> (二十五)出世(しゅっ せい)本懐(ほん かい)
(二十五)出世(しゅっ せい)本懐(ほん かい)
 あと二日で五十日間の閉門の期日が明けようとする九月一日のことである。
 なんの前触れもなく新たな幕令が下された。
 「いったいどういうことか──?」
 と、混乱したのは直虎だけでなく、おそらく日本中の大名たちが同じ思いを抱いたことだろう。
 『万石以上、以下之面々(ならびに)交替寄合(三千石以上の旗本)、嫡子在国、在邑(ざい ゆう)(かつ)妻子国邑(こく ゆう)()引取候共(そうらえども)可為勝手次第(かってしだいの)(むね)((たるべし))去々(きょ きょ)戌年(いぬ どし)被仰出(おおせいだされ)、銘々国邑()引取候面々も有之候処(ありしそうろうところ)此度(この たび)御進発も被遊候(あそばせそうろう)付而者(ついては)、深き思召も被為在(あらせられ)候ニ付、前々()(とおり)相心得(あい こころ え)、当地()呼寄候様可致(いたすべく)被仰出(おおせいだされ)候、一万石以上()面々(ならびに)交替寄合参勤之割(さん きん の わり)、御猶予被成下(なしくだされ)(むね)、去々戌被仰出候処(おおせいだしそうろうところ)、深き思召も被為在(あらせられ)(そうろう)(あいだ)向後(こう ご)()前々御定(おさだめ)()割合ニ相心得(あい こころ え)、参勤交代可有之旨(これあるべきむね)被仰出候(おおせいだしそうろう)
 つまり文久二年八月に出した参勤交代の緩和(かん わ)で、嫡子(ちゃく し)や妻子を国許に引き取らせた幕府が、ここに来て大名の妻子を再び江戸に呼び戻し、参勤交代の制度を以前の通りに戻せと言い出したのである。
 前は『方今宇内之形勢(ほう こん う ない の けい せい)一変いたし候ニ付(天下の形勢が一変したから)』と言って徳川幕府が始まって二百年以上続いてきた参勤交代の制度を崩したかと思えば、僅か二年足らずで今度は『深き思召(おぼし めし)被為在(あらせられ)候ニ付(深い考えがあるから)』と言って参勤交代を以前と同じに戻すとは、いくら幕府の方針とはいえ、国家全体をまとめる立場としてはあまりに安易と言うか、浅はかと言うか、無責任と言うか──、
 これでは従う方も「困った」と愚痴(ぐ ち)をこぼす以前に呆れかえってしまうのも無理はない。須坂藩のような小藩ならば多少の小回りもきくが、大きな藩になれば負担も大きく混乱は否めない。
 ここに言う深き思し召し≠ニは何かと考えてみれば、京都における情勢の変化に対応するためという事には違いなかろうが、確かに新たな政策が急務であることは理解できる。文久二年の末からの一連の流れを見ても、尊王攘夷論の席巻から天皇をめぐる政治上のかけひきによる二二九年振りの将軍上洛、八月十八日の政変による長州藩の京都追放、時局収拾の期待を背負っての将軍家茂の再上洛、参預会議の結成と崩壊、そして、西洋列強諸国との関係をうやむやにしたまま表面上は公武合体を遂げたものの、長州藩による禁門の変が勃発し京都が戦禍にのまれ、ついに長州征伐令が下されたわけだが、それらが諸藩に負担をかける参勤交代の復旧とは俄かにはつながらない。
 一言で言ってしまえば、文久二年の参勤交代の緩和は、諸藩の負担を減らし力を蓄える事を意図したものであるはずが、立て続けに起こる京都での変動を見る限り、返って幕府の統制力を弱める結果になってしまった。そこで幕府は、公武合体の実を挙げた今のうちに、失墜した権威を以前のものに取り戻そうとした意図が感じられる。しかし朝令暮改の政策など、混乱と不審を招くばかりだ。現にこの参勤復旧の制に従()ない、あるいは従()ない藩も続出し、この制度は曖昧(あい まい)さを残したまま明治を迎えることになる。
 「こうなると、殿の参府とお暇の時期はどうなりますかな?」
