> (二十三)闇商人ローダ
(二十三)闇商人ローダ
 五十日間の閉門──その半ばにさしかかった頃、息せき切って公の間に飛び込んできたのは要右衛門で、
 「たった今、イギリスから武器が到着したとのことです。これから家老と一緒に英国商人ローダに会って参ります!」
 と高揚(こう よう)した口調で告げた。
 「ついにきたか!」
 直虎は読みかけの『英米対話捷径(しょう けい)』を閉じて、「参ろう!」と勢いよく立ち上がった。
 「ま、参る……って、謹慎中ではございませんか?」
 「かまわん。もうすぐ日が暮れる。暗くなれば門前の役人も帰るだろう。そしたらこっそり抜け出し、わしも行く」
 「し、しかし、横浜です。早く戻れても明日。その間、役人に見回りにでも来られたら、それこそ閉門だけでは済みませんぞ!」
 要右衛門は厳しく(いさ)めたが、
 「泰次郎を身代わりに置いてゆけば大丈夫だ」
 と、言い出したら聞かない直虎は、(まと)っていた着物をすっかり泰次郎に着せてしまうと、自らは町人姿に扮装し、
 「わしが戻るまでけっして公の間を出るなよ。もし役人が来たら『わしゃ直虎じゃ』で押し通せ!」
 そう泰次郎にきつく言い渡して、小笠原長行から借用した取り引きに必要な金の入った千両箱を抱えると、要右衛門と式左衛門を引き連れ猪牙(ちょ き)に乗り込んだ。猪牙とは江戸の水路を行き来するための小舟である。
 江戸中期の林子平(はやし し へい)が書いた『海国兵談(かい こく へい だん)』にこうある。
 『江戸の日本橋より唐から阿蘭陀(おらんだ)まで境なしの水路なり──』
 つまり大江戸の町に張り巡らされた水路は、遥か中国やオランダまで海を通じてつながっているという幕府海岸防備体制への警鐘であるが、逆に言えば、これは高度に優れた水運の道であり、各藩はたいてい自前の船を持ち、船頭を抱えている。須坂藩も例外でなく、お抱えの船頭に小舟を漕がせる直虎は、暗い水路を品川沖へと目指した。そこは大坂と江戸を結ぶ菱垣廻船(ひ がき かい せん)樽廻船(たる かい せん)、あるいは北海道や日本海側の港を結ぶ北前船(きた まえ ぶね)等、全国各地の食料品や日用品が人も含めて大江戸へと集まる日本海上交通の中心なのだ。
 湾内に浮かぶ大小いくつもの船灯(ふなあかり)が星のように輝く光景を見た三人は、無数に停泊する五大力船(ご だい りき せん)の一つを借り受けた。大量の武器を運ぶには大きめの廻船でなければ都合が悪い。そこから横浜までは目と鼻の先ではあるが、風を推進力にする帆船だから、風向きや風速によって進み具合が大きく異なり、早ければ二、三刻で着くこともあれば、無風の日などは丸一日かかってもたどり着かない時もある。増して夜の運行は、経験を積んだ熟練の航海術を必要とした。
 その夜は都合の良い東風が吹いていた。
 風を捕えた船は想像以上に速く進み、やがて外国人居留地が立ち並ぶ横浜の波止場に着いたのだった。
 要右衛門が通訳を呼びに行く間、船に残った直虎と式左衛門の二人は、夜だというのに昼かと思われるほどの篝火の光の中で、横浜港に停船してる外国の大型船から荷を積み下ろす労働者たちの光景を眺めていた。
 暫くして要右衛門が連れて来たのは商人風の青白い顔をした青年で、町人姿の直虎を(いぶか)し気に見つめたあと「八郎太(はち ろう た)と申します」と名乗った。
 「あれは何を積んでおる?」
 直虎は、港で日本人も外国人も入り混じって作業にいそしむ労働者たちを見て聞いた。
 「おおかた蚕種(さん しゅ)生糸(き いと)でございましょう」
