のポテトを頬ばり始めたのだった。
 しかし二人はその後、あの悪夢の事件が起こるまで、会うことはなかった。

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