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25.屁
幕末小説 『梅と菖蒲』
 さて、福岡の平尾山荘で、本当に高杉晋作と西郷隆盛が面会したかというと、決定的な証拠はないようである。ただその根拠としては、当時平尾山荘に給仕としていた清子が後年語ったとされる言葉の中に、『今から思うと西郷さんらしい人が訪ねて来られての密談の時に限って尼は妾を遠ざけられたことがある。この人が多分西郷さんで、その時が薩長連合の成立した時ではないかと思う』とあることだ。ただしこれは正史としては扱われておらず、“西郷さんらしい”という言い回しは信憑性にも欠ける。一説には明治以降に作られた贋作だと言う者もいるが、別のところを調べれば、中岡慎太郎の記録の中に、元治元年の十二月十四日に「大坂屋にて西郷、高杉と面談」とある。大坂屋というのは下関の稲荷町にあった大きな料亭で、晋作と卯乃が出会った堺屋のすぐ近くだ。また、元治元年十二月といえば晋作が望東尼の草庵にいるときから約一ヶ月後のことで、こちらの方はかなり信憑性が高い。
 薩長同盟といえば真っ先に頭に浮かんで来るのは坂本龍馬の名であるが、実は彼や中岡慎太郎が本格的に動き出す以前から、勝海舟や九州諸藩の中で、薩摩と長州を結ばせようとする動きがあったことはこの小説でも述べてきた。これが現実であろう。今日のように龍馬が一世を風靡するほどの人気を得たのは、かの司馬遼太郎氏の玉筆によるところが大きいと筆者は考える。例えば薩長同盟の過程における龍馬の功績を抜いて考えたとき、当時長州と薩摩を和解に導こうとした場合、当然、両藩の誰と誰を引き合わせるかという話になる。薩摩の方は西郷隆盛でも大久保利通でも小松清廉でもよいが、長州の方には高杉晋作しかいない。桂小五郎はこの時期どこにいるか分からないからである。そうなると、高杉晋作と西郷隆盛が会っていないと断言することにも首を傾げたくなり、あるいは晋作が九州に渡ったのは逃亡のためではなく、西郷と会うためではなかったかという勝手な想像にまで至ってしまうのだ。そこで、筆者は空想家であるので、この小説では対面したことにして話を進めることにする。

 すっかり夜の帳に包まれ、冷たい空気が屋内に流れ込んで来た頃、西郷吉之助は月形洗蔵と中村円太に連れられて、いそいそと望東尼の草庵にやってきた。西郷は二人の薩摩藩士を伴って、月形も円太も周囲を気にしてきょろきょろしているものだから、いかにもこれから密談を画策しようという怪しげな光景だった。もちろん隠密であるが、西郷の大きな体格は、暗闇の中でもよく見えた。
 玄関に一行を迎えた望東尼は、ひとつ丁重に挨拶すると、
 「高杉様がお待ちかねです」
 中に五人を招き入れた。当の晋作は別に待ちかねていない。望東尼に説得されて、仕方なく面会することにしたのだ。中では清子が食事の用意をして待っていた。
 もともと隠居用に作られた建物である。玄関を入って狭い板の間の他は、二畳の狭い部屋がふたつと中央に六畳の座敷、あとは望東尼が寝室に使っていた三畳だけの間取りである。中に入れられた西郷一行は一番広い六畳の座敷に案内されると、やがて上座の中央に置かれた座布団の上に、西郷は荒い息で呼吸しながらのっそりと正座して座った。そしてその両脇に従えてきた二人の薩摩藩士を座らせ、それを見計らってすかさず清子が三人の前にお茶を運んだ。六畳程度の部屋は、西郷一人が座っただけでひどい圧迫感があった。
 「まったく狭いところで申し訳ございませんのお」と円太が苦笑いすると、薩摩藩士の一人が「いえいえ、おかまいなく」と言った。西郷の側近に違いない。
 「高杉様は……?」
 月形が望東尼に小声で聞いた。こわばった表情は、前代未聞の大会見であることを物語っていた。話の動向によっては、歴史的な大事件になるはずなのだ。
 「隣のお部屋にいらっしゃいます。いまお呼びいたしましょう」
 望東尼はその重さに耐えかねて震えていた。
 「先生、お体が震えておいでです。もう少し落ち着いてくださいな」
 門弟の清子が他人事のように笑う。
 「あなたは気楽でいいわね」
