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【桜花の章】
 
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(一)(じゃく)(ほむら)
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 幕末の混沌期(こん とん き)燎原(りょう げん)に例えるなら、彼はそこに屹立(きつ りつ)する一本の桜である。
 「桜」のことを彼は「(じゃく)」と呼んだ。中国では「扶桑(ふ そう)」の木をそう呼び、総じて日本の代名詞として古くより用いられてきたが、嘉永(か えい)六年(一八五三)のペリー来航以来、否応(いや おう)なしに世界を意識せざるを得なくなった極東(きょく とう)日出(ひ い)ずる国の住人としては、地球という星における秀気(しゅう き)の集まる場所に生ずるその花を「叒」と呼ばずにはおれない。
 彼は、父に序文を書くよう言われた『花譜』というサクラの系譜集に描かれた山桜と、庭に満開と咲く桜花(おう か)の実物とを見比べながら、うっとりとその美しさに見惚(み ほ)れた。時を尋ねれば文久元年(一八六一)三月のことである。
 「良山(りょう ざん)様、剣術の稽古(けい こ)の時間ですぞ」
 声をかけたのは三十前後の須坂藩では随一の直心影流(じき しん かげ りゅう)の剣豪で、名を小林要右衛門季定(こ ばやし よ う え もん すえ さだ)という。良山というのは後に須坂藩第十三代藩主となるこのとき数えで二十六歳の堀直虎(ほり なお とら)(いみな)である。良山は、桜花の一枝をもぎ取ってから「もうそんな時間か?」と言いたげな顔で、
 「剣術は気が乗らぬなぁ……」
 と、何かの許しを()うように破顔一笑(は がん いっ しょう)した。
 「その人懐(ひと なつ)っこそうな笑みにはもう(だま)されませんぞ。攘夷派(じょう い は)の連中が江戸にもうようよしているという話です。良山様とていつ井伊直弼(い い なお すけ)様のように襲撃されるか分かったものではありませんからな。剣術修業は(おこた)らない方がよろしい」
 江戸城桜田門前で時の大老(たい ろう)井伊直弼が暗殺されたのはちょうど一年ほど前の出来事だった。ペリー来航にはじまった空前の激動期の幕開けは、日米和親条約(にち べい わ しん じょう やく)により鎖国(さ こく)が解かれ、日本に不利な日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)締結(てい けつ)から攘夷思想が熟成(じゅく せい)し、あわせて将軍継承(けい しょう)問題による幕府内勢力争いによる政治不信、それらに対して安政(あん せい)大獄(たい ごく)と呼ばれる反政府思想を持つ者達が恐怖政治の犠牲となった挙句(あげ く)に大老が殺害され、こののち収拾のつかない事態へと発展していく。その象徴として、安政の大獄により年号が安政から万延(まん えん)に、国内の混乱による危機感からわずか一年にも満たない間で万延から文久にと改元された。要右衛門はその不穏(ふ おん)な世の中のことを言っている。しかしあまり真顔(ま がお)で言うので、良山はさもおかしそうに声を挙げて笑った。
 「たかだか一万石の弱小大名の、しかも何の影響力もない堀家の五男坊(ご なん ぼう)を襲うもの好きな攘夷論者などおるものか。もしそんな奴がいたら会ってみたいものだ。わし一人死んだところで天下が動くわけでもあるまい。せいぜい瓦版(かわら ばん)のネタにされてイイ人だったねぇ≠ニ同情されて(しま)いじゃ」
 「またそんな御冗談(ご じょう だん)を! 攘夷の連中だけではありませんぞ。いまやメリケン国をはじめ我が国は列強諸国に囲まれているのです。もし彼らが攻めて来たらどうなさるおつもりですか?」
 「要右衛門はいつから攘夷派になったのだ? そうなったら君はその自慢の剣術で戦うつもりかい? 向こうは片手で握れるピストールとかいう火縄銃(ひ なわ じゅう)の何倍も優れた武器を持っているそうじゃないか。飛び道具を相手に刀で戦うとは勇敢(ゆう かん)、勇敢──その時はわしの護衛を頼むぞ」
 良山は笑いながら手にした桜花を『花譜』に描かれたそれと重ねて「我ながらなかなかよく描けておる」と(つぶや)いた。要右衛門は(あき)れ顔で、
 「それは御隠居様(ご いん きょ さま)がまとめられた桜図鑑(さくら ず かん)の写本ですな?」
 良山の手にする書物を見て言った。御隠居とは良山の父、第十一代須坂藩主を務めた堀直格(ほり なお ただ)のことだが、今はその長男で良山の兄にあたる直武(なお たけ)が十二代藩主を務めているので、須坂藩江戸藩邸下屋敷(しも や しき)悠々自適(ゆう ゆう じ てき)な生活を送っている。
 「父上にこの本の序文(じょ ぶん)を書くよう頼まれてのう……はてさて、どうしたものかと悩んでいたところだ」
 「御隠居様の道楽(どう らく)のお供もよろしいが、ずいぶんと悠長(ゆう ちょう)なことですなぁ。韓詩(かん し)余暇(よ か)に写本していると聞きましたが、それにしては大層(たい そう)な手の入れようではありませんか」
 要右衛門は皮肉(ひ にく)の苦笑いを浮かべた。
 「お前はこの桜を見てどう思う?」
 「そうですなあ? 花見をしながら酒でも飲みたいものです」
 「それだけか?」
 要右衛門は「はぁ」と言ったまま黙り込んだ。
 「お前は何年直心影流の修行をしておる?」
 「剣術の方は物心ついた頃には剣を握っておりましたので、かれこれ三十年近く──」
 良山は「三十年修行してその程度か」と言いたそうに、
 「その刀を抜いて見せてみよ」
 と言った。要右衛門は言われるまま刀を(さや)から引き抜いた。
 「その日本刀を見てどう思う?」
 「はぁ」と要右衛門はまた(つぶや)いて、刃渡りをじっと見つめ(しばら)く考えてから、
 「少し手入れが(とどこお)っていたかと──」
 良山はまた声を挙げて笑った。それにしてもよく笑う人である。(こと)()げな質問をしておいて(けむ)に巻いたかと思えば、自らは高みから全てを見通しているかのふうにおろおろする様子を楽しんでいるようでもあり、剣術一本で成長してきた単純な要右衛門などはいつもよい標的なのだ。その意見が良山の意にそぐわないことを察した彼は、
 「刀は人を()るための武器ですが、拙者(せっ しゃ)はできれば人を斬りたくはありません」
 と言い改めた。
 「それだけか?」
 良山はまた笑う。
 「なにが可笑(お か)しいのでございます? 拙者には若様の笑いのツボがいまだに理解できません」
 「すまんすまん、答えが普通過ぎて面白(おも しろ)い。わしはこの桜や日本刀を見ると、奥に潜んでいる日本人の(さが)≠ニいうものを感じる──世の中は開国≠カゃ攘夷≠カゃ、あるいは尊王(そん のう)≠カゃと騒いでいるが、結局どこまでいっても日本人≠ゥらは離れられん。その本性とは何か──列強諸国を相手にするといっても、日本人が日本人たる心を失った時、日本はそれらの国の属国(ぞっ こく)となってしまうのであろうなと思ってしまう」
 「なんだか難しくてよく解りません。それより剣術の稽古(けい こ)に参りましょう、遅刻(ち こく)ですぞ」
 「そうだ!」
 と良山は突然手を(たた)いた。
 「なんでございます?」
 「(じゃく)≠カゃ! この系譜図の題号は叒譜(じゃく ふ)≠ェ良い!」
 「ジャ、ジャク……?ジャク≠ニは何でございます?」
 「(わか)る者に解ればよい──」
 ひとしきりの風に散る桜花の中、要右衛門は呆れた表情で良山を見つめた。

 直心影流(じき しん かげ りゅう)の島田派剣術道場は浅草(あさ くさ)新堀にある。須坂藩邸下屋敷の在する深川本所亀戸(ふか がわ ほん しょ かめ いど)からは隅田川(すみ だ がわ)に架かる吾妻橋(あが つま ばし)を渡って歩いて半時もかからないほどの距離で、もともとは男谷精一郎(おとこ だに せい いち ろう)の高弟、幕末の三剣士にも数えられる島田虎之助(しま だ とら の すけ)により開かれた道場だが、三十九歳の若さで(ぼっ)してからは兄の島田小太郎が師範(し はん)を務めていた。
 いつもなら木剣(ぼっ けん)と木剣とが激しくぶつかり合う音と甲高(かん だか)い掛け声が絶え間なく路地にまで響いてくるのに、この日はなぜか道場敷地内はシンと静まり返り、そのかわりに時々大きな笑い声が聞こえた。稽古の時間に遅れた良山と要右衛門は、顔を見合わせそろそろと道場内へ入っていくと、門人たちに囲まれて、何やら楽しそうに異国の見聞(けん ぶん)を講義する三十代半ばのやせ型の男の姿があった。
 「むこうの女子(おな ご)はレデーっちゅってな、スカートっちゅうひらひらの(ころも)を腰に巻いておるんじゃ。そりゃお前さん風が吹けばふわぁってなもんで、こっちの方が恥ずかしくなっちまうぜ」
 「で、(かつ)先生はその中身を見たんですかい?」
 「それが見えそうで見えないのが不思議だね。おいらなんか腰をこうして曲げて(のぞ)き込もうとしたんだけどさ、それでも見えない。挙句(あげ く)に案内の役人が『お金でも落ちてますか?』だとさ。言い訳するにも言葉が通じねえから困ったもんだ。そういう時は(おけ)(OK)=A『桶、桶、桶』と()り返し言えばなんとかなるよ」
 道場内は笑いに包まれた。
 「英語なんて案外簡単なものさ。時間を聞く時は()った(いも)(What time)=Aいくらかと値段を聞く時はブリでもカンパチでもなくハマチ(How much)≠カゃ。あと、そこに座って下さいというのは知らんぷり(Sit down please)≠チてえばたいてい話しが通じる」
 道場内は再び大爆笑。良山と要右衛門は道場の後方に座って近くの門人に「誰ですか?」と尋ねれば、「昨年、咸臨丸(かん りん まる)でメリケンに渡った勝海舟(かつ かい しゅう)先生だ」と教えられた。勝海舟も直心影流島田虎之助の門弟であり、そもそも直心影流の男谷精一郎とは義理の従兄弟(い と こ)関係になる。たまたま挨拶(あい さつ)がてら道場に顔を見せたところ「ぜひメリケン国の話を聞かせてほしい」ということになり、今日の稽古は海外見聞講演会になってしまったらしい。
 「あれが勝海舟か……」
 良山はまじまじとひと回りほど年上のその屈託(くっ たく)ない顔を見つめた。
 日米修好通商条約の批准書(ひ じゅん しょ)交換のため、幕府の米国使節団を乗せたポーハタン号が浦賀(うら が)からワシントンへ向かったのが昨年一月のことだった。その護衛として一緒に出航したのが勝海舟や福沢諭吉(ふく ざわ ゆ きち)らを乗せた咸臨丸で、一行は日本軍艦としては初めて太平洋を横断し、サンフランシスコで使節団の到着を見届けた後、ホノルル経由で一足先に浦賀に戻った。使節団が帰国したのは同年九月のことだが、いよいよ世界を相手に動き出した日本の動向に、良山は()(たて)もたまらず兄の藩主直武にオランダ式の軍備を取り入れ整えるべきとした『警備策(けい び さく)』と題する進言をしたのはそれから間もなくのことだった。あのときは又聞(また ぎ)きの海外事情に危機感を(つの)らせ、蘭学(らん がく)に基づいたオランダ式を藩に取り入れようとしたが、その内容は今から思えば(あせ)りばかりが先走る稚拙(ち せつ)な内容で、とても西洋に対する恐怖心はぬぐえなかった。ところが、孫子(そん し)兵法(へい ほう)を改めて読み返したとき、西洋人も同じ人間ではないかと気付く。

 知彼知己者百戦不殆。不知彼而知己一勝一負。不知彼不知己毎戦必殆。
 (()れを知りて(おのれ)を知れば百戦して(あや)うからず。彼れを知らずして己を知れば一勝一負す。彼れを知らず己を知らざれば戦う(ごと)に必ず(あやう)し。)

 「何を恐れる。西洋の文明とやらを知って己を知れば恐れるに足りん──」
 そう思い極めると気持ちが軽やかになり、勝の話はそんな良山の身体(からだ)にしみ込むように入って来た。その内容を要約すれば、彼がアメリカで驚愕(きょう がく)の視線を向けて来たものは、科学技術よりむしろ社会制度の方だった。民主主義や資本主義や自由主義はそれまでの日本にはない概念(がい ねん)で、それをもって「徳川幕府は百年遅れている」と平然と言い放つ。無論(む ろん)彼自身は直心影流免許皆伝(めん きょ かい でん)の腕前であるし(ぜん)にも傾倒(けい とう)していた時期もある。ある意味日本の精神風土を知った上での発言であるから「そんなものか」と聞き流すこともできたが、日本の何千年にもわたる長い歴史を()まえてそれらの概念が(つちか)われなかった事実を考えたとき、それらは日本人には不向きな思想なのではないかとも思えた。
 一連の講演を終えて「何か聞きたいことはあるかな?」と勝が言ったので、良山はすくっと立ち上がった。
 「まっこと面白(おも しろ)い講義でありました」
 勝はその愛嬌(あい きょう)のある表情を見つめて「君は?」と問うた。
 「私、信州(しん しゅう)須坂藩(す ざか はん)堀家(ほり け)の五男坊で良山(りょう ざん)と申します」
 「ほう、信州か。屁理屈(へ り くつ)並べの得意な土地柄だな。わしの妹は松代藩の佐久間象山(さ く ま しょう ざん)先生のところに(とつ)いでおる。もっとも吉田松陰(よし だ しょう いん)君の密航未遂(みっ こう み すい)片棒(かた ぼう)を担いで今は蟄居中(ちっ きょ ちゅう)だが、あの先生も非常に偏屈(へん くつ)な変わり者だ。そこに好んで嫁いだ妹はもっと変わり者と言わねばならん。で、何が聞きたい?」
 「メリケン国は、もとを正せばエゲレス国からの移住民によって建国されてまだ一〇〇年にも満たない新しい国と聞きました。原住民たちの生活はどうなのか気になります。確かに民主主義、自由主義と言えば聞こえはいいが、まだ実証(じっ しょう)されたと判断するには早すぎると思います。それをそのまま日本に当てはめてよいものかと?」
 「君は国学者(こく がく しゃ)かね?」
 「いえ、漢学(かん がく)を学んでおります」
 「誰に師事(し じ)しているか?」
 「亀田鴬谷(かめ だ おう こく)先生です」
 「ああ思い出した。和魂漢才(わ こん かん さい)≠フ折衷学派(せっ ちゅう がく は)だね。要するに君は東洋思想を学んでいるわけだ。おそらくこのままおいらと話を続けても、とどのつまりは西洋と東洋の根本的相違(こん ぽん てき そう い)に行きついて平行線をたどるばかりだ。しかし一つだけ言っておこう、二十年前、その漢学の本家本元(ほん け ほん もと)、あの(ねむ)れる獅子(し し)と恐れられた清国(しん こく)が、アヘン戦争であっけなくエゲレスに負けていまや植民地同然だ。日本は今、その西洋の強大な脅威(きょう い)にさらされていることだけは紛れもない事実だ。君はどうする?」
 良山は勝の洞察力(どう さつ りょく)に驚きながら、やがて、
 「すべき事に力を尽くして、あとは天命(てん めい)に任せます」
 勝はにこっと微笑むと、
 「そこは僕と一緒だ。堀良山(ほり りょう ざん)君、君の名は覚えておくよ」
 そう言い、「他に聞きたいことは?」と聴衆(ちょう しゅう)に続けて、良山の質疑はそこで終わってしまった。
 道場からの帰り道、良山は要右衛門にぽつんと呟いた。
 「私塾(し じゅく)でも開いてみようかな?」
 要右衛門は「いま何とおっしゃいました?」と目を丸くして立ち止まった。さっそく勝海舟に感化されて、時代の変化に対応し得る人材を輩出(はい しゅつ)しようと考えたことはすぐに知れたが、道場に行く前、桜を眺めてしきりに感心していた男の発言にしては唐突(とう とつ)すぎる。しかし、当時の江戸では武士といっても家督(か とく)を継げるのは長男だけで、次男以下は部屋住(へ や ず)み≠ニか()飯喰(めし ぐ)い≠ネどと揶揄(や ゆ)され、どこか子のない家へ養子に行ける幸運でもない限り、何もしなければ仕事もなく、結婚もできないというのが普通である。現に堀家も長男の直武が家督を継いだため、(次男として生まれた繁若(しげ わか)早逝(そう せい))三男直尚(なお ひさ)旗本(はた もと)水野石見守貞勝(みず の いわ みの かみ さだ かつ)の養子となり、四男直正(なお まさ)は分地され堀譲三郎という男の養子となっており、五男坊として生まれた良山は、剣術や学問に明け暮れる日々を送っているのだ。大名とはいえ部屋住みの者は、剣術道場の師範になるか寺小屋の先生などして()扶持(ぶ ち)(かせ)ぐか、あるいは農業にいそしむか、さもなければ全てを諦観(てい かん)して遊蕩(ゆう とう)道楽(どう らく)の道に進むしかない現実があった。要右衛門にしてみればその気持ちも分からないでない。
 「私塾を開いて何を教えるというのですか?」
 「折衷学(せっ ちゅう がく)じゃ。鴬谷(おう こく)先生はわしに和魂漢才(わ こん かん さい)≠フ学問を教えてくれた。しかし今の世の中を見るに、西洋の技術や文明が怒涛(ど とう)のごとく流れ込んでいて漢才≠セけでは心もとない。ならばわしは和魂洋才(わ こん よう さい)≠ニいう新しい学派を打ち立てたいと思うが」
 勝は和魂漢才を一言で東洋思想という言葉でひとくくりにしてしまった。ならば和魂洋才とは、東洋の粋が結晶した極東日本の精神と西洋の学識を折衷した地球思想≠ニ言えまいか──直虎の心に無尽蔵の歓びがむくむくと込み上げる。
 「西洋の思想、学問を取り入れた日本人学? なるほど和魂洋才≠ニは考えましたな。ならばわざわざ私塾など開かなくとも須坂に立成館(りっ せい かん)というれっきとした藩校(はん こう)があるではございませんか。そこで教鞭(きょう べん)()られるが良い」
 「ダメじゃダメじゃ。北村方義(きた むら ほう ぎ)君が江戸にまで遊学(ゆう がく)して、せっかく漢学を身に就けて帰っていったというのに、立成館はいま心学(しん がく)()まれてしまっているそうな」
 北村方義は良山より二つ年上の儒学者(じゅ がく しゃ)で、つい最近まで江戸におり、良山にとっては亀田鴬谷のもとで(きそ)って学んだ学問の()きライバルであり先輩である。その才能は、
 『作る詩の清新端麗(せい しん たん れい)なる対句(つい く)韓愈(かん ゆ)(いき)に達し、(こう)ずる経書(きょう しょ)千古不変(せん こ ふ へん)大儀(たい ぎ)鄭玄(てい げん)に等しい』
 と良山自身が彼に与えた『餞別(せん べつ)の詩』の中でそう言わしめるほどで、深い尊敬の念を抱かずにおれない。
 「心学に?」
 要右衛門は意外なことのように(つぶや)いた。
 心学は藩校立成館の前身となる教倫舎で訓導されていたものである。一八二九年(文政十二年)、直格の代に亀田塾の門人菊池行蔵を儒官として招いて立成館と改称してより、須坂藩の教育は儒学が中心となったが、教倫舎の心学者たちが依然根強く残っているのだ。
 「このあいだの手紙で(なげ)いていたわい。優秀な人材なのに埋もれたままだ……」
 「それで私塾開設というわけですか──といっても良山様は漢学においては学者級ですが、洋学を勉強する姿など見たことがありません。いまさら蘭学を学ぶおつもりですか」
 「今の蘭学(らん がく)は日本人の解釈(かい しゃく)が深く入り込んでしまっている。現実問題、現在日本を取り巻いているのはオランダではなくメリケン、エゲレス、ロシア、フランセ……その内、今後力を伸ばしてきそうなのはメリケン国だが、その民族のもとを正せばエゲレスじゃ。ペルリの黒船の煙を()動力源(どう りょく げん)もエゲレスが発明したらしい。世界の産業技術の中心はエゲレスに違いない」
 「エゲレスねぇ?」
 「誰か英学(えい がく)を教えてくれる者はおらぬかの?」
 悩んだ表情を浮かべつつ良山の顔は明るい。
 
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(二)参勤交代(さん きん こう たい)、兄の苦悩
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 参勤交代は江戸幕府の(もと)、藩主が一年おきに江戸と自領とを行き来しなければならない諸大名に課せられた制度である。その際、正室と世継(よ つ)ぎは絶えず江戸に常住(じょう じゅう)しなければならない幕府の人質のような役目を担ったが、側室および世継ぎ以外の子にはその義務はない。須坂藩のそれは丑年(うし どし)卯年(うさぎ どし)巳年(み どし)未年(ひつじ どし)酉年(とり どし)亥年(い どし)の六月が参府(さん ぷ)で須坂を出立しなければならず、逆に子年(ねずみ どし)寅年(とら どし)辰年(たつ どし)午年(うま どし)申年(さる どし)戌年(いぬ どし)の六月は御暇(お いとま)といって自領に戻ることになる。この年(文久元年)の干支(え と)辛酉(かのと とり)なので参府の年で、六月下旬といえば藩主直武(なお たけ)は須坂藩江戸屋敷に入っていた。
 その日、一年ぶりに父子(おや こ)兄弟水入らずで(さかずき)を交わした良山(りょう ざん)は、げっそりとやつれた兄の顔に驚いた。
 「お身体(からだ)の調子でも悪いのですか? 顔色も随分(ずい ぶん)青い気がします」
 「(つか)れたよ……」
 と、直武の最初の一言がそれだった。良山より六つ年上の彼は、御年(おん とし)数えで三十二歳の働き盛りの年代ではあるが、「疲れた」という言葉の中に、死をも予感させるような落ち込んだ生気(せい き)を感じた良山は首を傾げた。
 その場に顔を(そろ)えたのは、父の直格(なお ただ)はじめ直武、良山と、異母(い ぼ)の弟恭之進(後の直明(なお あき))である。
 「道中いかがでしたか? かなりお疲れの様子ですが」
 良山は直武の盃に酒を注ぎながら言った。
 「中山道(なか せん どう)和宮(かずのみや)降嫁(こう か)の話題で持ち切りだ。江戸でもそうとう盛り上がっているんだろうな?」
 「盛り上がっているというか何というか」と、良山は弟の恭之進と顔を見合わせた。
 第十四代将軍徳川家茂(とく がわ いえ もち)御台所(み だい どころ)として皇女(こう じょ)和宮の降嫁が決ったのは昨年十月のことである。ペリー来航により朝廷(ちょう てい)の許可を得ずに日米修好通商条約に調印(ちょう いん)開国路線(かい こく ろ せん)に踏み切った幕府と、攘夷派(じょう い は)との対立は激しさを増し、攘夷の立場をとる孝明天皇(こう めい てん のう)は、水戸藩(み と はん)をはじめとする徳川御三家(ご さん け)御三卿(ご さん きょう)などに対して戊午(ぼ ご)密勅(みっ ちょく)≠ニ呼ばれる幕政改革遂行(すい こう)の命を下す。つまり幕府に攘夷を推進(すい しん)するよう(せま)り、外様(と ざま)譜代大名(ふ だい だい みょう)らと協調して公武合体(こう ぶ がっ たい)≠実現しようとしたのである。ところがこれを陰謀(いん ぼう)と見た大老(たい ろう)井伊直弼(い い なお すけ)は安政の大獄(たい ごく)断行(だん こう)し、その圧力を一掃(いっ そう)しようとしたが、怒りを買った直弼は暗殺され、両者の対立はますます深まった。しかしここにきて混乱する国論(こく ろん)を統一せざるを得なくなった幕府と朝廷は、時の将軍家茂(いえ もち)と皇女和宮(かずのみや)のご成婚という形を世に示し、公武合体を実現しようとしたわけである。いわば家茂も和宮もその犠牲者と言えるが、そんな思惑(おも わく)とは裏腹に、時の政治に対して庶民(しょ みん)たちは面白(おも しろ)おかしく醜聞(しゅう ぶん)を振りまくものだと、良山は苦笑いを浮かべて江戸の様子を伝える。
 「公家(こう け)久我(く が)様が幕府から賄賂(わい ろ)を受け取り、天皇を(だま)して嫁入(よめ い)りを決めたと(もっぱ)ら騒いでいます。つまり和宮様は幕府の人質だと」
 「江戸の庶民は幕府より天皇の味方というわけじゃ。しかし(たみ)の言うことなどいちいち気にしていたのでは政治などできんわい」
 直格の口調は「それが世の道理だ」と言わんばかり。それにしても口数の少ない直武の様子が気になった。
 「兄上、どうなさいました? 先ほどから元気がないように見えますが」
 すると直武は力なく笑った。
 「旅費を捻出(ねん しゅつ)するだけでも大変な苦労さ。藩の財政は火の車、おれが藩主になってからますます悪化している。領民からは惣領(そう りょう)甚六(じん ろく)≠ネどと陰口(かげ ぐち)され、すっかり自信をなくしたよ……」
 須坂藩の財政難は深刻な問題だった。直武が家督を継いでより、翌弘化三年(一八四六)の江戸の大火で、南八丁堀の上屋敷が全焼の類焼に見舞われ、更にその翌年には善光寺大地震によって千曲川沿いの村々が大災害を被る災難続き。南八丁堀の上屋敷の再建と亀戸の下屋敷新築に加え、大坂加番などという役職を仰せつかった日には遠く現地まで赴く旅費やら何やらで出費がかさみ、あたかも大きな穴の開いた小さな樽から水がこぼれ落ちるが如くお金が流れて消えた。否──それは直武の代に始まったことでない。天保(てん ぽう)大飢饉(だい き きん)以来の作物の不作が招いた危機であり、それはまさに第十一代藩主である父堀直格の代からの負の遺産なのだ。その借財額は嘉永三年(一八五〇)の時点で四万四千両以上にのぼっており、返済の目途もたたないまま負債額は膨らみ続けている。当時どこの藩も同じような問題を抱えてはいたが、あの手この手を尽くしてみても、わずか一万石あまりの小規模な藩にとっては耐えていくにも限界が見えた。
 「このまま財政破綻(ざい せい は たん)してしまったら、須坂藩はどうすればよいのでしょう?」
 直武はため息まじりに呟いた。
 「最悪の場合、領地を幕府に返上するしかなかろうが……そんなに(きび)しいのか?」
 直格は半分他人事(ひ と ごと)のように言ったが、続けて、
 「ほれ、あれはどうした、あれは──吉向焼(きっ こう やき)
 そこにいた者は皆「またか」と思ったが、父に対してそれを口にする者はない。
 須坂吉向焼は、直格が須坂藩の財政難克服(こく ふく)のため、起死回生(き し かい せい)()けて行った藩主としての最後の事業と言えた。陶技(とう ぎ)意匠(い しょう)に優れ、諸大名にもてはやされていた吉向焼の創始者戸田治兵衛(と だ じ へ え)吉向行阿(きっ こう ぎょう あ))父子を須坂に招いて弘化二年(一八四五)、鎌田山(かま た やま)(ふもと)に信州最大級にして最先端の製陶技術(せい とう ぎ じゅつ)駆使(く し)した紅翠軒窯(こう すい けん よう)≠ニ名付けられた須坂吉向焼の巨大な登り窯を築いたのである。もっともそのとき家督は直武に譲っていたが、膨大(ぼう だい)な初期投資に加え、時代は高級陶器(こう きゅう とう き)などで呑気(のん き)に茶の湯などやっている雰囲気でなくなった。焼けば焼くだけ赤字がかさみ、わずか九年足らずで廃窯(はい よう)に追い込まれる。その後は行阿の弟子の手で日用雑器をひっそり焼いているが、隠居(いん きょ)の身となって久しい彼は、失敗の責任をすべて直武に負わせる形になったわけだ。それでもこうして顔を合わせるたびに「設備はあるのだ。もう一度挑戦してみろ」と(あきら)めが悪い。
 「父上に言われて高麗人参(こう らい にん じん)にも取り組んでみましたが、なかなかどうして栽培(さい ばい)が難しい……。杏や漆や桃にも手を伸ばしてみましたが、いまだ明るい兆しは見えません」
 直武の苦悩は想像以上で、深いため息を落とした。おそらくこのとき既に精神を病んでいたのだろう。
 「生糸(き いと)をやってみてはいかがです?」
 良山が呼吸をするように言った。
 「生糸?」
 「少し前に上田藩の松平伊賀守(まつ だいら い がの かみ)忠固(ただ かた))様がオランダやエゲレスを相手に生糸貿易を始めたという話を聞きました。上田の方では生糸商人が盛んに動いているらしいですよ」
 「面白(おも しろ)そうだが」と直武が言おうとしたとき、
 「忠固か……亡くなって今年の長月でもう二年になるか? 老中を二度も務めたのに、幕府にとっても須坂藩にとっても惜しい人物を失った」
 直格がぽつんと言った。彼にとっては財政のことより藩を取り巻く情勢の方が気になるらしい。直武は「お金の話はもうよそう」と言うように杯を飲み干した。