 「海外との貿易は禁止されているはずだが?」
 少し前に幕府が発布した廻送令で海外貿易は厳しく制限されている。八郎太は「馬鹿げた事だ」と言うように笑った。
 「旦那、あっしらは商人です。いちいち御公儀の命令になんか従っていられません。旦那だって危ない橋を渡ろうってんじゃァないのですかい?」
 なるほど──まるで悪気はなくむしろ良かれと思ってしていることだが、直虎がこれから行おうとする取り引きも、いちいち幕府の許可を得ているわけでない。謀反と言われたら言い訳できない行為なのだ。
 三人は八郎太に連れられて、ローダという商人が構える商社へと向かった。そこは倉庫の一部を改装した小さな事務所で、中に入れば西洋のランプに金髪を光らせ、額の(しわ)凹凸(おう とつ)を刻む割腹(かっ ぷく)のいい一人の男が、机に向かって何らや書類に目を通していた。
 「彼がローダさんです」
 八郎太はその青い目をした男を直虎に紹介すると、ローダは満面の笑顔で近寄り、直虎を尻目に式左衛門の手を握りしめた。式左衛門は慌てて「わしではない、こちらが(あるじ)だ」とジェスチャーで示すと、ローダは町人姿の直虎を不審そうに見つめた。
 「マイ・ネイム・イズ・ストレート・タイガー、シュエイク・ハンド!」
 覚えたての英語を駆使した直虎は、したことのない握手を求めたが、初めてする西洋式の挨拶に胸をドキドキさせていたからか、ローダはポカンとした顔で首を傾げた。
 直虎は要右衛門を睨み「お前がくれた『英米対話捷径(しょう けい)』は本当に英語の本か?」と疑った。すかさず八郎太が間に入ってなんとか意思の疎通が図れると、
 「Oh! Excuse me──」
 ローダは直虎の手を両手で握って突然ハグした。
 「無礼者!」
 意図せぬ事態に咄嗟に腰の刀に手をかけた要右衛門だが、ローダは腰に差している二本の棒のような物を興味深げに見つめて、
 「コレハ何デスカ?」
 と聞いた。どうも調子が狂う。
 「こ、これか? これは大和魂(やまとだましい)じゃ。大小(だいしょう)とも言う」
 その言葉を八郎太が訳して伝える。
 「どんなものだか抜いて見せよと申しております」
 要右衛門は呆れて、
 「ダメじゃ。これはやたらに抜くことはできない」
 と答えれば、再び八郎太が訳して「ぜひ抜いて見せよ」と再び言った。
 「否、できぬ」
 訳の分からぬやり取りをするうち、要右衛門は通訳を介するのが面倒になり、
 「抜けばお前の首が落ちるぞ!」
 と手真似で脅して見せた。それでも案外通じるもので、驚いたローダは、
 「首が落ちては大変だが、首が落ちない程度に少しだけ抜いて見せよ」
 と、やはりジェスチャーで返してくる。そんな押し問答を繰り返した末に、ついに根負けした要右衛門は、
 「そこまで言うなら直心影流(じき しん かげ りゅう)免許皆伝の腕前ご覧ぜよ。その青い目見開いてとくと見よ!」
 言うが早いか明光々たる二尺八寸の腰の太刀をスラリと引き抜き、近くにあった竹箒(たけ ぼうき)の柄をも言われぬ速さで真っ二つに切り裂いたものだから、それにはローダも驚愕し、首を押えて近くの物陰に身を隠した。
 「お前さん方は鉄砲、鉄砲と言っておるが、さすがに日本刀には適うまいぞ」
 要右衛門は刀を鞘におさめたが、なかなかローダも聞かん気で、流暢(りゅう ちょう)な英語を並べて四人を事務所の中に招き入れると、机の上に大きな世界地図を広げて片言の日本語でこう言った。
 「ヨーロッパ、国、大キイ、ニッポン、国、小サイネ」