 と、望東尼は愛想笑いで清子のお尻をポンと叩くと、やがて震える腕で晋作のいる二畳の部屋の襖を開けた。
 「高杉様、西郷様がお見えです」
 晋作は手枕で横になっていた。こんな狭い草庵では言わずも気配で知れている。
 「なんじゃ、もう来たのか……」
 別に挑発しているわけでなかったが、声は隣の部屋に筒抜けだ。晋作は面倒臭そうに「よっこらしょ」と声を出して立ち上がると、そのまま西郷のいる座敷につながる襖を無造作に開けた。
 刹那、二人の視線がぶつかりあった。
 ずんとした体つきに紺の羽織り袴を纏い、そこに丸太い頭を乗せて、ご太い眉にぎょろりとした双眸を光らせ、髭を剃った青々とした顎の皮膚の中央には堅くへの字に結んだ口、東南アジア系の凄味のある威厳で、西郷はじろりと晋作を見つめた。
 一方、晋作は飄々とした町人姿で、体つきは西郷と比べればひと回りもふた回りも小さい。大きさだけで圧倒されるところだが、その馬面の両目から放たれる鋭い眼光には、松陰譲りのあの凄まじい『狂』の光が西郷の精神をじりじりと追い込んでいた。
 ここに長州と薩摩、敵対関係にある二人の巨人の対面が現実のものとなった。西郷が山なら晋作は雷雲だった。晋作が燃えさかる炎なら西郷は海だった。西郷が凪なら晋作は嵐。晋作が噴火によって生まれた岩なら西郷は八千代にむす苔だった。
 もしその二人の間に泣きやまぬ赤子を置いたなら、たちまちのうちに泣きやんでしまったであろう。その飛び散る火花の激しさは、狭い草庵にいる者達を圧倒し、暗闇に包まれた庭の生き物達までもしんと静まり返って、一種の真空状態を作り出していた。
 「さっ、高杉さん、こちらへ……」
 円太が西郷の真向かいに置かれた座布団をひっくりかえすと、そこに晋作を招き寄せた。晋作は無愛想に「ああ」と言いながら、そこに西郷と同じように正座して座った。斬り合おうと思えば太刀が届く距離である。
 座敷の壁は行燈の光でゆらゆら揺れる、二人の影を不気味に映し出していた。やがて清子が晋作の前にもお茶を運び、晋作はそれを無造作にずずずと音をたてて飲みほした。
 「さて……」
 と、月形が仲介に入って話をはじめる。いよいよ薩長和解に向けての歴史的第一歩となる会見のはじまりであった。少なくとも月形も望東尼も、そして円太も、その興奮の中で無上の倖せをかみしめていた。
 「こちらが薩摩藩西郷吉之助先生でございます」
 月形はまず西郷を晋作に紹介した。
 ───ところが西郷ときたら、晋作を見つめたまま頭も下げない。途端、草庵の中は気まずい空気に覆われた。部屋の外の板の間で中の様子をうかがっている望東尼も気が気でない。月形は仕方なく話を続ける。
 「こちらが長州藩高杉晋作先生でございます」
 すると晋作も、西郷を見つめたまま頭を下げない。月形の表情からさあっと血の気が引いた。二人は微動だにせず、睨み合ったままなにひとつ口を開かなかった───。
 ますます空気が重くなる。月形と円太は焦燥して冷や汗をだらだらと流しはじめた。
 「まっ、堅苦しいのもなんですから、足をくずしませんか?」
 月形は自分から足を崩して胡座をかいたが、当の西郷と晋作は足を崩すどころか正座したまま身動きひとつしない。その重い空気に耐えかねて、月形は再び正座しなおした。
 「この季節は九州も寒くていけませんな……」
 話が詰まった時は天候の話題に限る。円太はすかさず言葉を挟んだが、そんな世間話など二人の巨人は全く聞いていない。狭い部屋には西郷の太い身体から漏れるぜいぜいという小さな息づかいだけが異常に大きく聞こえた。
 「お二人はもう筑前煮は食いましたかな?せっかく博多に来たのですから、ぜひ筑前煮を食って行ってくださいよ。地元では“がめ煮”とか言われてますがね。なんせ筑前は大陸文化の影響が強いですから、ここから全国に広がった食文化なども多いのですよ……」
 円太は今度は食の話を持ち出してみたが、まったく甲斐がない。更には博多名物や太宰府の話など二人の興味を引こうと次々話題を持ち出してみたが、結局話題を取り次ごうとする月形や望東尼の三人の会話になるだけで、西郷も晋作もまるで乗ってこなかった。
