> (二十二)湘君(しょう くん)(しょう)夫人
(二十二)湘君(しょう くん)(しょう)夫人
 まったく世の中が騒然としているはずなのに、この静けさといったら一体何だろう?
 五十日間の閉門を言い渡された日、大工の何某(なにがし)という男がやってきて、屋敷の窓から戸口から太い木っ端を打ち付けて、「てぇへんですねェ」と他人ごとのように笑った。
 (しゃく)に触って返事もしないでいたら、(しま)いには公の間の(ふすま)まで打ち付けようとするから、さすがに「それでは(かわや)へも行けぬ。勘弁してくれ」と願って、やがて大工は門に竹を交叉(こう さ)に立てて固く閉ざして帰って行った。
 おまけに門の前には見張りの役人を立たせているから、通りがかりの人たちは「いったいどんな罪を犯したのか?」と興味津々とした顔で通り過ぎる。見せしめとはいえ、日本という国家を危惧してとった行動が、これほど惨めに追いやられるとは心外この上ない。
 心は騒ぐもやる事のない直虎は、やりどころのない悶々とした気持ちを落ちつかせ、うるさいほどに啼く(せみ)の声を聞きながら、一編の漢詩を考えている。


 噫不尤人不怨天。
 煥然抗表字三千。
 常諳賢屈覊征事。
 欲此唐虞揖讓年。
 枯骨那於禁闕裡。
 俊髦宜待帳惟前。
 湘江煙睹方愁絶。
 惟覚英光射四辺。
 (元治元甲子秋七月閉居所感)


 「うむ、なかなか面白い詩ができた……」
 これは後ろの三行に含まれる俊髦(しゅん ぼう)湘江(しょう こう)英光(えい こう)≠どう読むかで大きく意味が変わってくる直虎流の一種の隠文(いん ぶん)なのだ。つまり表面上は単に閉門の身となった心情を表現したものだが、文の底に別の意味を潜ませた高度な言葉遊びである。
 一行目の『噫不尤人不怨天』 は、「ああ、人を(とが)がめず天を(うら)まず」と読む。これは『四書五経』に出てくる孔子の言葉で、 「己のことは天だけが知っている」という意味である。とはいえ松前崇広(たかひろ)の「腰抜け!」という暴言を思い返すたびに腹が立つ。とても孔子のような君子の境地に至るにはまだまだ時間がかかりそうだ。
 二行目の『煥然抗表字三千』は「光り輝く表字三千に(あらが)う」と読み、『表字三千』とは『三体千字文』のことで、書写の手本に用いられる千文字で構成された漢字の長詩である。楷書(かい しょ)行書(ぎょう しょ)草書(そう しょ)の三書体あることからそう呼ばれ、 美しいそれらの文字に逆らうようなやるせない今の心境を詠んでいる。
 三行目の『常諳賢屈覊征事』は「常に(そら)んじている賢人たちの知恵を(くじ)くように、天狗党征討を思いとどまった」という意味で、思うようにならない現実の嘆きを詠み込んだ。
 次の『欲此唐虞揖讓年。枯骨那於禁闕裡。』の二行は中国の王朝になぞらえた。『唐虞(とう ぐ)』というのは古代中国の伝説の国で、『揖讓年(ゆう じょう ねん)』というのは天子(天皇)が位を譲る年のこと、これを欲する──つまり天皇が別の者に位を譲ったら、禁裏(きん り)に己の枯骨(こ こつ)(さら)そうという密かな勤皇の思いである。
 直虎は武田耕雲斎の中にもこれと同じ勤皇の精神を見る思いがしていた。耕雲斎の望みは横浜港の鎖港、つまり時の孝明天皇と同じ考えで、世間を騒がす過激尊攘派とは明らかに一線を画していると見ていた。彼は水戸斉昭の悲願であった尊王攘夷(そん のう じょう い)≠フ精神を純粋に示しているだけで根は紛れもない幕臣であり、以前から開国論を支持し今は西洋化に突き進む直虎とは一見水と油のようにも見えるが、天皇というものに対する思いは少しも違わないと感じていた。それはすなわち直虎が言うところの(じゃく)≠ナあり、その次元でいえば耕雲斎も同朋(どう ほう)なのだ。とすれば争う必要など微塵もなく、対話を重ねれば必ず分かり合えると信じている──。
 「殿、暇を持て余していると思い、話し相手に参上しましたぞ」
 と、暇そうな直虎を気遣って公の間にやって来たのは江戸家老駒澤(こま ざわ)式左衛門(しき ざ え もん)で、文机(ふみ づくえ)の上の完成したばかりの漢詩を目で追うと、
