季節はずれの雪が降った。
もう四月も近いというのに、その朝といったら大寒を思わせる寒さで、目が覚めて庭を眺めたら数センチほどの雪が積もっていた。今日は休みの百恵は、部屋からじっとその光景を見つめていると、昔庭で、おばあちゃんと雪だるまを作ったり、雪合戦をしたりした光景が思い出された。やがて、今年の冬は忙しさにかまけて雪を一度も触っていない事を思い出すと、もう今年は見納めなければならない冬の精たちが急に恋しくなって、ジャンバーを羽織るとおもむろに外へ飛び出したのだった。
出勤や登校時間にはまだだいぶ早い町中は閑散とし、白一色の寒気に張りつめた空気は、世の中の嫌な出来事全てをも氷らせているように感じた。百恵は目的もなくぶらぶらと、時に木や塀に積もった雪を取って固めて遊びながら、気づけばがりょう公園にたどりついた。「やったあ、一番乗り!」と思いきや、入口から池のほとりに、まだ誰も踏みつけられていないはずのまっさらな雪の上に、人の歩いた足跡がのびていた。
「なんだ、私が最初だと思ったのに……」
百恵はそう思うと、前に歩いた人の足跡に、自分の足跡を重ね合わせて歩きながら、それでも小さな満足感に浸っていた。足跡の大きさと歩幅から、すぐに男性のものであることは知れたが、途中までくると、自分より先に訪れた征服者の歩調に合わせる自分がバカバカしく思えて立ち止まった。
「こんな朝早くに、物好きな人もいたものね!」
しかし、足跡の延びる先を見れば、なにやらがりょう山に登っているではないか。百恵は「まさか?」と思いながら、再びその歩幅に合わせて歩き出した。
足跡は須田城址へとのびていた。百恵はしっかり前の人の歩幅を身体で覚えながら、足を滑らせているようなところは自分も滑らせ、肩で息をしながら忠実にその足跡を追った。人の歩幅に合わせて歩く事がこれほど疲れるとは初めて知ったが、それでもこの足跡があの人のものであると堅く信じて歩く心の中には大きな喜びがあった。吐く息は白く、手袋の中の手は氷のように冷たかったが、歩き通しの身体は暑い程だった。たまに立ち止まっては、途中のねじれ松や根上がり松を眺め、風によって舞い落ちる細かい雪の粉は、昇りはじめた日の光に答えてキラキラと輝いていた。なぜか知らないが、自分の前には浩幸が歩いている感覚があった。おそらく以前に彼と登った光景を、身体が覚えていたに相違ない。やがてその足跡が、浩幸のものであると確信したのは、あの日と同じ風が吹いたのを感じたからだ。百恵は山の頂に吸い込まれるように進んで行った。
ようやく頂上に辿り着いた百恵は、据え付けのベンチに座る男の姿を発見したのだった。
「やっぱり───!」
煙草をふかす浩幸は、突然姿を現した百恵を驚いた表情でじっと見つめ返した。暫くは無言の時間を過ごしたが、やがて浩幸は、
「ば、馬場さんじゃないですか?ど、どうして……」
と驚いた口調で言った。
「足跡を追っているうちに、先生じゃないかなって思ってました」
浩幸はベンチの雪をはらうとハンカチを広げ、隣りに手招きした。百恵は微笑み返すと、そこに静かに座った。
「こんなに朝早く、しかもこんな所で……、おかしな先生……」
百恵が言った。
「そういう馬場さんこそ、こんな時間に、こんな所へ何をしに?変な女性だ……」
二人は顔を見合わせて微笑んだ。
「何を考えていらっしゃったんですか?」
百恵が聞いた。東から差し込む太陽が、冷たい寒気を徐々に和らげていた。
「さあ……。何だと思いますか?」
「きっと、お仕事の事だと思います」
「違いますね……」
「それじゃあ、この間の報道の事?」
「違います……」
そうして二人はいくつかの問答を繰り返しているうち、やがて浩幸は黙り込んだ。
「先生、分かりません。教えて下さいよ……」