 世情の心配より、自分の藩の動きが心配な式左衛門が悠長に言った。
 「前々御定(おさだめ)()割合ニ相心得(あい こころ え)≠ナすから、須坂藩は丑、卯、巳、未、酉、亥の六月が参府ということでしょうな」
 と万之助。
 「今年は甲子ですから御暇(お ひま)の年ですな。でも殿はこうして江戸におる。来年が乙丑(きのと うし)ですから参府の年ですが、今から帰藩してまたすぐに出て来るというのもたいへんな負担ですな」
 式左衛門のぼやきに要右衛門が、
 「今日触れが出たばかりで『御暇の年だから明日すぐ帰れ』とはさすがのご公儀もそんな無茶は言わんだろう。殿、いかがなさいます?」
 「お(かみ)がそう決めたなら従うしかあるまいが……逆らったら今度こそ打ち首、須坂行きどころかあの世行きじゃ」
 「では須坂へ帰るのですか?」
 藩士たちは一転二転の幕府方針に呆れた顔を作った。


 ついに五十日間の閉門の期日が明けた。
 今日は沙汰(さ た)が下った日より五十日目の九月三日──。
 待ちに待ったと言えばその通りであるし、長かったようでもあるが、振り返ってみればよい保養期間でもあった。
 朝、久し振りに竹交叉(たけ こう さ)が払われた正面門の外に出た直虎は、むくむくと込み上げる言い知れぬ歓喜に胸躍らせて、天狗党のこととか京都で起こっている喧騒(けん そう)のこととか、それらとは無縁の世界に躍り出た心境で、少しずつ色づき始めた(かえで)の葉を眺めて大きく大気を吸い込んだ。西暦で言えばもう十月、季節はすっかり秋の気配を運んでいる。
 「さて、今日より何をしようか……?」
 謹慎前は、大番頭の職務の忙しさで、江戸城へ登ったり市中を見回ったり、西洋化への藩政改革も進めなければと忙殺の中で気ばかり焦っていたが、いざこうしてたんまり時間が与えられると、戸惑いの方が先に来て返って何もできなくなってしまうものか。
 思えば閉門を言い渡されたのが七月十三日で、旧暦の日本では中元節(ちゅうげんせつ)に当たる七月十五日はいわゆるお盆だが、今年は墓参りにも行けなかった。先祖供養や、世話になった人への贈り物などなされる風習もあるが、大番頭を罷免された途端、現金なもので誰一人としてお中元とか見舞いを持って来る者がない。外部との接触が完全に断たれていたのだから当然だが、少し以前にも贈答を慎む触れが出ていたからそのためだろうと納得しつつ、まるで世の中から忘れ去られてしまった一抹(いち まつ)の寂しさは禁じ得ない。
 「そうだ、今日は兄上の墓参りに行こう……」
 そう思ったのは、秋の空に浮かぶ雲の形が、兄直武の面影を伝えたためだろうか。須坂に帰藩中にその死を知らされて以来、参府した際に下屋敷の仏壇の位牌に手を合わせたくらいで、ろくに供養もしてやれていないのだ。そう考えたら矢も楯もいられなくなって、
 「(ち づる)さん、今日は散歩がてら兄の墓参りに行きませんか?」
 と、奥の間の千を誘った。ちなみにこの項より(しゅん)(ち づる)と表記することにする。
 千は謹慎明けの祝いに夫と出かけようとでも考えていたのだろう、お付きの松野を相手に「これでもない、あれでもない」と、早くも着物選びに夢中で、墓参り≠ニいう意外な提案に、
 「今日は日本橋か愛宕山(あたごやま)あたりで、虎さんと一緒にうまい団子でも食おうと思っていたのじゃ
 と顔をしかめた。
 「ほれ、兄の直武が亡くなって一度も墓参りに行っておりません。千さんも堀家の菩提寺を見ておいた方がよいと思うのですが」
 二人が結婚して半年以上経つのに、いまだに敬語で嫁と話す殿の律義さに、松野は可笑しさをこらえきれない。
 「墓はどこにあるのじゃ?」
 「深川(ふか がわ)浄心寺(じょう しん じ)です」
 浄心寺と聞いて上田藩下屋敷が近くにあることはすぐに知っただろうが、そこから少し足を伸ばせば須坂藩の下屋敷もある。千の瞳が曇ったのはそのためか?
