> (二十六)(かすみ)か雲か
(二十六)(かすみ)か雲か
 直虎にとって元治元年(一八六四)という年は、その人生において最大の分岐点だったと言ってよい。
 天狗党討伐を辞退した後、幕府軍の総督を務めた田沼玄蕃頭意尊(たぬまげんばのかみおきたか)は、その翌月中旬に江戸を発って筑波山へ向かったが、天狗党と幕府軍との戦いは、下野、上野、美濃と激戦を交えながら京都へと西上する。これは翌年のことだが、美濃から北上して越前に入った天狗党はついに降伏し、立場上その浪士たちの身柄を引き受けた玄蕃頭は、結果的に武田耕雲斎をはじめとした浪士の三分の一あまりを処刑するという幕末の悲劇の一つになるのである。その多くは農民だった。もし直虎が大番頭の役務を全うしていたとしたら、彼とて冷酷非常な人間にならざるを得なかっただろう。国家権力の下では、人の信念などガラス細工よりもろいのだ。
 更に鎮圧に必要な軍資金の調達にも頭を痛めなければならなかったはずである。田沼玄蕃の家老などは、借金を返済できなかったために切腹した。
 「もし金なんぞのために自分の分身でもある式左衛門や要右衛門が死んだとしたら──」
 そう考えただけで直虎は身の毛がよだつ。
 これでよかったのだ──。
 公の間でしおらしく彼の着物をたたむ千の後ろ姿を見てそう思った。
 ふと、
 「虎さんは早蕨色(さわらびいろ)が好きなのじゃなぁ」
 と千が言った。
 「なぜです?」
 「ほれ、虎さんの着物は早蕨色ばかりじゃ」
 言われてみれば普段屋敷内で着ている日常着は、彼女の言うとおり深みがかった緑系統が多いことに初めて気づく。何の気なしに買い求める反物に、好きな色が無意識のうちに反映されてしまうものか。
 「梅や桜もよいですが、わしは早春に人知れず地より湧き出る蕨が好きなのかもしれません」
 すると千は、『源氏物語』の『早蕨』の巻にある和歌を口づさんだ。


 この春は誰れにか見せむ亡き人のかたみに摘める峰の早蕨


 「亡き人≠ニは誰です?」
 「父上じゃ。父様も早蕨色が好きじゃった……」
 直虎は、開国貿易の志半ばで世を去った千の実父松平忠固の険しい顔を思い浮かべた。


 謹慎明けの初めての登城は、なんとも面映ゆいものである。
 きさくに声をかけてきてくれる者には笑って体裁も保てるが、遠目に視線を背ける者には、行って言い訳をするのもおこがましいし、ほとぼりが冷めるまで決まりの悪い感情を背負っているより仕方あるまい。
 「そう気を落とすことはありませんよ。禍福はあざなえる縄と申します。いずれ良い事もありましょう」
 よほど落ち込んでいるふうに見えたのか、声をかけたのは土佐新田藩主の山内豊福(とよ よし)で、
 「そうだ、もしご迷惑でなければ、近いうちに須坂藩のお屋敷にお邪魔させていただけないでしょうか? ほら、内蔵頭殿の御内儀がパン作りに夢中とかで、うちの家内に話しましたら是非にと申しまして……」
 元気づけようとしてくれていることはすぐ分かった。豊福の妻は典子(かね こ)といって、二人の間には邦子という二歳の娘がある。しかも、少し前には二人目が生まれるとか生まれないとかで、妙にそわそわしていた彼が、「子は可愛いものです。早く内蔵頭殿もつくられるとよい」と言ったのを思い出した。産後間もない典子(かね こ)夫人は今は外出などできる身体ではないはずで、溺れる者を助けようとして自らが泳げない事を忘れて川に飛び込んでしまうような──豊福の人の好さにはいつも頭の下がる。
 「それは嬉しいおはからいですが、参勤交代が元に戻されたので、お暇を請い、当藩は来年まで須坂に引っ込んでいようかと思っております。それに……」
 と、直虎は嬉しそうではあるが(ひが)みの目付きに変えて、
 「そろそろ二人目が生まれたのではありませんか? 典子(かね こ)さんにご無理はさせられません。第二子の手がかからなくなってからにいたしましょう」
 豊福は家庭の事情を見透かされて「面目ない」といったふうに頭を掻いた。直虎は続けた。