 文久年間の頃の須坂藩江戸藩邸上屋敷は南八丁堀にある。
 幕府の都合で敷地替えさせられることもしばしばあるが、いわゆるそこは与力や同心の組屋敷が建ち並ぶ町であり、代々の須坂藩主はおおむね呉服橋御門番(ご ふく ばし ご もん ばん)とか日比谷御門番(ひ び や ご もん ばん)などの警備職を歴任している。職種柄からすれば都合の良い場所なのである。
 翌日からさっそく登庁(と ちょう)した直武は例外にもれず江戸城警備に当たることになったが、これが大坂加番とか二条城加番、あるいは駿府城加番(すん ぷ じょう くわえ ばん)などの役目を与えられたとなれば現地にまで行かねばならないから、憔悴(しょう すい)した彼の身体を考えると免れただけで喜ばなければならない。
 当時は日曜とか土曜といった概念はないので、武士ともなれば盆と正月以外はいわゆる二十四時間体制で将軍を守らなければならない。と言えばひどく大変な仕事のように思えるが、その実質を問えば、出仕時間が朝四ツ時(十時)から午後九ツ半(十三時)までの三時間程度、門番などは交代番があるが、現代と比べれば職務の拘束時間は極端に短い。有事の時はいざ知らず、日常の時間的余裕はかなりあるので、その時間を当てて武術や学問などの自己研鑽に励み、有事に備えるのが面目である。それにつけても直武は出仕するだけでもきつそうで、上屋敷常住の江戸家老(え ど が ろう)駒澤式左衛門貞利(こま ざわ しき ざ え もん ただ とし)は、彼の様子を心配して下屋敷の直格に報告をしたほどだった。
 そして──
 十日ほど経ったある日、良山が直格に呼ばれて告げられたのは驚くべきことだった。
 「家督を継いでもらえんか?」
 良山は暫く言葉を失った。直武の妻は松平忠固(まつ だいら ただ かた)の弟に当たる西尾隠岐守忠受(にし お お きの かみ ただ さか)の養女であるが、嫡男がない。
 「承知の通り須坂藩の財政はにっちもさっちもいかん。そこへきて直武は人が良すぎる。国元の家老たちにものも言えず、好き勝手にやらせているようじゃ。それ以前にどうやら身体を(わずら)っておる。直武が血を吐くところを貞利が見たそうじゃ」
 「えっ?」と良山は小さな驚きの声を挙げた。
 「このままあいつに任せていたら、近い将来本当に須坂藩は破綻(は たん)する」
 直格の表情は深刻だった。この間の(うたげ)ではとぼけたふうを装いながら、彼は彼なりにすっかり直武の置かれた状況を見抜いていたようである。良山は突然の展開に躊躇(ちゅう ちょ)するより仕方ない。
 「こんなこともあろうかと五年前、お前を直武の養子にしておいたのじゃ。交代の日取りも決めた、霜月の六日じゃ。考える余地などない、腹を決めるだけだ」
 五年前の安政三年(一八五六)二月、何の前触れもなくその話を聞かされた良山は、父より直虎≠ニいう名を与えられていたが、あまり自分と合っていないようで馴染めず、実感が湧かないままいつしか忘れ去っていた。良山は父の抜け目なさに渋面を作り、
 「強引ですね。この前も申し上げましたが、私は私塾を開きたいのです」
 「私塾を開いて人を育てて何がしたい? 何を教えようとしてるのか知らんが、そんなもん開いてちまちま門弟に言い含めるより、藩主になれば(つる)の一声じゃ。この家に生まれた者の定めと思って(あきら)めよ。頼んだぞ」
 直格は有無を言わさず背を向けて、やりかけの日本画の画家伝記集の編纂の仕事を始めてしまった。お家にとっては何より重要な家督の話は二言三言で終えてしまって、自らの楽しみである仕事に向かう直格は根っからの文化人なのだ。
 「そういえばこの間頼んだ山桜の系譜集の方はどうなった?」
 良山はその言動に腹を立てたが、ぐっとこらえて、
 「題号を叒譜(じゃく ふ)≠ノしようと思います」
 と、静かに応えた。
 「叒譜=c…。うむ、なかなかよいな」
 良山は父の背中に一礼すると、そのまま部屋を出た。

 さて困った──。
 藩主になれと突然言われても、覚悟もなければその気もない。私塾を開いてようやく人生の道筋が見えかけたというのに、ああも強引に押し付けられたら身も(ふた)もない。直武が血を吐いたというのは当主に仕立て上げるための作り話ではないか? 兄は品行方正(ひん こう ほう せい)で知恵もあり、確かに人の良すぎるところはあるが、それが自分に替わったところで藩の状況が変わるわけでない。
 いらぬ事を考えながら下屋敷の敷地内を歩いていると、やがて家臣たちの長屋(なが や)が立ち並ぶ一角にたどり着いた。
 「なぜこんな所に来たのだ?」
 良山は自分の行動に首を傾げたが、無意識のうちに中島宇三郎(なか じま う さぶ ろう)の住居に向かっていたかと合点(が てん)がいった。幼少の頃の良山付き御近習(ご きん じゅう)で、元服(げん ぷく)して人事変更があったのでかれこれ十年くらい会っていない。もう五十路(い そ じ)を過ぎたろう、やたらと腰が低く馬鹿正直(ば か しょう じき)な上、気が良すぎるほどの善人で、当時も独り身だったが所帯(しょ たい)を持った(うわさ)は聞こえてこないのできっといまだ独身だろう。
 数えで十歳の夏だったか──
 ある夕暮れ、宇三郎の住居の前を通りかかったとき、開け放った屋内の中央に木机(き づくえ)を置き、上に乗ってなにやら黄ばんだ長い布切(ぬの き)れを一生懸命天井に()るそうとしている彼の姿を偶然見かけた。不審に思った良山は近寄り、
 「なにをしておる?」
 と声を掛ければ、驚いた宇三郎はバランスを崩して転げ落ち、腰を打って暫く痛そうにさすっていた。
 「(わか)(ぼっ)ちゃん……突然びっくりするではございませんか」
 「なにをしておると聞いておる」
 「もう夏でございましょう? 最近、()に喰われて(かゆ)くて痒くて仕方ありません。そこで蚊帳(か や)を吊るそうとしていたのでございます」
 「その黄ばんだ布切れは何じゃ?」
 「こ、これでございますか?」
 宇三郎は言いにくそうに暫くもじもじしていたが、やがて、
 「ふんどしでございます……」
 武士は食わねど高楊枝(たか よう じ)と言うほどに、ふんどしで蚊帳を吊るとは武士としてあまり格好の良い姿でない。宇三郎は顔を真っ赤に染めて、吊るしかけたふんどしをはずそうとすると、
 「はずすにはおよばぬ。そのままでよい」
 良山は無表情のまま暫く宇三郎の顔を見つめていたが、やがて、

 ふんどしで蚊帳をつりけり宇三郎

 そんな即興句(そっ きょう く)()んで何食わぬ顔で立ち去った。一応季語があるから俳句に違いないが、その滑稽さは川柳とか狂歌とか当時江戸で流行りの雑排の類いである。折に触れてそんな俳諧を詠むのを楽しみにした良山の、これが最初のそれである。
 おかげで夏の間中、宇三郎は他の家臣たちからふんどし宇三郎≠ニからかわれて過ごしたようだが、その出来事があった翌日、良山はこっそり真田紐(さな だ ひも)を届けた。これで蚊帳を吊るせというのである。ところが宇三郎はその紐を有難(あり がた)がって使おうとせず、ずっと神棚(かみ だな)に供えていたということだ。
 良山は長屋の一室で草鞋(ぞう り)を編むすっかり老いた宇三郎の姿を見つけた。
 「よう宇三郎、元気にしておるか?」
 宇三郎は仕事の手を休めて、立派に成長した良山に気付くと、みるみる双眸(そう ぼう)に輝きを取り戻し、「若お坊ちゃん!」と、しわがれた喜びの声を挙げた。彼は良山のことをいまだにそう呼んだ。
 「今日はふんどしは吊るしておらぬのか?」
 「──もうそんな季節でございますなあ」
 宇三郎は過ぐる日の冗談に乗って笑い、(わら)で散らかった部屋を片付け「いまお茶を()れます」と土間の釜戸(かま ど)で湯を沸かし始めた。
 「かまうな。ちと近くに来たもので、宇三郎がどうしているか気になって寄ったまでだ」
 「また(うれ)しいことをおっしゃいますが、そのお顔は、何かあったのでございましょ?」
 どうもこの男は(だま)せない。良山は遠くを見つめて、
 「実は父上より家督を継げと言われてのう……」
 遠い昔の思い出を辿るふうに呟いた。
 「それは、ご相談ですか? ご報告ですか?」
 「言い出したら梃子(て こ)でも動かぬ父上が申したのだ。両方じゃ」
 「それはおめでとうございます! たった今から殿≠ニ呼ばせていただきます!」
 宇三郎は自分のことのように歓声を挙げた。不思議なもので、()った瞬間、会わなかった間の(みぞ)が一瞬にして埋まる関係もあったものだ。
 「そんなにめでたいか?」
 「はい、めでとうございます。私は直武様が藩主になられた時から、若お坊ちゃん──いや、殿が藩主になれば良いのにとずっと思っておりました。もっともあのとき殿はまだ(とお)洟垂(はな た)れ小僧でしたがな」
 宇三郎は懐かしそうに笑って「むさくるしい所ですが」と屋内に招き入れた。藩主になろうとする者としては、藩が提供している長屋をむさくるしい≠ニは(しゃく)(さわ)ったが、部屋の中を四顧(し こ)してみれば、築何十年にもなる建物はなるほどそう言われても仕方ない。
 宇三郎は釜戸に(まき)をくべた。
 「わしに藩主など務まると思うか?」
 「思いますとも! たかだか一万石の小さな国の藩主など殿には役不足(やく ぶ そく)でしょう。殿はいずれ将軍様のお膝元(ひざ もと)で国を動かす仕事をなさるお方です。私は昔からそう思ってました」
 「ずいぶん大きく出たな。なぜそう思う?」
 「そりゃ御近習(ご きん じゅう)ですから。そうでも思わなきゃ、あのやんちゃな若お坊ちゃん──いや、殿の御世話などできません」
 「さような意味か。がっかりさせるな」
 「いいえ、本心ですとも! その利発(り はつ)さ、機転(き てん)の良さ、度胸(ど きょう)愛嬌(あい きょう)、人を引き込む魅力──、どれをとっても申し分ありません。こんな小さな時から殿を見て来た私が言うのです。間違いございません!」
 宇三郎の老いた瞳には涙がにじんでいた。
 思えば昔、この男を随分と困らせたものだ。家老が大切にしていた床の間の盆栽に小便をひっかけてみたり、手習いの(すみ)で掛け軸にらく書きしたり、できたばかりの屋敷の門を壊してみたり、そのたび宇三郎が間に入っていつも代わりに怒られ役を引き受けてくれた。あるときなど過ぎた悪戯(いた ずら)を見かねた彼の上役が、「お前には監督能力が全くない!」とお役御免(やく ご めん)を言い渡したこともあったが、寸でのところで父に泣きつき、「もうしませんから宇三郎をお許しください」と固く誓って許しを請うたこともある──その良山の長所も短所も知り尽くした宇三郎が、
 「でも……」
 と言いかけ言葉を止めた。
 「でも──? なんじゃ? 気になる、言え」
 宇三郎はそっと目を()らして、静かに「優しすぎます」と、彼の短所をずばりと言った。
 「なに?」
 「殿は優しすぎます。それだけが心配でございます」
 「どういうことだ?」
 「藩主になったら、家臣を(さば)かねばならない時もありましょう。そのときは鬼にならなければなりません。同情や優しさは一凶(いっ きょう)となり、時に大きな禍根(か こん)を残します。裁くべきは断じて裁く。上に立つとはそういうことでございます」
 「そう言う宇三郎は、わしを裁くことなどただの一度もなかったではないか」
 「裁かれる者の気持ちを知れば、優しい若お坊ちゃんは人を裁くことができなくなりましょう」
 「それを教えるために……?」と良山は思った。人生を懸けて自分を育ててくれた彼の心を知ったとき、今更のように胸が熱くなる。宇三郎はこの年になってようやく使命を終えたような晴れ晴れとした表情で土色(つち いろ)の顔に幾重(いく え)もの深い(しわ)を作ると、良山は涙腺を湯気で隠すように()れたての(しぶ)い番茶をすすった。
 
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(三)鴬谷(おう こく)先生
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 良山が深川の亀田鴬谷(かめ だ おう こく)が開く通称『亀田塾(かめ だ じゅく)』に通い始めたのは物心がつき始めた頃である。
 もともと亀田塾の祖亀田鵬斎(かめ だ ぼう さい)は書道の大家でもあり、妻を亡くした鵬斎(ぼう さい)が文化六年(一八〇九)、日光から佐渡の門弟のところへの傷心(しょう しん)の旅の途中、信州は北信地方を通った時に、藩や村を越えて地域の有力農民や富裕商家の文化人たちと交流したのが関わりの始まりだった。その復路(ふく ろ)(文化八年)、須坂藩の家老駒沢清泉(こま ざわ せい せん)が彼を屋敷に招き、七絃琴(しち げん きん)の演奏で歓迎した。
 それまでの須坂藩の教育は、第九代藩主堀直皓(ほり なお てる)が創設した講舎『教倫舎(きょう りん しゃ)』で教えた心学が中心だったが、郷土の中村習輔はじめ心学の中心的人物の力が弱まると、鵬斎の門人のひとり菊池行蔵を儒官として須坂に招き、併設という形で藩校『立成館(りっ せい かん)』を開設して藩の教育に儒学(じゅ がく)を取り入れるようになった。以来鵬斎(ぼう さい)の門は、一子である亀田綾瀬(かめ だ りょう らい)が後を継ぎ、更に鴬谷(おう こく)へと、須坂藩堀家では代々この亀田塾をひいきにしている。
 通う門弟といえば主に旗本(はた もと)御家人(ご け にん)の子弟たちで、亀田綾瀬(りょう らい)下総国(しもうさのくに)関宿藩(せき やど はん)教倫館(きょう りん かん)』の儒官(じゅ かん)を務めていたことから関宿藩の門人も多く、表向きは主に儒学を教えた。
 このとき鴬谷五十四歳、もとは下総(しも うさ)岡田郡(現茨城県)の出で鈴木を名乗っていたが、江戸に出て浅草の蔵前(くら まえ)で私塾を開いていた亀田綾瀬の門を叩いてからは、近くの鶯谷(うぐいす だに)に居住したことから『鴬谷(おう こく)』を名乗るようになった。
 良山が鴬谷先生を敬愛したのはその温かみのある笑顔と、あからさまに自分の過去を語るけっして偉ぶらない人柄による。亀田塾の祖鵬斎が豪放磊落(ごう ほう らい らく)な性格だったのに対し、二代目の綾瀬は「温顔(おん がん)の中、眼光(がん こう)人を()るを(おぼ)ゆ」と称される温厚篤実(おん こう とく じつ)君子(くん し)であったが、鴬谷はその二人の性格をあわせ持つような不思議な魅力があった。
 「おれが亀田塾の三代目になったのは、ぬい()れたからよ」
 とは酔ったときの口癖(くち ぐせ)で、(ぬい)とは彼の妻の名である。
 実は綾瀬には子がなかった。そこで養女を迎え入れたが、ただの書生だった鴬谷はその娘をひと目見てぞっこん惚れてしまった。その娘というのが若かりし縫である。それまで塾生の中でも特に目立ちもしない存在だった鴬谷が、以来(ぬい)と一緒になることを目標に定め、師の綾瀬(りょう らい)に認めてもらおうと俄然(が ぜん)勉学に打ち込んだのだ。
 「学問なんて所詮(しょ せん)そんなものよ。それより大事なのは(おのれ)がどうあるかだ」
 と、いつも冗談交じりに笑い飛ばすが、それが案外(まと)を射ていると感じてしまうところに、良山は強い(あこが)れと親近感を覚える。
 鴬谷(おう こく)の唱える和魂漢才(わ こん かん さい)≠ネるものは、その言葉自体は古くは平安時代中期には成立していた概念で、大和魂(やまとだましい)唐才(から ざえ)≠ニいう言い方もある。読んで字のごとく「日本の精神」をもって「中国の学識」を為すことで、中国渡来の学問や優れた思想哲学(し そう てつ がく)を実生活の中に取り入れながら、振る舞いや行動、あるいは処世術(しょ せい じゅつ)や判断は、日本固有の精神である大和魂(やまとだましい)に従おうとする考え方である。鴬谷自身「和心(わ ごころ)のない(やつ)に儒学を学ぶ資格などない」とよく言っているが、彼の言う和魂≠ニは大和魂だけにとどまらず、その生きざまと深く関係しているようだった。つまり(おのれ)≠ニいうものが入ってくる。大和魂の実在は己にあり、突き詰めるところ「己とは何ぞや」を問い、追求するところに学問・教育の意義があると結論していた。
 そんな講義を流暢(りゅう ちょう)(しゃべ)っていると、決って妻の(ぬい)が現れて塾生に茶菓子(ちゃ が し)を振る舞う。そして、
 「そう言うあなたは何者よ、ねぇ?」
 と塾生たちに賛同を求めた。すると、
 「おれか? おれはぬいに惚れた男よ」
 とのろけて、亀田塾はいつも笑いに包まれた。
 そんな気さくな妻(ぬい)も良山は大好きで、(よめ)にもらうなら彼女のような根っから明るい女性が良いと密かに思った。ちなみに二人の子である亀田雲鵬(うん ぽう)も須坂との関わりが深い。
 幼少の頃の良山は学問よりいたずらをしている方が楽しく、塾以外では勉強などしたことがなかったが、元服(げん ぷく)を迎えて浦賀のペリー来航で江戸の町が天地鳴動(てん ち めい どう)の騒ぎに包まれた時、
 「わしはこのままでいいのか?」
 と心の底から動執生疑(どう しゅう しょう ぎ)が湧き起こった。そうなったら()(たて)もたまらず、「何か事を起こさなければ!」と若い血が騒ぎ、居ても立ってもいられなくなった。数えで十八歳の夏である。
 そして翌年、日米和親条約締結(にち べい わ しん じょう やく てい けつ)のため再航した総計九隻の黒船に対し、幕府から下総の海岸防備を命じられた松代藩と一緒に、須坂藩からは藩士(はん し)四十四名がその警備に当たることになった。そこに自ら志願した良山は、浦賀沖に停船する巨大な船から、もうもうと()き上がる黒い煙を見たのだった。
 松代藩の中に(ひげ)(たくわ)えた目付きの鋭い不惑の年ほどの偉そうな男がいた。彼の存在が気になったのは、その頃はまだ珍しい望遠鏡をしきりに覗き込み、観察した黒船の絵図を紙に描き込んでいたからである。このとき軍議役を仰せつかっていた松代藩の佐久間象山という男であることはすぐに知ったが、突然観察の手を休めた彼がこう叫んだ。
 「おーぃ誰か、あそこまで泳いで異人(い じん)さんに挨拶(あい さつ)して来れる(やつ)はないか?」
 「わしが行く!」
 良山は燃える情熱に任せて象山の前に進み出ると、衣服を脱ぎ捨てふんどし一丁姿で、そのまま海に飛び込もうとした。ところがその腕を慌てて(つか)んだ象山は、
 「阿呆(あ ほう)! 冗談じゃ」
 と差し止めた。幕府に無断で外国船と接触するなど重大な罪に問われる。まして密航(みっ こう)など考えようものなら──と思うそばから、それを(くわだ)てたのが長州藩(ちょう しゅう はん)吉田松陰(よし だ しょう いん)だった。曲がりなりにも彼もまた象山の弟子であり、そのとき「あの船に乗って外国事情を学んで来たいとは思わぬか?」とそそのかしたのも象山なのである。
 「馬鹿が二人いた」
 と(あき)れつつも、内心どこかで喜んでいた象山は、幕府の取り調べを受けた時、
 「若者が外国へ学びに行こうとするのを勧めて何が悪い!」
 と突っぱねて、自国蟄居(ちっ きょ)沙汰(さ た)を言い渡されるのだ。
 象山の話はさておき、そんな出来事を通して、良山は自分がいかに無知であったかに愕然(がく ぜん)とした。彼が漢学に没頭(ぼっ とう)し始めたのはそれからである。
 『四書五経(し しょ ご きょう)』は(はな)から、『史記(し き)』や『漢書(かん しょ)』や『三国志』や『晋書(しん じょ)』などの中国の歴史書をはじめ、手に入る書物なら片っ端から集め、寝る時間も惜しんで学問に励んだ。そのすさまじさたるや、元服後に御近習となった柘植宗固(つ げ むね かた)に言わせれば、
 「若様がいつ寝ていつ起きているのか、まったくわからん」
 だった。夜が()ければ「先に寝よ」と家臣たちに気を遣い、自分はいつまでも机にむかって誰よりも遅く寝たかと思えば、朝は誰よりも早く起きて机にかじりついている。わずか唐紙(から がみ)一枚ほどで(へだ)てた隣の部屋にいながら、良山が寝ている姿を誰も見たことがないのだ。
 この柘植という男だが、その苗字の出どこを探れば伊賀国である。戦国時代はいわゆる忍びの者の血筋で、その彼にしてそう言わしめる良山は、もとより素質もあっただろうが、その成長ぶりには師の亀田鴬谷も目を丸くした。
 「もう教えることがない──」
 と(した)を巻いたので、当時西洋学の主流であった蘭学(らん がく)に手を出した。今から思えば英学(えい がく)を学べば良かったと思うが、「藩主になれ」と父に告げられた頃に至っても、開国間もない日本では肝心(かん じん)の英語の書物自体手に入らない。
 そして月日は矢のように流れ去り、藩主交代の十一月六日が近づいた。
 それにつけても父の強引さが気に入らない。宇三郎の前で素直になれたのは、幼少より跡継(あと つ)ぎ教育を無意識のうちに受けてきたからだろう、五男とはいえ心のどこかで「もしや」を感じていたからだ。世襲制(せ しゅう せい)が当たり前の国だから仕方ないかも知れないが、日本人たる(じゃく)≠フ習わしに矛盾(む じゅん)するその大きな葛藤(かっ とう)は、あるいは若さの(しる)しだった。
 そもそも須坂藩堀家の発祥を探れば戦国時代にまで遡る。豊臣秀吉の重臣堀秀政の従兄弟に当たり、堀家の家老だった奥田直政の四男直重が祖とされる。最初奥田姓だった直政はやがて堀姓を与えられ、初代堀直重は早い時期から徳川家に近づいた。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いで東軍について軍功を挙げ、下総国(しもうさのくに)矢作(や はぎ)に二、〇〇〇石と信濃国須坂に六、〇〇〇石の所領を与えられ、さらに慶長十九年(一六一四)からの大坂の陣でも徳川方として参戦し、そこでも功績を挙げて高井郡内に四、〇五三石を封土され一万二、〇五三石の大名となった。その後二代直升の代に下総矢作の二、〇〇〇石を弟たちに分知したため一万五十三石となって現在に至る。とはいえ豊臣政権下から派生したものだから外様大名には違いない。
 初代直重(なお しげ)∴ネ来、須坂藩堀家の当主は代々直≠フ後ろに(ます)(てる)(すけ)(ひで)(ひろ)(かた)(さと)(てる)(おき)(ただ)(たけ)≠当てて名としてきた。なのに、なぜ自分だけ獰猛(どう もう)畜生(ちく しょう)である(とら)≠ネのか? 良山は父が命名した直虎≠ニいう名からして納得していない。
 自分はもっと穏やかで、どちらかと云えばのほほんとした性格なのだ。どうせ名乗るならもっと知的で上品な方が良い。いっそ直虎≠ヘやめて、自ら考えた名で藩主になるのを条件にしようとも考えたが、肝心の佳い名が思いつかない。憤慨と迷いで揺れる良山はその夜、亀田塾の門をくぐった。
 「どうした? ()えない顔をしておるぞ。藩主がそれでは須坂藩の先が思いやられるな」
 鴬谷はいつものように彼を迎え入れた。
 「ちと、ご相談に乗っていただきたい儀がございまして……」
 「そうか、まあ中に入れ」
 誰もない亀田塾のいつもの部屋に通され師の正面に対座した良山は、「一本浸けますか?」と姿を現した縫のいつもの笑みに心和ませた。
 「急に逃げ出したくでもなったか? 顔に書いてあるぞ」
 鴬谷は全てを見抜いているかのように「お前らしくない」と笑う。
 「なんだか落ち着かないというか、自分が自分でないようで、どうもしっくりこないのです」
 すると鴬谷は少し考えて、
 「お前は何になろうとしているのか?」
 と問うた。
 「無論、藩主です」
 「それだ、それがいかん。お前はお前でないものに成ろうとして、無理やり覚悟を決めようとしておるのだろう。お前はお前にしかなれんよ」
 と、幼少の思い出話がはじまり、ふとした拍子に宇三郎のことが話題に挙がった。思い起こせばその小さかった手を引き、いつも亀田塾に連れて来たのも彼だった。
 「御近習の中島宇三郎君には相談したのかい? 彼が君のことを一番よく知っているじゃないか。最近見ないが元気にしているのかな」
 宇三郎の話が出たのはやや意外であるが、本題から離れ、別の話題で(こと)(きも)を見つけ出し、本人を納得に導こうとする鴬谷のいつもの手法であろう。
 五、六歳の頃だったか、塾の勉強に()いた良山がすぐ横にあった障子を破り始め、そのうち暴れて部屋中の障子を破ってしまったことがある。そのとき「申し訳ない!」と頭を床にこすりつけた宇三郎が、夜中まで一人で張り替えをしていたことや、年上の子と喧嘩(けん か)して怪我(け が)をさせてしまい、先方の親がひどい剣幕で塾に苦情を言いに来たときも、宇三郎がすまなそうに大きな菓子折りを持って謝りに行ったことなど、塾で起こった彼にまつわる思い出話が次々と飛び出した。そして酒を運んで来た(ぬい)が笑いながらこう言った。
 「(りょう)ちゃんの半分は宇三郎さんでできているのね」
 彼女は良山のことを親しみを込めて「良ちゃん」と呼ぶ。その笑顔を見ていると、どれほど深刻な状況に置かれていても、悩んでいること自体馬鹿げてくる。
 やがて鴬谷は話しを戻す。
 「おれはお前の師匠(し しょう)だが、お前の師匠になろうと思ってなったわけでない。お前がここに来たから師匠になったのだ。いまでさえ多くの塾生を得たが、もとをただせば綾瀬(りょう らい)先生と出逢い、(ぬい)に惚れたからこそおれがある。ぜんぶ母ちゃんのお陰さ」
 「またその話し?」と(ぬい)は呆れたようにまた笑った。
 「いいじゃねえか、ホントのことなんだから。だからおれは儒学の師匠だなんてこれっぽっちも思っていないんだ。どこまでいってもおれは綾瀬先生の弟子であるし、母ちゃんに惚れたただの男だよ。だから偉そうに背伸びする必要もなければ、見栄(み え)を張る必要もない」
 (さっ)しのいい良山は、おおよそ師の言わんとすることが理解できた。彼の説く和魂≠ニは大和魂≠フことであり、大和魂≠フ実在は己≠ノあり、己≠ニはすなわちありのまま≠ニいう意味で、そこから離れた時、人は何者にもなれないという事を教えようとしているのであろう。
 「さて良山君、いまから一つ試験問題を出そうと思うが、答えられるかな?」
 鴬谷は禅問答(ぜん もん どう)でもするような意地悪(い じ わる)(ふく)み笑いで良山を見つめた。良山はかしこまって「どうぞ」と姿勢を正した。
 「──君は何者か?」
 「私はたかだか一万石の堀家の五男坊です」
 「それだけか?」
 「亀田鴬谷先生の弟子になった男です」
 「それから?」
 良山は少し考えて、
 「父上の盆栽(ぼん さい)に小便をかけて遊んでいた男です」
 (ぬい)がプッと吹き出した。
 「そんなことをしたのか! まあよい、それから? まだあるだろう?」
 すると良山の頭の中に、幼い日の出来事が走馬灯(そう ま とう)のようによみがえった──。
 まだ三、四歳の頃だったろうか、一人で遊んでいると乳母(めのと)(とも)が「負んぶしてあげましょう」と言ってきた。若い彼女は美しく、幼かった彼の憧れだったが、()(かく)しに「オオ」と横柄(おう へい)に応えて勢いよく背中に負ぶさると、手にした手拭(て ぬぐ)いの先端を彼女の口もとに垂らして「くわえよ」と命じた。朋は言われるまま(くわ)えると、
 「やあっ! バカを釣った、バカを釣ったぞ!」
 魚釣りを()したその光景を見ていた周りの者たちはどっと笑い、良山も得意になって大喜び。朋はすっかりしょげてしまう。またある時は「この手ぬぐいをくわえて()え!」と命じた。
 「若様、ご冗談はおやめください」
 彼女は恥じらいもじもじしたが、もっと困らせてやろうと腹を立てた振りをして「無礼者(ぶ れい もの)!」と叫ぶと、彼女は仕方なく言われたとおりに腹ばいになって手拭いを銜えた。すると良山はいきなりその背にまたがり、手拭いを馬の手綱(た づな)に見立て、
 「やあっ! お(んま)じゃ、お(んま)じゃ! ハィ、ハィ、ドウ、ドウ、飛べ、飛べっ!」
 と大はしゃぎ。その遊びがたいそう楽しく、朋の(ひざ)はいつも()り切れ「痛い、痛い」と言っていた。
 なぜよりによってそんな事が思い出されたか、あの時「ごめん」の一言が(のど)まで出かかって言えなかった後悔が、今更のように良山を苦しめた。もしかするとあれが支配欲の芽生えであったか、結局その言葉を伝えられないまま彼女はどこかへ嫁いで行った。
 しょせん自分はそんな人間なのだ──。
 そう思ったとき、他人にはけっして知られたくない一番思い出したくない自分を思い出す。
 「お前は何者だ?」
 更に問い詰める師に隠し事はできない。良山は人非人(にんぴにん)(ののし)られようと白状しなければいけない良心に従った。
 「乳母(めのと)行水(ぎょう ずい)(のぞ)き見した男です」
 鴬谷と(ぬい)は顔を見合わせた。
 「(あき)れたやつだ! もうよい。そんな奴がよくぞここまで成長したものだ。これからも学問を(おこた)ることなく、お前のままでゆけばよい」
 自分らしくあれ──鴬谷先生はそう教えている。ありのまま眼前の障害に尽力し、乗り越え難きは力を付けるだけで、己を取り巻く環境などある意味どうでもよいことなのだ。私塾開設の夢が強引な父に打ち砕かれ、翻弄されて己の実在を見失っていたことに気付いた良山の煩悶(はん もん)は、俄かに嘘のように晴れ渡った。
 「わかったようだな」と柔和な笑みを浮かべた鴬谷の表情は、つい先ほどまで拷問官に見えていたものが、慈父の菩薩に変わったかに感じられた。
 「実はもう一つお願いがございます。新しい名を命名して欲しいのです。堀家は代々初代直重公(なお しげ こう)の直≠フ字を頂戴(ちょう だい)することになっておりますが、私に見合った()い名を先生から(たまわ)りたい」
 「直虎(なお とら)≠ナはないのか?」
 「どうも何から何まで父上の言いなりになっているようで癪なのです。自分らしくあるために、私に相応しい名を名乗りとうございます」
 「名など何でもよいでないか。今年の干支(え と)は何じゃ?」
 「辛酉(かのと とり)です」
 「では(とり)でよかろう。直鳥(なお とり)≠ナどうじゃ」
 その身も(ふた)もない単純な発想に、(ぬい)の方が不服(ふ ふく)そうに口を(はさ)んだ。
 「それでは鉄砲の音がしたらすぐに飛んで逃げて行ってしまいそう。藩主が真っ先に逃げそうな名前なんて可哀想(か わい そう)よ」
 「そうか?」と鴬谷は首を傾げて、
 「藩主になる日は何日だったかな?」
 「来月六日でございます」
 「十一月の六日(新暦では一八六一年十二月七日)か……その日の干支日(え と び)は何かな?」
 頭をひねった割に発想が同じことを笑いながら、縫は箪笥(たん す)の上に置いてあった(こよみ)をめくって「庚寅(かのえ とら)ね」と言った。
 「では(とら)でどうじゃ? 直虎(なお とら)≠カゃ!」
 「いいじゃない!」と縫も喜びの声を挙げたので、良山は「同じではないですか!」と反駁した。
 すると鴬谷はニヤリと笑んで「お前は父の心が分らぬか?」と諭した。
 「直虎(なお とら)≠ニ命名されたのはいつじゃ、何年の何月何日じゃ? 家に帰ってちゃんと調べてみよ。おそらく庚寅(かのえ とら)の日に違いない。(かのえ)≠ヘ五行(ご ぎょう)金行(きん ぎょう)のうち(よう)(きん)を表すから(かね)には困らん。それに鉱石や金属の原石の例えにも使われる文字だから(かた)くて荒々しい攻撃的な性質を示す。いかにも強そうじゃないか! 父はお前に勇ましくなって欲しいのだ。なよなよしていたのでは藩主など務まらん」
 良山は「はっ!」として、今更のように父の思いを知った気がした。鴬谷は続けた。
 「儒学では父親への孝≠ヘその思想の根幹とも言える。それに報いるのが子の務めというものぞ。ここはつまらぬ我≠ネど捨てて、父を立ててやってはどうか」
 この瞬間、良山の腹は完全に決まった。ここに須坂藩第十三代当主堀直虎(ほり なお とら)が誕生したのである。
 