 「そう弱気にならずとも、そのうち良い事もございます」
 と励ました。
 「弱気になぞなっとらんが」
 「しかしこの詩に書いてあるではございませんか? これは殿がお考えになった漢詩でございましょう? 『早く優れた後継者が現れるのを待っている』と……いくらなんでも隠居するには早すぎますぞ」
 直虎は「さっそく引っかかったな」とにんまり微笑んだ。
 式左衛門は後ろから三行目の俊髦(しゅん ぼう)(しゅう)に抜きんでて優れた人材≠ニ普通に読んでいる。髦≠ヘ髪の毛の中でも太く長い毛のことで、俊≠ヘ飛びぬけて優れる意だから当然そう読むのが一般人の発想なのである。つまり『俊髦宜待帳惟前』を「(とばり)の前で考えをめぐらし、後継者たる俊英が現れるのをよろしく待っている」と解釈したのだ。
 「なるほどそう読むか? では次の『湘江煙睹方愁絶』はどうじゃ?」
 「(しょう)≠ヘ湘南(しょう なん)≠キなわち横浜方面のことで、江≠ヘ江戸≠フことでございましょう? 天狗党が江戸を通り過ぎ横浜へ向かう間に、いくつもの戦火の煙を見ることになる(うれ)いを絶とうと言っているのでしょう?」
 直虎はまんまと思惑にはま(○ ○)った式左衛門に笑い出した。
 「な、何が可笑(お か)しいのでございます?」
 「いやはや式左衛門は相変わらず頭が堅いと思ってのぉ。では最後の『惟覚英光射四辺』はどうじゃ?」
 「読んで字のごとくではないですか。英光(えいのひかり)>氛氓アれはすなわち殿がいま推進している英学の光″のことで、西洋化をもって辺りを照らす日の事を夢見ているといった意味ではないのですか?」
 英光≠英学の光≠ニ読むところに密かな思いを込めているのだと、家臣としては主君の心を見事に見透かしたであろう満足感で誇らしげである。ところが直虎は可笑しさが止まらない様子で「あはははは──」と声をあげて笑ったので、
 「私は何か変な事を申しておりますか?」
 式左衛門は(いぶか)し気に首を傾げた。
 「いやいや、お前の言う通りである。まったく正しい」
 式左衛門が不審そうに漢文を読み返しているところへ、いつもの明るい声を挙げながら俊が焼き立てのパンを盆に乗せて持って来た。
 「新作ができたぞ、ほれ虎さん食うてみよ! 今度は丸いのを半分に切って、間に小倉餡(お ぐら あん)を挟んでみたのじゃ! これが新しい食感でなかなか旨いぞ」
 現代で言うところのあんパンに似たものか? 彼女の登場で辛気臭(しん き くさ)い部屋の中がぱっと華やぐ。
 「どれどれ……」
 盆の一つを口に運んだ直虎が「うむ、旨い」と応えれば、
 「ほれほれ、式左衛門も食うてみよ!」
 俊は自分が作ったパンを皆が美味しいと言ってくれることが嬉しくて仕方ない。
 すると、ふと文机の漢詩を見つけて、俊は俄かに頬を赤く染めた。
 「この詩は何じゃ? 照れるではないか……虎さんはそんなにわらわの事が好きなのか?」
 突然何を言い出すのかといった顔つきの式左衛門は、パンを噛むのも忘れて彼女を見つめた。
 「わらわの髪はそれほど美しいか? いくら親しい間柄とはいえ、かような漢詩を式左衛門に見せることはない。こう面と向かって告白されては、さすがのわらわも少し恥ずかしいぞ」
 「な、なんの話でございます?」
 式左衛門は狐にでもつままれた表情で直虎と俊の顔を見比べた。
 「ここに俊≠ニ書いてあるではないか──」と俊が言った。
 なるほど後ろから三行目の俊髦(しゅん ぼう)≠ヘ、(しゅん)≠ニ(もう)≠ノ分けて読めば、髦≠ヘ単体では垂れ髪≠るいはさげ髪≠フ意だから俊の可愛らしいさげ髪≠ニ読める。実は数刻ほど前、暇を持て余して奥の間に顔を出したとき、結い髪をほどいて、松野に黒髪をすかせている俊の後ろ姿を見たのである。その姿があまりに(なま)めかしくて、直虎はこの漢詩を書いてみようと思い立ったのだ。
 とすれば『俊髦宜待帳惟前』は「俊の可愛らしいさげ髪が美しく、難しいことをいろいろ考える前に、夜の帳が降りるのを待とう」と読める。直虎は慌てて咳ばらいをすると、