 続けて脇にあった丸いお盆を机に置いて、その上に楊枝を乗せたと思うと、
 「ぷうっ」
 と吹き飛ばしてニヤリと笑って見せた。おそらくお盆を地球に例えたら、日本なんて国はこの楊枝のようなものだとでも言いたいのだろう。ローダの如き武器を売買する西洋人は、混乱した時代の闇に暗躍する死の商人なのだ。何をしでかすか分からない。
 やがて八郎太の通訳で取引に入ると、ローダは奥から一丁のライフル銃を持ってきて「イギリス製スナイダー銃だ」と直虎に握らせた。いわゆる日本では後にスナイドル銃と呼ばれる最新型だが、その性能をペラペラと早口な英語で語るので、さすがの八郎太も訳すことができない。ところが意味が分からないながらもあまりに自慢げなので、断片的な訳をつなぎ合わせただけでもその性能の高さは知ることができた。
 直虎は顔を赤くするほど興奮し、やがて八郎太が訳すローダの最後の言葉を聞いた
 「一丁四十両だそうです。百丁で占めて四千両だと申しております」
 金勘定に(うと)い直虎もさすがにさあっ≠ニ青ざめた。まさか一丁にそれほどの値を提示されるなど思ってもない。持って来た金子を全部出しても予定の半分も買えないではないか!
 「話が違う!」
 と突然吠えたのは要右衛門。腰の刀に手をかけて脅したものだから、ローダは恐れおののき机の陰から「サイシンシキ、サイシンシキ」と下手な日本語を繰り返した。
 「これは約束の品ではない!」と続けたところで「いやまて」と直虎が差し止めた。
 「やはり最新式がよかろう。すまぬが持ち合わせがこれしかない。ここにある金で交換できるだけのスナイダー銃とやらをいただきたい」
 直虎が式左衛門に千両箱を開けさせるとローダはにんまり笑んで、そこから要右衛門の刀をちらつかせた値切りの交渉が始まった。こうして買えるだけのスナイドル銃を含めたライフル銃と、旧型の大砲のほか弾丸・弾薬の代金を支払った直虎は、ローダの部下たちの手を借りて、モノ≠波止場の船に積み込んだ。それでもローダには十分な儲けがあったことだろう。
 終始上機嫌の直虎は「他に気の利いた武器はないか?」と聞いた。
 「アルヨ──サツマ、チョウシュウ、ミト……ミンナ武器欲シイネ。ダカラ、タクサン仕入レタ」
 「見せてもらえぬか?」
 ローダは倉庫の奥からスペンサー馬上銃を持って来て「六連発」だと誇らしげに見せた。いわゆるそれはライフルとは違い、騎馬に乗りながら片手で発砲できる小型銃である。そればかりでない、更に小型の拳銃をおもむろに懐から出して、
 「これはコルト社のМ1851ネイビーというピストルで、リボルバー式の六連発だ。少し型は古いが護身用に持っている」
 と、これもまた自慢げに見せた。直虎は生唾を飲み込んだ。
 噂には聞いていたが、これがピストールというものかと思うと妙な闘争心が湧いてきた。
 「なんじゃ、六連発か。わしゃ十六連発を持っておるわい」
 以前片井京介から買い受けた銃の話を持ち出せば、「それは何という銃か?」とローダが問う。
 「メリケン製のヘネル十六連発銃じゃ。確かエム一八六〇と書いてあった。日本ではわしと一橋慶喜公の二人しか持っておらぬ世界最強のライフルじゃ」
 「参ったか」とばかりに答えると、ローダはさもおかしそうに笑い出した。
 「それはニューヘイヴン・アームズ社のものだが、スナイドル銃に比べたら骨董(こっ とう)だ」
 「こ、骨董……」
 直虎にとっては日本刀の手入れをするように大事にしてきた自慢のライフル銃である。それを骨董″と言われては購買欲を刺激するに充分すぎた。
 「いくらじゃ?」