すると浩幸は切なそうな表情で、百恵をじっと見つめた。それは、大樹に対する顔でもない、ましてや仕事の時に見せる顔でもない、今までに見せた事のない百恵に対して初めて作る顔に相違なかった。百恵はその表情に吸い込まれるような感触を覚えながら、次の瞬間、信じ難い彼の言葉を聞いたのだった。
「貴方の事ですよ───」
百恵は言葉を失って浩幸を見つめ返した。信じ難い言葉を受け入れた時、百恵の瞳が潤むと、キラキラと輝く宝石のような雫が頬を伝った。二人は暫く無言のままでいたが、やがてゆっくり唇が近づき合うと、静かに触れ合った。
あまりに静寂な空間だった。遠くの百々川のせせらぎ、松の間を吹き抜けるそよ風、いや、耳をすませば雪の溶ける音さえ聞こえてくるようだった。百恵は生まれて以来体験したことのない激しい動悸に襲われていた。それは浩幸も同じだった。二人はお互いの心臓の音を確かめ合いながら、長い時間、離れようとはしなかった。
突然鳥が羽ばたいた音を合図に、やがて、浩幸の方から唇を離すと静かに立ち上がった。
「この間の晩、馬場さんの婚約者と名乗る男性が僕のところに来ました」
「えっ?新津君が……?そ、それで?」
「そうそう、新津俊介君と言いましたね。貴方を返せと殴られました」
「…………、ごめんなさい。私のせい……」
「いや。僕はあの時、貴方を僕のものにしたいという欲望にとらわれていました。いわば彼のおかげで、僕は貴方の事を愛していることに初めて気がついたのです」
浩幸は遠くを見つめながら、小さな声で唄を歌い始めた。それはオペラ風の曲調で、明らかに日本の曲ではなかった。
「その曲……。私も知ってる……」
百恵の言葉に、浩幸は驚いた様子で振り向いた。
「フランスの歌曲ですよ。こんなマイナーな曲をどうして?」
「コスモス園にその曲を歌うおじいちゃんがいて、私、とっても気に入って、教えてもらったんです」
「三井隆徳さんですか?」
百恵は頷いた。
「なーんだ、僕と同じだ。僕もとても気に入って、いろいろ聞こうとしたんですけど、彼はアルツハイマーだから何も覚えていない。調べるのに随分苦労しました。大学時代フランス語を少しかじりましたので、フランスの唄であることまでは分かったのですが、それからが大変でした……」
「フランスの曲だったのですね」
「ヴィクトル=ユゴーの詩で、ラロという作曲家の唄でした」
そう言うと、浩幸は再び遠くを見つめて原語で歌い出すと、何小節目ほどからは、百恵も一緒に口ずさみはじめた。
Puisqu'ici-bas toute ame Recois mes voeux sans nombre, Je te donne a cette heure, Mon esprit qui sans voile Recois donc ma pensee, Mes transports pleins d'ivresses, |
そこでは生命の旋律が 数え切れない愛の約束を 今、貴方に捧げます 包むものもないこの心は 僕の想いを受け取ってください ただひとつの疑いもない |
二人が歌い終わると、暫くの余韻を残して百恵が聞いた。
「いい曲ですね。いったいどういう意味なんですか?」
「それは……」
浩幸は言葉を止めると、やがて、
「秘密です……」
と呟いた。そして、百恵と向き合いに立つと、厳かに左手の黒い手袋をはずした。見れば薬指にビーズの指輪がはめてある。それに気づいた百恵は、自分も左手の白い手袋をはずして見せると、同じく薬指にはめてあった同じ指輪を見せた。
「これも偶然?」
百恵が言った。浩幸は苦笑した。
「ずいぶんと待たせてしまいましたね。心変わりはありませんか?」
浩幸が言った。そして左手の指輪をもう一度百恵に見せると、
「これが二十年前の僕の答えです。こんな僕でよろしければですがね……」
と言ったまま、恥ずかしそうに背を向けた。百恵はその背中にすり寄って顔をうずめた。
下界は出勤ラッシュの車や学生達が慌ただしく動きだしたところ───。二人はいつまでも動かずにいた。