> (四)上田藩の姫君
(四)上田藩の姫君
 
> (五)土屋坊(ど や ぼう)村の民蔵(たみ ぞう)
(五)土屋坊(ど や ぼう)村の民蔵(たみ ぞう)
 
> (六)切腹の沙汰
(六)切腹の沙汰
 
> (七)(ほう)けもの()けもの
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> (八)十六連発銃
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> (九)糸縒(いと よ)りの娘
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> (十)直武の死と風雲の世
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> (十一)七両と二分
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> (十二)采薇(さい び)
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> (十三)パンなるもの
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> (十四)フランス革命〜パリ民衆の春と冬
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> (十五)樅木(もみのき)叒木(じゃくぼく)
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> (十六)大番頭(おお ばん がしら)
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> (十七)ストレート・タイガー
(十七)ストレート・タイガー
 
> (十八)赤い糸
(十八)赤い糸
 
> (十九)木花桜姫(この はな さくや ひめ)
(十九)木花桜姫(この はな さくや ひめ)
 
> 【桑実の章】
【桑実の章】
 
> (二十)虎さん・サブちゃん
(二十)虎さん・サブちゃん
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 ちょうど枕もとの下の床が小さくトントンと鳴った音に直虎は目覚めた。
 水戸藩と長州藩を中心とする尊王攘夷派浪士たちの動きを探っている柘植角二(つ げ かく じ)宗固(むね かた)が、縁の下から話がある″と伝えている。
 横で小さな寝息をたてる俊に気遣いながら、そっと上半身を起こした直虎は、物音ひとつたてずに着物を羽織って奥の間を出た。そして闇に支配された公の間に行燈(あん どん)の灯をともせば、そこに慇懃(いん ぎん)に平伏している宗固がいて、胡坐(あぐら)をかいた直虎は花冷えの寒気にぶるると体を震わせた。
 「どうした、こんな夜更けに?」
 「水戸の筑波山(つく ば さん)にて浪士六十数名が挙兵し、その数が雪だるま式に膨れ上がっている模様です」
 「なにっ?」と声を挙げた表情が一瞬青ざめる。よもやその鎮圧を命ぜられるとしたら、大番頭(おお ばん がしら)こそ筆頭に挙げられる役回り。いま須坂藩には武器がない。「こりゃ参った……」と言わんばかりの表情で、
 「水戸藩内のゴタゴタには水戸家老武田耕雲斎(たけ だ こう うん さい)殿が収拾に動いていたのではなかったか?」
 とひとりごちた。
 水戸藩内のゴタゴタというのは、その政権をめぐる保守派と尊王攘夷派との勢力争いのことである。このとき耳順(じじゅん)に一つ年を加えていた水戸藩士武田耕雲斎は、徳川御三家の一つ水戸藩第九代藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)時代からの水戸の忠臣と聞こえる男であった。そもそも水戸藩と言えばペリー来航当時から尊王攘夷≠主導しており、斉昭時代がその最盛期だった。ところがどんな組織においても保守派と革新派は必ず存在するもので、平時は両者の絶妙なバランスの上で健全な組織体制を保持するが、幕末の如き乱世にあっては支点を失ったシーソーが大きく(かし)いで崩壊するものか。水戸藩に関して言えば支点≠ヘ徳川斉昭(とくがわなりあき)に違いなく、安政の大獄で力を奪われた彼が万延元年(一八六〇)八月にこの世を去ると、それまでの中心勢力は次第に力を失い藩内は大混乱に陥った。これと同様の現象は少し後の長州藩などでも見て取れる。
 そんな勢力争いの中で昨年の十二月から今年にかけて、上総国(かずさのくに)の農家に攘夷派浪士たちが集団で押し入り、金銀・米穀・刀槍・木材などを掠奪したり乱暴を働くといった事件が横行していた。これに対して幕府は、いずれも上総国の佐倉藩主堀田中備守正睦(なかつかさのかみまさよし)一宮藩(いちのみやはん)加納備中守久徴(びっちゅうのかみひさあきら)、そして東金御殿(とうがねごてん)を有する板倉内膳正(ないぜんのしょう)勝長(福島藩主)に命じて浪士の(やから)を捕縛せしめたが、警戒を深めた幕府を刺激するように、水戸浪士たちの筑波山挙兵は、武田耕雲斎の必死の押さえが限界に達した印しに違いなかった。宗固は続けた。
 「耕雲斎はいま江戸におり、京都の一橋(ひとつ ばし)公は耕雲斎に出兵の要請を打診したとのことです」
 「それは水戸の挙兵に対してか?」
 「いえいえ、出兵要請は筑波山の挙兵より前ですから一橋公はまだ知りません」
 「とすると京に兵の入り用だな。長州攻めの方か? それとも水戸藩を一つにまとめ上げるための算段か?」
 一橋慶喜は一橋家の養子だが、もとを正せば徳川斉昭の実の子(七男)である。このとき朝廷から禁裏御守衛総督(きん り ご しゅ えい そう とく)および摂海防御指揮(せっ かい ぼう ぎょ し き)に任じられていた彼は、いわば朝廷の顔、幕府の顔、そして水戸藩の顔といった三つの顔を持っていた。直虎は小笠原長行が彼のことを『二枚舌の喰えない男』と酷評していたのを思い出し、その腹を探ろうとしてみたが、持ち得る情報だけでは今の段階で何とも評価することはできない。
 昨年の八月十八日の政変で、京都を追われた長州藩に対する朝廷と幕府の非常な警戒心は、今年の二月に出された長州征討準備令を見ても明らかだ。京都における政治運営は、将軍徳川家茂の二度目の上洛に伴い実質的に組織された一橋慶喜・島津久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城らを中心とした参与会議で行っており、そこでは長州藩の処分問題や横浜鎖港問題について話し合われていたはずだが、この会議には諸問題を解決する以前に構成員同士の不仲という大きな欠陥があった。直虎が俊との結婚を控えていた頃、参与メンバーの酒席で慶喜が、
 「島津と慶永と伊達の如きは天下の大愚物! 俺と一緒にするな!」
 と暴論を吐いたという噂が江戸にまで聞こえて来たほどだ。案の定、参与会議は結成からわずか三カ月足らずで瓦解を迎え、その後慶喜は、会津藩主松平容保(かた もり)と桑名藩主松平定敬(さだ あき)との関係を深めていく。その間、長州征討問題は放置されたままの状態なのである──。
 宗固の情報によれば、水戸藩内の情勢は次のとおり。
 現在政権を握っているのは諸生党と呼ばれる保守派勢力で、まだ年少の藩主慶篤(よしあつ)を取り込み斉昭時代の中心勢力を次々と排除して幕府にすり寄っていると言う。幕府にとって攘夷派は敵であり、その分諸生党と結び付きやすい。一方、藩を追い出された攘夷派の者達は、政権を奪還するためなりふり構わぬ盗賊まがいの悪事を働き資金集めに躍起になった挙句、ついに筑波山に結集したというわけである。この集団は鼻を高くして偉ぶる″意から、後に天狗党(てん ぐ とう)″と呼ばれる。
 そんな水戸藩を中心とした関東一円のゴタゴタを収拾させるため、名目上幕府から派遣されたのが武田耕雲斎だった。
 耕雲斎は斉昭時代から藩の要職にあり、文久二年(一八六二)十二月に、一橋慶喜が京都に向かう際も随従するほど慶喜から信頼されており、京都においては水戸藩主徳川慶篤(よし あつ)の弟松平昭訓(あき くに)の補佐役となって御所近くの長者町に住まうようになってからは、宮中において孝明天皇との陪食を仰せ付かるほどの栄転を果たしていた。その後、慶喜の帰東に伴い京都を離れ、藩主から水戸の海岸巡視を命ぜられ国許に戻るものの、再びの将軍上洛に伴い慶喜の要請で再度水戸から江戸に登った。ところが慶喜が京へ発った後の文久三年(一八六三)も終わろうとする頃、攘夷派浪士たちによる関東の不穏な動きに対処するため、幕府の関東鎮撫の命により再び水戸へ向かう。そして年が明けて一月、家老クラスとしては破天荒と言える伊賀守≠フ官位と従五位下≠フ叙任を受け、つまりここまでの武田耕雲斎は、朝廷からも幕府からも大きな信頼を寄せられた陪臣のはずだった。
 ところが、事態は彼自身想像だにしない方向へと展開していく──。
 
 翌朝──、
 須坂藩邸の門前に一人の旅姿の男が立っていた。それに気付いた野平野平(の だいら や へい)が声をかければ、男は「上田藩から嫁いだ俊姫様にご挨拶に参った」と言う。野平が台所でパンの生地をこね回していた俊に取り次げば、
 「サブちゃんではないか、よう参った! ここはわらわの家じゃ、遠慮せずにあがるがよい」
 小麦粉で顔を白く染めた歓喜の奇声が俄かに玄関先を賑わせた。男は俊の嫁入りの護衛で江戸に来て、これから上田へ帰ろうとする赤松小三郎である。
 「ちょうどよいところに来た、サブちゃんは運が良い! 亀井戸の下屋敷から椿(つばき)さんがどら焼き″を()うてきたのじゃ、食うてゆけ。須坂藩御用達(ご よう たし)の『三葉屋(みつ ば や)』だか『四葉屋(よつ ば や)』だか忘れたが、そこの菓子がめっぽう旨いのじゃ!」
 無邪気に屋敷内に招き入れた見知らぬ男の侵入に、式左衛門や要右衛門、その他の須坂藩士たちはみな怪訝(け げん)そうな目付きで彼を迎え入れたが、そんなことにはおかまいなしの俊は、
 「松野、茶の用意じゃ!」
 と童女のように声を弾ませ接客用の座敷へと入った。その様子を目で追いながら、
 「どら焼きだってよ……」
 真木万之助が近くにいた中野五郎太夫にぼやくと、五郎太夫も「いいなぁ……」とでも言いたげな表情で、二人は手にした(いびつ)なパンをかじった。
 部屋に通された小三郎は、脇で茶を淹れている松野を横目に、
 「俊姫様、そのお顔はいったいどうなされたのですか?」
 おしろいにしては杜撰(ず さん)な白く汚れた顔を見て聞いた。
 「わらわはもう俊でない。(ち づる)と申す。君子(くん し)()()(つる)じゃ。虎さんが名付けてくれた」
 冒頭から的外れな事を口走るのはいつもの癖で、話を合わせて「それは佳き名にございます。仲睦(なか むつ)まじいご様子、なによりでございます」と言う小三郎は、先ほどから鼻の頭の白い粉が気になって仕方ない。
 「これより上田へ戻ります故、その前にご挨拶にお伺いしました。お元気そうなお顔を拝見し、忠礼(ただ なり)様(上田藩主)もさぞお喜びになるでしょう」
 「うむ、わらわはすこぶる息災じゃ。忠礼にそう伝えよ。そうじゃ、帰る前に虎さんに()うてゆけ。虎さんもサブちゃんに会いたがっていたところじゃ!」
 小三郎は恐縮して「あまり長居もできません……」と拒むより早く、俊はすくっと立ち上がり「虎さん、サブちゃんが来たぞ!」と、大声を挙げて襖も閉めずに座敷を飛び出した。
 茶を淹れ終えた松野はその襖を閉めて、
 「お転婆(てん ば)ぶりは相変わらずでございましょ? 前よりはじけているかも知れません」
 と、湯呑に添えてどら焼きを差し出した。
 「慣れない環境で委縮してないかと心配していましたが、天真爛漫で無邪気な性格を更に引き出すとは、直虎公とはよほど(ふところ)の深いお方と見える──。ところで姫様のあのお顔の白い粉はいったい何でございます?」
 「あぁ、あれですか!」
 松野は声を挙げて笑い出した。
 「俊様はこのところパン作りに夢中なのです」
 「パン? パンとは西洋のあのパンですか? また異な趣味を持たれましたなぁ?」
 「ここのお殿様が藩内を西洋化すると入れ込んでいるのです。俊様はパンの作り方をお殿様から(じか)に教わりになって、来る日も来る日もパンばかり作っておいでです。ああ見えて気に入られようと一生懸命なのですよ。おかげで須坂の藩士の皆さんは、食べたくもないパンを毎日食べさせられて、もう見るのもうんざりのご様子です」
 「それはお気の毒に……」
 暫くして家老の式左衛門が「赤松殿、公の間へおいで下さい」と藩主の言葉を伝えた。
 単に挨拶に来ただけの小三郎は恐縮しながら公の間に連れられると、身支度を整え正座した直虎の隣に、すっかり一国の藩主の奥方の顔をした俊を見た。
 脇に目を移せば、明らかに火縄銃とは違う西洋のライフル銃が飾り物のように立てかけられている。片井京助から買い受けたアメリカ製のヘンリー十六連発銃である。
 小三郎は用意された座布団の上に正座して平伏すると、直虎は柔和な表情を浮かべ、ようやく見つけた大事な探し物を掘り当てた童のように目を輝かせた。
 「お初にお目にかかります。わたくし、須坂藩当主(ほり)内蔵頭(くらのかみ)ストレート・タイガーと申します。ずっとお会いしたいと思っておりました、貴殿が赤松小三郎殿ですか! 実は──」
 と、小笠原長行にその名を聞かされてから今に至るまで、会うためにさんざん手を尽くしてきた経緯を語って聞かせた。
 赤松小三郎は天保二年(一八三一)、上田藩士芦田勘兵衛の次男として上田城下で生まれ、幼少は藩校『明倫堂』で学び、嘉永元年(一八四八)数え十八のとき江戸に遊学して西洋兵学者下曽根信敦(金三郎)の門を叩く。二十四歳のとき同藩士赤松弘の養子になった後、勝海舟に師事して長崎海軍伝習所に赴き、オランダ人から語学、航海術、測量術、西洋騎兵学等を学び、その時すでにオランダの兵学書『矢ごろのかね小銃彀率(しょう じゅう こう りつ)』を翻訳・出版した英才である。その後、海軍伝習所の閉鎖に伴ない江戸に戻るが、万延元年(一八六〇)、家の事情により上田に帰って赤松家の家督を継いでからは、上田藩の歩兵銃隊や砲術の軍事に関わり、このとき数えで三十四歳──。
 「ス、ストレート・タイガー?」
 小三郎は臆面もなくそう名乗った五つ年下の直虎の顔を不思議そうに見つめ返した。
 「直虎≠英語でストレート・タイガー≠ニ訳すのです。赤松殿は英学の方は?」
 「下曾根金三郎先生のもとで蘭学を学びましたが、恥ずかしながら英学の方はまだまだで、これから勉強しなければと思っていたところです」
 「西洋砲術の下曾根稽古場ですな。先生はいま歩兵奉行をなさっていると思ったが、そういえば講武所で砲術師範役を務めていたこともあったそうですなあ」
 大関増裕(おお ぜき ます ひろ)からの又聞きで講武所の様子は詳しい。
 下曾根金三郎(信敦(のぶあつ))といえば江戸では西洋砲術の師範として高名な旗本である。江川坦庵(たん なん)同様、高島秋帆の砲術公開演習に立ち会ったあと彼に弟子入りし、以後私塾を開いてその普及に努めていると聞く。佐久間象山もこの塾に通っていた時期があり、入門者は延べで千人を数えると言われるほどで、幕職としては鉄砲頭にはじまり、西ノ丸留守居、講武所砲術師範役、歩兵奉行などを歴任して、この頃は西ノ丸留守居格・砲術師範役となっていた。
 「昨日、下曾根先生の私塾へ顔を出したのですが生憎(あい にく)先生は不在で、以前塾頭をされ遣欧使節として西欧からお帰りになられた佐野鼎(さ の かなえ)さんとお会いすることができました」
 遣欧使節というのは万延元年に日米修好通商条約の批准書交換のためアメリカに派遣された使節団に続いて幕府が欧州に向けて派遣した文久遣欧使節の事である。文久元年十二月に品川を出航した一行は、オランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルを廻り文久二年四月に帰国した。佐野鼎はその派遣員三十六名のうちの一人で、万延元年の遣米使節にも選ばれた逸材である。
 「佐野鼎──」
 直虎は小笠原長行から聞いたもう一人のその名を思い浮かべた。
 「砲術師範としていまは加賀藩に仕官されている方です。加賀藩では昨年蒸気帆船『発機丸』を購入し、こたびの上様の上洛にもお供する予定でしたが、機関部のボイラが故障し品川で足止めを喰らったと嘆いておりました」
 「海に隣接する国は何かと物入りですな。してその『発機丸』はどこの国の船か?」
 「エゲレス製にございます」
 「では佐野鼎殿は英語も堪能ですな?」
 「そりゃもう。メリケン人に将棋のやり方を教えたほどだと聞きます」
 実は赤松小三郎も遣米使節の咸臨丸の乗組員に志願した経緯を持っている。しかし願い叶わず彼曰く、
 「佐野鼎さんとは長崎の海軍伝習所で共に学んでいました。メリケン行きには私も願い出たのですが、選ばれたのは同じ伝習所の同窓生で十歳年下の同じ赤松という姓の大三郎君でした。私は悔しくて、悔しくて──以来、彼の名をもじって清次郎≠ゥら小三郎≠ニ名乗ることにしたのです」
 苦笑いを浮かべる案外気さくな一面に直虎は声を挙げて笑った。
 「それは残念、勝先生にお願いすれば良かったではないですか?」
 「もちろんお願いしました。ところが大三郎君は石高何千扶持(ぶ ち)のお旗本、こちらはわずか十石三人扶持の貧乏(ざむらい)です。勝先生もお旗本ですが小普請組(こ ぶ しん ぐみ)の出ですから、学を積んだところで身分の差というのはそういうところで歴然としてくるのです」
 「なるほど、わしもたかだか一万石の小大名だから、江戸城に登っても肩身が狭い」
 直虎は「同類だ」と言わんばかりにまた笑った。
 「ところでそのライフル銃は?」
 小三郎は部屋に入った時からずっと気になっていた見慣れない形のライフルを指して問うた。
 「おおこれか? これはメリケンのヘネルライフル銃と申して最新式の十六連発です。もっとも弾一発で蕎麦が二十五杯も食えてしまうから、もったいなくて一度も打ったことがない」
 哄笑した直虎は突然改まり、座っていた座布団を外してその場に平伏した。
 「ひとつ赤松殿のお知恵をこの須坂藩の西洋化にお貸しいただけませんか?」
 思わぬなりゆきに銃に関心を示す間もない小三郎は、
 「どうかお顔をお上げください!」
 と同じように座布団を外して額を畳にこすりつけた。ところが直虎はなかなか頭を上げようとしない。
 暫くそんな状態が続いたまま、脇では先ほどから何やら難しい会話を続ける二人にしびれを切らせていた俊が、あるいは機転を利かせて場を繕おうとしたものか、大きな声で松野を呼んだ。
 「二葉屋(ふた ば や)のどら焼きを持って参れ!」
 『二葉屋』は須坂藩下屋敷のある亀井戸にあり、須坂の二葉屋百助の父長治郎の兄弟弟子が江戸で継承する老舗である。第九代須坂藩主堀直晧(なお てる)の頃からの藩御用達の菓子屋であることは前述したが、つまり須坂の二葉屋の江戸店というわけだ。
 やがて平伏したままの二人の間に五つ六つのどら焼きが置かれ、てっきり二人に勧めるかと思えば、俊はいきなりその一つを自分の口に頬張った。
 「うむ、やはりここのどら焼きは誠にうまい。二人でそんなに畳を睨みつけていては穴があいてしまうぞ。ほれ、サブちゃんも喰うてみよ」
 別の一つを小三郎のつむじの上に置いたものだから、その滑稽さに思わず「ワハハハ」と腹を抱えたのは直虎だった。
 「まったく千さんにはかないませんな!」
 「舎弟同士の盃のかわりじゃ。虎さんも食べよう」
 ようやく頭をあげた直虎は、上機嫌にどら焼きを口にして小三郎にも勧めた。
 「いきなり師範をお願いしても、こりゃちと唐突過ぎた、失礼、失礼。上田藩士の立場もおありでしょうから即答は難しいでしょうな。いっそ脱藩でもして学問一つで身を立てたらいかがですか?」
 近年の下級武士たちは、この脱藩≠ニいう言葉にひどく敏感になっている。水戸藩や長州藩、あるいは薩摩藩や土佐藩でも、攘夷思想にほだされて脱藩する者が次々と出ていたからだ。捕らわれれば死罪、そうでなくとも入牢あるいは身分剥奪、最悪の場合はお家断絶も免れない重罪だから、脱藩≠ヘすなわち命を捨てる行為と等しい。冗談でもそれをそそのかす一国の主などいようはずもない。
 小三郎は直虎の腹を探りながら、
 「そうなったら、私を(かくま)っていただけますか?」
 「無論──」
 冗談半分の小三郎の言葉に、直虎の即答はまんざらでない。しかし、上田藩の姫君が嫁いだ須坂藩との良好な関係を崩すような無謀な行動を起こす勇気は、この信州出の善良な男は持ちあわせていない。小三郎は話を継いだ。
 「今の日本では私のような下級武士に自由は与えられていないのです。欧米のようになるためには国の仕組みを根本から変えねばなりません」
 「ほう──わしは西洋の事をもっと知りたい。どうかご教示いただけませんか?」
 小三郎は遠慮しがちに「まだ考えがまとまっているわけではありませんが」と前置きしてから、やがて持論を語り始めた。その内容はおよそ次の通りである。
 日本は封建国家であり、何を決めるにしても一応評定(ひょう じょう)という形をとってはいるが、結局最終判断は主君に委ねられ、それがそのまま政治に反映される。小三郎のような低い身分の者は、いくら崇高な理念を掲げてもその声は上層部に届きもしない。それではいつまで経っても社会は変わらない。その点アメリカ社会は民主主義だから一介の民の声が政治に反映される。日本もそれに習って民主制議会制に改めるべきであり、まずは二大議会を創設し、二つの議会の合議のもとで政治を行えば今より民主的な国家になると力説する。そして議会の構成員は選挙によって選出すべきだとし、人民はどこまでも平等でなければならないと強く主張した。
 「本来、人に身分などあってはならないのです! そのためには人民に教育をほどこさなければなりません──」
 小三郎の燃え(たぎ)る情熱に直虎は目を細めた。
 「それが西洋の考え方ですか? 民主主義は私も分からんでないが、民衆は賢くもあり愚かでもある。教育の必要性は理解できるが、その両面を持ちあわせている以上、主権をことごとく人民に委ねるのは危険を(はら)む。それに──ちょっと困ったことが生じる……」
 直虎は腕を組んで考え込み、隣の俊に目を向けた。
 「わしらの居場所がなくなるぞい──そうなったらどうしましょうかな?」
 直虎はどら焼きを頬張りながら上の空で話を聞いていた彼女に突然聞いた。すると俊は井戸端で女子会の雑談でもするように、
 「サブちゃんの考えはひがみ根性じゃ」
 と何の悪気もなく一蹴してしまった。つまり「身分の低い家に生まれたサブちゃんが悪い」と言うのである。
 「もっと良い家柄に生まれれば良いのじゃ。わらわが姫に生まれたのは、過去世でそれ相応の努力をしたからじゃと思うておるぞ。サブちゃんも命あるうちに人のためにうんと働け。さすれば次に生まれる時は家老くらいの家に生まれて来るに違いない」
 俊の発言は生命の永遠性を信じる者にとっては的を射ているように聞こえたかも知れない。しかし人が生まれる時には人種、性別、身分または門地は選べないというのが一般認識で、現にそれらで不当な差別を強いられている民がいる。
 直虎は小三郎の主張に九割は賛同できたが、残りの一割にしっくりいかない不興を感じた。
 社会に身分が生じるのはある意味人間の(さが)とも思える。とすれば身分が問題でなく、生まれた環境に幸福感を得られない点にこそ問題があるのではないか? 彼などは願わずして一国の当主の座にあるが、それは生まれながらの宿業(しゅく ごう)とも言い換えることができる。農民や下級武士などにも生まれながらの不平等さとそれに伴なう大きな苦しみはあろうが、藩主には藩主の人には言えない苦しみがあり、不満を言い出せばきりがない。理想を描くことは大事だが、その理想が実現すればまた次の理想が生まれ、その繰り返しの中で進んでいくより仕方ない。しかも人の欲求は果てしない。
 肝心なのは自分が何者であるかを知り、自分の居場所で自らができることに力を尽くし、苦しみもがきながらも懸命に生きることしか思いつかない。
 「わしはどうすれば民が幸せになれるかいつも心を砕き、民にとっていい主君であらねばと日々勉強し努力しているつもりです。力足らずな部分は有能な家臣たちが助けてくれるし、それでけっこう平和な国になっていると思っているが過信かな?」
 小三郎は慌てて「直虎様のことではありません……」と付け加え、欧米は法治国家であると教えた。
 すると直虎は再び考え込んだ。
 「法律も万能とは言えまい……第一法律は人の心が作った成文ではあるが、その文言には心があるようでいてない。法の整備も大事だが、もっと大事なのは、その法を扱う人の心をいかに育てるかにあると思う。本来弱者のために作られた法であっても使う人間が悪人だったら、逆に弱者を苦しめることに利用されてしまう可能性がある。法は心を持たぬ。心を持たぬものが国を支配したら、やがて民も心を失うでしょう。こりゃ難題……」
 いくら制度を整えようが法律を定めようがそれを使う人の心が育まれない限り、例え理想が形の上で実現できても、それは紙上で兵を談じているのと同じであると彼は言いたい。
 小三郎は直虎の中に誠実たらんとする一国の長たる姿を見た。そして西欧の思想や制度のみが優れているとは限らないのではないかと自分に反問した。もし万人の痛みや苦しみを吸収できたとして、それを幸福に転じる政策を打ち出せる名君がいたとしたら、そういう国もあっていいではないか?
 ……しかしそんな仏のような全人的な人間など存在し得るだろうか──?
 一つだけあるとしたら、国を構成する一人ひとりの民が菩薩のような心を持つ教育を施すことだ。
 直虎も考え込んだまま、
 「いずれにせよ、いまわしがやらねばならぬ事は西洋化だと思っています。西洋化といっても大和心(やまとごころ)を捨てるつもりは毛頭ありません。とはいえ、今の日本は科学技術において明らかに西洋に劣っていると言わざるを得ない。軍事、文化、教養などにおいて西洋と同じ、あるいはそれ以上の力をつけなければ、日本を侮る彼らは必ず戦争を仕掛けてくるでしょう。そうさせないために、どうか赤松殿の力を当藩に貸して欲しいのです!」
 と、再び深々と頭を下げた。
 「どうかお上げください。こんな私でよろしければお力になりたいのですが、私とてまだまだ学ぶことが山ほどございます。そこでどうでしょう? ここはひとつ私が教えるというのでなく、共に学んで参りたいのですが、いかがですか?」
 こうして赤松小三郎は、次に江戸に来た時は必ず会うと約して上田へと帰っていく。
 