 「そうだなあ……これがなくては私も困る。ライフル銃の弾一〇〇発おまけに付けて二〇〇両といったところかな? だがもう負けんぞ」
 ローダは値引き根性を見下すようにほくそ笑んだ。更には「まだまだあるよ、兵士用にどうか」と、奥から一丁二十一両のミニエー銃と、それより旧式のゲーベル銃、更には「これらの武器を扱うにはそんな恰好ではだめだ」と言って、筒袖(つつ そで)の洋服とズボンを広げて見せた。
 それよりピストルの方が気になって仕方ない直虎は、
 「式左衛門、まだ金はあるか?」
 式左衛門は(たもと)をゴソゴソやって有り金の全部を出して見せたが、渋面をつくった直虎は要右衛門にも同じように金を出させた。ところが直虎自身の持ち金を合わせても二両に満たない。藩主を筆頭に須坂藩士はみな金がない。
 「負けてもらえんかのぉ……? このピストールだけでも欲しいのじゃ……要右衛門、ちと二百両ばかりそのへんで調達して来い」
 「無茶でございます! さっ、帰りましょう!」
 ところがどうにも諦め切れないので「必ず金を持って来るから、ツケで頼む!」と交渉しても、ローダはどうにも首を縦に振らず、「ならば金を持って来るまで誰にも売るな」と粘っても、「欲しい者がいたらすぐに売る」と言って、商売根性旺盛と言うか偏屈と言うか、このローダという男も相当意固地な強欲で、ついに要右衛門と式左衛門は、直虎を引きずるようにして商社事務所を出たのだった。


 ──ちょうどローダと商談している頃、須坂藩邸では肝を冷やす大事件が起こった。この日に限って、
 「御用改めに参った! 内蔵頭殿に面会願おう!」
 と、奉行所の役人が藩邸の門を叩いたのだ。
 対応に出た中野五郎太夫の慌てふためきようを怪しんだ役人は、そのままずかずかと邸内に入り込む。役人を取り囲むように万之助や清之丞も必死に公の間へ近づけさせまいとしたが、ついに藩主の部屋を見つけた役人は、
 「内蔵頭殿は御執務中か?」
 (ふすま)の前で大声を張り挙げた。
 「ご、ご執務中である!」
 中から大慌ての泰次郎の裏返った声が聞こえた。「万事休す!」と、須坂藩士たちは全てを諦観した。
 役人は「御免!」と言ってぞんざいに襖を開けた。すると、直虎を装い、文机で読書に耽った様子の泰次郎が顔を挙げた。
 「何の騒ぎじゃ。予はただいま勉強中である。もうちと静かにしてくれ」
 幸い行燈の光は暗く、その表情まではよく見えない。
 「御用改めに参った。そなたが堀内蔵頭(くらのかみ)殿か?」
 「左様──。お勤めご苦労! と言いたいところだが、かような夜更けに他人の屋敷に土足で上がり込むとは、それが奉行所のやることか! 池田播磨守(はりまのかみ)殿に申し付けて厳しく叱ってもらわねばいかんな」
 途端、役人の顔が引きつった。
 池田播磨守頼方(より かた)は北町奉行である。かつては勘定奉行や大目付を歴任した人物で、特に南町奉行の時はかの安政の大獄を処理した名奉行として江戸にその名をとどろかせた大物である。とっさに泰次郎の口からその名が出たのは、実は直虎の入れ知恵なのだ。この池田播磨守の妻は摂津三田藩から嫁いだ娘で、直虎の親友の一人九鬼隆義の血筋なのである。
 「何かあったらその名を出せ」
 と、直虎は用意周到だった。
 「さあ、勉強中じゃ! 気が散ってならん、またにしてくれ」
 「失礼いたしました……」と役人は顔を青くして立ち去ろうとした。須坂藩士たちは「九死に一生を得た!」と、どおっ≠ニ冷や汗を流した──ところが、
 「ちと待てお役人──」
 調子に乗った泰次郎が引き止めた。藩士たちは「何を言い出す!」と再び肝を冷やす。