 「その足で須坂藩の下屋敷に行くのであろう?」
 やはり勘は的中していて、どうやら義母の静に会うのに気が重いらしい。新婚早々「堀家のしきたりだ」とあれこれ手厳しい事を教え込まれた体験がトラウマになっている。
 直虎は少し考えて、
 「下屋敷に行くのがいやでしたら、浄心寺だけでも参りませんか。千さんと行きたいのです。寺の門前にやほき≠ニいううどん屋がありますから、そこの一本うどん≠一緒に食べましょう」
 やほきの一本うどん≠ニ聞いて、千の瞳は一瞬晴れたかに見えたが、
 「あの四、五尺くらいある長いうどんか……。噂に聞くほど美味いものでない」
 と、その言葉には行きたくない心がはっきり顕われている。
 ところが四、五尺くらいの長いうどん≠ニ聞いて直虎は首を傾げた。彼の知っている一本うどん≠ニは明らかに違っていたからだ。すると傍らにいた松野が急にそわそわとしだした。
 あれは千の父松平忠固が老中だった頃の話である──。
 まだ十くらいの俊(千)がある日、噂のやほきの一本うどん≠フ話を聞いて、突然「わらわも食べたい」と言い出した。当時、日米修好通商条約締結の件で時の上田藩主松平忠固は奔走していて、反対勢力の圧力も甚だしく、上田藩では「女子供(おんな こ ども)は外出禁止」の厳命が下っていた。ところが言い出したら聞かない俊は「食べたい、食べたい!」と駄々をこねて泣き出す始末。困った松野は一度も見たことのない一本うどんを四、五尺くらいの長いうどんだと思い込んでいたので、自らの手で小麦粉をこねて作って、
 「これがやほきの一本うどんでございます。どうぞ召し上がれ」
 と、出前を取り寄せたふうを装って彼女に与えた。俊は普通のうどんと変わらない、ただ長いだけのうどんを頬張って、
 「噂に聞くほど美味いものでないな」
 と興覚(きょう ざ)めして(はし)を置いた──松野は、昔のその出来事を思い出したのだ。
 「いえいえ、一本は一本ですが長くはありません」と直虎が言う。
 「そんなことはない。わらわが食べたのは至極長い一本のうどんであった。のどにつかえて食べるのに難儀したのだ。のう、松野──」
 「そ、そうでございましたっけ?」
 松野はとぼけた様子で千が脱ぎ捨てた牡丹の着物をたたんでいた。
 直虎は続ける。
 「幼いころから墓参りといえば、あのご太いやほきの一本うどん≠食うのが楽しみで、お詣りの面をかぶって行きたくもない寺へ親のお供をしたものです」
 さも(うま)そうに(よだれ)を垂らす振りをしたものだから、興味をそそられた千は生唾を飲み込んだ。
 「どうもわらわの思っているのと違うようじゃ。虎さんの言う一本うどんとはどのようなものじゃ?」
 「一本うどん≠ニ言えば、親指くらいの四角いご太い麺が、丼鉢(どんぶり ばち)にただ一本だけ盛られているものです。太いからさぞ硬いと思うかも知れませんが、口に入れると、きめが細かでことのほか柔らかい。そいつを箸で適当な長さに切って汁につけて食べるのですが、あんまり旨いからわしもひとつ作ってやろうと挑戦してみたことがあるのです。ところがどうやっても芯が残ってしまいましてな。なんでも前日に仕込んだ生地を茹で、鍋に蓋をしたまま一晩寝かすらしいのですが、打ち方や茹で方にもコツがあるようで、加減がわからず結局あきらめてしまいました」
 千の目の色がみるみる変わるのが判った。
 「それはわらわの食うたものとは明らかに違うのぉ。実にうまそうじゃ! よし、今日は日本橋はやめて虎さんの言うやほきの一本うどん≠食いに参ろう!」
