> 笑顔
笑顔
 鏡と睨めっこをするのは、あまり得意じゃない。
 そう思いながら、高田圭子は鏡台の前で、けして優しいとはいえない表情を、突然笑顔に変えてみた。
 「やっぱりきついかな……、私の顔……」
 そう呟きながら、も一度笑顔を作ってみたが、どうも気に入ったものができなくて、何度も何度も繰り返してみたけれど、そのうち、そんなことをしている自分が馬鹿々々しくなって、結局諦めて、その日は床についてしまった。

 夢を見た───。
 今日一日の出来事と、全く同じ内容だった。
 「高田さん、ちょっとナースステーションに来てちょうだい」
 婦長の北原に呼び止められたのは、一〇五病室の患者の診断結果を持って、担当医に届けに行く途中だった。北原は患者からの評判、医師達の信頼も高く、ナース仲間の間でも当病院随一の有能なナースと評され、圭子も彼女を尊敬し、また大好きだった。
 「高田さん、少し気になったから言わせてもらうけど、あまり気にしないでね」
 泣き虫を自覚している圭子は、半分戸惑いながら「はい」と答えた。
 「ナースをはじめて、どれくらいになる?」
 普段はとても穏やかな北原も、こと後輩の指導となると、まるで人が変ったように厳しくなる。しかも、その指導が、いつも的を射ているから取りつく島もない。
 早くも圭子の涙腺を刺激した。
 「一年です……」
 「あのね、ナースという仕事は、闘病の患者さんに勇気と希望を与える仕事なの。ナースにとって何が一番大切だか分かる?」
 「は、はあ……、患者さんの身になって……」
 「そんなことは当たり前」
 「的確かつ迅速な……」
 「そうじゃなくて!」
 圭子は押し黙ってしまった。というより、もうこぼれ落ちそうな涙を堪えることで精一杯だった。
 「笑顔!」
 北原は強い口調で彼女に忠告した。
 「分かる?笑顔が一番大事なの!」
 「はい……」と答えたが、頬を伝った涙は、それを声にさせなかった。
 「ここにはいろいろな病気の患者さんがいるわ。死と向かい合わせの、ぎりぎりの所で頑張っている人だっているの。いっそ自殺して死んでしまった方が、どれだけ楽だろうって思っている人もいるかも知れない。そんな人が、もしあなたの笑顔を見たときに、『よし、頑張ろう!』って、『こんな素敵な笑顔は見たことない。そうだ、僕も生きるんだ!』って、死ぬことばかり考えている患者さんに、大きな勇気と希望を与えられたら、こんなにすごい事ないじゃない。不思議ね、笑顔にはそんな力があるんだから」
 ───そんなこと言ったって、仕方ないじゃない。
 私だって、好きでこの顔やってるんじゃないもの。お母さんとお父さんがいけないのよ。仏頂面で悪かったわね! 苦虫を噛みつぶしたような顔で悪かったわね! どうせ、私の顔はきついわよーだ!
 ───待って、婦長さんは言ったっけ……、笑顔は努力だって……。
 私にもできるかな?
 ───だめ……、できないわ、私にはできない……。
 目尻を伝う涙は、やがて枕にしみ込んで、圭子は深い眠りに落ちていった。

 翌日、圭子は慣れない笑顔を、強引に作りながら、患者の容体を見回った。
 しかし、笑顔というより、妙に強張った感覚だけが、顔面の神経に残る。
 そんな努力に気づきもせず、患者達は愛想のない対応をするだけ。
 「どうして分かってくれないの。こんなに笑っているのに!」
 その日、圭子は手洗いに行くたび、鏡の前で笑顔の練習をしてみたが、どうも不自然な笑みは、自分で認めざるを得ない。
 廊下ですれ違う人達に、努めて笑ってはみるけれど、それに気づく人達は、不審な表情を示すばかり。
 大好きな婦長と顔を合わせる時も、頬の筋肉を緩めてみるが、婦長は半分愛想を尽かしたように首を傾げるだけで、圭子はそのたび自己嫌悪に陥った。
 「やっぱりだめだわ……」

 夜、空を仰いだ───。
 満天の星は、キラキラ輝き、あたかも笑いながら、圭子を励ましているようにも見えた。
 暫くは何も考えずに、そんな宇宙の中に吸い込まれるような、奇妙な感覚を楽しんでいたが、やがて、笑顔一つ作れない自分の事を思い出すと、情けなさやら、切なさやら、悔しさが、ごちゃまぜになって込み上げて、わけも分からず泣いていた。
 「笑顔がほしい。心から滲み出るような、笑顔を作りたい……」
 宇宙に向かって発する思いは、どこか祈りに似ていた。