 
> (二十一)浮浪の徒、追討令
(二十一)浮浪の徒、追討令
 その日、江戸城内は騒然とした。
 京都で起こったある事件の報道がもたらされたのだ。
 「京都三条の旅籠(はたご)に京都守護職(しゅ ご しょく)配下の治安維持部隊が御用改(ご よう あらた)めに突入し、長州藩をはじめとした尊王攘夷派(そん のう じょう い は)浪士二十数名を一網打尽(いち もう だ じん)にしたが、その()(さま)たるや惨憺(さん たん)たるものだったらしい」
 と、その血なまぐさい様子を伝えた。世にいう新選組による池田屋事件≠ナある。
 京都における攘夷派への取り締まりは江戸の比でない。長州征討がささやかれる中、攘夷派の手による辻斬(つじ ぎ)りなどの暗躍はますますその度を増して、会津藩京都守護職は市内の警備や捜索を一層強化させていた。その折り攘夷派の尻尾(しっぽ)(つか)んだ新選組は、謀反(む ほん)の証拠となる武器や長州藩との書簡を隠す古高俊太郎(ふる たか しゅん た ろう)という商人を捕え拷問(ごう もん)にかけると、
 「祇園祭(ぎ おん さい)前の風の強い日を狙って御所(ご しょ)に火を放ち、混乱に乗じて攘夷派公卿を幽閉し、一橋慶喜や会津藩主松平容保(かたもり)らを暗殺した上、孝明天皇を長州へ連れ去る」
 という驚くべき計画を自白させたのだった。
 長州藩を中心としたその計画の談合が池田屋で行われていることを突き止めた新選組は、六月五日(元治元年)()(こく)(二十二時頃)過ぎ、組長近藤勇(こん どう いさみ)率いる数名が突入し、攘夷派を相手に真夜中の大格闘を始めた。最初多勢に無勢の新選組は危機に陥るが、遅れて駆け付けた副長土方歳三(ひじ かた とし ぞう)部隊の応援で、死闘の末攘夷派の目論見(もく ろ み)を打ち砕く。結果その現場で死者九名、捕縛者四名、翌朝からの捜査を含めて攘夷派二十数名を捕縛して、幕府側でも会津藩五名、彦根藩四名、桑名藩二名という犠牲者を出す大惨事となった。これにより新選組は一躍その名を挙げ、長州藩にとっては(はなは)だしい怨恨(えん こん)を残すことになった。
 昨年十一月の火事で江戸城本丸が焼け落ち、もうじき落成予定の西の丸は現在工事の真っ最中で、先月二十日に京より戻った将軍家茂(いえ もち)は江戸城田安門内の田安邸で政務を執っている。
 以前は昼飯といえば持ってきた弁当を、本丸表御殿と中奥との間に位置した御台所と呼ばれる大広間の一角で食べていた幕府の役人たちは、今は焼け残っている建物を使って昼食をとるより仕方ない。
 「堀殿は今日もパンですか?」
 (いびつ)なパンを片手に沢庵(たく あん)をポリポリやっている直虎の隣に、土佐新田藩主山内豊福(とよ よし)が腰を下ろして弁当を広げた。
 「ほう、そちらは伊達巻卵(だ て まき たまご)にメザシですか? (たけのこ)土佐煮(と さ に)もついておる! よほど典子(かね こ)夫人に愛されているのですなぁ」
 典子というのは豊福の妻の名である。
 「おひとつどうぞ」と、豊福は筍を(はし)でつまんで直虎の沢庵の横に置いた。
 そこへ、
 「なんじゃ内蔵(く ら)さん、今日もパンか?」
 とやって来たのは下手渡(しも て ど)藩主立花種恭(たね ゆき)で、二人の向かいに座ってむすびを食い始めた。
 「(いず)さん≠ヘずいぶん暇そうじゃなあ? こっちはいつ水戸への征討命令が下るかと冷や冷やしているというのに……」
 実は今、江戸の政務は完全に止まっている。というのは、天狗党(てん ぐ とう)の対応をめぐって上層部で意見が対立し合い、老中はじめ若年寄等の主要閣僚が登城を拒否してほとんどいない。ところが若年寄の中でも外国奉行の任を帯びた種恭は、水戸問題に対しては蚊帳(か や)の外で、
 「おかげで横浜鎖港問題も棚上げ状態じゃ。外人さん相手の仕事は暇にもなるさ。それより、京都が騒然としておるようだが、あの話では長州の気がおさまらんだろう?」
 と言いながら直虎の前に置かれていた湯呑のお茶をすすった。
 「長州征討が実行される前に、長州藩の方から京に攻め上って(いくさ)なんてことにはなりますまいか……」
 と危惧(き ぐ)したのは豊福である。種恭は笑いながら、
 「京には天子(てん し)様がおる。それに兵力は歴然だ。いくら長州藩でもそこまで馬鹿ではなかろう」
 と答えた。すると、
 「どうもきな(くさ)い──」
 ぽつんと呟いたのは直虎だった。豊福と種恭は同時にその顔を見つめた。
 「先日は水戸の筑波山(つくばさん)で攘夷派浪士たちが挙兵したと言うだろう? 攘夷派は東西同時挙兵を企てているわけではあるまいか? 命知らずの攘夷派の連中ならやりかねん」
 「ま、まさか……」と、豊福と種恭は顔を見合わせた。もしそんな事にでもなれば、幕府と攘夷派による関ケ原以来の大合戦になりかねない。「そうは思いたくないが」というような顔つきで種恭は言葉を継いだ。
 「実は先日、ドセンデベルクという男が新しくフランス公使になったので、老中の井上様と板倉様たちと出向いて食事を共にしたのだが、帰りが遅くなったから浪士たちには十分気をつけて帰れ≠ニ促したのだ。ところが、彼らは攘夷派の連中などまったく歯牙にもかけとらん。『恐いのは天の思し召しじゃ』と、むしろ日本国内が乱れるのを高見の見物でもするように面白がっておる。混乱に乗じて日本を乗っ取ろうとしているのではないかとさえ思えてしまう」
 実はこのとき既に、昨年五月に起こった長州藩の攘夷戦争(下関戦争)の報復を目的として、イギリス、フランス、オランダ、アメリカによる四ケ国連合が成立していたことをまだ幕府は知らない。
 「それはあり得るな。今は日本国内でいざこざを起こしている時でない。各藩が総力をあげて西洋諸国に匹敵する力をつけなければならない時なのだ」
 直虎は再び沢庵をポリポリとかじった。
 「それで内蔵(く ら)さん≠ヘいつも()きずにパンというわけか。それにしたってパンに沢庵はいかがなものか?」
 「なかなか美味であるぞ──」
 直虎は羽織の裏にこしらえたポッケットの様なところに隠し持っている常備食のパンを二人に差し出し、
 「売るほどありますのでどうぞ」
 と笑う。最初のうちは珍しがって食していた種恭も、さすがに会うたび勧められては飽きてしまうのも無理はない。「遠慮しとくよ」と拒むが、豊福の方は断るのも失礼に思って、
 「今度うちの家内にも作り方を教えて下さい」
 と言って手に取った。
 長州藩の動きも去ることながら、江戸においては水戸の動向の方が深刻だった。
 どこから情報を吸い上げて来るのか、以前に増して柘植角二(つ げ かく じ)との夜の密談が頻繁になり、幕府上層部からの情報と重ね合わせて、水戸の動きは手に取るように掌握できる直虎なのである。
 一連の浮浪(ふ ろう)()(天狗党)の横行に対して幕府の対応が後手後手にまわってしまったのは将軍家茂が江戸不在だったことによる。最初は武田耕雲斎(たけ だ こう うん さい)を使って水戸藩内での収拾を促していた幕府だったが、ついに介在せざるを得ない時を迎えていた。水戸藩主徳川慶篤(よし あつ)が、
 「横浜鎖港(攘夷)を実行しない限り、筑波山に立て(こも)る挙兵勢力は鎮撫(ちん ぶ)できない」
 と主張したため、幕府は政事総裁職にあった川越藩主松平直克(まつ だいら なお かつ)と共に横浜鎖港実行の任を与えたが、老中板倉勝静(いた くら かつ きよ)牧野忠恭(まき の ただ ゆき)たちは関東一円の著しい治安悪化を(ほう)っておけず、江戸に戻った家茂に、
 「すみやかに天狗党を追討すべきです」
 と、鎮圧を優先する進言をしたのである。
 これに呼応する形で水戸藩の諸生党(しょ せい とう)は、約六〇〇の人員を江戸の水戸藩邸に送り藩執行部から攘夷派幹部を駆逐(く ちく)してしまい、江戸にいた武田耕雲斎ほか古参(こ さん)の執政に対して隠居のうえ謹慎を言い渡して耕雲斎を水戸に帰した。
 一方幕府は、浪士らの動きに対して、常陸(ひたち)下野(しもつけ)に高崎藩主大河内輝声(おお こう ち てる な)と笠間藩主牧野貞直(まき の さだ なお)を派遣し、宇都宮、土浦、壬生(み ぶ)結城(ゆう き)下館(しも だて)谷田部(やたべ)足利(あし かが)、川越、下妻(しも つま)、常陸府中の諸藩に藩兵を送り込むよう命じ、ついに六月十四日、水戸諸生党の天狗党追討の要請に応じて、同藩の重鎮市川弘美(ひろ とみ)を陣将とした天狗党討伐軍を組織して、兵を随時江戸から出発させていた。
 時を同じくして水戸からは、前藩主徳川斉昭(なり あき)の遺書を奉じて旧執政達とその士庶が藩論を挽回しようと次々と江戸へ向かって水戸を発ち、ついに心ある藩士たちが大挙して江戸へ向かう大発勢≠ェ沸き起こったのが六月十九日のことだった。
 江戸城では六月頭、登城した政事総裁職の松平直克(なお かつ)が、天狗党追討を主張する板倉勝静(かつ きよ)、酒井忠績(ただ しげ)、諏訪忠誠(ただ まさ)、松平乗謨(のり あきら)ら閣老四人の排除を家茂に迫り登城停止に追い込むが、その翌日、慶篤(よし あつ)が直克を激しく非難したため直克も登城停止となって、主要閣僚が誰も登城しない異例の状態が実に十日あまり続くといった事態に陥っていた。
 やがて閣老の入れ替えによって江戸城はようやく機能を取り戻すが、二十日に行われた御前評議で、松平直克が天狗党討伐に反対したことへの批判や反発が相次ぎ、結局直克は政事総裁職を罷免され、その失脚によってようやく幕府は天狗党鎮圧の方針を固めたという背景がある。
 柘植角二(つ げ かく じ)が、
 「現在天狗党は、下総国(しもうさのくに)小金駅(こがねのえき)東漸寺(とう ぜん じ)に停留中とのこと。武田耕雲斎は浪士らと行動を伴にしている模様です」
 と直虎に告げたのは六月二十二日の事だった。
 「木乃伊(みいら)取りが木乃伊になったか! 耕雲斎め、担ぎ上げられたな……」
 直虎は、友人が事を仕損じたかのようにちっ≠ニ舌打ちをした。
 「彼らの要求は横浜港の即時鎖港です。日光東照宮へ攘夷祈願をしておりますので、あくまで東照権現(とう しょう ごん げん)(徳川家康)様の遺訓を笠に着ておりますが、その武装勢力すでに千数百──」
 「横浜鎖港は勅命(ちょく めい)でもある。完璧な大義名分というわけか……。こりゃそろそろわしも腹をくくらにゃならんな……」
 大番頭(おお ばん がしら)の役どころ、こうなってはいつまでも知らぬ顔をしているわけにいかない。既に直属の上司に当たる老中井上正直(いの うえ なお まさ)からも、「いつ出陣の命が下されるか分からぬ故、国許から兵を集めておけ」と内々に通達を受けていた。
 直虎は要右衛門を呼びつけ、穏やかならぬ口調で、
 「エゲレスからの武器はまだか?」
 と聞いた。
 「いえ、まだ……」
 「ええい、早よせい!」
 「そう申されましてもなぁ……エゲレスまで催促に行くわけにもいきますまい? 旅費だけで武器が買えてしまいますわい」
 要右衛門は悠長に「はははっ」と笑いながら、
 「メリケン国の内戦が終わるのを待つというのも手ですぞ。終結すれば武器など不要の長物、最新式の銃や大砲が二束三文で出回るに違いありませんからな」
 「なに? メリケン国の内戦はいつ終わる?」
 「あと一年、いや──二年くらいかな?」
 「阿呆(あ ほう)、待てるか! 呑気(のん き)に笑っている場合でないぞい、()されてしまうわい」
 直虎の心配が現実となったのは、七月に入って八日目のことだった。一日には『西之丸仮御殿(にし の まる かり ご てん)』が落成し、家茂も田安邸から転居するといった新鮮さと慌ただしさが交じり合う雰囲気の中、江戸城に登って早々、老中御用部屋(ろう じゅう ご よう べ や)に呼び出されたのである。
 ここでこの『西之丸仮御殿(にしのまるかりごてん)』について述べておこう。
 『仮御殿(かり ご てん)』と言うからには一時的な間に合わせとして建設されたからに相違ないだろう。そうでなければ旧来の本丸御殿とは似付かぬ粗末さだったので仮≠フ字が当てられたものか──この建物は本丸・二之丸の南側に位置した西之丸にあり、格式の高い白書院(しろ しょ いん)のかわりに日常の生活が色濃い黒書院(くろ しょ いん)を設けたり、屋根や天井の格式も以前の本丸御殿と比較すればかなり簡略化した構造だった。
 この後、実質的な政務はここで行なわれることになるが、結局、再び手が加えられることは二度となく、江戸無血開城がなされた後皇居となるも、一八七三年(明治六年)の失火により焼失し使命を終えることになる。
 中央で分断された南半分は表≠ニ呼ばれるエリアで、大広間や黒書院、そのほか大名や旗本などの詰所(つめ しょ)があり、北半分は大奥≠ナある。つまり本丸御殿の機能をそのまま備えた、これが幕末末期の江戸城の姿であり、特筆すべきは建物の二階に、諸外国との外交問題を扱う執務室が二部屋並んで存在したことである。
 通常、政務の役人がここに来るには外桜田門(そと さくら だ もん)から入る。この門は西之丸防備のための大きな門で、古くはその辺りを桜田郷(さくらだごう)と呼んでいたことに由来する。江戸城には外≠ニ内≠フ二つの『桜田門』があるが、単に「桜田門」という場合は『外桜田門』の方を指す。大老井伊直弼(い い なお すけ)が暗殺された場所である。もう一方は別称『桔梗門(き きょう もん)』と呼ばれた。
 そこから濠を迂回して『西之丸大手門』をくぐり、さらに『高麗門(こう らい もん)』をくぐり、枡形(ます がた)の造りを右に折れて中仕切の門を通れば右手側に『御書院御門(ご しょ いん ご もん)』が見えた。この門をくぐった場所も枡形になっており、その先が西之丸仮御殿の表玄関だった。
 玄関前の広い敷地は、いざ出陣≠フ際は曲輪(くるわ)の役割を果たしただろう、敷地を囲む土塀の内側には細長い屋根の下何人も座れる長腰掛(なが こし かけ)が据えられ、そこは役人たちや待ち合いの休憩場所にもなったに違いあるまい。
 玄関を入るとすぐ左側には番所があり、正面は『遠侍(とおざむらい)』である。遠侍は主君警護の御徒衆(おかちしゅう)の詰所であり、別名『獅子(し し)の間』と呼ばれるのは、中に牡丹(ぼたん)唐獅子(から じ し)≠フ襖絵(ふすま え)があったからである。その手前を左に幅二間(四メートル弱)ほどの廊下が延びていて、そこを進めば右手側に『御次(お つぎ)』部屋を経て『(とら)の間』がある。そこは来訪者が控える場所で、襖絵には竹に虎≠ェ描かれ、獰猛(どう もう)な虎とその目の鋭いことから、遠方から訪れた者に対して徳川の威厳を植え付ける機能があったという説や、その逆で、虎が竹の中に身を置くのは象などの強敵から身を守るためだから、来訪者に危害を与えないという意志の表われだとする説もあるが、いずれにせよ牡丹に唐獅子≠竍竹に虎≠ヘ梅に(うぐいす)紅葉(もみじ)鹿(しか)%ッ様、取り合わせの優れた芸術題材であり、徳川中枢(ちゅう すう)に据えられた文化感覚のあらわれに違いない。
 その先に進むと主君の伴侍(とも ざむらい)の待機部屋である『蘇鉄(そてつ)の間』と続き、更にその正面には上段、下段、二之間、三之間、四之間(よん の ま)入側(いり がわ)などを備えた広さ四〇〇畳以上もの大広間があった。仮御殿のそれは中段(ちゅう だん)(おく)の間に中門(ちゅう もん)こそないものの、城内で最も広い書院であることには違いなく、焼失した本丸御殿の障壁画(しょう へき が)には、幕府御用絵師狩野探幽(か のう たん ゆう)の手によって、徳川の象徴である松と、そして長寿を象徴する鶴が描かれていた。
 この大広間は、年始御礼や将軍宣下(せん げ)の儀式、あるいは外国人との謁見(えっ けん)など、公的な大きな儀式や行事が執り行われるのに使われる。上段之間に将軍が座し、以下大名の座る場所は格式によって厳格に定められていて、将軍に謁見し単独で新年の祝意を表わすことができたのは侍従(じ じゅう)以上、従四位以上の者に限られた。五位以下の大名と役人は二の間、三の間、四の間に並び、将軍との謁見は、まず将軍が下段之間に立ち、大名、役人一同が一斉に平伏すると、次に襖が開けられた瞬間、揃って挨拶する立礼の儀式≠ェ行なわれる。平伏したままの大名や役人はけっして将軍の姿を見ることができないのが普通だった。
 玄関から大広間を前にして板縁の廊下を左に回り込めば、そこには将軍が出掛ける際の正式玄関御駕籠台(おかごだい)≠ェあった。この僅か後、将軍徳川家茂が長州征討へ出陣する際はここを通る。
 また、右の入側に入って左へ真っすぐ進むと中庭(なかのにわ)≠ノ出る。そこを取り囲むようにして、『(やなぎ)の間』『紅葉(もみじ)の間』『(きく)の間』『(かり)の間』『芙蓉(ふ よう)の間』と順に続き、そして庭を挟んだ向かいに見えるのが『松の大廊下』である。元禄十四年(一七〇一)に起こった浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)吉良上野介(きらこうずけのすけ)斬りつけた傷害事件はあまりに有名だが、これは焼失前の本丸御殿での出来事である。この事件がもとで生まれた赤穂義士(あこ う ぎ し)の『忠臣蔵(ちゅう しん ぐら)』の忠義の物語は江戸時代の人たちに深い共感を与え、この幕末において義士≠ニか志士≠ニか呼ばれる者たちにも多大な影響を与える。
 そしてこの仮御殿の二階中央には『海事方(かいじかた)』という部屋があり、その他『海軍方』や『外国方』や『御目付方(お め つけ がた)外国(がかり)』等の執務室があったのは特筆しておくべきだろう。
 とまれかくも広く部屋数が多いからには、中には部屋を間違えて入ってしまう者もいた。実際間違えて旗本(御目見(お め みえ)以上)から御家人(ご け にん)(御目見以下)へ格下げされたケースもあるほどだ。
 ──直虎は真新しい木の匂いを嗅ぎながら廊下を進んだ。そして老中御用部屋(ろう じゅう ご よう べ や)に入れば、まだ襖絵などには装飾が行き届いていない部屋の中に、水野忠精(ただきよ)、井上河内守(かわちのかみ)正直、牧野忠恭(ただゆき)稲葉正邦(いな ば まさ くに)、阿部正外(まさとう)ら老中と老中格諏訪忠誠(す わ ただ まさ)の面々が顔を並べている。そこに加えて松前(まつまえ)伊豆守崇広(たかひろ)は、つい昨日寺社奉行から老中格兼陸海軍惣奉行(そう ぶ ぎょう)に任じられたばかりの気荒で無骨な男であった。
 これに対して対面に座したのは大番頭(おお ばん がしら)の直虎をはじめ、御書院番頭(ごしょいんばんがしら)織田伊賀守(い がの かみ)御小姓組(こしょうくみ)番頭井上源三郎、御持筒頭(お もち づつ がしら)和田伝右衛門、御手洗鉄砲頭(お て あらい てっ ぽう がしら)土屋駒之丞(こまのじょう)御徒頭(お かち がしら)遠山三郎右衛門、小十人頭(こじゅうにんがしら)竹田日向守(ひゅうがのかみ)等七名で、やがて諏訪忠誠(す わ ただ まさ)が神妙な口ぶりでこう告げた。
 「野州(や しゅう)下野国(しもつけのくに))で浮浪の(やから)が挙兵したことはその方らも存じておろう。閣議(かく ぎ)の結果、その方ら並びに組頭(くみ がしら)にその追討を命ずる。火急に出陣の用意を致せ。なお田沼玄蕃頭(たぬまげんばのかみ)にも出陣を仰せつけたので、諸事差し計って早々に出立し、田沼玄蕃の指示に従え。なおこの話はまた御前(ご ぜん)において上意があろう」
 さあっ≠ニ直虎は血の気が引いて「恐れながら!」と思わず叫んだ。その瞬間、緊張の空気が張り詰めた。
 「なんじゃ内蔵頭(くらのかみ)殿、申してみよ」
 左右の老中たちの顔色を伺いながら「妙な事を言うなよ……」という顔でそう聞いたのは、直属の上司井上正直(いの うえ まさ なお)である。
 「怖れながら申し上げます。私は大番頭(おお ばん がしら)でございます」
 「それがどうした?」
 一も二もなく荒い口調で返したのは松前(まつまえ)崇広(たかひろ)、つい昨日寺社奉行から老中格への昇進を遂げた彼は、一刻も早く手柄を立ててやろうと燃えていた。直虎は崇広に向かって言った。
 「大番頭といえば、東照宮(徳川家康)様以来老中支配のお役にございます。それを田沼玄蕃殿の指示に従えとは徳川幕府の義に(はん)しましょう」
 田沼玄蕃頭意尊(おき たか)は若年寄である。つまり、本来老中支配の大番頭が若年寄の配下に置かれるのは徳川の始祖家康に違背しているという意味で、咄嗟(とっ さ)の思い付きにしては機転の利いた妙案であった。(まと)()た道理に松前崇広が顔を赤くして吠えた。
 「幕府に盾突(たて つ)(やから)が兵を挙げたのだぞ。今は緊急事態、左様に悠長な事を申している場合でない! これは上様(うえ さま)の御上意であるぞ!」
 「幕府に盾突いたと仰せですが、天狗党と呼ばれる野州の浮浪人たちの抑えは武田耕雲斎(たけ だ こう うん さい)殿に委ねたはず。彼は水戸藩なかんずく一橋(ひとつ ばし)公の忠臣と聞き及んでおります。しかも横浜鎖港は天子様のご意思でありましょう。つい先ごろまで幕府のために浪士の輩を鎮めようと奔走していた者が、(にわ)かに反旗を(ひるがえ)すなど考えられません」
 「寝返ったのだ!」
 「いいえ違います! 武田耕雲斎の目的は謀反(む ほん)でなく、単に鎖港問題を話し合いたいだけです。そのことは上様もご存知のはず」
 「奴らは武装した上に、すでに資金調達のためあちこちで強盗沙汰を働いておる! これを反逆と言わずに何と申すか!」
 「でなくば、挑発だとしたらいかがしょう! こちらが下手に兵を動かせば、必ず一人二人の流血だけでは済みませんぞ。そうでなくとも攘夷派の連中は京都の一件でいきり立っております。よもや長州を刺激して東西同時挙兵の事態に陥れば、それこそ日本国内だけの問題ではありません。その隙に乗じて西洋諸国に油揚げをさらわれます! 陸海軍惣奉行を兼ねておられる伊豆守様がかような未来予測ができぬとは思われませんな?」
 「一言余計だったか──」と直虎は己の軽い口を今更のように後悔した。
 崇広は突然大声で笑い出した。
 「内蔵頭(くらのかみ)は怖じ気づいたのだ! 老中諸君、こんな腰抜けに天狗党討伐など任せられません。大番頭なら他にもおる。こいつは即刻罷免(ひ めん)ですなぁ」
 「まあまあ」と井上がなだめたが、鼻息を荒げた崇広(たかひろ)は「やってられん!」とそっぽを向いてしまった。
 「しかし内蔵頭殿の意見にも一理ありますぞ」
 と助け舟を出すように井上が続けた。彼は外国御用取扱(ご よう とり あつかい)として諸外国の要人たちとの面識も広く、イギリスをはじめフランス、アメリカ、ロシアの四ヶ国の動きをよく掌握している。それによれば、「昨年起こった長州藩による攘夷戦争の報復攻撃をするため既に同盟を結んでいる」という噂があると説き、直虎の意見を尊重しつつ、
 「しかしさすがの長州藩も幕府に(にら)まれた上、四ヶ国に囲まれたら身動きが取れないだろう。東西同時挙兵などありえん」
 と楽観して言った。なるほど海外通の井上の予測は的確で、直虎も納得せざるを得ない。
 「では、内蔵頭殿の沙汰(さ た)は追って協議するとして、他に異存のない者はさがれ」
 と諏訪忠誠が場をつないだ。集められた者たちは直虎を残して部屋を出て行き、やがて老中たちも井上を残して控え部屋へと戻って行った。
 部屋に残された直虎を見つめ、やがて井上は静かに話し始めた。
 「(ほり)さん、なぜ(こば)んだのか?」
 そういえば、いつからだったか最近、井上が直虎のことを堀さん≠ニ呼ぶようになった事に内心首を傾げた。なにやら身内に対する温かさを感じるのだ。
 「申し訳ございません。井上様の面目(めん もく)を潰してしまいました……」
 「そんなことは聞いておらんのです。なぜ拒んだかと聞いているのじゃ」
 直虎は直属の上司の悲しそうな顔付きに、不知恩(ふ ち おん)の部下だと自分を責めた。
 「国許(くに もと)からの兵の人足(にん そく)が間に合いません……」
 「かような事になるかも知れぬからと、ひと月も前に打診しておいたはずではないか……?」
 そうだ、彼が堀さん≠ニ呼ぶようになったのはその時からだと思いながら、
 「それでも間に合いませんでした」
 直虎は(ひたい)を畳にこすりつけて謝罪した。
 「何か別の理由がありそうですね? 申して下さい」
 直虎は観念した。単なる仕事上の上司とはいえ、これ以上本当のことを隠すのは人の道に外れると感じた。
 「実はいま、当家は武装できません。(よろい)もなければ、火縄銃(ひ なわ じゅう)も刀も(やり)もございません。西洋の武器を買うため全て売り払ったのですが、肝心の武器弾薬がいまだエゲレスから届かないのであります」
 井上は俄かに笑い出した。
 「そんなもんもっと早くに相談してくれれば、我が浜松藩からいくらでも貸してやる。今からでも遅くありません。出陣してくれますな?」
 「そ、それは……できかねます──」
 「何故か?」
 「無駄な血は見たくないのでございます」
 これが直虎の本心である。
 「そんなことを申しても(いくさ)になれば武士ならば戦わねばなりますまい」
 「戦わぬ武士の道もございましょう……」
 「戦う必要がないなら、なぜ西洋の武器を欲しがるか?」
 「西洋諸国と同等の力をつけるためでございます。いま日本は内乱を起こしている時でなく、諸藩一丸となって列強諸国と肩を並べる力をつける時だと信じております」
 「お(ぬし)の言い分はわしとて理解できる。しかしそれには時間もかかろう。水戸浪士が結集して幕府の脅威になりつつある現実は緊急を要す。もし堀さんが言うように東西同時挙兵が誠のものになったとしても、それでも戦わぬおつもりか?」
 「そのときは──命を賭して戦を喰い止めまする!」
 口からの出まかせか、あるいは本心か、それは彼自身にも分からなかった。しかしそれが反射的に漏れた言葉であることには違いなかった。
 「どうやって?」と言おうとした井上は、真っ直ぐな直虎の視線に押さえつけられて、その言葉をためらった。
 「仕方ありません。堀さんの後任はすぐにでも決まるでしょう。追って御沙汰も(くだ)りましょう。こんな言い方はしたくありませんが、首を洗ってお待ちください……」
 井上は口惜しそうにそう言い残して御用部屋を出たが、直虎を擁護(よう ご)した(とが)で、その日のうちに老中および兼務していた外国御用取扱を罷免されたことを直虎は知らない。