 そしてついに話題も尽きた───。そうなると、無言の重い空気だけが座敷に残った。人里離れた小さな草庵に、八人の人間がいながら何ひとつ会話がないのである。一分が一時間にも二時間にも感じられた。
 「高杉様は本当に何も話さないおつもりですわ……」
 望東尼はそう思った。確かに西郷と会うとは約束したが、「何も喋らん」と言った彼の言葉を思い出した。一度口にしたことをそうやすやす違える男ではない。となれば、西郷から口を開かさなければ、このまま何もないまま終わってしまう。ところが西郷は口数の少ない男だと聞いている。また、梵鐘のようだとも言う。強く叩けば大きく返ってくるが、弱く叩けば小さく返ってくると聞いている。うまく話を切り出さなければ、うんともすうとも言わないだろう。
 こんな調子で無駄に時間ばかりが経過してしまった。肝心の薩長和解に話が進むどころか、このまま決裂してしまうだろうと、やがて月形は意を決し、
 「ところで薩摩藩と長州藩のことですが……」
 と、単刀直入に切り出した。ところが熱心に語る月形に対して、西郷と晋作は相槌も打たなければ、耳すら傾けない。すっかり月形の一人演説に終わったまま、状況はなにひとつ最初と変わっていなかった。月形も円太も途方に暮れた。
 さすがに望東尼も耐えかねて、
 「お食事のご用意ができていますが、いかがいたしましょう?」
 と、座敷の中に声をかけた。月形は「助かった」とばかりに「どうでしょう、食事にでもしましょうか?」と西郷に目をやったが、すかさず、
 「もう時間がありもさん。後にしていただけもすか」
 と、西郷の脇に座る側近があっさり答えた。
 これではどうにもならない───。座敷はすっかり諦観のムードに支配され、声を出すのもはばかるほどの雰囲気になっていた。
 どれほどの時間が過ぎていくのだろうか?依然、西郷も晋作も、最初に作ったままの姿勢と表情で、まるで銅像にでもなってしまったかのようにいっこうに動く気配がないのだ……。
 外で吹く風が、雨戸をがたがたと震わせた。
 耳をすませば外で啼く夜行性の鳥の声が聞こえる。望東尼は詩心を起こして、外の気配を感じていた。すると、木々のさざめきが聞こえ、ともすれば泉に湧く水の音さえ聞こえるようだった。
 しかし草庵の中に意識を戻せば、そこには依然、緊迫した張りつめた空気があるだけ。物音ひとつ立てただけで睨まれそうである。
 そして緊張したままの時間は、更に無情に流れていく───。
 駄目だ、これは……
 誰もがそう思っていた時である。
 ふいに晋作の身体が上下に動いた。
 一枚の写真のように、凍りついて固まったままの状態である。その小さな動きひとつであったとしても誰もが見逃すはずがなかった。皆の視線が一斉に晋作に向けられた。
 「やっと高杉様が何か言ってくれる───」
 と、全ての希望を晋作に託したそのとき、まったく意外な音が漏れた。それはすぼめた風船の濡れた口から、力なく空気が漏れるような音である。月形も円太も、そして望東尼もその脇にいた清子まで、四人は耳を疑った。それは晋作の尻の穴から放たれた屁の音だった。
 ぷうっ〜
 思わず思春期の途上にある清子は「ぷっ」と吹きだした。
 月形と円太と望東尼は、唖然と晋作の表情を見つめたが、「失礼」の一言もなく彼は何事もなかったかのように、もとの表情に戻って西郷を睨んでいる。一方、西郷は音が聞こえなかったのか、まったく前と同じ顔のまま───。
 そんな、おならの音が聞こえたのに聞こえなかったことにしようとする大人の社交の中で行われている慣習が、若い清子にはおかしくてたまらない。そのうち変な臭いが空気中を漂って清子の嗅覚を通りすぎた後、薩摩側に座る西郷の側近の鼻元に届いて、それまで表情ひとつ変えずに真面目な顔で正座していた側近の一人が、思わず鼻をくんくんとさせたものだから、清子はその滑稽さにどうにも堪えきれず、
 「ぶ、ぶっ!」
 と大きく吹き出した。そうなったら最後、笑いのツボにはまって「くすくす、くすくす……」と笑いが止まらなくなってしまった。