 「ここに寄ったついでに英語の一つも覚えて帰れ。わしの名は直虎と申すが、英語でストレート・タイガーじゃ。覚えておけ、あっはっはっはっ……」
 小馬鹿にされた気持ちの役人は、再び「失敬……」と言い残して立ち去ろうとしたが、
 「おい待て」
 と、再び泰次郎が引き止めた。藩士たちは気が気でない。
 「せっかく須坂藩邸に来たのだから、お茶の一杯も飲んでゆけ。おい、お(かつ)や、このお役人さんにお茶をお出ししなさい」
 お勝というのは須坂藩士鈴木家の息女で、上屋敷に奉公している女中の一人──このときまだ十一、二歳の童女だが、比較的大人しいものだから泰次郎にとっては格好の遊び相手で、いつもからかわれては物陰で泣いている気の優しい生娘である。
 「へ、へぇ──」
 遠くでお勝の声がすると、役人は「無用である」と言って荒々しい足取りで藩邸を立ち去った。生きた心地のしなかった須坂藩士達は、深い安堵のため息を落とす。
 大関家の跡取り泰次郎は、何とも度胸の据わった男であった──直虎が弟のように可愛がっているのはそのためかと事件を機に合点する藩士たちだが、この時彼が読んでいた本というのが春画だと知った日には、感心を通り越してみな腹を抱えて大笑いしたものだ。


 さて、ピストルを買えず、すっかり落胆して暗い埠頭(ふ とう)を、肩を落として歩く直虎である。
 その時、
 「良ちゃん? 良ちゃんじゃないの?」
 という聞き覚えのある女の声に振り向けば、
 「お糸ちゃんじゃないか! どうしてこんなところにおる?」
 声の主は国許(くに もと)糸師(いと し)お糸≠ノ違いなく、咄嗟(とっ さ)に式左衛門と要右衛門に向って「わしが殿であることを知られてはならん」と固く口止めして、近寄る彼女の手を握り返した。
 「こちらのお方は?」
 お糸は武家姿の式左衛門と要右衛門を少し警戒した目付きで聞いた。
 「須坂藩江戸家老の駒澤様と家臣の小林様だ」
 すると、自分がここにいるのを知られてはまずい事でもあるように、お糸は直虎の手を引いて少し離れた場所に移動すると、いまここにいる事情を話し始めた。
 それによれば──、
 昨年(文久三年)九月の幕府による廻送令(かい そう れい)の強化により実質的に海外貿易が禁止され、蚕糸業界は大打撃を被っていると言う。須坂領内でも、
 『横浜表に糸荷など差し出し候事、見合わせ申すべき事』
 との触れが出されて、二進(にっち)三進(さっち)もいかなくなった(いと)と周辺の蚕糸商人たちは、藩に内緒で外国人と直接的な闇取(やみ と)()きを始めたのだと小声で言う。今は外国船にその荷の積み込みを終えたところらしい。
 (いと)は仲間の所へ直虎を連れて行き、「幼馴染(おさな な じみ)(りょう)ちゃん≠セ」と紹介した。彼女とは仕事仲間の二人の男は、小布施村の重兵衛と押切村(おし ぎり むら)仲右衛門(なかえもん)だと名乗り、挨拶代わりに、昨年の十一月、輸入木綿の買い入れのため江戸に行った時の話をしはじめた。それは横浜商人と商談をまとめた日の夜のこと──
 二人は江戸茅場町(か や ちょう)の商人山形清左衛門(やま がた せい ざ え もん)方の二階に泊まっていた。すると突然、幕府の役人を名乗る数名の男が抜き身をさげて押し入って来て、
 「その方ども、外国と木綿の商いをいたしたな! 捨て置くわけにゆかぬ、覚悟しろ!」
 と、すごい形相で威嚇したのであった。驚いた二人は、
 「今後はけっしていたしません。どうかお許しを!」
 と命乞いをすると、