 「ついでに上田藩の下屋敷にも参りましょう。上田の人たちもさぞお喜びになるでしょう」
 「それは名案じゃ!」
 こうして余所行きの着物を着て、一頭の馬にまたがった二人は、要右衛門と中野五郎太夫と松野を伴に、深川は浄心寺へと向かったのであった。


 山号を『法苑山(ほう えん ざん)』とも言う浄心寺は、鎌倉時代の僧日蓮(にち れん)を開祖とする直系の末寺である。
 明暦(一六五五〜一六五八)の少し前というから承応(じょう おう)(一六五二〜一六五五)あるいは慶安(けい あん)(一六四八〜一六五二)の頃か、否、徳川四代将軍家綱の乳母三沢局(み さわの つぼね)の話が伝わっているところをみると寛永年間(一六二四〜一六四五)の末頃であろう──
 法華修行(ほっ け しゅ ぎょう)日義(にち ぎ)という僧が下総(しも うさ)から江戸に出て、深川の草庵で法華経の読経三昧(どっ きょう ざん まい)にふけっていると、ある日、小堀遠江守宗甫(こぼりとおとうみそうほ)(しつ)お秀の(かた)という一人の女性が通りかかった。
 小堀宗甫は別名小堀遠州のことで、江戸時代初期の大名茶人である。わび・さび≠フ精神に「美しさ」「明るさ」「豊かさ」を加えた綺麗さび≠ニ称する茶の理念は『稽古照今(けいこしょうこん)』、つまり先人の伝統を正しく受け継ぎ今に活かしつつ、新たな創造を目指す格式ある茶道を築き挙げた名家であった。
 そのお家の厳格さによる生活の苦しみか、あるいは夫との関係の悩みか、身の不運を日義に打ち明けたお秀の方は、日義からこんな説法を聞いたのだった。
 「(これ)()って浄名経(じょう みょう きょう)の中には諸仏(しょ ぶつ)解脱(げ だつ)を衆生の心行(しん ぎょう)に求めば衆生即菩提(ぼ だい)なり生死(しょう じ)涅槃(ね はん)なりと(あか)せり、(また)衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土(じょう ど)と云ひ穢土(え ど)と云うも土に(ふたつ)(へだて)なし(ただ)我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも(また)()くの如し迷う時は衆生と(なづ)(さと)る時をば仏と名づけたり、(たと)えば闇鏡(あん きょう)(みが)きぬれば(たま)と見ゆるが如し、只今(ただ いま)一念無明(いち ねん む みょう)迷心(めい しん)(みが)かざる(かがみ)なり(これ)を磨かば必ず法性真如(ほっ しょう しん にょ)明鏡(めい きょう)()るべし、深く信心を(ほっ)して日夜朝暮(にち や ちょう ぼ)(また)(おこた)らず磨くべし何様(いか よう)にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経(な ん みょう ほう れん げ きょう)(とな)へたてまつるを(これ)をみがくとは云うなり」
 それは日蓮の御文であるが、この日義の真摯(しん し)な振る舞いにすっかり感銘(かん めい)を受けたお秀の方は、やがて法華経に帰依(き え)して熱心に題目(だい もく)を唱えるようになった。すると初心(しょ しん)功徳(く どく)(あら)われて、お家の束縛(そく ばく)から解き放たれるように、徳川家三代将軍家光の嫡子(ちゃく し)の乳母を勤めるという夢のような幸運が身に降りかかり、江戸城大奥に入ることが決まったのだった。