 江戸城でのこの一部始終を聞いて須坂藩邸は上を下への大混乱に陥った。
 「幕命を()るとは何事か!」と直格(なお ただ)が上屋敷に怒鳴り込んで来たり、「お家御断絶になったらどうしましょ!」と母の静は泣き臥せってしまったり、要右衛門などは「ご切腹の沙汰が下されるかもしれん」といらぬ事を言うものだから、家臣一同意気消沈して、中には「拙者(せっ しゃ)も腹を切る!」と慟哭(どう こく)する者まで現れる始末。
 「そうはならぬ、心配するな。井上様がなんとかしてくれるから」
 と、強がっては見せるものの、内心一番心配なのは沙汰が出るまで謹慎を申しつけられた当の本人なのだ。あのとき井上正直に「本当に東西同時挙兵が現実になったらどうする?」と問われ、「命を賭して戦を喰い止める」と答えた己の言葉が真実かそうでないかも判断できないまま、あのとき直虎の目力を見た井上の言葉の詰まった本意が、自分に良い働きをするのを信じるしかない。
 そうして幕府からの沙汰を持って井上が須坂藩邸にやって来たのは、天狗党征伐を拒んでから四日後の七月十三日の事だった。彼を藩邸内に迎え入れたのは直虎でも式左衛門でもなく、奥からつつつと姿を現した(しゅん)で、いきなり初対面とは思えない口調で、
 「そちが井上正直か?」
 と馴れ馴れしく言った。これには直虎も顔を蒼白にし、「コレ、口を慎みなさい」と叱って井上に頭を下げたが、俊はおかまいなしに、
 「(よし)≠ヘ達者か?」
 と、旧知の親しみようで満面の笑みを作った。ところが井上の方も「もしや?」と思い出したふうに威厳な態度を翻し、
 「あらまっ、貴方(あなた)俊姉様(しゅん ねえ さま)!」
 呆気(あっ け)にとられた直虎は、二人の顔を交互に見つめた。
 聞けば芳≠ニは井上のところに嫁いだ俊の実の妹であることを知ってびっくり仰天。俊に妹があるのは知っていたが、まさか井上の家内とは初耳で、実に世間とは狭いものである。
 それはさておき、(こう)()に入った二人は神妙な顔付で対座した。
 「野州討伐の堀さんの替わりは、もう一人の大番頭、旗本の神保山城守(じん ぼ やま しろの かみ)殿が勤めることになった。堀さんへの沙汰はその書状に記されているとおりです」
 直虎は沙汰状を受け取り、恐る恐る広げた。
 『右の者、異見あるにより五十日間の差控(さしひかえ)に処す──』
 直虎は破裂しそうな風船の空気がごく小さな穴から漏れて(しぼ)むるように肩を崩した。
 差控(さし ひかえ)≠ニは謹慎のことだが、五十日と期限がついているということは閉門(へい もん)≠ナある。屋敷の門や窓を閉ざし、その間、屋敷からの出入りが一切禁じられる罰則である。ともすれば切腹あるいは最悪お家断絶も頭をよぎった心配に比べれば嘘のように軽い沙汰ではある。
 「こ、これだけですか……?」
 「不服か?」
 「め、滅相もございません──」
 「堀さんの異見を容認する向きもあったが、私は昨日付でお役御免だ。この書状を届けるのが老中として最後の務めということになるかな……」
 「ええっ!」と直虎の両目が俄かに潤む。
 「おっと勘違いなさるな。堀さんをかばったのは私だけでない。立花さんや、そうそう小笠原長行(お がさ わら なが みち)様も陰でいろいろ手を尽くしてくれたのです。私は単に用無しというわけだ」
 そうは言ったが、真相は細君の姉の旦那を(かば)おうと、捨て身で折衝してくれたに相違ない。でなければ幕府命令を断っておいて五十日間の閉門などという軽い罪で許されるはずがない。なんだかんだ言ってもこの世は人と人との思いやりとかばい合いで成り立っている側面もあるものか──、「この御恩は決して忘れぬ」と眼に溢れそうな涙を浮かべて誓う直虎である。
 そのとき、(ふすま)の外から直虎を呼ぶ要右衛門の声がした。
 「ご来客中だ、後にせい!」
 「火急の知らせなれば」
 「何事じゃ?」
 と襖が開いて、井上に気遣いながら入って来た要右衛門から手渡された書き付けを読んだ直虎は、次の瞬間表情を硬直させた。
 「どうされた? なにか悪い知らせか?」
 「は、はあ……京都にて佐久間象山(さ く ま しょう ざん)先生が何者かに刺殺されたと──」
 「な、なんと! 佐久間象山とは松代藩のあの佐久間象山か?」
 それはまさに青天の霹靂(へき れき)だった。
 象山が、京都にいる一橋慶喜に招かれ松代を発ったのはこの年の三月。上洛して公武合体≠ニ開国≠説いて歩いたが、蟄居(ちっ きょ)を解かれて間もない彼は、怒涛(ど とう)の如く流れる時の情勢にあまりに無頓着(む とん ちゃく)だったと言わざるを得ない。それとも過剰な自己過信が(たた)ったか? 移動するのに供も連れずにいたとも言われ、七月十一日、三条木屋町(き や まち)で尊王攘夷派浪士の手にかかって暗殺された。享年五十四歳──それは学術の一大巨人によって推進されてきた一つの時代の終焉(しゅう えん)を告げるものでもあった。
 そればかりでない。さらにこれより六日後の七月十九日には、直虎たちが恐れていたことが現実となる。長州藩が京都に攻め入り、京の都を灰燼(かい じん)にした世に言う禁門(きん もん)(へん)≠ェ勃発(ぼっ ぱつ)するのである。
 幕府はついに長州征討≠布告した。

 
> (二十二)湘君(しょう くん)(しょう)夫人
(二十二)湘君(しょう くん)(しょう)夫人
 まったく世の中が騒然としているはずなのに、この静けさといったら一体何だろう?
 五十日間の閉門を言い渡された日、大工の何某(なにがし)という男がやってきて、屋敷の窓から戸口から太い木っ端を打ち付けて、「てぇへんですねェ」と他人ごとのように笑った。
 (しゃく)に触って返事もしないでいたら、(しま)いには公の間の(ふすま)まで打ち付けようとするから、さすがに「それでは(かわや)へも行けぬ。勘弁してくれ」と願って、やがて大工は門に竹を交叉(こう さ)に立てて固く閉ざして帰って行った。
 おまけに門の前には見張りの役人を立たせているから、通りがかりの人たちは「いったいどんな罪を犯したのか?」と興味津々とした顔で通り過ぎる。見せしめとはいえ、日本という国家を危惧してとった行動が、これほど惨めに追いやられるとは心外この上ない。
 心は騒ぐもやる事のない直虎は、やりどころのない悶々とした気持ちを落ちつかせ、うるさいほどに啼く(せみ)の声を聞きながら、一編の漢詩を考えている。


 噫不尤人不怨天。
 煥然抗表字三千。
 常諳賢屈覊征事。
 欲此唐虞揖讓年。
 枯骨那於禁闕裡。
 俊髦宜待帳惟前。
 湘江煙睹方愁絶。
 惟覚英光射四辺。
 (元治元甲子秋七月閉居所感)


 「うむ、なかなか面白い詩ができた……」
 これは後ろの三行に含まれる俊髦(しゅん ぼう)湘江(しょう こう)英光(えい こう)≠どう読むかで大きく意味が変わってくる直虎流の一種の隠文(いん ぶん)なのだ。つまり表面上は単に閉門の身となった心情を表現したものだが、文の底に別の意味を潜ませた高度な言葉遊びである。
 一行目の『噫不尤人不怨天』 は、「ああ、人を(とが)がめず天を(うら)まず」と読む。これは『四書五経』に出てくる孔子の言葉で、 「己のことは天だけが知っている」という意味である。とはいえ松前崇広(たかひろ)の「腰抜け!」という暴言を思い返すたびに腹が立つ。とても孔子のような君子の境地に至るにはまだまだ時間がかかりそうだ。
 二行目の『煥然抗表字三千』は「光り輝く表字三千に(あらが)う」と読み、『表字三千』とは『三体千字文』のことで、書写の手本に用いられる千文字で構成された漢字の長詩である。楷書(かい しょ)行書(ぎょう しょ)草書(そう しょ)の三書体あることからそう呼ばれ、 美しいそれらの文字に逆らうようなやるせない今の心境を詠んでいる。
 三行目の『常諳賢屈覊征事』は「常に(そら)んじている賢人たちの知恵を(くじ)くように、天狗党征討を思いとどまった」という意味で、思うようにならない現実の嘆きを詠み込んだ。
 次の『欲此唐虞揖讓年。枯骨那於禁闕裡。』の二行は中国の王朝になぞらえた。『唐虞(とう ぐ)』というのは古代中国の伝説の国で、『揖讓年(ゆう じょう ねん)』というのは天子(天皇)が位を譲る年のこと、これを欲する──つまり天皇が別の者に位を譲ったら、禁裏(きん り)に己の枯骨(こ こつ)(さら)そうという密かな勤皇の思いである。
 直虎は武田耕雲斎の中にもこれと同じ勤皇の精神を見る思いがしていた。耕雲斎の望みは横浜港の鎖港、つまり時の孝明天皇と同じ考えで、世間を騒がす過激尊攘派とは明らかに一線を画していると見ていた。彼は水戸斉昭の悲願であった尊王攘夷(そん のう じょう い)≠フ精神を純粋に示しているだけで根は紛れもない幕臣であり、以前から開国論を支持し今は西洋化に突き進む直虎とは一見水と油のようにも見えるが、天皇というものに対する思いは少しも違わないと感じていた。それはすなわち直虎が言うところの(じゃく)≠ナあり、その次元でいえば耕雲斎も同朋(どう ほう)なのだ。とすれば争う必要など微塵もなく、対話を重ねれば必ず分かり合えると信じている──。
 「殿、暇を持て余していると思い、話し相手に参上しましたぞ」
 と、暇そうな直虎を気遣って公の間にやって来たのは江戸家老駒澤(こま ざわ)式左衛門(しき ざ え もん)で、文机(ふみ づくえ)の上の完成したばかりの漢詩を目で追うと、
 「そう弱気にならずとも、そのうち良い事もございます」
 と励ました。
 「弱気になぞなっとらんが」
 「しかしこの詩に書いてあるではございませんか? これは殿がお考えになった漢詩でございましょう? 『早く優れた後継者が現れるのを待っている』と……いくらなんでも隠居するには早すぎますぞ」
 直虎は「さっそく引っかかったな」とにんまり微笑んだ。
 式左衛門は後ろから三行目の俊髦(しゅん ぼう)(しゅう)に抜きんでて優れた人材≠ニ普通に読んでいる。髦≠ヘ髪の毛の中でも太く長い毛のことで、俊≠ヘ飛びぬけて優れる意だから当然そう読むのが一般人の発想なのである。つまり『俊髦宜待帳惟前』を「(とばり)の前で考えをめぐらし、後継者たる俊英が現れるのをよろしく待っている」と解釈したのだ。
 「なるほどそう読むか? では次の『湘江煙睹方愁絶』はどうじゃ?」
 「(しょう)≠ヘ湘南(しょう なん)≠キなわち横浜方面のことで、江≠ヘ江戸≠フことでございましょう? 天狗党が江戸を通り過ぎ横浜へ向かう間に、いくつもの戦火の煙を見ることになる(うれ)いを絶とうと言っているのでしょう?」
 直虎はまんまと思惑にはま(○ ○)った式左衛門に笑い出した。
 「な、何が可笑(お か)しいのでございます?」
 「いやはや式左衛門は相変わらず頭が堅いと思ってのぉ。では最後の『惟覚英光射四辺』はどうじゃ?」
 「読んで字のごとくではないですか。英光(えいのひかり)>氛氓アれはすなわち殿がいま推進している英学の光″のことで、西洋化をもって辺りを照らす日の事を夢見ているといった意味ではないのですか?」
 英光≠英学の光≠ニ読むところに密かな思いを込めているのだと、家臣としては主君の心を見事に見透かしたであろう満足感で誇らしげである。ところが直虎は可笑しさが止まらない様子で「あはははは──」と声をあげて笑ったので、
 「私は何か変な事を申しておりますか?」
 式左衛門は(いぶか)し気に首を傾げた。
 「いやいや、お前の言う通りである。まったく正しい」
 式左衛門が不審そうに漢文を読み返しているところへ、いつもの明るい声を挙げながら俊が焼き立てのパンを盆に乗せて持って来た。
 「新作ができたぞ、ほれ虎さん食うてみよ! 今度は丸いのを半分に切って、間に小倉餡(お ぐら あん)を挟んでみたのじゃ! これが新しい食感でなかなか旨いぞ」
 現代で言うところのあんパンに似たものか? 彼女の登場で辛気臭(しん き くさ)い部屋の中がぱっと華やぐ。
 「どれどれ……」
 盆の一つを口に運んだ直虎が「うむ、旨い」と応えれば、
 「ほれほれ、式左衛門も食うてみよ!」
 俊は自分が作ったパンを皆が美味しいと言ってくれることが嬉しくて仕方ない。
 すると、ふと文机の漢詩を見つけて、俊は俄かに頬を赤く染めた。
 「この詩は何じゃ? 照れるではないか……虎さんはそんなにわらわの事が好きなのか?」
 突然何を言い出すのかといった顔つきの式左衛門は、パンを噛むのも忘れて彼女を見つめた。
 「わらわの髪はそれほど美しいか? いくら親しい間柄とはいえ、かような漢詩を式左衛門に見せることはない。こう面と向かって告白されては、さすがのわらわも少し恥ずかしいぞ」
 「な、なんの話でございます?」
 式左衛門は狐にでもつままれた表情で直虎と俊の顔を見比べた。
 「ここに俊≠ニ書いてあるではないか──」と俊が言った。
 なるほど後ろから三行目の俊髦(しゅん ぼう)≠ヘ、(しゅん)≠ニ(もう)≠ノ分けて読めば、髦≠ヘ単体では垂れ髪≠るいはさげ髪≠フ意だから俊の可愛らしいさげ髪≠ニ読める。実は数刻ほど前、暇を持て余して奥の間に顔を出したとき、結い髪をほどいて、松野に黒髪をすかせている俊の後ろ姿を見たのである。その姿があまりに(なま)めかしくて、直虎はこの漢詩を書いてみようと思い立ったのだ。
 とすれば『俊髦宜待帳惟前』は「俊の可愛らしいさげ髪が美しく、難しいことをいろいろ考える前に、夜の帳が降りるのを待とう」と読める。直虎は慌てて咳ばらいをすると、
 「式左衛門、話し相手はもう足りた。下がってよいぞ」
 と横目でうそぶいた。
 そうはいかない式左衛門は、
 「(ち づる)さま、では次の『湘江煙睹方愁絶』はどのような意味でございます?」
 と詰め寄った。すると更に慌てた直虎は、
 「もうよいから下がれと言っておろう!」
 と狼狽(ろう ばい)ぶりを隠すように語調を荒げた。
 「湘江(しょう こう)≠ヘ確か清の国にある川の名と思ったぞ? むかし何かで読んだことがある」
 さすが上田藩の姫君は、見かけによらず教養が深い。
 「川の名? 横浜と江戸のことではないのですか?」
 「何をとぼけた事を申す。ほれ、屈原(くつ げん)という有名な詩人の詩に『湘夫人』というのがあるじゃろう。これ以上は恥ずかしゅうてわらわの口からは言えん!」
 俊は柄になく赤く染めた頬を手で隠すと、直虎の背中に顔をうずめてしまった。
 彼女の言う湘江とは中国に流れる大きな川で、特に中国における春秋時代から戦国時代にかけての()(紀元前十一世紀〜前二二三年に存在した中国の王朝)の人々の信仰の対象だった。『湘妃』と『湘君』という名の二人の女性がおり、二人は舜帝(紀元前二二七七〜前二一七八年の王)の妃だったが、舜帝が没すると悲しんでその川に身を投じて川の神になったという伝説である。楚の詩人屈原はその伝説をモチーフに『湘君』と『湘夫人』と題する対の漢詩を詠み、『湘君』を男性の神として描いて二人の熱い恋慕の情を綴ったのである。
 詩の中で湘君が、
 「かの君を望めどもいまだ(きた)らず、参差(しん し)を吹いて誰をか思う」
 と詠えば、湘夫人は、
 「(げん)()あり、(れい)(らん)あり。公子(こう し)を思いていまだあえて言わず」
 と答え、湘君が、
 「薜茘(へい れい)(はく)(けい)(ちゅう)(そん)(かじ)(らん)(はた)
 と詠えば、湘夫人は、
 「(かつら)(むね)(らん)(たるき)辛夷(しん い)()(やく)(ふさ)
 と答う。そして二人の愛は永遠の時を刻む──。
 式左衛門はぽかんと口を開けて二人を交互に見つめた。
 湘江≠ェ中国の川の名なら、『湘江煙睹方愁絶』は「湘君≠ニ湘夫人≠フ幻を思い描いて憂いを絶つ」と読めるわけだ。つまり直虎は妻との甘い生活を漢詩の文底に隠していることになる。
 急に自分の方が恥ずかしくなってきた式左衛門は居場所を失い、咳ばらいを一つ残して何も言わずにそそくさと公の間を出て行った。
 「なんじゃ? 変な式左衛門じゃなぁ……。それよりなかなか良い詩ではないか。今はこんな目におうておるが、虎さんが栄光を手にして四辺を射るような光り輝く存在になるのももうすぐに違いない。しかし本音を申せば、わらわは毎日虎さんがこうして屋敷におることが嬉しいのじゃ」
 直虎は式左衛門の気配が消えたのを確認すると、急に照れ隠しの表情を浮かべて俊を静かに抱き寄せた──。
 部屋を出た式左衛門が真木万之助とすれ違う。そして「殿は公の間ですか?」と言った万之助の腕を掴んだ。
 「野暮じゃ。今はやめておけ──」
 「なぜでございます?」
 万之助は不思議そうに式左衛門を見つめた。
 「ちんちんかもかもじゃ」
 「ちんちんかもかも……?」
 二人は無言のまま公の間から遠ざかった。
 さて、のろけシーンはこれくらいにして、天狗党の顛末(てん まつ)を先に綴っておくことにする。
 水戸を発った天狗党は、下野、上野、信濃、そして美濃へと中山道を西進した。進路を江戸から京都へと変えたのである。その間田沼意尊(た ぬま おき たか)を追討軍総監とする幕府軍と、下仁田と和田峠で二度に渡って衝突し、いずれも天狗党が勝利をおさめた。
 その堂々たる隊列は、
 『武田耕雲斎は黒葵(くろ あおい)紋付(もん つき)、紫の陣羽織を着、腰に黄金の采配(さい はい)、銀輪の(くら)、鳥の()打ち出しの(かぶと)。金の武田菱(たけ だ びし)の紋付けた()おどしの(よろい)。騎馬武者二〇〇余人、荷駄五〇頭など、見る人の目おどろかざるはなし』
 と語り伝えられるほどで、武田菱(たけ だ びし)≠旗印にしたのは、耕雲斎が武田信玄の子孫≠ニ称していたことに由来する。その仰々しい出で立ちに驚いた小藩の大名たちは、幕府から追討命令が下されているにも関わらず、ただ傍観(ぼう かん)して見送ったり、中には密かに交渉を交わし、城下の通行を避けてもらう代わりに軍用金を差し出した藩もあったと云う。
 武田耕雲斎は非常に慎重だった。そこには深い思慮に基づく尊王攘夷思想が見てとれる。その彼が天狗党の総大将に担ぎ上げられたのが元治元年(一八六四)十月二十五日だから直虎が謹慎している時の少し後である。
 彼の目的は、水戸藩出身の一橋慶喜に直接会って、横浜鎖港の実現とともに幕府が尊王攘夷への方針転換を嘆願することだった。少し前まで慶喜の片腕とまで言われ、厚い信頼を寄せられていると信じる彼は、「話せば必ず解かってくれる」と疑わない。
 「我らの目的は合戦にあらず! 是が非でも京におわす慶喜様にお会いし、この熱き尊攘の思いを伝えようではないか!」
 と、総勢およそ一千数百名に膨らんだ集団を引き連れ、大砲十二門、小銃約四百挺に火薬弾薬を携えて一路京都へと向かった。
 耕雲斎の掲げる『攘夷』とは、列強諸国の言いなりになっていればいずれ日本は骨抜きにされ、やがて植民地化されてしまうという強い怖れから出たものであることは、おそらく心ある者なら理解できたはずだった。直虎の支持する『開国』といっても貿易を武器に列強諸国の仲間入りをすべき≠ニいうのはあくまで希望でしかなく、両者はとるべき方法が異なるだけで、日本の将来を危惧する幕臣としての心は同じであった。
 なるほど耕雲斎のことを知れば知るほど、その曲がった事が嫌いな性格は直虎とよく似ており、その行動は小気味よくさえ感じる。耕雲斎の振る舞いはいちいち実直一筋で、天狗党の行軍には女性も含まれていたと言うから、派手な出で立ちはどうあれ単なる暴動でないのは明白だ。その証拠に、中山道沿いの諸藩のほとんどが抵抗もせずに道を開けたのは、その本意を(おもんぱか)ってのことではなかったか。
 つまり耕雲斎は、ただ純粋に幕府の方針を『尊王攘夷』に改めたいだけで、謀反する気などさらさらない。ただなりゆき上総大将に担ぎ上げられ、なった以上は自分にできることを最後まで貫こうと、死を覚悟で行動していることが直虎には痛いほど理解できた。
 「話せば必ず通じ合うはずだ。討つにはあまりに惜しい人物だ」
 これは直虎が天狗党討伐を拒んだもう一つの大きな理由なのである。
 京都を目前にして天狗党が越前新保宿に入ったのは十二月十一日のこと。
 ところがそこで耕雲斎を待ち受けていたのは、温かく迎え入れてくれると固く信じていた一橋慶喜の天狗党総攻撃の布陣であった。禁裏守衛総督の慶喜はすでに耕雲斎の理解者でなく、水戸の人でもなかった。
 ここに至って絶望した耕雲斎は、
 「これまで軍行して諸藩を動揺させ、実に天下の大法を犯したことを深く反省し、一同降伏いたします。いかようにでも処罰してください」
 と、微塵も弁明することなく斬首される道を選ぶ。その(いさぎよ)さは直虎にとって尊敬に値した。もし天狗党討伐を拒んでいなければ、大番頭たる自分が彼を江戸まで連行する事になっただろう。そう考えると、果てしない世の無常とともに、人の運命の(たえ)なるを感じずにいられない。
 そして元治二年二月四日、武田耕雲斎は六十三年の生涯を閉じる。
 『討つもはた討たれるもはた哀れなり同じ日本の乱れとおもえば』
 後にこの辞世を知った直虎は、耕雲斎の(しかばね)(ほうむ)られた方角に畏敬の眼差しを向け、ねんごろに合掌するのであった──。


 それにしても最近の大関泰次郎(おお ぜき たい じ ろう)は須坂藩邸に入りびたり。
 「結婚などせぬ!」と言い張っていた直虎が突然妻帯したことにひどく感化された様子で、加えてその仲睦(なか むつ)まじい様子を見せつけられては心が動くのも当然だった。ところが、蓮池藩(はすいけはん)鍋島家との縁組話の方は一向に進まない。現代で言うところのマリッジブルーほどデリケートなものでないが、すっかり大人しくなってふらりと遊びに来ては勝手に公の間に入り込み、閉門中の直虎を(さかな)に気のない様子で世間話をしていくのだ。
 「泰次郎はいつも暇そうじゃの?」
 「そう言う兄貴(あにき)もずいぶんと暇そうですねぇ……」
 「わしは仕方なかろう、謹慎中じゃ。どうした? 人生が終わってしまったかのような顔をしているな。婚儀の準備は進んでおるか?」
 「さあ……? 父上が参勤したら早急にという話ですが、いつになるか分かりません……」
 「蓮池藩の姫君の名は(つな)子≠ニ申したか? 良い女か?」
 「別に……千姉(ち づる ねえ)さんほどじゃありません。まだ十三の童女(こども)ですよ、話し相手にもなりません。それに話が決ったっきり延び延びで、もうどうでもよくなってしまいました……」
 泰次郎は大きな欠伸(あくび)と一緒にそう呟いた。
 肥前蓮池藩の鍋島摂津守直与(なお とも)といえば、江戸でも有名な蘭癖(らん ぺき)大名であることは以前にも少し触れた。もっとも今は家督を長男に譲って隠居の身だが、藩主時代は高島秋帆(たか しま しゅう はん)の長男浅五郎を藩に招いて新式大砲を製造させたり、佐賀で蘭学の祖といわれる島本良順(しま もと りょう じゅん)招聘(しょう へい)して自ら西洋の習俗を模倣した生活を送ってみたり、このとき(よわい)六十七歳、その西洋に対する厚い情熱は見習うに値する。それに比べて──、
 今の須坂藩士たちのこの(てい)たらくはなんだ?
 泰次郎の欠伸が伝染でもしたように、生あくびを繰り返す藩邸内の男たちの様子を見まわして直虎は嘆いた。
 「お前たち、することがないなら英語の一つも覚えたらどうか!」
 「そんなこと申しましてもね、殿がお役御免のうえ閉門ときたら、こっちだって働く気もおこりませんよ」
 竹中清之丞が鼻をほじくりながらそうぼやく。
 悔しいが、主君が謹慎とあっては家臣たちも行動を自粛するしかないかと思うと次の言葉が出てこない。そんな中、ひとり文机に向かって筆を走らせるのは祐筆の野平野平(の だいら や へい)である。
 「ほう、お前だけは感心じゃなぁ。何をまとめておる」
 と声をかければ、野平(や へい)はウサギのように飛び跳ねて、慌てて書きかけの書を文机の下に隠した。
 「何を隠した。見せてみよ」
 「いえ……っ」と(かたく)なに拒む様子に泰次郎が寄って来て、
 「野平(の だいら)さん、例のものを書いていたんだね。おいらを登場させてくれたかい?」
 意味が飲み込めない直虎は首を傾げた。
 「例の物とは何じゃ?」
 「草紙(そう し)だよ」と泰次郎。
 「草紙……? 八犬伝とか膝栗毛(ひざ くり げ)とかの読本(よみ ほん)か? 野平(や へい)にはそんな趣味があったのか?」
 野平は顔を真っ赤にして俯いた。
 恥ずかしい話、家臣たちの日常の個人的な趣味などに関しては、いつも自分の家のように藩邸を出入りして藩士たちと無駄話をする泰次郎の方が余程詳しいようだ。
 「いいから見せてみよ」と直虎は強引に書きかけの半紙を取り上げ、
 「堀家十叒士(ほりけじゅうじゃくし)……? なんじゃ、これは?」
 と、書かれた表題を読み上げた。
 「あれ? 前は九叒士(くじゃくし)だったじゃない。一人増えてる……」と泰次郎。
 「泰次郎さんの要望を承り、叒士を一人増やしました」と野平野平(の だいら や へい)は少し得意げに応えた。
 直虎は呆れながら表紙をめくれば、そこに物語の登場人物らしき名が記されている。


殿 内蔵頭(くらのかみ)直虎須高(す こう)藩当主)
奥方 千鶴姫(ち づる ひめ)小県(ちいさがた)藩姫君)
以下叒士
 駒澤式左衛門貞利(こまざわしきざえもんさだとし)(須高藩江戸家老)
 丸山次郎本政(まるやまじろうもともさ)(須高藩国家老)
 小林要右衛門季定(こばやしようえもんすえさだ)(側近)
 真木万之助永保(まきまんのすけながやす)(中老)
 北村方義(きた むら ほう ぎ)(藩校教授)
 柘植角二忠固(つ げ かく じ ただ かた)隠密(おん みつ)
 中野五郎太夫(なか の ご ろう だ ゆう)(家臣)
 竹中清之丞(たけ なか せい の じょう)(家臣)
 野平野平(の だいら や へい)(祐筆)
 大関泰次郎(おお ぜき たい じ ろう)黒茄子(くろ な す)御曹司(おん ぞう し)


 「何じゃこの須高藩だの小県藩というのは?」
 「物語の登場人物にございます。身の回りの方々のお名をお借りしました」
 「そのまんまじゃないか。ちゃっかり作者も登場しておるわい。いったいどんな話じゃ?」
 本来なら野平が話すところを、脇から泰次郎がしゃしゃり出た。
 「須高藩を舞台にした悪霊退治(あく りょう たい じ)の話さ! 小県藩の姫君が悪霊にさらわれて十人の叒士(じゃくし)が力を合わせて救い出すんでしょ?」
 「ま、まあ、そんなところです……」
 「おいらの役回りはどんなんだい? 恰好よく描いて下さいよ!」と調子に乗った泰次郎を挫くように、
 「呆れた奴だ。暇をもてあそんでこんなものを書いていたか!」と直虎は頭を抱えた。
 「面目(めん ぼく)ありません……」
 野平はすまなそうに頭を掻きながら、
 「ところで殿、前から聞こうと思っていたのですが(じゃく)≠ニはいったい何でございます?」
 と真顔で聞いた。
 「題号に叒士≠ニあるではないか。知らずに書いておるのか?」
 「へえ……。殿がよくお使いになる言葉ですので、受け売りにございます」
 「これまた呆れた。自分で調べよ!」
 直虎は「預かっておく」と言って原稿を取り上げてしまうと、よい暇つぶしができたとばかりに公の間に戻った。
 (じゃく)──
 家臣に問われ、直虎はこの漢字をはじめて知った時の事を思い出した。
 それは漢学を必死で学んでいた青春期、亀田鴬谷(かめ だ おう こく)先生の塾に行き、日本に扶桑(ふ そう)≠ニいう別称があるのを知った日のことだった。そのころ父が編纂(へん さん)していた『扶桑名画伝(ふ そう めい が でん)』の意味をはじめて納得したと同時に、
 「扶桑とは叒木(じゃく ぼく)、そして日ノ本(ひ の もと)のことだ」
 と鴬谷先生が教えてくれた。
 叒≠ニいう漢字にはおおよそ次のような意味がある。
 この字は『又』という字を三つ組み合わせたものだが、『又』という字はもともと右手を表す象形文字である。だから『右』という字の原字でもあり、「かばう」とか「(たす)ける」という意味を含む。転じて『友』や『有』の原字ともなり、発展して「さらに」とか「くわえて」の意味が生じ、最終的に「また」の意に用いられるようになったと考えられる。
 この『又』が横に二つ並ぶと『双』になる。
 これは「二つ対の」とか「両方の」とか「二つの」とか、あるいは「並ぶ」とか「並ぶもの」という意味になり、やがて発展して「仲間」という意味にも使われるようになった。さらに中国では『又』が縦にならんだ『又』という古い書き方もあり、こうなると「仲間」とか「友」という意でも上下関係の意味合いが生じてくる。
 そして『又』を三つ組み合わせた『叒』である。
 これはもともとは中国の伝説上の木を指しており、扶桑のことだと考えられている。扶桑とは「桑」を意味するが、本来は中国から見て東の海に存在するとされていた巨木のことであり、古代中国の人たちはこの巨木から太陽が昇ると考えていた。
 世界最古の地理書とされる中国の『山海経(せんがいきょう)』には、
 『下有湯谷、湯谷上有扶桑、十日所浴。在黒歯北、居水中有大木、九日居下枝、一日居上枝。(下に湯谷があり、湯谷の上に扶桑があり、十の太陽が水浴びをする。黒歯国の北にあり、その大木は水中にあって、九つの太陽は下の枝に、一つの太陽が上の枝にある。』
 とあり、この『扶桑』が『叒』である。
 更に中国後漢時代の儒学者であり文字学者の許慎(きょ しん)が著した『説文解字(せつ もん かい じ)』には、
 『日初出東方湯谷、所登扶桑叒木也。(日の初めて東方の湯谷に出で、登る所の扶桑は叒木なり。)』
 とある。
 つまりこの日出ずる国≠ェ日本≠ナあり、古くから扶桑国≠ニ称されてきた所以である。
 同じ『説文解字(せつ もん かい じ)』は「叒」は桑の葉の象形字とされていることから「扶桑」は「桑の木」ともされたのだ。
 また、甲骨文字(中国の古代文字)や金文(青銅器に刻まれた文字)では、『叒』は『若』と同じ字形で、若≠ニの関係もあるとされる。音読みで「ジャク」と読むのはそのためだろう。
 『若』は(ひざまず)いて手を挙げる巫女(み こ)の象形字であり、『叒』は巫女の手や頭の部分を表しているという。そして「若」と通じて「従う」という意味が生まれ、『叒』の訓読みは「ふそう」の他に「したがう」とも読む。
 更に『又』が四つ集まると『叕』という字になる。
 これは紐を綴り連ねたものの象形で「(つづ)る」とか「連ねる」という意味になる。逆に考えると「短い」とか「足りない」という意味が生じ、安定しないというニュアンスが含まれてくる。
 漢字の成り立ちは一画、一文字に深い意味があり、その組み合せによって意味が何倍、何十倍、何百倍にも広がるのだ。『又』が二つ並んだ『双』や『又』が、「二つ」や「並ぶ」あるいは「仲間」という意味なら、四つ並んだ『叕』との間の『叒』は、「安定」とか「調和」「協調」などの意味合いが生まれ、つまり直虎の言うところの叒≠ノは和=A転じて日本≠ニいう意味合いがあり、かつて桜の系譜を描いた書を『叒譜(じゃく ふ)』と名付けたのは、冬を耐えて春咲く桜の花の中に日本≠ニか調和≠ニいったものを見出したためである。
 直虎は野平野平(の だいら や へい)の原稿を広げ、
 「あいつに解かるか?」
 とにんまり微笑んだ。