 「しからば金子を渡せ!」
 と脅されて、手持ちの三百両を強奪された上、宿の番頭に預けておいた四百両までもが奪われたという災難話。
 「あれには腹が煮えくり返った。密貿易の取り締まりったって所詮は金しだい。ご公儀なんざそんなもんさ」
 と、懲りずに外国相手に闇商売を続けているというわけだった。
 直虎は「はて?」と首を傾げた。
 昨年十一月といえば大番頭(おお ばん がしら)になったばかりの時分である。江戸では攘夷派に対する警戒が一層強まった時ではないか。必要以上にアンテナを高く張っていたはずなのに、そのような情報は耳に入っていない。もっとも海外貿易禁止の網をくぐった犯罪だから、当事者も被害届けは出せないにしても、幕府の役人がそんな強盗まがいな事をするはずがない。
 「お主ら、それは幕府の役人ではないぞ。攘夷浪士の仕業(し わざ)だ」
 と教えてやると、重兵衛と仲右衛門は顔を見合って納得したようだが、
 「攘夷浪士だろうと幕府の役人だろうと関係ないわさ。俺たちは金を返してほしいだけさ」
 とやり過ごした。
 それにしても女だてらに須坂から横浜まで生糸を売りに来るとは、(いと)も相当恐いもの知らずの商売人だ。そして「お願いだから、あのご家老さまには言わないで」と、ぬけぬけといつ覚えたか色目を使って(すが)り付く。そのうえ、
 「ちょうどいま須坂から運んで来た生糸をフランス人に引き取ってもらったばかりで、いま私たちの懐はホッカホカなのだ」
 と無邪気に(ほこ)った。
 「なぬ?」と直虎は閃いた。
 「お糸ちゃん、頼みがある。聞いてくれぬか?」
 直虎は(いと)の手を握って彼女の顔をじいっと見つめた──いつだったか、一度は「嫁にもらって」と思いのたけを告白した男にそうされたら、けっして悪い気がしない(いと)なのだ。頬を赤らめ、
 「なあに……?」
 「すまぬが二百両ばかり貸してくれ?」
 「はあっ? 二年振りに会ったというのに、またそれ?」
 恥も外聞もなく直虎は、その場に(ひざまづ)いて頼み込む。
 「すぐに入り用なのだ! 須坂藩の名において必ず返済するから!」
 その光景があまりに哀れに見えたか、脇から重兵衛が口をはさむ。
 「お糸ちゃん、千両、二千両って金じゃァねぇんだ。利子をたんまり付けて貸してやれ」
 お糸は暫く考えて、
 「私たちの事を、あのご家老さま達に絶対に言わないと約束してくれる?」
 念を押した上に足元を見透かし、
 「利子は三割、返済額は占めて二百六十両──、あのご家老さまに証文もらってきて!」
 と愛想なく言った。それは取りすぎだろうと重兵衛と仲右衛門は顔を見合わせ笑ったが、相変わらず金に無頓着な直虎は、急いで式左衛門のところに戻って「いますぐ二百六十両の借用証書を書け」と命じた。
 「あの女、いったい誰でございます?」と要右衛門。
 「須坂の者だ」
 「須坂の者がどうしてこんなところに?」
 「いいから言う通りにせぇ!」
 式左衛門は愚痴を連ねながら借用証書を書き終えると、文末に須坂藩の花押印を()した。それを持ってお糸に渡せば、お糸は二百枚の金子を惜しげもなく手渡して、
 「良ちゃんと一緒に、江戸に立ち寄ってから帰ろうかな?」
 と意地悪そうに(つぶや)いた。
 「そ、それは困る……」
 「どうして?」
 「来ても泊める場所がない」
 「うそばっか……」
 遠くの篝火の光で淡く浮かんだ何か言いたげな表情に、ほのかな悲しみを帯びていた。
 こうして二〇〇両の金を手にした直虎は、急いでローダのところへ駆け戻り、リボルバー拳銃を買い入れた。