 そんな日々を重ねながら、ある日、一人の癌患者が亡くなった。圭子にとってはじめての経験で、検温や脈拍等、いろいろ携わっていただけに、ショックは並々ならぬものだった。家族の悲しみを真っ向から受けて、別に自分が悪いわけでもないのに、どうしようもない自責の思いが、胸の奥をえぐっていた。
 霊安室から霊柩車に運び込まれるとき、涙がボロボロ零れるのを、どうやっても押さえることができなかった。
 圭子の隣に北原婦長が、厳かに立っていた。
 涙でかすむ視覚が、ようやく彼女の表情をとらえた時、
 笑っている───!?
 こんなに悲しい事なのに、どうして微笑む事ができるのだろうか。
 圭子は一瞬、北原の人格を疑った。
 しかし、その笑みには、死者に対する蔑みも、苦労からの解放感も、ましてやナースという仕事に対する優越感の微塵もない。
 ただ笑っているというか、しいて言うなら、教え子を見送る教師のような、どこまでも温かく見守る、深い愛すら感じることができる。こんなに緊迫した空気に、むしろ爽やかささえ漂わせていた。
 霊柩車が走り出した。
 「婦長……」
 圭子は、声にならない声で北原に抱きついた。
 北原は、暫く圭子を胸で泣かせると、背中を数度ポン、ポンと叩くと、無言のまま身体を翻し、遺族に丁寧に一礼すると、そのまま霊安室を出ていった。
 北原が振り返った拍子に、圭子の右手の甲の一点に、とても小さな感触があった。それは、北原の片目からこぼれ落ちた、悲しみの露だった。

 夜空を仰いだ。
 ───婦長は悲しみを笑顔に変えていたんだ。
 圭子は婦長の偉大さを再認識するとともに、自分の弱さを悟った。
 冷たい風が頬を撫でる。
 視線は果てしない宇宙に吸い込まれたまま、身体さえ、この宇宙の真っ只中に浮遊している錯覚さえ覚えた。
 暫く、そんな時間を過ごしていた。
 ───私、生きているんだ。
 何かの拍子も、ふとしたこともなく、自然とそんな事が頭に浮かんだ。
 すると、わけもなく微笑みが生まれた。
 ───あっ、私、笑ってる……!?
 ───そうよ、笑顔がほしいじゃなくて、笑顔を作りたいじゃなくて、作るのよ。
 作らなきゃいけないのよ。
 圭子は宇宙を仰ぎながら、自然に笑みが、表情を支配するのを感じていた。

 昨晩笑えたからといって、翌日すぐに人前で笑えるものでもない。
 圭子は、笑顔作りに全力を尽くした。
 昨日より今日、今日より明日、笑顔の回数を増やしてみたり、無理やり笑ってみたり。
 そんな事をしているうちに、自然な微笑みが浮かんでくるのを、自分でも分かるようになってきた。
 しかし、患者の対応が変わるでもなく、婦長に誉められるでもなく、自分の笑顔が、他人に何らかの影響を与えているかも知らずに、それでも、笑顔を作る努力を重ねた。
 少しずつ、本当に少しずつだが、笑顔を作れるようになっていく自分を感じたのは、婦長が自分に対して、笑顔で応えてくれるようになってきたことからだったろうか。その頃から苦痛も消え、逆に楽しさすら感じるようになった。

 やがて、数カ月が過ぎ、一年が過ぎた。
 ある日───。
 病院のロビーで、ポスターの張り替えを終えて、ナースステーションに戻ろうとしたところを、一人の男性に呼び止められた。
 心臓の病気で、ここ数年、入退院を繰り返している、背の低い、痩せこけた男だった。担当が違うので、詳しい病状等は分からないが、廊下などでよくすれ違ったりして、顔見知りであった。
 「高田さん……でしょ……」
 さも嬉しそうに、圭子を呼び止めた男の表情は明るい。
 「はい、そうですけど」
 圭子は不審を抱きながら、男を見つめると、男は少し照れながら、圭子の顔を穏やかに見つめ返した。
 沈黙を孕んだ空気の中で、やがて男は言った。
 「いつも笑顔をありがとう!」
 男はひとつ頭を下げると、そのまま圭子の脇を、何もなかったかのように立ち去ってしまった。
 身動きが取れなかった───。
 ───いつも笑顔をありがとう……? そう言ったわよね……。
 慌てて振り向いた時は、もう男は突き当たりの階段を上がりはじめ、死角に入ったところ。
 圭子は男とは反対の方向へ、軽快な歩調で歩きはじめた。
 今、圭子はどこの誰にも負けない素朴な笑顔を、いつまでもいつまでも輝かせていた。

  一九九二年