 
> (二十三)闇商人ローダ
(二十三)闇商人ローダ
 五十日間の閉門──その半ばにさしかかった頃、息せき切って公の間に飛び込んできたのは要右衛門で、
 「たった今、イギリスから武器が到着したとのことです。これから家老と一緒に英国商人ローダに会って参ります!」
 と高揚(こう よう)した口調で告げた。
 「ついにきたか!」
 直虎は読みかけの『英米対話捷径(しょう けい)』を閉じて、「参ろう!」と勢いよく立ち上がった。
 「ま、参る……って、謹慎中ではございませんか?」
 「かまわん。もうすぐ日が暮れる。暗くなれば門前の役人も帰るだろう。そしたらこっそり抜け出し、わしも行く」
 「し、しかし、横浜です。早く戻れても明日。その間、役人に見回りにでも来られたら、それこそ閉門だけでは済みませんぞ!」
 要右衛門は厳しく(いさ)めたが、
 「泰次郎を身代わりに置いてゆけば大丈夫だ」
 と、言い出したら聞かない直虎は、(まと)っていた着物をすっかり泰次郎に着せてしまうと、自らは町人姿に扮装し、
 「わしが戻るまでけっして公の間を出るなよ。もし役人が来たら『わしゃ直虎じゃ』で押し通せ!」
 そう泰次郎にきつく言い渡して、小笠原長行から借用した取り引きに必要な金の入った千両箱を抱えると、要右衛門と式左衛門を引き連れ猪牙(ちょ き)に乗り込んだ。猪牙とは江戸の水路を行き来するための小舟である。
 江戸中期の林子平(はやし し へい)が書いた『海国兵談(かい こく へい だん)』にこうある。
 『江戸の日本橋より唐から阿蘭陀(おらんだ)まで境なしの水路なり──』
 つまり大江戸の町に張り巡らされた水路は、遥か中国やオランダまで海を通じてつながっているという幕府海岸防備体制への警鐘であるが、逆に言えば、これは高度に優れた水運の道であり、各藩はたいてい自前の船を持ち、船頭を抱えている。須坂藩も例外でなく、お抱えの船頭に小舟を漕がせる直虎は、暗い水路を品川沖へと目指した。そこは大坂と江戸を結ぶ菱垣廻船(ひ がき かい せん)樽廻船(たる かい せん)、あるいは北海道や日本海側の港を結ぶ北前船(きた まえ ぶね)等、全国各地の食料品や日用品が人も含めて大江戸へと集まる日本海上交通の中心なのだ。
 湾内に浮かぶ大小いくつもの船灯(ふなあかり)が星のように輝く光景を見た三人は、無数に停泊する五大力船(ご だい りき せん)の一つを借り受けた。大量の武器を運ぶには大きめの廻船でなければ都合が悪い。そこから横浜までは目と鼻の先ではあるが、風を推進力にする帆船だから、風向きや風速によって進み具合が大きく異なり、早ければ二、三刻で着くこともあれば、無風の日などは丸一日かかってもたどり着かない時もある。増して夜の運行は、経験を積んだ熟練の航海術を必要とした。
 その夜は都合の良い東風が吹いていた。
 風を捕えた船は想像以上に速く進み、やがて外国人居留地が立ち並ぶ横浜の波止場に着いたのだった。
 要右衛門が通訳を呼びに行く間、船に残った直虎と式左衛門の二人は、夜だというのに昼かと思われるほどの篝火の光の中で、横浜港に停船してる外国の大型船から荷を積み下ろす労働者たちの光景を眺めていた。
 暫くして要右衛門が連れて来たのは商人風の青白い顔をした青年で、町人姿の直虎を(いぶか)し気に見つめたあと「八郎太(はち ろう た)と申します」と名乗った。
 「あれは何を積んでおる?」
 直虎は、港で日本人も外国人も入り混じって作業にいそしむ労働者たちを見て聞いた。
 「おおかた蚕種(さん しゅ)生糸(き いと)でございましょう」
 「海外との貿易は禁止されているはずだが?」
 少し前に幕府が発布した廻送令で海外貿易は厳しく制限されている。八郎太は「馬鹿げた事だ」と言うように笑った。
 「旦那、あっしらは商人です。いちいち御公儀の命令になんか従っていられません。旦那だって危ない橋を渡ろうってんじゃァないのですかい?」
 なるほど──まるで悪気はなくむしろ良かれと思ってしていることだが、直虎がこれから行おうとする取り引きも、いちいち幕府の許可を得ているわけでない。謀反と言われたら言い訳できない行為なのだ。
 三人は八郎太に連れられて、ローダという商人が構える商社へと向かった。そこは倉庫の一部を改装した小さな事務所で、中に入れば西洋のランプに金髪を光らせ、額の(しわ)凹凸(おう とつ)を刻む割腹(かっ ぷく)のいい一人の男が、机に向かって何らや書類に目を通していた。
 「彼がローダさんです」
 八郎太はその青い目をした男を直虎に紹介すると、ローダは満面の笑顔で近寄り、直虎を尻目に式左衛門の手を握りしめた。式左衛門は慌てて「わしではない、こちらが(あるじ)だ」とジェスチャーで示すと、ローダは町人姿の直虎を不審そうに見つめた。
 「マイ・ネイム・イズ・ストレート・タイガー、シュエイク・ハンド!」
 覚えたての英語を駆使した直虎は、したことのない握手を求めたが、初めてする西洋式の挨拶に胸をドキドキさせていたからか、ローダはポカンとした顔で首を傾げた。
 直虎は要右衛門を睨み「お前がくれた『英米対話捷径(しょう けい)』は本当に英語の本か?」と疑った。すかさず八郎太が間に入ってなんとか意思の疎通が図れると、
 「Oh! Excuse me──」
 ローダは直虎の手を両手で握って突然ハグした。
 「無礼者!」
 意図せぬ事態に咄嗟に腰の刀に手をかけた要右衛門だが、ローダは腰に差している二本の棒のような物を興味深げに見つめて、
 「コレハ何デスカ?」
 と聞いた。どうも調子が狂う。
 「こ、これか? これは大和魂(やまとだましい)じゃ。大小(だいしょう)とも言う」
 その言葉を八郎太が訳して伝える。
 「どんなものだか抜いて見せよと申しております」
 要右衛門は呆れて、
 「ダメじゃ。これはやたらに抜くことはできない」
 と答えれば、再び八郎太が訳して「ぜひ抜いて見せよ」と再び言った。
 「否、できぬ」
 訳の分からぬやり取りをするうち、要右衛門は通訳を介するのが面倒になり、
 「抜けばお前の首が落ちるぞ!」
 と手真似で脅して見せた。それでも案外通じるもので、驚いたローダは、
 「首が落ちては大変だが、首が落ちない程度に少しだけ抜いて見せよ」
 と、やはりジェスチャーで返してくる。そんな押し問答を繰り返した末に、ついに根負けした要右衛門は、
 「そこまで言うなら直心影流(じき しん かげ りゅう)免許皆伝の腕前ご覧ぜよ。その青い目見開いてとくと見よ!」
 言うが早いか明光々たる二尺八寸の腰の太刀をスラリと引き抜き、近くにあった竹箒(たけ ぼうき)の柄をも言われぬ速さで真っ二つに切り裂いたものだから、それにはローダも驚愕し、首を押えて近くの物陰に身を隠した。
 「お前さん方は鉄砲、鉄砲と言っておるが、さすがに日本刀には適うまいぞ」
 要右衛門は刀を鞘におさめたが、なかなかローダも聞かん気で、流暢(りゅう ちょう)な英語を並べて四人を事務所の中に招き入れると、机の上に大きな世界地図を広げて片言の日本語でこう言った。
 「ヨーロッパ、国、大キイ、ニッポン、国、小サイネ」
 続けて脇にあった丸いお盆を机に置いて、その上に楊枝を乗せたと思うと、
 「ぷうっ」
 と吹き飛ばしてニヤリと笑って見せた。おそらくお盆を地球に例えたら、日本なんて国はこの楊枝のようなものだとでも言いたいのだろう。ローダの如き武器を売買する西洋人は、混乱した時代の闇に暗躍する死の商人なのだ。何をしでかすか分からない。
 やがて八郎太の通訳で取引に入ると、ローダは奥から一丁のライフル銃を持ってきて「イギリス製スナイダー銃だ」と直虎に握らせた。いわゆる日本では後にスナイドル銃と呼ばれる最新型だが、その性能をペラペラと早口な英語で語るので、さすがの八郎太も訳すことができない。ところが意味が分からないながらもあまりに自慢げなので、断片的な訳をつなぎ合わせただけでもその性能の高さは知ることができた。
 直虎は顔を赤くするほど興奮し、やがて八郎太が訳すローダの最後の言葉を聞いた
 「一丁四十両だそうです。百丁で占めて四千両だと申しております」
 金勘定に(うと)い直虎もさすがにさあっ≠ニ青ざめた。まさか一丁にそれほどの値を提示されるなど思ってもない。持って来た金子を全部出しても予定の半分も買えないではないか!
 「話が違う!」
 と突然吠えたのは要右衛門。腰の刀に手をかけて脅したものだから、ローダは恐れおののき机の陰から「サイシンシキ、サイシンシキ」と下手な日本語を繰り返した。
 「これは約束の品ではない!」と続けたところで「いやまて」と直虎が差し止めた。
 「やはり最新式がよかろう。すまぬが持ち合わせがこれしかない。ここにある金で交換できるだけのスナイダー銃とやらをいただきたい」
 直虎が式左衛門に千両箱を開けさせるとローダはにんまり笑んで、そこから要右衛門の刀をちらつかせた値切りの交渉が始まった。こうして買えるだけのスナイドル銃を含めたライフル銃と、旧型の大砲のほか弾丸・弾薬の代金を支払った直虎は、ローダの部下たちの手を借りて、モノ≠波止場の船に積み込んだ。それでもローダには十分な儲けがあったことだろう。
 終始上機嫌の直虎は「他に気の利いた武器はないか?」と聞いた。
 「アルヨ──サツマ、チョウシュウ、ミト……ミンナ武器欲シイネ。ダカラ、タクサン仕入レタ」
 「見せてもらえぬか?」
 ローダは倉庫の奥からスペンサー馬上銃を持って来て「六連発」だと誇らしげに見せた。いわゆるそれはライフルとは違い、騎馬に乗りながら片手で発砲できる小型銃である。そればかりでない、更に小型の拳銃をおもむろに懐から出して、
 「これはコルト社のМ1851ネイビーというピストルで、リボルバー式の六連発だ。少し型は古いが護身用に持っている」
 と、これもまた自慢げに見せた。直虎は生唾を飲み込んだ。
 噂には聞いていたが、これがピストールというものかと思うと妙な闘争心が湧いてきた。
 「なんじゃ、六連発か。わしゃ十六連発を持っておるわい」
 以前片井京介から買い受けた銃の話を持ち出せば、「それは何という銃か?」とローダが問う。
 「メリケン製のヘネル十六連発銃じゃ。確かエム一八六〇と書いてあった。日本ではわしと一橋慶喜公の二人しか持っておらぬ世界最強のライフルじゃ」
 「参ったか」とばかりに答えると、ローダはさもおかしそうに笑い出した。
 「それはニューヘイヴン・アームズ社のものだが、スナイドル銃に比べたら骨董(こっ とう)だ」
 「こ、骨董……」
 直虎にとっては日本刀の手入れをするように大事にしてきた自慢のライフル銃である。それを骨董″と言われては購買欲を刺激するに充分すぎた。
 「いくらじゃ?」
 「そうだなあ……これがなくては私も困る。ライフル銃の弾一〇〇発おまけに付けて二〇〇両といったところかな? だがもう負けんぞ」
 ローダは値引き根性を見下すようにほくそ笑んだ。更には「まだまだあるよ、兵士用にどうか」と、奥から一丁二十一両のミニエー銃と、それより旧式のゲーベル銃、更には「これらの武器を扱うにはそんな恰好ではだめだ」と言って、筒袖(つつ そで)の洋服とズボンを広げて見せた。
 それよりピストルの方が気になって仕方ない直虎は、
 「式左衛門、まだ金はあるか?」
 式左衛門は(たもと)をゴソゴソやって有り金の全部を出して見せたが、渋面をつくった直虎は要右衛門にも同じように金を出させた。ところが直虎自身の持ち金を合わせても二両に満たない。藩主を筆頭に須坂藩士はみな金がない。
 「負けてもらえんかのぉ……? このピストールだけでも欲しいのじゃ……要右衛門、ちと二百両ばかりそのへんで調達して来い」
 「無茶でございます! さっ、帰りましょう!」
 ところがどうにも諦め切れないので「必ず金を持って来るから、ツケで頼む!」と交渉しても、ローダはどうにも首を縦に振らず、「ならば金を持って来るまで誰にも売るな」と粘っても、「欲しい者がいたらすぐに売る」と言って、商売根性旺盛と言うか偏屈と言うか、このローダという男も相当意固地な強欲で、ついに要右衛門と式左衛門は、直虎を引きずるようにして商社事務所を出たのだった。


 ──ちょうどローダと商談している頃、須坂藩邸では肝を冷やす大事件が起こった。この日に限って、
 「御用改めに参った! 内蔵頭殿に面会願おう!」
 と、奉行所の役人が藩邸の門を叩いたのだ。
 対応に出た中野五郎太夫の慌てふためきようを怪しんだ役人は、そのままずかずかと邸内に入り込む。役人を取り囲むように万之助や清之丞も必死に公の間へ近づけさせまいとしたが、ついに藩主の部屋を見つけた役人は、
 「内蔵頭殿は御執務中か?」
 (ふすま)の前で大声を張り挙げた。
 「ご、ご執務中である!」
 中から大慌ての泰次郎の裏返った声が聞こえた。「万事休す!」と、須坂藩士たちは全てを諦観した。
 役人は「御免!」と言ってぞんざいに襖を開けた。すると、直虎を装い、文机で読書に耽った様子の泰次郎が顔を挙げた。
 「何の騒ぎじゃ。予はただいま勉強中である。もうちと静かにしてくれ」
 幸い行燈の光は暗く、その表情まではよく見えない。
 「御用改めに参った。そなたが堀内蔵頭(くらのかみ)殿か?」
 「左様──。お勤めご苦労! と言いたいところだが、かような夜更けに他人の屋敷に土足で上がり込むとは、それが奉行所のやることか! 池田播磨守(はりまのかみ)殿に申し付けて厳しく叱ってもらわねばいかんな」
 途端、役人の顔が引きつった。
 池田播磨守頼方(より かた)は北町奉行である。かつては勘定奉行や大目付を歴任した人物で、特に南町奉行の時はかの安政の大獄を処理した名奉行として江戸にその名をとどろかせた大物である。とっさに泰次郎の口からその名が出たのは、実は直虎の入れ知恵なのだ。この池田播磨守の妻は摂津三田藩から嫁いだ娘で、直虎の親友の一人九鬼隆義の血筋なのである。
 「何かあったらその名を出せ」
 と、直虎は用意周到だった。
 「さあ、勉強中じゃ! 気が散ってならん、またにしてくれ」
 「失礼いたしました……」と役人は顔を青くして立ち去ろうとした。須坂藩士たちは「九死に一生を得た!」と、どおっ≠ニ冷や汗を流した──ところが、
 「ちと待てお役人──」
 調子に乗った泰次郎が引き止めた。藩士たちは「何を言い出す!」と再び肝を冷やす。
 「ここに寄ったついでに英語の一つも覚えて帰れ。わしの名は直虎と申すが、英語でストレート・タイガーじゃ。覚えておけ、あっはっはっはっ……」
 小馬鹿にされた気持ちの役人は、再び「失敬……」と言い残して立ち去ろうとしたが、
 「おい待て」
 と、再び泰次郎が引き止めた。藩士たちは気が気でない。
 「せっかく須坂藩邸に来たのだから、お茶の一杯も飲んでゆけ。おい、お(かつ)や、このお役人さんにお茶をお出ししなさい」
 お勝というのは須坂藩士鈴木家の息女で、上屋敷に奉公している女中の一人──このときまだ十一、二歳の童女だが、比較的大人しいものだから泰次郎にとっては格好の遊び相手で、いつもからかわれては物陰で泣いている気の優しい生娘である。
 「へ、へぇ──」
 遠くでお勝の声がすると、役人は「無用である」と言って荒々しい足取りで藩邸を立ち去った。生きた心地のしなかった須坂藩士達は、深い安堵のため息を落とす。
 大関家の跡取り泰次郎は、何とも度胸の据わった男であった──直虎が弟のように可愛がっているのはそのためかと事件を機に合点する藩士たちだが、この時彼が読んでいた本というのが春画だと知った日には、感心を通り越してみな腹を抱えて大笑いしたものだ。


 さて、ピストルを買えず、すっかり落胆して暗い埠頭(ふ とう)を、肩を落として歩く直虎である。
 その時、
 「良ちゃん? 良ちゃんじゃないの?」
 という聞き覚えのある女の声に振り向けば、
 「お糸ちゃんじゃないか! どうしてこんなところにおる?」
 声の主は国許(くに もと)糸師(いと し)お糸≠ノ違いなく、咄嗟(とっ さ)に式左衛門と要右衛門に向って「わしが殿であることを知られてはならん」と固く口止めして、近寄る彼女の手を握り返した。
 「こちらのお方は?」
 お糸は武家姿の式左衛門と要右衛門を少し警戒した目付きで聞いた。
 「須坂藩江戸家老の駒澤様と家臣の小林様だ」
 すると、自分がここにいるのを知られてはまずい事でもあるように、お糸は直虎の手を引いて少し離れた場所に移動すると、いまここにいる事情を話し始めた。
 それによれば──、
 昨年(文久三年)九月の幕府による廻送令(かい そう れい)の強化により実質的に海外貿易が禁止され、蚕糸業界は大打撃を被っていると言う。須坂領内でも、
 『横浜表に糸荷など差し出し候事、見合わせ申すべき事』
 との触れが出されて、二進(にっち)三進(さっち)もいかなくなった(いと)と周辺の蚕糸商人たちは、藩に内緒で外国人と直接的な闇取(やみ と)()きを始めたのだと小声で言う。今は外国船にその荷の積み込みを終えたところらしい。
 (いと)は仲間の所へ直虎を連れて行き、「幼馴染(おさな な じみ)(りょう)ちゃん≠セ」と紹介した。彼女とは仕事仲間の二人の男は、小布施村の重兵衛と押切村(おし ぎり むら)仲右衛門(なかえもん)だと名乗り、挨拶代わりに、昨年の十一月、輸入木綿の買い入れのため江戸に行った時の話をしはじめた。それは横浜商人と商談をまとめた日の夜のこと──
 二人は江戸茅場町(か や ちょう)の商人山形清左衛門(やま がた せい ざ え もん)方の二階に泊まっていた。すると突然、幕府の役人を名乗る数名の男が抜き身をさげて押し入って来て、
 「その方ども、外国と木綿の商いをいたしたな! 捨て置くわけにゆかぬ、覚悟しろ!」
 と、すごい形相で威嚇したのであった。驚いた二人は、
 「今後はけっしていたしません。どうかお許しを!」
 と命乞いをすると、
 「しからば金子を渡せ!」
 と脅されて、手持ちの三百両を強奪された上、宿の番頭に預けておいた四百両までもが奪われたという災難話。
 「あれには腹が煮えくり返った。密貿易の取り締まりったって所詮は金しだい。ご公儀なんざそんなもんさ」
 と、懲りずに外国相手に闇商売を続けているというわけだった。
 直虎は「はて?」と首を傾げた。
 昨年十一月といえば大番頭(おお ばん がしら)になったばかりの時分である。江戸では攘夷派に対する警戒が一層強まった時ではないか。必要以上にアンテナを高く張っていたはずなのに、そのような情報は耳に入っていない。もっとも海外貿易禁止の網をくぐった犯罪だから、当事者も被害届けは出せないにしても、幕府の役人がそんな強盗まがいな事をするはずがない。
 「お主ら、それは幕府の役人ではないぞ。攘夷浪士の仕業(し わざ)だ」
 と教えてやると、重兵衛と仲右衛門は顔を見合って納得したようだが、
 「攘夷浪士だろうと幕府の役人だろうと関係ないわさ。俺たちは金を返してほしいだけさ」
 とやり過ごした。
 それにしても女だてらに須坂から横浜まで生糸を売りに来るとは、(いと)も相当恐いもの知らずの商売人だ。そして「お願いだから、あのご家老さまには言わないで」と、ぬけぬけといつ覚えたか色目を使って(すが)り付く。そのうえ、
 「ちょうどいま須坂から運んで来た生糸をフランス人に引き取ってもらったばかりで、いま私たちの懐はホッカホカなのだ」
 と無邪気に(ほこ)った。
 「なぬ?」と直虎は閃いた。
 「お糸ちゃん、頼みがある。聞いてくれぬか?」
 直虎は(いと)の手を握って彼女の顔をじいっと見つめた──いつだったか、一度は「嫁にもらって」と思いのたけを告白した男にそうされたら、けっして悪い気がしない(いと)なのだ。頬を赤らめ、
 「なあに……?」
 「すまぬが二百両ばかり貸してくれ?」
 「はあっ? 二年振りに会ったというのに、またそれ?」
 恥も外聞もなく直虎は、その場に(ひざまづ)いて頼み込む。
 「すぐに入り用なのだ! 須坂藩の名において必ず返済するから!」
 その光景があまりに哀れに見えたか、脇から重兵衛が口をはさむ。
 「お糸ちゃん、千両、二千両って金じゃァねぇんだ。利子をたんまり付けて貸してやれ」
 お糸は暫く考えて、
 「私たちの事を、あのご家老さま達に絶対に言わないと約束してくれる?」
 念を押した上に足元を見透かし、
 「利子は三割、返済額は占めて二百六十両──、あのご家老さまに証文もらってきて!」
 と愛想なく言った。それは取りすぎだろうと重兵衛と仲右衛門は顔を見合わせ笑ったが、相変わらず金に無頓着な直虎は、急いで式左衛門のところに戻って「いますぐ二百六十両の借用証書を書け」と命じた。
 「あの女、いったい誰でございます?」と要右衛門。
 「須坂の者だ」
 「須坂の者がどうしてこんなところに?」
 「いいから言う通りにせぇ!」
 式左衛門は愚痴を連ねながら借用証書を書き終えると、文末に須坂藩の花押印を()した。それを持ってお糸に渡せば、お糸は二百枚の金子を惜しげもなく手渡して、
 「良ちゃんと一緒に、江戸に立ち寄ってから帰ろうかな?」
 と意地悪そうに(つぶや)いた。
 「そ、それは困る……」
 「どうして?」
 「来ても泊める場所がない」
 「うそばっか……」
 遠くの篝火の光で淡く浮かんだ何か言いたげな表情に、ほのかな悲しみを帯びていた。
 こうして二〇〇両の金を手にした直虎は、急いでローダのところへ駆け戻り、リボルバー拳銃を買い入れた。