 「男の子ですかな?」
 「いや……また女の子でした。でも娘というのもいいものです。目に入れても痛くありません。私の一字をとって豊子(とよ こ)≠ニ名づけました」
 「豊子──佳い名ですな。今から嫁にやる日が疎まれますなあ」
 いつにないおしゃべりな豊福を少し羨ましそうに微笑み返し、謹慎明けの肩身の狭さを暫し忘れる直虎であった。
 その日、参勤交代復旧令に伴ない帰藩の届け出をした直虎に、取り次ぎの役人は何も言わずに受理した。一抹の寂しさを覚えながらの帰り道、挨拶を兼ねて小笠原長行の邸宅へ寄った。
 それにしても外部との接触を断たれたわずか五十日の間に、世の中も随分と変動したものだ。
 (はまぐり)御門の変の後、長州征討を布告した幕府と、文久三年の下関攘夷戦争の賠償を求めるイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四ヶ国連合艦隊が下関を包囲し、まさに四面楚歌の危機に追い込まれた長州藩。八月五日には連合艦隊が長州藩への砲撃を開始するが、西洋兵器の脅威に青ざめた長州藩は、すぐさま高杉晋作を遣って四ヶ国との和平交渉に臨む。そこで砲撃を食い止めた高杉の言い逃れが、
 「先の下関における西洋艦への砲撃は、幕府の攘夷命令に従ってやったものだから長州藩に責任はない。賠償責任は幕府にある!」
 だった。なるほどこれは言い逃れでなくその通りで、そこは幕府を攘夷決行に追い詰め、曲がりなりにも筋を通して事を運んだ長州吉田松陰門下生らの勝利と言えよう。これを受けて四ヶ国側は幕府に賠償を求めるが、ここで幕府の政治運営に浮上してきたのが列強諸国と渡り合える人材の必要性だった。(らち)のあかない横浜での諸問題をはじめ、日米修好通商条約で調印された兵庫、長崎、函館、新潟の開港問題も残したままの幕府は、海外交渉のエキスパートともいえる小笠原長行の幕閣再任の動きを強めていたのである。とはいえ朝議による謹慎を覆すには朝廷の了承が必要で、八月二十六日に幕府側からその要請が朝廷に提出されると、九月十六日、幕府は長行の謹慎を免じ、以後小笠原長行は剥奪された武家官位を改め壱岐守(いきのかみ)を名乗って政治復帰することになる。直虎が彼のところへ顔を出したのはちょうどその直前である。
 相変わらず難しそうな顔をしている壱岐守(いきのかみ)長行はどことなし晴れやかな表情をし、直虎を応接用の洋間座敷に招き入れると、以前と同じようにワインを振る舞った。直虎は「よろしければ」と、いつも懐に忍ばせている常備食用の千が拵えたパンを取り出し、
 「小倉餡を挟んでみました」
 と言って手渡した。
 「随分と上手に作れるようになったじゃないか。これはまさしく西洋のパンだ」
 「手前の家内の新作です。お口に合うか知れませんが……」
 長行はうまそうに頬張って、「パン屋にでもなるか?」と笑った。
 直虎が江戸を離れる挨拶を終えると、長行も一年以上に渡った謹慎が解かれた経緯を早口に語り出した。そして、長州藩の策謀によって開国路線の幕府が攘夷路線に変えさせられた際、横浜鎖港実現の無理難題を自分に背負わせた一橋慶喜公が、今は再び私を復帰させようと朝廷に掛け合っているのだと皮肉った。
 「一橋様とは、いったいどのような方でございます?」と直虎は聞いた。
 「とにかく頭が切れるのは確かだ。東照権現様(徳川家康)の再来のようだと申す者もおるが、一橋様がどこを見ておるのかわしにはよく分からん。あの二枚舌にはわしも一杯喰わされたと思ったが、しかし、あの時はああせざるを得なかったことは理解できるし、今になればあの判断があったればこそ江戸の町を戦禍から救い、相反する天皇と諸外国双方との均衡を保ちながら幕府の面目も死守したのではなかったかと思えてくる。横浜鎖港交渉にわしを差し向けたのも、わしならばあの苦境を解決できると判断した上での選抜だったとしたら、一橋様はわしを高く買ってくれているということになる──」