 以来、三沢局と名乗ったお秀の方は、大奥女中の意志和合を祈って日夜朝暮に題目を唱えて過ごすうち、慶安四年(一六五一)、数え十一歳で四代将軍になった徳川家綱(いえ つな)の乳母という輝かしい栄光を手にする。
 ところが間もなく病を煩い、明暦元年(一六五五)乳母を辞し、その翌年、日義に新寺の建立を遺命してこの世を去った。
 日義は彼女の死を深く悲しんで、三沢局に浄心院妙秀日求大姉≠フ法号を贈り、自らは通遠院日義≠名乗って局の遺命を奉じようと深川の地に永住することを決意するが、やがて彼も病気になり、学友の日通(にっ つう)上人を呼んで新寺建立を託して死んでゆく。
 三沢局が亡くなって六年が経った寛文二年(一六六二)──。
 数えで二十二歳になった将軍家綱は、熱心な法華経の信者であった彼女の志に感銘し、日通の浄心寺の建立の申し出を許可して寺領一〇〇石の朱印状を交付した上に五万両を寄進し、更に三沢局のために境内に和合稲荷を建てたと伝わる。
 以後、浄心寺は身延山の末寺として身延弘通所と呼ばれ、江戸十祖師の随一とも言われる名所にもなっていた。
 須坂藩堀家二代当主直升(なお ます)は、寛永十四年(一六三七)三月に(そっ)した際ここに葬られてより(実際この年にはまだ浄心寺は建立されていないが、おそらく前身の寺社もしくは墓地があったのだろう)深川浄心寺は堀家の菩提寺として代々受け継がれたというわけである。
 さて、浄心寺に来た直虎たちであるが、お盆などとっくに過ぎてしまっての半月遅れの墓参りだから、墓地は閑散としていた。
 墓守(はか もり)の小僧だろうか、竹箒(たけ ぼうき)で落ち葉を掃く様子を横目に堀家の墓前で手を合わせた直虎は、霊山(りょう ぜん)にいる直武に西洋化藩政改革の現状を報告すると、少しだけ肩の荷が軽くなったのを感じた。江戸から訃報(ふ ほう)の知らせが届いた須坂の地で、清水(きよ みず)の舞台から飛び降りる覚悟で刀や槍や火縄銃などの武器を全て売って金に換えてしまった無謀さも、今になればやはり直武が与えてくれた覚悟だったと思えるのだ。あの気のいい兄の笑顔を思い起こすと、先行きの見えない今の世情に対しても新たな決意を蘇らせるのである。
 「わらわは腹が減った。はよ一本うどんを食いに参ろう」
 脇で一緒に手を合わせた千に気付けば太陽は既に真上にあり、伴の五郎太夫の腹の虫もぐうっ≠ニ鳴ったので、一行はやほき≠ノ向かうことにした。
 この辺りの敷地は、霊厳寺(れい がん じ)や竜徳山雲光院、日照山法禅寺などが立ち並ぶ寺社区域である。近くには父直格の兄嫁(十代須坂藩主の妻)に当たる寛寿院(かん じゅ いん)の実家三田藩(さん だ はん)立花家の屋敷もあり、直虎が幼い頃は寛寿院も伴って墓参りのついでに立ち寄っては、親戚の立花種恭(たち ばな たね ゆき)とよく遊んだものだ。
 「うどんを食ったら少し顔を出そうか?」と思いながら浄心寺の敷地内を歩いていると、千が隣の浄土宗の寺の念仏(ねん ぶつ)(のぼり)を見て、
 「虎さんの家は南無妙法蓮華経≠ネのだな。わらわの家は南無阿弥陀仏≠カゃ」
 と思い出したふうに言った。
 「菩提寺はどこですか?」
 「虎ノ門近くの天徳寺じゃ。でも父上が死んだとき以来行っておらぬ。たまにはわらわも墓参りに行った方がよいかの……」
 「うむ。その時は私も一緒に参りましょう」
 そんな会話をしているうちに、南無≠ニはいったいどういう意味かという話になった。