 
> (二十四)薩摩VS叒士(じゃくし)
(二十四)薩摩VS叒士(じゃくし)
 横浜から江戸へ向かう海の上、空が白々としてきてすっかり夜も明けた。行きはあれほど順調だったのに、どういうわけか風は一向に吹かず、荷で船体が重くなったこともあるのだろうが、直虎を乗せた五大力船(ご だい りき せん)は遅々として進まない。
 「この調子では夜になってしまいますなぁ」と船頭が言ったが、幕府に届け出のしてない闇取り引きの危ないモノ≠藩邸に運び込むには人目のつかない夜の方が都合よい。
 こうしてようやく品川(みなと)に面した本湊町(ほん みなと ちょう)稲荷橋(いな り ばし)近くの波止場(はとば)に到着したのは船頭が予想したとおり黄昏時(たそ がれ どき)で、直虎は、
 「さて、ここまで運んだはいいが、どうやって藩邸まで運ぼうか?」
 と頭を悩ませた。そこから藩邸まではおよそ四半里(し はん り)(約五〇〇メートル)程度の距離ではあるが、ライフル銃だけなら猪牙(ちょ き)に積み換え何回かに分けて水路を行くこともできるが、大筒となると小型とはいえ転覆してしまうのが目に見えた。
 「大八車を持って来るしかありませんな」
 式左衛門が「ついでに藩邸の男どもを連れて参ります」と、直虎と要右衛門を荷物番に残していなくなった時だった。
 「その荷は何ですかな?」
 手拭いで頬被(ほお かぶ)りをした七、八人の男が突然現れて二人を取り囲んだ。
 「何じゃ、お前たちは?」
 要右衛門が太い声で威嚇(い かく)したが、男たちは少しも(おく)することなく、慣れた様子で腰の刀を引き抜いたと思うと、じりじりと二人に近寄った。荷を狙った強盗に相違ない。辺りは既に蒼然(そう ぜん)とし、船頭は恐れおののき逃げ出した。
 「悪い事は言いません。その荷を置いて立ち去れば、血を見ることはないでしょう」
 相手は荷が武器・弾薬であることを知っているようである。もしかしたら横浜からずっと付けてきたか、さもなくば、横浜に潜む諜報者が昨晩の取り引きを嗅ぎ付け、その情報をある者に売った組織ぐるみの犯行か?
 いずれにせよ、まとまった武器が欲しい集団であることは確かで、いま武器が早急にも必要な集団といえば天狗党──、あるいは長州追討で危機にさらされる長州藩の回し者か? しかし言葉のイントネーションに、水戸でも長州でもない聞き慣れないお国訛(くに なま)りが気になった。
 直虎は飄々(ひょう ひょう)と前に進み出た。
 「おいおい、それはちと困る。我らも何年も待ってようやく手に入れた腰元(こし もと)≠スちじゃ。どこの誰だか分らぬ者に『ではどうぞ』と簡単にお渡しするわけには参らん。まずは名を名乗りたまえ」
 「腰元……?」
 リーダーらしき男の双眸(そう ぼう)がせせら笑ったのが分かった。
 「名を尋ねるならば、まず己から名乗るのが武士の礼儀でないかな、内蔵頭(くらのかみ)さん」
 相手はすっかりその名を知っている。ということは、大番頭(おおばんがしら)であったことも、今は閉門の身であることも承知の上での狼藉(ろうぜき)に相違ない。仮にこの場を凌げても、罷免された大番頭の権限を行使することはおろか、届け出もしていない荷の中身が中身なだけに、被害を幕府に訴えることさえできないではないか!
 まして不覚にも命を落としたとあらば……
 と、目の前の強盗団の背景に大きな組織の存在を感じながら、(わらべ)同然、無邪気に喜んで取り引きに同行してしまった己の軽率(けい そつ)さを今更のように悔いた。
 「だから日頃から剣術の稽古(けい こ)(おこた)るなと申しているのでございます。所詮(しょ せん)、道義や作法など通用せぬ(やから)、ここは拙者(せっ しゃ)にお任せを──」
 耳元でそうささやいた要右衛門が二尺八寸の刀を引き抜いて輩の前に進み出た。
 「殺すなよ──」
 殿の言葉を煙たそうに聞きながら、刃のある方を自分側にひっくり返した要右衛門は、「お相手つかまつろう!」と大声を張り上げた。
 「無礼もここまでくると名乗ることさえバカバカしいが、拙者も武士のはしくれ、冥途(めい ど)土産(みやげ)に聞かせてやるわい。ここにおわす堀直虎様の用心棒、直心影流(じき しん かげ りゅう)免許皆伝小林(こばやし)要右衛門(ようえもん)季定(すえさだ)とはわしの事よ! この荷欲しくば見事わしを倒してから持ってゆけ!」
 すかさず賊の一人が斬りかかったのを、要右衛門は難なくかわして太刀の峰で打ち付ければ、男はぐう≠フ()も言わずに倒れ込んだ。ここに至ってただ者でないことを悟った賊たちは、二、三歩後にのけ反って要右衛門を睨みつけた。
 「次は誰じゃ? さあさ遠慮なしにかかって参れ!」
 次の一人が前に出た時、リーダーらしき男が差し止め「拙者が相手をしよう」と前に出た。その貫禄(かん ろく)や落ちつきようで、多少は腕に覚えのある者だとすぐに判った。
 「名を名乗れ」
 「申すほどの者ではござらん」
 言うが早いか男は真剣の(やいば)を要右衛門めがけて撃ち込んだ。その凄まじさたるや近くにあったご太い木っ端をも吹っ飛ばす勢いで、危うく斬られるところを寸でのところではじいて、その刀と刀のぶつかり合いは甲高い金属音を響かせるとともに常闇(とこ やみ)に花火かと思わせるほどの火花を散らせた。
 「薩摩示現流(じ けん りゅう)──?
 その殺気に満ちた一太刀で、要右衛門はその流派を見破った。
 示現流は薩摩に伝わる剣術一派である。もとは慶安から享保にかかる江戸初期の薩摩の武士田中雲右衛門という男が創始した太刀流≠フ分派であり、長剣を素早く抜く早太刀の術≠得意とした。その激しい撃ち込みの鍛錬から生まれる気の力による戦法は、技術や技能を先とするなまじいな流派などでは通用しないだろう。
 「薩摩の剣は殺陣剣──危うく()られるところだったわい……」
 どっと吹き出る冷や汗を隠しながら、要右衛門は余裕を装って、
 「その方ら薩摩武士だな!」
 と叫んだ。
 薩摩≠ニ知って、直虎は「なぜ薩摩?」と混乱した。天狗党がらみの水戸浪士≠ノ狙われるならまだ合点もいくが、薩摩などには知り合いもなければ増して恨みを買われるようなことも身に覚えない。とすれば、彼らは単に武器が欲しいだけで、幕府から祟り目を食らっている直虎の弱味に付け込んで襲ったものか──そう考えたら無性に腹が立つ。
 示現流の男は二の太刀、三の太刀と斬り込んだが、最初の一太刀で癖を捉えた要右衛門は、徐々に春夏秋冬の呼吸を整え、八相発破の構えで優勢に立つと、焦った薩摩の他の男たちは後方から要右衛門に斬りかかった。さすがの要右衛門も複数を相手にしてはひとたまりもない。
 「しまった!」
 と思うより早く、
 パーンッ!
 凄まじい破裂音が闇の中に響いたと思うと、後ろから斬りかかった男の腕から血しぶきが飛び散った。驚いた薩摩の男たちが音のした方へ目を向ければ、そこには一筋の煙を引いた買ったばかりのピストルを手にした直虎がいる。
 「命が惜しくば動くでない! わしゃこいつを撃ちたくてうずうずしておる!」
 と、次の一発を星空に向かって発砲した。
 男たちが驚いた隙に、要右衛門は後ろから斬りかかるもう一人の男のあばらを刀の峰で打ち付ければ、骨を砕かれた男はその場にうずくまった。
 三人倒れて残った賊の数は四人──、示現流の男は要右衛門を自分に引きつけて、残りの三人に向かって「内蔵頭(くらのかみ)を斬れ!」と命じた。咄嗟に直虎の危険を察知した要右衛門は、すかさず殿の許へ走ろうとしたが、そうはさせまいと示現流の男が先回りしてゆく手を阻むと、すさまじい勢いで上段から太刀を振り下ろし、要右衛門はそれを剣で受け止めたまま動きを封じ込まれた。
 「殿っ!」
 焦った直虎は迫りくる三つの切先めがけて無我夢中でピストルを連発したが、先ほど男に命中したのはまぐれだったか残りの四つの弾はことごとく外れ、ついにはカチッ∞カチッ≠ニ撃鉄の虚しい音だけが残った。襲いかかった三人の男たちはあざ笑いながら取り囲んだ。
 追い詰められた町人姿の直虎は太刀もなければ懐刀もない。
 万事休すか──
 残る手段は得意の話術だけ。
 「ちと待て! わしを殺しても天下が動くわけでない。冥途の土産に聞かせてほしいが、お主らは何故わしを斬ろうとするか?」
 「最初から黙って武器を渡せばかようなことにはならなかった。抵抗した報いと思ってあきらめよ」
 一人の男がそう答えた。
 「そうは参らぬ。わしには可愛い嫁がおる。夫婦になってまだ半年にもならぬのじゃ。いま死んでは成仏できぬ。さすればお前らを呪って化けて出るしかないが、よーく考えてみよ、お前らにも嫁がおろう? 子がおろう?」
 ところが「おらぬわ!」と身も蓋もない──。
 次の瞬間、男の一人が「御免!」と叫んで太刀を振り下ろした時、どこからか燕のような黒い物体が飛んできて男の手から刀がポロリと落ちた。「何が起こった?」と目を見張れば、鮮血が滴る血の出どこに黒い十字手裏剣が突き刺さっているではないか。
 「はっ」と気付けば目の前に、天から降ったか地から湧いたか、黒装束の一つの影が直虎を護衛するように立っていた。
 「殿、お怪我はございませんか──?」
 「(かく)さんっ!」
 その影は家臣の一人伊賀忍びの者の柘植角二(つ げ かく じ)に相違ない。思わぬ助っ人の登場に、直虎は腰が砕けたように膝を落した。
 「逃げますぞ、殿──」
 言うが早いか角二は、懐から胡桃(くるみ)ほどの黒い(かたまり)を取り出したと思うと、いきなり男たちの足元に投げ付けた。するとそこから白い煙がもうもうと吹き出して、またたくまに辺り一帯を霧に包み込んだ。やがて霧が晴れると、目を真っ赤に染めた三人の男たちはひどいくしゃみと咳き込みに襲われた。そしてそこにあったはずの直虎の姿は幻のように消えていた。まさに一瞬の出来事である。
 その間角二の誘導で桟橋(さん ばし)近くの荷置き場に放置してある大きな(たる)の物陰に隠れた直虎も同様、真っ赤に()れ上がった目から涙をボロボロ流し、止まらないくしゃみに閉口していた。
 「なんじゃ? なにが起こった?」と聞けば、
 「伊賀に伝わる煙玉(けむり だま)でございます。少々胡椒(こ しょう)の分量が多かったようで」
 と、覆面(ふく めん)で難を逃れている角二は大真面目な小さな声で答えた。
 やがて、大八車を引いた式左衛門と五、六人の家臣たちの「殿!」と言う声が聞こえてくると、
 「引けっ!」
 薩摩の男たちは、負傷した者たちを携えて風のように姿を消した。角二は瞬転気配を消して、その男たちの後を追った──。
 「いったいこれは何の騒ぎか!」
 真木万之助が地面に残った血糊(ち のり)の跡を見て言った。
 「薩摩の賊だ。危うく荷を全て奪われるどころか、殿のお命まで取られるところだった」
 太刀を鞘におさめた要右衛門は、賊が逃げ去った方角を涙の赤目で睨んだ。
 「どうした? 目が真っ赤だぞ」
 「それより殿は? 殿はどこにおられる?」
 「わしゃここじゃ。死ぬかと思ったわい……」
 近くの大樽の中から直虎がひょっこり顔を出した。
 「殿! いったい目をどうされました、真っ赤ではございませんか? まるで猿のようなお顔をしておりますぞ」
 「(かく)さんの煙玉にやられたのじゃ」
 「まるで虎でなくストレート・モンキーですなァ」
 先ほどの危機的状況を知らない竹中清之丞(せい の じょう)が悪気もなくいつもの冗談をとばした。カチンときた直虎であるが、猿≠英語でモンキー≠ニ知っていた陰の語学鍛錬に免じてその悪たれを飲み込んだ。
 「で、柘植(つ げ)殿はどこに?」と式左衛門。
 「賊を追って行ったわい──」
 こうして横浜から運んだ武器弾薬類を大八車に積み込み藩邸に運び込んだ須坂藩士たちであるが、以後、藩邸敷地内の藩校『五教館』では、オランダ式とはいえようやく本格的な西洋式の実地演習を行うことができるようになったのである。
 当時幕府の軍事調練といえば、文久の軍制改革以来フランス式を導入していた。以前、小笠原長行の使いで芝新銭座(しば しん せん ざ)大小砲(だい しょう ほう)習練場(しゅうれんじょう)で見たのがそれで、いわばこれが『日本陸軍』の始まりである。その編成は陸軍奉行の下に三名の歩兵奉行と騎兵奉行を置き、形の上では歩兵・騎兵・砲兵があるものの、日本古来からの伝統である知行(ち ぎょう)の格差による序列と個人々々の技量を重んじた軍制を色濃く残し、『陸軍』と呼ぶにはまだまだ未熟な組織であった。天狗党討伐の実戦にも投入されたが、結局経験不足が祟って思うような成果を発揮することはなかった。
 加えて、今年(元治元年)に入って『歩兵操法』や『砲軍操法』、つい最近は『歩兵心得』などの西洋の軍事書籍の翻訳本も次々と刊行されてはいたが、どれも蘭学に基づくものばかりで、西洋式と言ってもまだまだ日本の軍制の色を強く残していた。
 フランス式もオランダ式も「どうも違う……」と感じていた直虎は、この頃から神奈川奉行所の一部で導入されつつあったイギリス式に興味を抱いた。
 「導入するならエゲレス式だ」
 と思いつつ、日本においてはまだ一つとして刊行されていない最先端のイギリス式の兵法書の必要性を強く感じた。
 ──それから数日後、賊の後を追った柘植角二が戻って、つかんだ情報を伝えた。直虎はローダから買い受けたピストルを手拭いで拭きながら、
 「殿を襲った賊は薩摩藩士益満休之助(ます みつ きゅう の すけ)という男でございます──」
 という言葉を聞いた。
 「益満……?」
 直虎は聞かない名に首を傾げた。
 後に西郷隆盛の密命により、伊牟田尚平らと共に江戸市中の攪乱を図り、戊辰戦争の直接的な引き金となったとされる薩摩藩邸焼き討ち事件を引き起こす人物である。当時は江戸を拠点に活動する尊王攘夷派で、
 「清河八郎の虎尾(こ び)の会≠フ一味で、数年前のヘンリー・ヒュースケン暗殺の首謀者の一人です」
 と柘植は続けた。ヘンリー・ヒュースケンといえばアメリカ外交官タウンゼント・ハリスの秘書兼通訳だった男である。
 清河八郎といえば幕府のお尋ね者だったのでその名は知っている。尊王攘夷の動きに拍車をかけた人物であるが、直虎が大番頭になる以前に死んだはずだ。そもそも『虎尾の会』は、大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変が起こった頃に清河が結成した過激尊攘派組織だが、メンバーには山岡鉄舟の名も見られ、会の名には尊王攘夷のためなら虎の尾を踏む危険も恐れない≠ニいう意味が込められている。
 ヒュースケン暗殺事件により幕府から危険視されてより、虎尾の会は散り散りとなって清河も逃亡するが、文久二年十一月、江戸に戻ってからは、攘夷か開国かで混乱する幕府の状況に乗じて、攘夷断行と攘夷派浪士の罪を大赦すべしとする建白書を提出して罪が許され、将軍上洛の護衛として『浪士組』を編成して京都に赴いた。
 ところが清河の目的は将軍護衛にあらず、朝廷擁立にあり、尊王攘夷運動の黒幕的存在となって暗躍するも、意見の食い違いから浪士組は分裂した。そして一方は『壬生浪士組』となって京都守護職松平容保御預かり、後の『新選組』となり、もう一方の清河率いる者たちは江戸に戻って『江戸浪士組』となって賠償問題で当時江戸を取り囲んでいた対イギリスとの攘夷戦に備えるが、翌年四月に再び幕府から危険視され清河は刺客に暗殺された。享年三十四歳──。
 『江戸浪士組』の者たちは次々と捕縛され、組織目的を失った『浪士組』は間もなく幕府によって再組織され『新徴組』として生まれ変わった経緯がある。そして新徴組は江戸市中の警護や海防警備の役割を与えられ、やがて庄内藩主酒井忠篤(さか い ただ ずみ)の御預かり組織となったのが、直虎が大番頭に任命される少し前のことだった。だから市中を見回る際も一緒になることもあったはずだが、益満休之助(ます みつ きゅう の すけ)という名は知らない。もっともそのときの新徴組は、新たな募集で加わったメンバーも含め二〇〇名もいたから、覚えがないのも当然だ。
 皮肉なのは、酒井忠篤(さか い ただ ずみ)の力もあるのだろうが、もともと尊王攘夷の組織だった浪士組が、このとき江戸の不貞浪士の掃討や尊皇攘夷派志士と戦う完全なる幕府の一組織に変貌していたことで、更にこの後、江戸っ子気質な体質が町民たちに受け入れられて、その人気はヒーロー的存在感を示していくことである。
 その意味で『新徴組』は『浪士組』とは全くの別物で、そこにはすでに『虎尾の会』の精神など流れているはずもない。おそらく益満休之助(ます みつ きゅう の すけ)は新徴組には属していないだろう。
 「いま薩摩藩は、幕府に内緒で盛んに西洋の武器類を買い集めております。昨年のエゲレスとの戦争でその必要性を強く感じたようで逆にエゲレスに急速に近づいています。こたびの襲撃行為も単に武器の掠奪が目的のようで、彼らは横浜に諜報者を置き、絶えず武器の輸入などに目を光らせているようです」
 と柘植は言った。
 「薩摩ほどの雄藩が、なにもかような貧乏藩から掠奪することはなかろうに……」
 「西洋の武器は金喰い虫。薩摩ほどの藩でも足りぬ物は足りぬといったところでしょう。だから陰で盗賊団を組織し、いただける物はいただこうという魂胆と思われます。大番頭としてならともかく、お役御免のうえ閉門の身では、殿も間が悪かったと言うべきでしょうな」
 「世も末じゃなあ……」
 ピストルを磨く直虎の手が胸糞(むな くそ)悪そうに細かく振れた。
 
> (二十五)出世(しゅっ せい)本懐(ほん かい)
(二十五)出世(しゅっ せい)本懐(ほん かい)
 あと二日で五十日間の閉門の期日が明けようとする九月一日のことである。
 なんの前触れもなく新たな幕令が下された。
 「いったいどういうことか──?」
 と、混乱したのは直虎だけでなく、おそらく日本中の大名たちが同じ思いを抱いたことだろう。
 『万石以上、以下之面々(ならびに)交替寄合(三千石以上の旗本)、嫡子在国、在邑(ざい ゆう)(かつ)妻子国邑(こく ゆう)()引取候共(そうらえども)可為勝手次第(かってしだいの)(むね)((たるべし))去々(きょ きょ)戌年(いぬ どし)被仰出(おおせいだされ)、銘々国邑()引取候面々も有之候処(ありしそうろうところ)此度(この たび)御進発も被遊候(あそばせそうろう)付而者(ついては)、深き思召も被為在(あらせられ)候ニ付、前々()(とおり)相心得(あい こころ え)、当地()呼寄候様可致(いたすべく)被仰出(おおせいだされ)候、一万石以上()面々(ならびに)交替寄合参勤之割(さん きん の わり)、御猶予被成下(なしくだされ)(むね)、去々戌被仰出候処(おおせいだしそうろうところ)、深き思召も被為在(あらせられ)(そうろう)(あいだ)向後(こう ご)()前々御定(おさだめ)()割合ニ相心得(あい こころ え)、参勤交代可有之旨(これあるべきむね)被仰出候(おおせいだしそうろう)
 つまり文久二年八月に出した参勤交代の緩和(かん わ)で、嫡子(ちゃく し)や妻子を国許に引き取らせた幕府が、ここに来て大名の妻子を再び江戸に呼び戻し、参勤交代の制度を以前の通りに戻せと言い出したのである。
 前は『方今宇内之形勢(ほう こん う ない の けい せい)一変いたし候ニ付(天下の形勢が一変したから)』と言って徳川幕府が始まって二百年以上続いてきた参勤交代の制度を崩したかと思えば、僅か二年足らずで今度は『深き思召(おぼし めし)被為在(あらせられ)候ニ付(深い考えがあるから)』と言って参勤交代を以前と同じに戻すとは、いくら幕府の方針とはいえ、国家全体をまとめる立場としてはあまりに安易と言うか、浅はかと言うか、無責任と言うか──、
 これでは従う方も「困った」と愚痴(ぐ ち)をこぼす以前に呆れかえってしまうのも無理はない。須坂藩のような小藩ならば多少の小回りもきくが、大きな藩になれば負担も大きく混乱は否めない。
 ここに言う深き思し召し≠ニは何かと考えてみれば、京都における情勢の変化に対応するためという事には違いなかろうが、確かに新たな政策が急務であることは理解できる。文久二年の末からの一連の流れを見ても、尊王攘夷論の席巻から天皇をめぐる政治上のかけひきによる二二九年振りの将軍上洛、八月十八日の政変による長州藩の京都追放、時局収拾の期待を背負っての将軍家茂の再上洛、参預会議の結成と崩壊、そして、西洋列強諸国との関係をうやむやにしたまま表面上は公武合体を遂げたものの、長州藩による禁門の変が勃発し京都が戦禍にのまれ、ついに長州征伐令が下されたわけだが、それらが諸藩に負担をかける参勤交代の復旧とは俄かにはつながらない。
 一言で言ってしまえば、文久二年の参勤交代の緩和は、諸藩の負担を減らし力を蓄える事を意図したものであるはずが、立て続けに起こる京都での変動を見る限り、返って幕府の統制力を弱める結果になってしまった。そこで幕府は、公武合体の実を挙げた今のうちに、失墜した権威を以前のものに取り戻そうとした意図が感じられる。しかし朝令暮改の政策など、混乱と不審を招くばかりだ。現にこの参勤復旧の制に従()ない、あるいは従()ない藩も続出し、この制度は曖昧(あい まい)さを残したまま明治を迎えることになる。
 「こうなると、殿の参府とお暇の時期はどうなりますかな?」
 世情の心配より、自分の藩の動きが心配な式左衛門が悠長に言った。
 「前々御定(おさだめ)()割合ニ相心得(あい こころ え)≠ナすから、須坂藩は丑、卯、巳、未、酉、亥の六月が参府ということでしょうな」
 と万之助。
 「今年は甲子ですから御暇(お ひま)の年ですな。でも殿はこうして江戸におる。来年が乙丑(きのと うし)ですから参府の年ですが、今から帰藩してまたすぐに出て来るというのもたいへんな負担ですな」
 式左衛門のぼやきに要右衛門が、
 「今日触れが出たばかりで『御暇の年だから明日すぐ帰れ』とはさすがのご公儀もそんな無茶は言わんだろう。殿、いかがなさいます?」
 「お(かみ)がそう決めたなら従うしかあるまいが……逆らったら今度こそ打ち首、須坂行きどころかあの世行きじゃ」
 「では須坂へ帰るのですか?」
 藩士たちは一転二転の幕府方針に呆れた顔を作った。


 ついに五十日間の閉門の期日が明けた。
 今日は沙汰(さ た)が下った日より五十日目の九月三日──。
 待ちに待ったと言えばその通りであるし、長かったようでもあるが、振り返ってみればよい保養期間でもあった。
 朝、久し振りに竹交叉(たけ こう さ)が払われた正面門の外に出た直虎は、むくむくと込み上げる言い知れぬ歓喜に胸躍らせて、天狗党のこととか京都で起こっている喧騒(けん そう)のこととか、それらとは無縁の世界に躍り出た心境で、少しずつ色づき始めた(かえで)の葉を眺めて大きく大気を吸い込んだ。西暦で言えばもう十月、季節はすっかり秋の気配を運んでいる。
 「さて、今日より何をしようか……?」
 謹慎前は、大番頭の職務の忙しさで、江戸城へ登ったり市中を見回ったり、西洋化への藩政改革も進めなければと忙殺の中で気ばかり焦っていたが、いざこうしてたんまり時間が与えられると、戸惑いの方が先に来て返って何もできなくなってしまうものか。
 思えば閉門を言い渡されたのが七月十三日で、旧暦の日本では中元節(ちゅうげんせつ)に当たる七月十五日はいわゆるお盆だが、今年は墓参りにも行けなかった。先祖供養や、世話になった人への贈り物などなされる風習もあるが、大番頭を罷免された途端、現金なもので誰一人としてお中元とか見舞いを持って来る者がない。外部との接触が完全に断たれていたのだから当然だが、少し以前にも贈答を慎む触れが出ていたからそのためだろうと納得しつつ、まるで世の中から忘れ去られてしまった一抹(いち まつ)の寂しさは禁じ得ない。
 「そうだ、今日は兄上の墓参りに行こう……」
 そう思ったのは、秋の空に浮かぶ雲の形が、兄直武の面影を伝えたためだろうか。須坂に帰藩中にその死を知らされて以来、参府した際に下屋敷の仏壇の位牌に手を合わせたくらいで、ろくに供養もしてやれていないのだ。そう考えたら矢も楯もいられなくなって、
 「(ち づる)さん、今日は散歩がてら兄の墓参りに行きませんか?」
 と、奥の間の千を誘った。ちなみにこの項より(しゅん)(ち づる)と表記することにする。
 千は謹慎明けの祝いに夫と出かけようとでも考えていたのだろう、お付きの松野を相手に「これでもない、あれでもない」と、早くも着物選びに夢中で、墓参り≠ニいう意外な提案に、
 「今日は日本橋か愛宕山(あたごやま)あたりで、虎さんと一緒にうまい団子でも食おうと思っていたのじゃ
 と顔をしかめた。
 「ほれ、兄の直武が亡くなって一度も墓参りに行っておりません。千さんも堀家の菩提寺を見ておいた方がよいと思うのですが」
 二人が結婚して半年以上経つのに、いまだに敬語で嫁と話す殿の律義さに、松野は可笑しさをこらえきれない。
 「墓はどこにあるのじゃ?」
 「深川(ふか がわ)浄心寺(じょう しん じ)です」
 浄心寺と聞いて上田藩下屋敷が近くにあることはすぐに知っただろうが、そこから少し足を伸ばせば須坂藩の下屋敷もある。千の瞳が曇ったのはそのためか?
 「その足で須坂藩の下屋敷に行くのであろう?」
 やはり勘は的中していて、どうやら義母の静に会うのに気が重いらしい。新婚早々「堀家のしきたりだ」とあれこれ手厳しい事を教え込まれた体験がトラウマになっている。
 直虎は少し考えて、
 「下屋敷に行くのがいやでしたら、浄心寺だけでも参りませんか。千さんと行きたいのです。寺の門前にやほき≠ニいううどん屋がありますから、そこの一本うどん≠一緒に食べましょう」
 やほきの一本うどん≠ニ聞いて、千の瞳は一瞬晴れたかに見えたが、
 「あの四、五尺くらいある長いうどんか……。噂に聞くほど美味いものでない」
 と、その言葉には行きたくない心がはっきり顕われている。
 ところが四、五尺くらいの長いうどん≠ニ聞いて直虎は首を傾げた。彼の知っている一本うどん≠ニは明らかに違っていたからだ。すると傍らにいた松野が急にそわそわとしだした。
 あれは千の父松平忠固が老中だった頃の話である──。
 まだ十くらいの俊(千)がある日、噂のやほきの一本うどん≠フ話を聞いて、突然「わらわも食べたい」と言い出した。当時、日米修好通商条約締結の件で時の上田藩主松平忠固は奔走していて、反対勢力の圧力も甚だしく、上田藩では「女子供(おんな こ ども)は外出禁止」の厳命が下っていた。ところが言い出したら聞かない俊は「食べたい、食べたい!」と駄々をこねて泣き出す始末。困った松野は一度も見たことのない一本うどんを四、五尺くらいの長いうどんだと思い込んでいたので、自らの手で小麦粉をこねて作って、
 「これがやほきの一本うどんでございます。どうぞ召し上がれ」
 と、出前を取り寄せたふうを装って彼女に与えた。俊は普通のうどんと変わらない、ただ長いだけのうどんを頬張って、
 「噂に聞くほど美味いものでないな」
 と興覚(きょう ざ)めして(はし)を置いた──松野は、昔のその出来事を思い出したのだ。
 「いえいえ、一本は一本ですが長くはありません」と直虎が言う。
 「そんなことはない。わらわが食べたのは至極長い一本のうどんであった。のどにつかえて食べるのに難儀したのだ。のう、松野──」
 「そ、そうでございましたっけ?」
 松野はとぼけた様子で千が脱ぎ捨てた牡丹の着物をたたんでいた。
 直虎は続ける。
 「幼いころから墓参りといえば、あのご太いやほきの一本うどん≠食うのが楽しみで、お詣りの面をかぶって行きたくもない寺へ親のお供をしたものです」
 さも(うま)そうに(よだれ)を垂らす振りをしたものだから、興味をそそられた千は生唾を飲み込んだ。
 「どうもわらわの思っているのと違うようじゃ。虎さんの言う一本うどんとはどのようなものじゃ?」
 「一本うどん≠ニ言えば、親指くらいの四角いご太い麺が、丼鉢(どんぶり ばち)にただ一本だけ盛られているものです。太いからさぞ硬いと思うかも知れませんが、口に入れると、きめが細かでことのほか柔らかい。そいつを箸で適当な長さに切って汁につけて食べるのですが、あんまり旨いからわしもひとつ作ってやろうと挑戦してみたことがあるのです。ところがどうやっても芯が残ってしまいましてな。なんでも前日に仕込んだ生地を茹で、鍋に蓋をしたまま一晩寝かすらしいのですが、打ち方や茹で方にもコツがあるようで、加減がわからず結局あきらめてしまいました」
 千の目の色がみるみる変わるのが判った。
 「それはわらわの食うたものとは明らかに違うのぉ。実にうまそうじゃ! よし、今日は日本橋はやめて虎さんの言うやほきの一本うどん≠食いに参ろう!」
 「ついでに上田藩の下屋敷にも参りましょう。上田の人たちもさぞお喜びになるでしょう」
 「それは名案じゃ!」
 こうして余所行きの着物を着て、一頭の馬にまたがった二人は、要右衛門と中野五郎太夫と松野を伴に、深川は浄心寺へと向かったのであった。