 長行はワインを口に運びながら複雑な心境を語った。
 「小笠原様のことですから老中に返り咲くのも時間の問題でしょう。それに比べて私は──」
 「天狗党の討伐を断って五十日間の閉門を食らったそうじゃないか?」
 「はい。明けてお城に戻ってもすることはなし。これで帰藩いたします」
 「五十日なら良い方だ。わしなど許しを得るのに一年以上だ。切腹にならなかっただけ儲けもんだ」
 話題はやがて長州征討問題へと移った。禁門の変の直後、幕府は江戸にいた一三六名の長州藩士を捕縛し、市中の長州藩邸を全て取り壊し、長州支藩の屋敷もことごとく没収した。その解体作業には延べで四千人近くもの町火消しが動員されたといい、一時騒然とした江戸市中から長州藩士の姿は消えた。
 そして長州征討へ踏み切った幕府上層から下された先月十三日付の長州寄手計画が記された書状を、長行はおもむろに広げて見せた。


〇陸路薩州より岩国、そこより山口へ攻め寄せる面々
 一番手 松平安芸守(広島四十二万六千石余)、板倉周防守(備中松山五万石)、真田信濃守(信濃松代十万石)、阿部主計頭(福山十一万石)
 松平安芸守へ応援の面々
  二番手 松平近江守(広島支藩三万石)、三浦備後守(美作勝山二万三千石)、板倉摂津守(備中庭瀬二万石)、本多肥後守(播磨山崎一万石)、松平備前守(岡山三十一万五千二百石)、脇坂淡路守(播磨龍野五万千八十九石余)
  御使番 松平左金吾 軍目附 向井左門、小笠原鐘次郎
〇陸路岩国より萩、そこより山口へ攻め寄せる面々
 一番手 松平相模守(鳥取三十二万五千石)、松平右近将監(石見濱田六万千石)、亀井隠岐守(同国津和野四万三千石)
 二番手 松平三河守(美作津山十万石)、松平出羽守(出雲松江十八万六千石)
  松平三河守へ応援の面々
   有馬遠江守(越前丸岡五万石)、松平佐渡守(出雲広瀬三万石)、松平主計頭(同国母里一万石)
  御使番 内藤弥左衛門 軍目附 大島主殿、朝倉小源太
〇海路四国より徳山、そこより山口へ攻め寄せる面々
 一番手 松平阿波守(徳島二十五万七千九百石余)、松平隠岐守(伊予松山十五万石)
 二番手 松平讃岐守(高松十二万石)、伊達遠江守(伊予宇和島十万石)
  松平讃岐守始へ応援
   松平壱岐守(伊予今治三万五千石)
  御使番 水野釆女 軍目附 服部仲 遠山左衛門
〇海路下之関、そこより山口へ攻め寄せる面々
 一番手 細川越中守(熊本五十四万石)、小笠原大膳大夫(小倉十五万石)、奥平大膳大夫(中津十万石)、小笠原近江守(小倉新田一万石)、小笠原幸松丸(播磨安志一万石)
 小笠原大膳大夫は領分が近いので、細川越中守、奥平大膳大夫は先立して向かうこと。小笠原近江守、同幸松丸は小笠原大膳大夫と一組になって向かうこと。
 二番手 松平美濃守(福岡五十二万石余)、松平肥前守(佐賀三十五万七千石余)
  松平美濃守始へ応援
   小笠原佐渡守(肥前唐津六万石)
  御使番 多賀靭負 軍目附 曲淵鋳市、岩瀬敬太郎
〇海路萩、そこより山口へ攻め寄せる面々
 松平修理大夫(鹿児島七十七万八百石)、有馬中務大輔(久留米二十一万石)、立花飛騨守(柳川十一万九千六百石)
  御使番 天野民七郎 軍目附 平岩金左衛門、内藤平八郎
 右の通り仰せ出だされ候。陣中の義は、万事尾張前大納言殿(徳川慶勝)の御指揮に従い、速やかに成功を遂げるよう仰せ出だされ候。


 石高が記されているから兵数は単純に概算できる。兵力十万は言い過ぎかも知れないが、これではさすがの長州藩も太刀打ちできる数でない。書状を見ながら長行は続ける。
 「長州は政庁を萩から山口に移して臨戦態勢を整えておる。布陣は九州、四国を含む西日本の諸藩が中心だが、馬関(下関)からの攻め手にはわしの唐津藩も含まれている──」
 「幕府は本気で戦うつもりなのでしょうか?」
 「なあに形だけじゃ。たかだか五十数万石の藩を相手に幕府が負ける道理がない。無駄な犠牲を出すようなことはせんだろう」