 笑いというのは伝染するもので、それまで必至に堪えていた望東尼までもが釣られて、清子に「笑いを堪えなさい」と何度も膝をつつくものの、小さな笑い声は月形の耳にも届いた。暫くは緊張と弛緩が複雑に混じり合った奇妙な空間をつくり出していたが、当の西郷と晋作は、相変わらずかたくなに動かなかった。
 ようやく清子が笑いのツボから抜け出して、部屋には前と同じ張りつめた空気だけが残った。やがて月形が、
 「ご両人様、なんとか言って下さいませんか。これじゃお二人を引き合わせた意味がまったくないではありませんか」
 とぼやいたとき、今度は西郷の身体が上下に動いて、
 ぼわ〜っ!ぶり、ぷりっ
 と屁をこいた。
 これは身体が大きい分、晋作のより音が大きい。やっと笑いのツボから解放された清子だったが、これにもたまらず「ぷっ!」と吹き出して、今度ばかりは声をあげて笑い出す。もう止まらない。望東尼も耐えきれずに同じように声をあげて笑い出せば、追い討ちをかけるように異様な臭いが部屋中に充満して、それが晋作のよりかなり臭かったので円太もたまらず笑い出し、ついには西郷の連れてきた二人の藩士も笑い出し、最後に一番緊張していた月形までもが笑い出した。ついにそれまでの緊張のたがが外れて、部屋は爆笑の渦に飲まれた。しばらくはその声が外に漏れ、闇に孤立する草庵は宴会さながらの賑やかさだった。
 ところが西郷と晋作だけは笑わない。が、やがて、笑いの中に置かれてついに恥ずかしくなったか、
 「ちとイモを食い過ぎたようでごわす」
 と、初めて西郷が口を聞いたこれが最初の一言だった。「こいつ、ここに来る前に薩摩芋を食ってきやがったか───」と連想した瞬間、思わず晋作もおかしくなって、
 「ぷっ」
 と心なくも吹き出した。かくも憎い男ではあったが、薩摩を代表して活動するお堅い政治家としての鉄のような顔の中に、薩摩芋という地元特産の食文化を通して、晋作と同じ故郷を愛する人間味を見たのである。
 こいつもやはり人か───。
 晋作は「望東殿にしてやられたわい」と思いながら笑い出した。その様子を見てやっと西郷も笑い出した。
 笑いというのは奇妙なものである。この瞬間、敵対関係にあった二人のかたくなな強情が、太陽の熱で氷が溶けるようにいっぺんに和んでいった。そして、
 「高杉さん、今度ぜひ薩摩においでくいやんせ。おいしか薩摩イモをご馳走しもす」
 晋作の笑いを受けて、ついに西郷が喋ったのだった。望東尼の目に涙が浮かんだ。「会う事が大事」と言った彼女の心はこれだった。瓢箪から駒が生まれる場合もある。晋作は望東尼には負けたと思いながら西郷に言った。
 「西郷さん、ボクは薩摩が嫌いじゃ」
 せっかく和やかになったのに彼はいったい何を言い出すかと、月形も円太も冷や汗をかいた。晋作はかまわず続けた。
 「だからボクに薩長同盟を説いても無駄じゃ」
 「高杉さん!」
 月形が晋作の言葉をさえぎろうと叫んだ。
 「まあ聞きなさい月形さん」と、晋作は更に話を続けた。
 「だが、一人の浪士を紹介しよう。土佐の中岡慎太郎と申す。今は脱藩して長州におる。彼をどのように使うかは西郷さん、あんたの自由だ。だが、この件についてボクは関与するつもりはない。薩摩の手を借りずとも長州の問題は長州人で解決しちゃる」
 「おいどんも長州を助ける気などありもさん。ただ日本国の将来を慮るのでごわす」
 ここでの言葉は勝海舟の請け売りである。しかし、
 「中岡慎太郎でごわすな───」
 と呟くと、満足したように西郷は、望東尼が用意した食事も取らずに帰っていった。
 結局この会見では、二人の巨人は屁をこきあった事と、二言三言の会話をしただけにとどまったが、晋作が中岡慎太郎を紹介したことにより、西郷と中岡は間もなく会うこととなる。そして宿敵長州と薩摩は、維新回天の大きな波とともに、同盟に向かって少しずつ動き出していく。

 もののふの大和心をよりあわせただひとすじの大綱にせよ

 この日、望東尼が詠んだ和歌である。できたてのその詩を聞いて、
 「まだまだ遠い道のりよの……」
 と、晋作は澄んだ夜空に輝く星々を眺めて呟いた。その後姿をじっと見つめて、清子は頬を赤く染めていた。この歴史的会見が、この一人の少女によって成功なさしめたという秘話は、この小説だけのものにしておこう。