 要右衛門が「南が無いのだから東西北の三つの方角だ」と言えば、五郎太夫は「梵語(ぼん ご)であって意味はない」と言う。直虎が「教え導く役を指南役と言うから、それが無いなら自ら悟ることだ」と言えば、千が「南はお天道様が通る道だから昼間で、南無は逆の夜だ」と言った。
 松野はケラケラと笑い出し、「ならば小僧さんに聞いてみましょう」ということになって、先ほどから懸命に落ち葉を掃く武士ならば元服する年頃の若い坊主をつかまえて聞いてみたのだった。すると案外博学な小僧で、
 「南無≠ニは帰命(き みょう)=Aすなわち己の生命と本尊とを一つにするという意味の梵語でございます」
 と教えた。すかさず千が、
 「では南無阿弥陀仏≠ニは阿弥陀仏≠ニ一体になるという意味か」
 「さようにございます。しかし残念ながら、阿弥陀仏は釈尊が真実を明かすまでの間、衆生を教え導くために仮に立てた仏の名ですので実体がございません」
 と小僧。
 「なれば妙法蓮華経≠ニはなんじゃ?」
 と直虎が問えば、小僧は困った顔をして「まだ私にも分かりません……」と青い坊主頭を掻いた。
 「しかし──」
 とその小僧は妙法蓮華経≠ヘ実体があると言う。しかしそれは何かと問われても解からないので、それを知るために修行しているのだと答えた。そして、
 「出世の本懐を遂げたい」
 と。出世の本懐とはそれぞれの人間がこの世に生まれた究極の目的であり、言い換えれば使命のことである。なかなか話し好きな小僧は覚えたばかりの教義を復習するように、やがて「この日本国も妙法蓮華経≠ニ無縁でない。あるいは重大なつながりがるのだ」と言った。
 つまり今の孝明天皇の先祖である初代神武天皇は、妙法蓮華経つまり法華経の眷属(けん ぞく)の血を引いているのだと、日蓮の残した御義口伝(おん ぎ く でん)≠フ一節を(そら)んじるのである。
 「(こと)には()の八歳の竜女(りゅうにょ)成仏(じょうぶつ)帝王(てい おう)持経(じきょう)の先祖たり。人王(じん のう)(はじめ)神武天皇(じん む てん のう)なり。神武天皇は地神五代(ち じん ご だい)の第五の鵜萱葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)御子(み こ)なり。此の葺不合尊(ふきあえずのみこと)豊玉姫(とよ たま ひめ)の子なり。此の豊玉姫は沙竭羅竜王(しゃからりゅうおう)(むすめ)なり、八歳の竜女の姉なり。(しか)る間、先祖法華経の行者なり……」
 これは日蓮が法華経二十八品のうちの提婆達多(だい ば だっ た)(ぼん)第十二≠解説した箇所である。日本の最初の天皇が神武天皇であることは直虎も承知している。しかし、提婆達多品に登場し、八歳にして成仏した竜女は、女性が仏法上初めて成仏できる存在であることを明かした画期的な経文であることは去ることながら、彼女が神武天皇の祖母に当たる豊玉姫の妹であり、この二人の娘の父たる沙竭羅竜王(しゃからりゅうおう)は、海底にある竜宮に住んでいる八大竜王の一人で、法華経の序本第一には、この八人の竜王が既に成仏していることが説かれていることなど知る由もない。つまり日本の歴代天皇の一族は、妙法蓮華経によって成仏した竜王一族の末裔なのだと言う。
 そんな御伽話(おと ぎ ばなし)に似た神話などは俄かには信じられないが、以前、桜舞い散る屋敷の縁側で千と『木花開耶姫(このはなのさくやびめ)』の話をしたのを思い出した。豊玉姫(とよ たま ひめ)の夫は木花開耶姫(このはなのさくやびめ)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)との間に産まれた山幸彦(やま さち ひこ)であることは確か『古事記』にも『日本書紀』にも書かれている。