 「分かりませんぞ。よもやナポレオンのような英傑が出るやも知れませんからなぁ」
 長行はさも可笑しそうに声を挙げて笑った。
 「話はそこでない」と言って長行は「ところがどうだ──」と、自藩の事の深刻さが分っていない様子に声を荒げた。
 「さんざん国許に武備を整えよと申しているのに遅々として進んでおらぬ。深川の藩邸では洋兵式の調練を始め老少問わず文武の業を勉めさせてはいるがあまりに遅い! 先日はついに頭にきて四十歳以下の者に飲酒を禁じてやったわい。この前などは遊情放蕩なる者を罰してやった。有能な人材はみな国許に取られるし、国許は国許で戦の準備で大わらわ。長州攻めを前にしていかに平和慣れしていたかということだが、何から何まで後手々々で呆れて言葉も出ん! 海に面する当藩は蒸気船も買わにゃならんのにそれどころでない!」
 「蒸気船ですか! 昨年、加賀藩は『発機丸』という蒸気帆船を購入したそうですなぁ」
 直虎は赤松小三郎から聞いた話を思い出した。
 「金持ちの藩はいいさ……。そうだ、わしが貸した金はどうした?」
 よもや「返せ」と言われるのではないかと思った直虎は、慌てて「西洋のライフル銃と小型の大砲を買わせていただきました」と答え、「おかげ様で当藩の西洋化も一段と進みました」と付け加えた。
 「そうか……」と一瞬残念そうな顔をした長行は、立ち上がって奥の部屋から一通の書簡を持って来て「これはどういう意味か解るか?」と聞いた。見れば佐久間(ひらき)の筆跡で、軍の編成やら武器の名称がカタカナでずらりと並んだ指南書のようである。佐久間啓とは佐久間象山の(いみな)で、生前やりとりしたものの一通に相違ない。
 「このコロールホツタアスとは何ぞや? それにソロリンカリ、ハンデルヒユルグ、ストラテヂー、ヤグトハーゲル……、さっぱりわからん」
 「象山先生のことですから蘭語だと思います。ヤグトハーゲルはライフル銃の一種ですな。ほれ猟に使う散弾銃のことです。ハンデルビュルグは西洋のドイツにある都市の名ではございませんか? いや、書物の方ですかな? ソロリンカリというのは硝酸カリウムという科学物質のことでしょうか? ストラテヂーは……? すみません、勉強不足で……」
 「いやいや、わしよりよく知っておる。軍艦奉行になった勝海舟にでも聞いてみるさ」
 長行と勝は、将軍上洛以来の旧知である。
 「ところで武器を揃えて、今はどんな調練をしておるのだ?」
 「須坂に帰ったらすぐにでも軍制を整えるつもりですが……」と直虎は言葉を詰まらせた。
 須坂藩兵にはイギリス式を仕込ませたいと思っているが、肝心のイギリスがどのような軍制のもとでどのような隊列を組んでいるのかまるでわからない。今の日本はヨーロッパもアメリカも西洋≠ニいう言葉でひとくくりにしてしまっているが、一つ一つの国を訪ねれば、人も違えば文化も違うはずである。なのに日本はオランダ、フランス、イギリス、アメリカ、ロシアなどが、まるで統制のとれた一つの国のように考えて、くそみそ一緒に「西洋に習え」と叫んでいるのだ。しかし直虎には世界の潮流が見えていた。それは産業革命をもたらしたイギリスにあり、いま習うとしたらイギリス式しかないと考えていた。それまでの繋ぎにオランダ式を用いてはいるが、日本で発達した蘭学は日本古来の軍統制の色が濃く、どうも納得できないでいるところなのだ。
 「小笠原様の唐津藩はフランス式ですか?」
 「左様、幕府が採用しておるからな。内蔵頭殿もそうではないのか?」
 「私はエゲレス式を導入したいのですが、残念ながら日本にはまだそれを教える人も書物もございません。どなたかご存知の方はいませんか?」
 「エゲレス式……。最近、神奈川奉行で取り入れたと聞いたが、窪田泉太郎という旗本がいるから尋ねるとよい」
 「それはありがとうございます!」
 と、長行に書いてもらった紹介状を懐に、藩邸に戻ったところが、