 山号を『法苑山(ほう えん ざん)』とも言う浄心寺は、鎌倉時代の僧日蓮(にち れん)を開祖とする直系の末寺である。
 明暦(一六五五〜一六五八)の少し前というから承応(じょう おう)(一六五二〜一六五五)あるいは慶安(けい あん)(一六四八〜一六五二)の頃か、否、徳川四代将軍家綱の乳母三沢局(み さわの つぼね)の話が伝わっているところをみると寛永年間(一六二四〜一六四五)の末頃であろう──
 法華修行(ほっ け しゅ ぎょう)日義(にち ぎ)という僧が下総(しも うさ)から江戸に出て、深川の草庵で法華経の読経三昧(どっ きょう ざん まい)にふけっていると、ある日、小堀遠江守宗甫(こぼりとおとうみそうほ)(しつ)お秀の(かた)という一人の女性が通りかかった。
 小堀宗甫は別名小堀遠州のことで、江戸時代初期の大名茶人である。わび・さび≠フ精神に「美しさ」「明るさ」「豊かさ」を加えた綺麗さび≠ニ称する茶の理念は『稽古照今(けいこしょうこん)』、つまり先人の伝統を正しく受け継ぎ今に活かしつつ、新たな創造を目指す格式ある茶道を築き挙げた名家であった。
 そのお家の厳格さによる生活の苦しみか、あるいは夫との関係の悩みか、身の不運を日義に打ち明けたお秀の方は、日義からこんな説法を聞いたのだった。
 「(これ)()って浄名経(じょう みょう きょう)の中には諸仏(しょ ぶつ)解脱(げ だつ)を衆生の心行(しん ぎょう)に求めば衆生即菩提(ぼ だい)なり生死(しょう じ)涅槃(ね はん)なりと(あか)せり、(また)衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土(じょう ど)と云ひ穢土(え ど)と云うも土に(ふたつ)(へだて)なし(ただ)我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも(また)()くの如し迷う時は衆生と(なづ)(さと)る時をば仏と名づけたり、(たと)えば闇鏡(あん きょう)(みが)きぬれば(たま)と見ゆるが如し、只今(ただ いま)一念無明(いち ねん む みょう)迷心(めい しん)(みが)かざる(かがみ)なり(これ)を磨かば必ず法性真如(ほっ しょう しん にょ)明鏡(めい きょう)()るべし、深く信心を(ほっ)して日夜朝暮(にち や ちょう ぼ)(また)(おこた)らず磨くべし何様(いか よう)にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経(な ん みょう ほう れん げ きょう)(とな)へたてまつるを(これ)をみがくとは云うなり」
 それは日蓮の御文であるが、この日義の真摯(しん し)な振る舞いにすっかり感銘(かん めい)を受けたお秀の方は、やがて法華経に帰依(き え)して熱心に題目(だい もく)を唱えるようになった。すると初心(しょ しん)功徳(く どく)(あら)われて、お家の束縛(そく ばく)から解き放たれるように、徳川家三代将軍家光の嫡子(ちゃく し)の乳母を勤めるという夢のような幸運が身に降りかかり、江戸城大奥に入ることが決まったのだった。
 以来、三沢局と名乗ったお秀の方は、大奥女中の意志和合を祈って日夜朝暮に題目を唱えて過ごすうち、慶安四年(一六五一)、数え十一歳で四代将軍になった徳川家綱(いえ つな)の乳母という輝かしい栄光を手にする。
 ところが間もなく病を煩い、明暦元年(一六五五)乳母を辞し、その翌年、日義に新寺の建立を遺命してこの世を去った。
 日義は彼女の死を深く悲しんで、三沢局に浄心院妙秀日求大姉≠フ法号を贈り、自らは通遠院日義≠名乗って局の遺命を奉じようと深川の地に永住することを決意するが、やがて彼も病気になり、学友の日通(にっ つう)上人を呼んで新寺建立を託して死んでゆく。
 三沢局が亡くなって六年が経った寛文二年(一六六二)──。
 数えで二十二歳になった将軍家綱は、熱心な法華経の信者であった彼女の志に感銘し、日通の浄心寺の建立の申し出を許可して寺領一〇〇石の朱印状を交付した上に五万両を寄進し、更に三沢局のために境内に和合稲荷を建てたと伝わる。
 以後、浄心寺は身延山の末寺として身延弘通所と呼ばれ、江戸十祖師の随一とも言われる名所にもなっていた。
 須坂藩堀家二代当主直升(なお ます)は、寛永十四年(一六三七)三月に(そっ)した際ここに葬られてより(実際この年にはまだ浄心寺は建立されていないが、おそらく前身の寺社もしくは墓地があったのだろう)深川浄心寺は堀家の菩提寺として代々受け継がれたというわけである。
 さて、浄心寺に来た直虎たちであるが、お盆などとっくに過ぎてしまっての半月遅れの墓参りだから、墓地は閑散としていた。
 墓守(はか もり)の小僧だろうか、竹箒(たけ ぼうき)で落ち葉を掃く様子を横目に堀家の墓前で手を合わせた直虎は、霊山(りょう ぜん)にいる直武に西洋化藩政改革の現状を報告すると、少しだけ肩の荷が軽くなったのを感じた。江戸から訃報(ふ ほう)の知らせが届いた須坂の地で、清水(きよ みず)の舞台から飛び降りる覚悟で刀や槍や火縄銃などの武器を全て売って金に換えてしまった無謀さも、今になればやはり直武が与えてくれた覚悟だったと思えるのだ。あの気のいい兄の笑顔を思い起こすと、先行きの見えない今の世情に対しても新たな決意を蘇らせるのである。
 「わらわは腹が減った。はよ一本うどんを食いに参ろう」
 脇で一緒に手を合わせた千に気付けば太陽は既に真上にあり、伴の五郎太夫の腹の虫もぐうっ≠ニ鳴ったので、一行はやほき≠ノ向かうことにした。
 この辺りの敷地は、霊厳寺(れい がん じ)や竜徳山雲光院、日照山法禅寺などが立ち並ぶ寺社区域である。近くには父直格の兄嫁(十代須坂藩主の妻)に当たる寛寿院(かん じゅ いん)の実家三田藩(さん だ はん)立花家の屋敷もあり、直虎が幼い頃は寛寿院も伴って墓参りのついでに立ち寄っては、親戚の立花種恭(たち ばな たね ゆき)とよく遊んだものだ。
 「うどんを食ったら少し顔を出そうか?」と思いながら浄心寺の敷地内を歩いていると、千が隣の浄土宗の寺の念仏(ねん ぶつ)(のぼり)を見て、
 「虎さんの家は南無妙法蓮華経≠ネのだな。わらわの家は南無阿弥陀仏≠カゃ」
 と思い出したふうに言った。
 「菩提寺はどこですか?」
 「虎ノ門近くの天徳寺じゃ。でも父上が死んだとき以来行っておらぬ。たまにはわらわも墓参りに行った方がよいかの……」
 「うむ。その時は私も一緒に参りましょう」
 そんな会話をしているうちに、南無≠ニはいったいどういう意味かという話になった。
 要右衛門が「南が無いのだから東西北の三つの方角だ」と言えば、五郎太夫は「梵語(ぼん ご)であって意味はない」と言う。直虎が「教え導く役を指南役と言うから、それが無いなら自ら悟ることだ」と言えば、千が「南はお天道様が通る道だから昼間で、南無は逆の夜だ」と言った。
 松野はケラケラと笑い出し、「ならば小僧さんに聞いてみましょう」ということになって、先ほどから懸命に落ち葉を掃く武士ならば元服する年頃の若い坊主をつかまえて聞いてみたのだった。すると案外博学な小僧で、
 「南無≠ニは帰命(き みょう)=Aすなわち己の生命と本尊とを一つにするという意味の梵語でございます」
 と教えた。すかさず千が、
 「では南無阿弥陀仏≠ニは阿弥陀仏≠ニ一体になるという意味か」
 「さようにございます。しかし残念ながら、阿弥陀仏は釈尊が真実を明かすまでの間、衆生を教え導くために仮に立てた仏の名ですので実体がございません」
 と小僧。
 「なれば妙法蓮華経≠ニはなんじゃ?」
 と直虎が問えば、小僧は困った顔をして「まだ私にも分かりません……」と青い坊主頭を掻いた。
 「しかし──」
 とその小僧は妙法蓮華経≠ヘ実体があると言う。しかしそれは何かと問われても解からないので、それを知るために修行しているのだと答えた。そして、
 「出世の本懐を遂げたい」
 と。出世の本懐とはそれぞれの人間がこの世に生まれた究極の目的であり、言い換えれば使命のことである。なかなか話し好きな小僧は覚えたばかりの教義を復習するように、やがて「この日本国も妙法蓮華経≠ニ無縁でない。あるいは重大なつながりがるのだ」と言った。
 つまり今の孝明天皇の先祖である初代神武天皇は、妙法蓮華経つまり法華経の眷属(けん ぞく)の血を引いているのだと、日蓮の残した御義口伝(おん ぎ く でん)≠フ一節を(そら)んじるのである。
 「(こと)には()の八歳の竜女(りゅうにょ)成仏(じょうぶつ)帝王(てい おう)持経(じきょう)の先祖たり。人王(じん のう)(はじめ)神武天皇(じん む てん のう)なり。神武天皇は地神五代(ち じん ご だい)の第五の鵜萱葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)御子(み こ)なり。此の葺不合尊(ふきあえずのみこと)豊玉姫(とよ たま ひめ)の子なり。此の豊玉姫は沙竭羅竜王(しゃからりゅうおう)(むすめ)なり、八歳の竜女の姉なり。(しか)る間、先祖法華経の行者なり……」
 これは日蓮が法華経二十八品のうちの提婆達多(だい ば だっ た)(ぼん)第十二≠解説した箇所である。日本の最初の天皇が神武天皇であることは直虎も承知している。しかし、提婆達多品に登場し、八歳にして成仏した竜女は、女性が仏法上初めて成仏できる存在であることを明かした画期的な経文であることは去ることながら、彼女が神武天皇の祖母に当たる豊玉姫の妹であり、この二人の娘の父たる沙竭羅竜王(しゃからりゅうおう)は、海底にある竜宮に住んでいる八大竜王の一人で、法華経の序本第一には、この八人の竜王が既に成仏していることが説かれていることなど知る由もない。つまり日本の歴代天皇の一族は、妙法蓮華経によって成仏した竜王一族の末裔なのだと言う。
 そんな御伽話(おと ぎ ばなし)に似た神話などは俄かには信じられないが、以前、桜舞い散る屋敷の縁側で千と『木花開耶姫(このはなのさくやびめ)』の話をしたのを思い出した。豊玉姫(とよ たま ひめ)の夫は木花開耶姫(このはなのさくやびめ)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)との間に産まれた山幸彦(やま さち ひこ)であることは確か『古事記』にも『日本書紀』にも書かれている。
 それにしても日蓮の教義を、まだ年端(とし は)のいかない小僧がいっぱしの大僧正のように話したことに末恐ろしさを感じた直虎は、
 「小僧、名は何と申す?」と思わず問うた。すると、
 「ここではコチョ(古長)と呼ばれております。これでも以前は長州の士族で長介と言いました。八つの時に母を失い、失望した父はまだ手のかかる私をここに出家させましたが、その後父も、母の後を追うように死んだと聞きました。今では世俗への未練もすっかり薄れ、このとおり毎日仏道修行に励んでおります──そうだ……」
 コチョと名乗った小僧は首から下げた頭陀袋(ず だ ぶくろ)をゴソゴソしたかと思うと、中から真っ赤な玉のついた(かんざし)を取り出した。そして、
 「母の形見ですが、よろしければどうそ」
 と、そっと千の結い髪に刺し込んだ。
 「やっぱりお似合いです。私が持っているより貴女(あなた)の方がふさわしい」
 その言葉には変ないやらしさもなければ見返りを求めるような図々(ずう ずう)しさの微塵(み じん)もない。それは、どこからともなく吹き込んで、果てしない心地よさを残して通り過ぎた秋風だった。
 「赤珊瑚(あか さん ご)の簪ではないか。かような高価なものを頂戴(ちょう だい)する筋合(すじ あ)いはござらん……」
 直虎はあわてて抜いて返そうとしたが、その手を掴んだ千が言った。
 「くれると言うのだから貰っておこう。人の厚意は無にするものでない」
 「奥様のおっしゃるとおりでございます。その簪は手元に置いていても手入れに困っておりました。それに、出世の本懐を遂げるには必要ありません。却って処分に困っていたのです。私の母は、いつもこの胸の中にいるのです。貴女のような美しい女性にこそ持っていただく方が、その簪にとっても幸せでしょう」
 「ほれみよ! わらわに(もら)われることが、この簪の出世の本懐じゃ」と千は直虎を横目遣いに笑った。
 そうしてコチョが本堂に向かおうとしたとき、ふと何かを思い出したように振り返った。
 「出家の身ではありますが、たった一つだけお願いがございます……」
 そう言いかけて黙然と口をつぐんでしまった。
 「なんじゃ? 申してみよ」
 「実は……私には出家した時、生き別れになった弟がおります。年は今年で十三、四になりましょうか? 身寄りもなく、おそらく父亡き後は同じ長州藩士の家に引き取られたものと思いますが、今は世情が世情、どうしているやと心配でなりません。名は楓丸(かえで まる)──もしどこぞでお見掛けしましたら、兄は元気だとお伝え願えませんか……」
 やがて立ち去るコチョの背中に、どことなし寂しさが映し出されていた……。
 ──その後一本うどんを食べた一行は、その足で立花種恭の屋敷に顔を出し、更にそこから四半里ばかり離れた上田藩下屋敷にも立ち寄った。ところが立花種恭は不在で、上田藩に至っては千の血筋の者はみな国許にいるとのことで、それでも「せっかく来たのだから」と屋敷内に招き入れられ、暫し懐旧の念に浸った千だったが、すぐに飽きて帰路の途についたのだった。
 馬上で千を抱き抱えるようにして後ろで手綱(た づな)を握る直虎は、道行く人達が羨むほどに、謹慎明けの二人にとって生涯忘れ得ぬ時間となったことだろう。

 
> (二十六)(かすみ)か雲か
(二十六)(かすみ)か雲か
 直虎にとって元治元年(一八六四)という年は、その人生において最大の分岐点だったと言ってよい。
 天狗党討伐を辞退した後、幕府軍の総督を務めた田沼玄蕃頭意尊(たぬまげんばのかみおきたか)は、その翌月中旬に江戸を発って筑波山へ向かったが、天狗党と幕府軍との戦いは、下野、上野、美濃と激戦を交えながら京都へと西上する。これは翌年のことだが、美濃から北上して越前に入った天狗党はついに降伏し、立場上その浪士たちの身柄を引き受けた玄蕃頭は、結果的に武田耕雲斎をはじめとした浪士の三分の一あまりを処刑するという幕末の悲劇の一つになるのである。その多くは農民だった。もし直虎が大番頭の役務を全うしていたとしたら、彼とて冷酷非常な人間にならざるを得なかっただろう。国家権力の下では、人の信念などガラス細工よりもろいのだ。
 更に鎮圧に必要な軍資金の調達にも頭を痛めなければならなかったはずである。田沼玄蕃の家老などは、借金を返済できなかったために切腹した。
 「もし金なんぞのために自分の分身でもある式左衛門や要右衛門が死んだとしたら──」
 そう考えただけで直虎は身の毛がよだつ。
 これでよかったのだ──。
 公の間でしおらしく彼の着物をたたむ千の後ろ姿を見てそう思った。
 ふと、
 「虎さんは早蕨色(さわらびいろ)が好きなのじゃなぁ」
 と千が言った。
 「なぜです?」
 「ほれ、虎さんの着物は早蕨色ばかりじゃ」
 言われてみれば普段屋敷内で着ている日常着は、彼女の言うとおり深みがかった緑系統が多いことに初めて気づく。何の気なしに買い求める反物に、好きな色が無意識のうちに反映されてしまうものか。
 「梅や桜もよいですが、わしは早春に人知れず地より湧き出る蕨が好きなのかもしれません」
 すると千は、『源氏物語』の『早蕨』の巻にある和歌を口づさんだ。


 この春は誰れにか見せむ亡き人のかたみに摘める峰の早蕨


 「亡き人≠ニは誰です?」
 「父上じゃ。父様も早蕨色が好きじゃった……」
 直虎は、開国貿易の志半ばで世を去った千の実父松平忠固の険しい顔を思い浮かべた。


 謹慎明けの初めての登城は、なんとも面映ゆいものである。
 きさくに声をかけてきてくれる者には笑って体裁も保てるが、遠目に視線を背ける者には、行って言い訳をするのもおこがましいし、ほとぼりが冷めるまで決まりの悪い感情を背負っているより仕方あるまい。
 「そう気を落とすことはありませんよ。禍福はあざなえる縄と申します。いずれ良い事もありましょう」
 よほど落ち込んでいるふうに見えたのか、声をかけたのは土佐新田藩主の山内豊福(とよ よし)で、
 「そうだ、もしご迷惑でなければ、近いうちに須坂藩のお屋敷にお邪魔させていただけないでしょうか? ほら、内蔵頭殿の御内儀がパン作りに夢中とかで、うちの家内に話しましたら是非にと申しまして……」
 元気づけようとしてくれていることはすぐ分かった。豊福の妻は典子(かね こ)といって、二人の間には邦子という二歳の娘がある。しかも、少し前には二人目が生まれるとか生まれないとかで、妙にそわそわしていた彼が、「子は可愛いものです。早く内蔵頭殿もつくられるとよい」と言ったのを思い出した。産後間もない典子(かね こ)夫人は今は外出などできる身体ではないはずで、溺れる者を助けようとして自らが泳げない事を忘れて川に飛び込んでしまうような──豊福の人の好さにはいつも頭の下がる。
 「それは嬉しいおはからいですが、参勤交代が元に戻されたので、お暇を請い、当藩は来年まで須坂に引っ込んでいようかと思っております。それに……」
 と、直虎は嬉しそうではあるが(ひが)みの目付きに変えて、
 「そろそろ二人目が生まれたのではありませんか? 典子(かね こ)さんにご無理はさせられません。第二子の手がかからなくなってからにいたしましょう」
 豊福は家庭の事情を見透かされて「面目ない」といったふうに頭を掻いた。直虎は続けた。
 「男の子ですかな?」
 「いや……また女の子でした。でも娘というのもいいものです。目に入れても痛くありません。私の一字をとって豊子(とよ こ)≠ニ名づけました」
 「豊子──佳い名ですな。今から嫁にやる日が疎まれますなあ」
 いつにないおしゃべりな豊福を少し羨ましそうに微笑み返し、謹慎明けの肩身の狭さを暫し忘れる直虎であった。
 その日、参勤交代復旧令に伴ない帰藩の届け出をした直虎に、取り次ぎの役人は何も言わずに受理した。一抹の寂しさを覚えながらの帰り道、挨拶を兼ねて小笠原長行の邸宅へ寄った。
 それにしても外部との接触を断たれたわずか五十日の間に、世の中も随分と変動したものだ。
 (はまぐり)御門の変の後、長州征討を布告した幕府と、文久三年の下関攘夷戦争の賠償を求めるイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四ヶ国連合艦隊が下関を包囲し、まさに四面楚歌の危機に追い込まれた長州藩。八月五日には連合艦隊が長州藩への砲撃を開始するが、西洋兵器の脅威に青ざめた長州藩は、すぐさま高杉晋作を遣って四ヶ国との和平交渉に臨む。そこで砲撃を食い止めた高杉の言い逃れが、
 「先の下関における西洋艦への砲撃は、幕府の攘夷命令に従ってやったものだから長州藩に責任はない。賠償責任は幕府にある!」
 だった。なるほどこれは言い逃れでなくその通りで、そこは幕府を攘夷決行に追い詰め、曲がりなりにも筋を通して事を運んだ長州吉田松陰門下生らの勝利と言えよう。これを受けて四ヶ国側は幕府に賠償を求めるが、ここで幕府の政治運営に浮上してきたのが列強諸国と渡り合える人材の必要性だった。(らち)のあかない横浜での諸問題をはじめ、日米修好通商条約で調印された兵庫、長崎、函館、新潟の開港問題も残したままの幕府は、海外交渉のエキスパートともいえる小笠原長行の幕閣再任の動きを強めていたのである。とはいえ朝議による謹慎を覆すには朝廷の了承が必要で、八月二十六日に幕府側からその要請が朝廷に提出されると、九月十六日、幕府は長行の謹慎を免じ、以後小笠原長行は剥奪された武家官位を改め壱岐守(いきのかみ)を名乗って政治復帰することになる。直虎が彼のところへ顔を出したのはちょうどその直前である。
 相変わらず難しそうな顔をしている壱岐守(いきのかみ)長行はどことなし晴れやかな表情をし、直虎を応接用の洋間座敷に招き入れると、以前と同じようにワインを振る舞った。直虎は「よろしければ」と、いつも懐に忍ばせている常備食用の千が拵えたパンを取り出し、
 「小倉餡を挟んでみました」
 と言って手渡した。
 「随分と上手に作れるようになったじゃないか。これはまさしく西洋のパンだ」
 「手前の家内の新作です。お口に合うか知れませんが……」
 長行はうまそうに頬張って、「パン屋にでもなるか?」と笑った。
 直虎が江戸を離れる挨拶を終えると、長行も一年以上に渡った謹慎が解かれた経緯を早口に語り出した。そして、長州藩の策謀によって開国路線の幕府が攘夷路線に変えさせられた際、横浜鎖港実現の無理難題を自分に背負わせた一橋慶喜公が、今は再び私を復帰させようと朝廷に掛け合っているのだと皮肉った。
 「一橋様とは、いったいどのような方でございます?」と直虎は聞いた。
 「とにかく頭が切れるのは確かだ。東照権現様(徳川家康)の再来のようだと申す者もおるが、一橋様がどこを見ておるのかわしにはよく分からん。あの二枚舌にはわしも一杯喰わされたと思ったが、しかし、あの時はああせざるを得なかったことは理解できるし、今になればあの判断があったればこそ江戸の町を戦禍から救い、相反する天皇と諸外国双方との均衡を保ちながら幕府の面目も死守したのではなかったかと思えてくる。横浜鎖港交渉にわしを差し向けたのも、わしならばあの苦境を解決できると判断した上での選抜だったとしたら、一橋様はわしを高く買ってくれているということになる──」
 長行はワインを口に運びながら複雑な心境を語った。
 「小笠原様のことですから老中に返り咲くのも時間の問題でしょう。それに比べて私は──」
 「天狗党の討伐を断って五十日間の閉門を食らったそうじゃないか?」
 「はい。明けてお城に戻ってもすることはなし。これで帰藩いたします」
 「五十日なら良い方だ。わしなど許しを得るのに一年以上だ。切腹にならなかっただけ儲けもんだ」
 話題はやがて長州征討問題へと移った。禁門の変の直後、幕府は江戸にいた一三六名の長州藩士を捕縛し、市中の長州藩邸を全て取り壊し、長州支藩の屋敷もことごとく没収した。その解体作業には延べで四千人近くもの町火消しが動員されたといい、一時騒然とした江戸市中から長州藩士の姿は消えた。
 そして長州征討へ踏み切った幕府上層から下された先月十三日付の長州寄手計画が記された書状を、長行はおもむろに広げて見せた。


〇陸路薩州より岩国、そこより山口へ攻め寄せる面々
 一番手 松平安芸守(広島四十二万六千石余)、板倉周防守(備中松山五万石)、真田信濃守(信濃松代十万石)、阿部主計頭(福山十一万石)
 松平安芸守へ応援の面々
  二番手 松平近江守(広島支藩三万石)、三浦備後守(美作勝山二万三千石)、板倉摂津守(備中庭瀬二万石)、本多肥後守(播磨山崎一万石)、松平備前守(岡山三十一万五千二百石)、脇坂淡路守(播磨龍野五万千八十九石余)
  御使番 松平左金吾 軍目附 向井左門、小笠原鐘次郎
〇陸路岩国より萩、そこより山口へ攻め寄せる面々
 一番手 松平相模守(鳥取三十二万五千石)、松平右近将監(石見濱田六万千石)、亀井隠岐守(同国津和野四万三千石)
 二番手 松平三河守(美作津山十万石)、松平出羽守(出雲松江十八万六千石)
  松平三河守へ応援の面々
   有馬遠江守(越前丸岡五万石)、松平佐渡守(出雲広瀬三万石)、松平主計頭(同国母里一万石)
  御使番 内藤弥左衛門 軍目附 大島主殿、朝倉小源太
〇海路四国より徳山、そこより山口へ攻め寄せる面々
 一番手 松平阿波守(徳島二十五万七千九百石余)、松平隠岐守(伊予松山十五万石)
 二番手 松平讃岐守(高松十二万石)、伊達遠江守(伊予宇和島十万石)
  松平讃岐守始へ応援
   松平壱岐守(伊予今治三万五千石)
  御使番 水野釆女 軍目附 服部仲 遠山左衛門
〇海路下之関、そこより山口へ攻め寄せる面々
 一番手 細川越中守(熊本五十四万石)、小笠原大膳大夫(小倉十五万石)、奥平大膳大夫(中津十万石)、小笠原近江守(小倉新田一万石)、小笠原幸松丸(播磨安志一万石)
 小笠原大膳大夫は領分が近いので、細川越中守、奥平大膳大夫は先立して向かうこと。小笠原近江守、同幸松丸は小笠原大膳大夫と一組になって向かうこと。
 二番手 松平美濃守(福岡五十二万石余)、松平肥前守(佐賀三十五万七千石余)
  松平美濃守始へ応援
   小笠原佐渡守(肥前唐津六万石)
  御使番 多賀靭負 軍目附 曲淵鋳市、岩瀬敬太郎
〇海路萩、そこより山口へ攻め寄せる面々
 松平修理大夫(鹿児島七十七万八百石)、有馬中務大輔(久留米二十一万石)、立花飛騨守(柳川十一万九千六百石)
  御使番 天野民七郎 軍目附 平岩金左衛門、内藤平八郎
 右の通り仰せ出だされ候。陣中の義は、万事尾張前大納言殿(徳川慶勝)の御指揮に従い、速やかに成功を遂げるよう仰せ出だされ候。


 石高が記されているから兵数は単純に概算できる。兵力十万は言い過ぎかも知れないが、これではさすがの長州藩も太刀打ちできる数でない。書状を見ながら長行は続ける。
 「長州は政庁を萩から山口に移して臨戦態勢を整えておる。布陣は九州、四国を含む西日本の諸藩が中心だが、馬関(下関)からの攻め手にはわしの唐津藩も含まれている──」
 「幕府は本気で戦うつもりなのでしょうか?」
 「なあに形だけじゃ。たかだか五十数万石の藩を相手に幕府が負ける道理がない。無駄な犠牲を出すようなことはせんだろう」
 「分かりませんぞ。よもやナポレオンのような英傑が出るやも知れませんからなぁ」
 長行はさも可笑しそうに声を挙げて笑った。
 「話はそこでない」と言って長行は「ところがどうだ──」と、自藩の事の深刻さが分っていない様子に声を荒げた。
 「さんざん国許に武備を整えよと申しているのに遅々として進んでおらぬ。深川の藩邸では洋兵式の調練を始め老少問わず文武の業を勉めさせてはいるがあまりに遅い! 先日はついに頭にきて四十歳以下の者に飲酒を禁じてやったわい。この前などは遊情放蕩なる者を罰してやった。有能な人材はみな国許に取られるし、国許は国許で戦の準備で大わらわ。長州攻めを前にしていかに平和慣れしていたかということだが、何から何まで後手々々で呆れて言葉も出ん! 海に面する当藩は蒸気船も買わにゃならんのにそれどころでない!」
 「蒸気船ですか! 昨年、加賀藩は『発機丸』という蒸気帆船を購入したそうですなぁ」
 直虎は赤松小三郎から聞いた話を思い出した。
 「金持ちの藩はいいさ……。そうだ、わしが貸した金はどうした?」
 よもや「返せ」と言われるのではないかと思った直虎は、慌てて「西洋のライフル銃と小型の大砲を買わせていただきました」と答え、「おかげ様で当藩の西洋化も一段と進みました」と付け加えた。
 「そうか……」と一瞬残念そうな顔をした長行は、立ち上がって奥の部屋から一通の書簡を持って来て「これはどういう意味か解るか?」と聞いた。見れば佐久間(ひらき)の筆跡で、軍の編成やら武器の名称がカタカナでずらりと並んだ指南書のようである。佐久間啓とは佐久間象山の(いみな)で、生前やりとりしたものの一通に相違ない。
 「このコロールホツタアスとは何ぞや? それにソロリンカリ、ハンデルヒユルグ、ストラテヂー、ヤグトハーゲル……、さっぱりわからん」
 「象山先生のことですから蘭語だと思います。ヤグトハーゲルはライフル銃の一種ですな。ほれ猟に使う散弾銃のことです。ハンデルビュルグは西洋のドイツにある都市の名ではございませんか? いや、書物の方ですかな? ソロリンカリというのは硝酸カリウムという科学物質のことでしょうか? ストラテヂーは……? すみません、勉強不足で……」
 「いやいや、わしよりよく知っておる。軍艦奉行になった勝海舟にでも聞いてみるさ」
 長行と勝は、将軍上洛以来の旧知である。
 「ところで武器を揃えて、今はどんな調練をしておるのだ?」
 「須坂に帰ったらすぐにでも軍制を整えるつもりですが……」と直虎は言葉を詰まらせた。
 須坂藩兵にはイギリス式を仕込ませたいと思っているが、肝心のイギリスがどのような軍制のもとでどのような隊列を組んでいるのかまるでわからない。今の日本はヨーロッパもアメリカも西洋≠ニいう言葉でひとくくりにしてしまっているが、一つ一つの国を訪ねれば、人も違えば文化も違うはずである。なのに日本はオランダ、フランス、イギリス、アメリカ、ロシアなどが、まるで統制のとれた一つの国のように考えて、くそみそ一緒に「西洋に習え」と叫んでいるのだ。しかし直虎には世界の潮流が見えていた。それは産業革命をもたらしたイギリスにあり、いま習うとしたらイギリス式しかないと考えていた。それまでの繋ぎにオランダ式を用いてはいるが、日本で発達した蘭学は日本古来の軍統制の色が濃く、どうも納得できないでいるところなのだ。
 「小笠原様の唐津藩はフランス式ですか?」
 「左様、幕府が採用しておるからな。内蔵頭殿もそうではないのか?」
 「私はエゲレス式を導入したいのですが、残念ながら日本にはまだそれを教える人も書物もございません。どなたかご存知の方はいませんか?」
 「エゲレス式……。最近、神奈川奉行で取り入れたと聞いたが、窪田泉太郎という旗本がいるから尋ねるとよい」
 「それはありがとうございます!」
 と、長行に書いてもらった紹介状を懐に、藩邸に戻ったところが、
 「虎さん、いったい何をしていた、サブちゃんが来ておるぞ」
 高揚した千の歓声に連れられ応接間に入ると、「暫くぶりです」と頭を下げる赤松小三郎が彼を迎えた。
 「よう! 江戸に来ておったか!」
 小三郎の説明によれば、この度の長州征討に松代藩が出陣することになり、上田藩に援兵の要請があったため、大小銃並びに器機製造掛の彼に軍備品調達の任が下ったのだと言う。暫くの間は江戸と横浜を行き来することになるだろうと、千が作った餡を挟んだパンを「まことに旨い」と言いながらかじった。
 「横浜に行くなら神奈川奉行の窪田泉太郎という男にこの書状を渡してはもらえぬか?」
 直虎はつい先ほど長行に書いてもらった書状を渡した。
 「これは?」
 「わしは藩の軍制をエゲレス式にしようと思っておるが、まだ日本では誰も手をつけとらん。しかし最近神奈川奉行所で導入したというので、その指南を願う書状じゃ」
 「それには及びません」
 小三郎は少し誇らしげに笑った。
 「実は私も英語を習得しようと横浜の外国人居留地に赴き、英国のアプリンという騎兵大尉と知り合いになりました」
 と言う。英国の駐屯軍の演習を見学したり、横浜の商人や英国領事館の者たちと広く接触しているうちに、このとき十七歳で公使館通訳をしていたアレクサンダー・シーボルト青年と出会い、英国騎兵隊のアプリン大尉を紹介してもらったらしい。そして英国公使の許可を得、アプリンから英語をはじめ兵学や騎馬の扱いに関する知識などを伝授してもらうことになったと、「今後しばらくは彼のもとへ通います」と語った。実に向学の志は行動力となって表れるものだ。そしてアプリンから借りたという一冊の英書を見せ、
 「あそこにいれば他の英国の兵法書も手に入るでしょう。これは昨日彼から借りた馬術書です。まっさきに虎殿様(〇 〇 〇)にお見せしたいと思って須坂藩邸に立ち寄りました」
 「虎殿様(とら との さま)──?」
 その英書を手にしようとした直虎は、妙な呼び方に首を傾げた。
 「先ほどから俊姫様が直虎様のことを虎さん≠ニ呼べと聞かないのです。さすがに一介の上田藩士の分際でそれはなかろうと、せめて虎殿様≠ニ呼ばせてほしいと願っていたところなのです」
 「相変わらずサブちゃんは頭が固い。それにわらわは俊でなく千じゃ」と、脇から千が口を挟む。
 直虎は小三郎がアプリンから借りたという馬術書を手に取り、「この書物の題号は何というのか?」と、公の間から中浜万次郎著の隙間にびっしり単語が書き記されている『英米対話捷径(しょう けい)』を「愛読書だ」と言いながら持って来ると、おもむろに二つの本を対比させながら二人で「ああでもない、こうでもない」と言い合った。やがて『騎兵操典』と訳して顔を見合わせてからは、夜通し本の解読に没頭してしまった。漢書ならお手のものの直虎も、横文字となると勝手が違い、そこは蘭学で鳴らした小三郎の方がセンスが上で、時間が経つのも忘れてすっかり帰藩する日が延びてしまう。
 さて、寝不足で目を腫らした小三郎がアプリンに本を返しに行ったとき、
 「オマエ、本当ニ解カッテイルノカ?」
 と、アプリンは非常に怪しんで、内容に関するいくつかの質問を投げかけた。すると小三郎はジェスチャーを交えながらも難なく答えたので、アプリンはその非凡な才能に驚嘆したという。
 この時期の小三郎は、上田藩士としての任務を遂行するためケンプナールやコッヘといった商館に訪問して銃器を購入したり、江戸と横浜間のおよそ七里の道をほとんど隔日のように往復していた。そしてミニストル、アレキサンドル、ワイト、ヒックス、ブレキマンといったイギリス人とも交流を深め、さらには英語や兵学、馬術に関する知識を吸収するだけでは飽き足らず、ものの考え方や政治体制まで見聞を広め、時には香水を貰ったり葡萄酒やビールの接待を受けたり、また、クリスマスの祝いを見学したりとその文化までをも、単なる知識としてではなく肌で、体で学ぼうと奔走した。

 
> (二十七)須坂の冬
(二十七)須坂の冬
須坂新聞にて掲載・連載中
 
> (二十八)唐人堀
(二十八)唐人堀
須坂新聞にて掲載・連載中