 それにしても日蓮の教義を、まだ年端(とし は)のいかない小僧がいっぱしの大僧正のように話したことに末恐ろしさを感じた直虎は、
 「小僧、名は何と申す?」と思わず問うた。すると、
 「ここではコチョ(古長)と呼ばれております。これでも以前は長州の士族で長介と言いました。八つの時に母を失い、失望した父はまだ手のかかる私をここに出家させましたが、その後父も、母の後を追うように死んだと聞きました。今では世俗への未練もすっかり薄れ、このとおり毎日仏道修行に励んでおります──そうだ……」
 コチョと名乗った小僧は首から下げた頭陀袋(ず だ ぶくろ)をゴソゴソしたかと思うと、中から真っ赤な玉のついた(かんざし)を取り出した。そして、
 「母の形見ですが、よろしければどうそ」
 と、そっと千の結い髪に刺し込んだ。
 「やっぱりお似合いです。私が持っているより貴女(あなた)の方がふさわしい」
 その言葉には変ないやらしさもなければ見返りを求めるような図々(ずう ずう)しさの微塵(み じん)もない。それは、どこからともなく吹き込んで、果てしない心地よさを残して通り過ぎた秋風だった。
 「赤珊瑚(あか さん ご)の簪ではないか。かような高価なものを頂戴(ちょう だい)する筋合(すじ あ)いはござらん……」
 直虎はあわてて抜いて返そうとしたが、その手を掴んだ千が言った。
 「くれると言うのだから貰っておこう。人の厚意は無にするものでない」
 「奥様のおっしゃるとおりでございます。その簪は手元に置いていても手入れに困っておりました。それに、出世の本懐を遂げるには必要ありません。却って処分に困っていたのです。私の母は、いつもこの胸の中にいるのです。貴女のような美しい女性にこそ持っていただく方が、その簪にとっても幸せでしょう」
 「ほれみよ! わらわに(もら)われることが、この簪の出世の本懐じゃ」と千は直虎を横目遣いに笑った。
 そうしてコチョが本堂に向かおうとしたとき、ふと何かを思い出したように振り返った。
 「出家の身ではありますが、たった一つだけお願いがございます……」
 そう言いかけて黙然と口をつぐんでしまった。
 「なんじゃ? 申してみよ」
 「実は……私には出家した時、生き別れになった弟がおります。年は今年で十三、四になりましょうか? 身寄りもなく、おそらく父亡き後は同じ長州藩士の家に引き取られたものと思いますが、今は世情が世情、どうしているやと心配でなりません。名は楓丸(かえで まる)──もしどこぞでお見掛けしましたら、兄は元気だとお伝え願えませんか……」
 やがて立ち去るコチョの背中に、どことなし寂しさが映し出されていた……。
 ──その後一本うどんを食べた一行は、その足で立花種恭の屋敷に顔を出し、更にそこから四半里ばかり離れた上田藩下屋敷にも立ち寄った。ところが立花種恭は不在で、上田藩に至っては千の血筋の者はみな国許にいるとのことで、それでも「せっかく来たのだから」と屋敷内に招き入れられ、暫し懐旧の念に浸った千だったが、すぐに飽きて帰路の途についたのだった。
 馬上で千を抱き抱えるようにして後ろで手綱(た づな)を握る直虎は、道行く人達が羨むほどに、謹慎明けの二人にとって生涯忘れ得ぬ時間となったことだろう。