 「虎さん、いったい何をしていた、サブちゃんが来ておるぞ」
 高揚した千の歓声に連れられ応接間に入ると、「暫くぶりです」と頭を下げる赤松小三郎が彼を迎えた。
 「よう! 江戸に来ておったか!」
 小三郎の説明によれば、この度の長州征討に松代藩が出陣することになり、上田藩に援兵の要請があったため、大小銃並びに器機製造掛の彼に軍備品調達の任が下ったのだと言う。暫くの間は江戸と横浜を行き来することになるだろうと、千が作った餡を挟んだパンを「まことに旨い」と言いながらかじった。
 「横浜に行くなら神奈川奉行の窪田泉太郎という男にこの書状を渡してはもらえぬか?」
 直虎はつい先ほど長行に書いてもらった書状を渡した。
 「これは?」
 「わしは藩の軍制をエゲレス式にしようと思っておるが、まだ日本では誰も手をつけとらん。しかし最近神奈川奉行所で導入したというので、その指南を願う書状じゃ」
 「それには及びません」
 小三郎は少し誇らしげに笑った。
 「実は私も英語を習得しようと横浜の外国人居留地に赴き、英国のアプリンという騎兵大尉と知り合いになりました」
 と言う。英国の駐屯軍の演習を見学したり、横浜の商人や英国領事館の者たちと広く接触しているうちに、このとき十七歳で公使館通訳をしていたアレクサンダー・シーボルト青年と出会い、英国騎兵隊のアプリン大尉を紹介してもらったらしい。そして英国公使の許可を得、アプリンから英語をはじめ兵学や騎馬の扱いに関する知識などを伝授してもらうことになったと、「今後しばらくは彼のもとへ通います」と語った。実に向学の志は行動力となって表れるものだ。そしてアプリンから借りたという一冊の英書を見せ、
 「あそこにいれば他の英国の兵法書も手に入るでしょう。これは昨日彼から借りた馬術書です。まっさきに虎殿様(〇 〇 〇)にお見せしたいと思って須坂藩邸に立ち寄りました」
 「虎殿様(とら との さま)──?」
 その英書を手にしようとした直虎は、妙な呼び方に首を傾げた。
 「先ほどから俊姫様が直虎様のことを虎さん≠ニ呼べと聞かないのです。さすがに一介の上田藩士の分際でそれはなかろうと、せめて虎殿様≠ニ呼ばせてほしいと願っていたところなのです」
 「相変わらずサブちゃんは頭が固い。それにわらわは俊でなく千じゃ」と、脇から千が口を挟む。
 直虎は小三郎がアプリンから借りたという馬術書を手に取り、「この書物の題号は何というのか?」と、公の間から中浜万次郎著の隙間にびっしり単語が書き記されている『英米対話捷径(しょう けい)』を「愛読書だ」と言いながら持って来ると、おもむろに二つの本を対比させながら二人で「ああでもない、こうでもない」と言い合った。やがて『騎兵操典』と訳して顔を見合わせてからは、夜通し本の解読に没頭してしまった。漢書ならお手のものの直虎も、横文字となると勝手が違い、そこは蘭学で鳴らした小三郎の方がセンスが上で、時間が経つのも忘れてすっかり帰藩する日が延びてしまう。
 さて、寝不足で目を腫らした小三郎がアプリンに本を返しに行ったとき、
 「オマエ、本当ニ解カッテイルノカ?」
 と、アプリンは非常に怪しんで、内容に関するいくつかの質問を投げかけた。すると小三郎はジェスチャーを交えながらも難なく答えたので、アプリンはその非凡な才能に驚嘆したという。
 この時期の小三郎は、上田藩士としての任務を遂行するためケンプナールやコッヘといった商館に訪問して銃器を購入したり、江戸と横浜間のおよそ七里の道をほとんど隔日のように往復していた。そしてミニストル、アレキサンドル、ワイト、ヒックス、ブレキマンといったイギリス人とも交流を深め、さらには英語や兵学、馬術に関する知識を吸収するだけでは飽き足らず、ものの考え方や政治体制まで見聞を広め、時には香水を貰ったり葡萄酒やビールの接待を受けたり、また、クリスマスの祝いを見学したりとその文化までをも、単なる知識としてではなく肌で、体で学ぼうと奔走した。