 「式左衛門、話し相手はもう足りた。下がってよいぞ」
 と横目でうそぶいた。
 そうはいかない式左衛門は、
 「(ち づる)さま、では次の『湘江煙睹方愁絶』はどのような意味でございます?」
 と詰め寄った。すると更に慌てた直虎は、
 「もうよいから下がれと言っておろう!」
 と狼狽(ろう ばい)ぶりを隠すように語調を荒げた。
 「湘江(しょう こう)≠ヘ確か清の国にある川の名と思ったぞ? むかし何かで読んだことがある」
 さすが上田藩の姫君は、見かけによらず教養が深い。
 「川の名? 横浜と江戸のことではないのですか?」
 「何をとぼけた事を申す。ほれ、屈原(くつ げん)という有名な詩人の詩に『湘夫人』というのがあるじゃろう。これ以上は恥ずかしゅうてわらわの口からは言えん!」
 俊は柄になく赤く染めた頬を手で隠すと、直虎の背中に顔をうずめてしまった。
 彼女の言う湘江とは中国に流れる大きな川で、特に中国における春秋時代から戦国時代にかけての()(紀元前十一世紀〜前二二三年に存在した中国の王朝)の人々の信仰の対象だった。『湘妃』と『湘君』という名の二人の女性がおり、二人は舜帝(紀元前二二七七〜前二一七八年の王)の妃だったが、舜帝が没すると悲しんでその川に身を投じて川の神になったという伝説である。楚の詩人屈原はその伝説をモチーフに『湘君』と『湘夫人』と題する対の漢詩を詠み、『湘君』を男性の神として描いて二人の熱い恋慕の情を綴ったのである。
 詩の中で湘君が、
 「かの君を望めどもいまだ(きた)らず、参差(しん し)を吹いて誰をか思う」
 と詠えば、湘夫人は、
 「(げん)()あり、(れい)(らん)あり。公子(こう し)を思いていまだあえて言わず」
 と答え、湘君が、
 「薜茘(へい れい)(はく)(けい)(ちゅう)(そん)(かじ)(らん)(はた)
 と詠えば、湘夫人は、
 「(かつら)(むね)(らん)(たるき)辛夷(しん い)()(やく)(ふさ)
 と答う。そして二人の愛は永遠の時を刻む──。
 式左衛門はぽかんと口を開けて二人を交互に見つめた。
 湘江≠ェ中国の川の名なら、『湘江煙睹方愁絶』は「湘君≠ニ湘夫人≠フ幻を思い描いて憂いを絶つ」と読めるわけだ。つまり直虎は妻との甘い生活を漢詩の文底に隠していることになる。
 急に自分の方が恥ずかしくなってきた式左衛門は居場所を失い、咳ばらいを一つ残して何も言わずにそそくさと公の間を出て行った。
 「なんじゃ? 変な式左衛門じゃなぁ……。それよりなかなか良い詩ではないか。今はこんな目におうておるが、虎さんが栄光を手にして四辺を射るような光り輝く存在になるのももうすぐに違いない。しかし本音を申せば、わらわは毎日虎さんがこうして屋敷におることが嬉しいのじゃ」
 直虎は式左衛門の気配が消えたのを確認すると、急に照れ隠しの表情を浮かべて俊を静かに抱き寄せた──。
 部屋を出た式左衛門が真木万之助とすれ違う。そして「殿は公の間ですか?」と言った万之助の腕を掴んだ。
 「野暮じゃ。今はやめておけ──」
 「なぜでございます?」
 万之助は不思議そうに式左衛門を見つめた。
 「ちんちんかもかもじゃ」
 「ちんちんかもかも……?」
 二人は無言のまま公の間から遠ざかった。
 さて、のろけシーンはこれくらいにして、天狗党の顛末(てん まつ)を先に綴っておくことにする。
 水戸を発った天狗党は、下野、上野、信濃、そして美濃へと中山道を西進した。進路を江戸から京都へと変えたのである。その間田沼意尊(た ぬま おき たか)を追討軍総監とする幕府軍と、下仁田と和田峠で二度に渡って衝突し、いずれも天狗党が勝利をおさめた。
 その堂々たる隊列は、
 『武田耕雲斎は黒葵(くろ あおい)紋付(もん つき)、紫の陣羽織を着、腰に黄金の采配(さい はい)、銀輪の(くら)、鳥の()打ち出しの(かぶと)。金の武田菱(たけ だ びし)の紋付けた()おどしの(よろい)。騎馬武者二〇〇余人、荷駄五〇頭など、見る人の目おどろかざるはなし』
 と語り伝えられるほどで、武田菱(たけ だ びし)≠旗印にしたのは、耕雲斎が武田信玄の子孫≠ニ称していたことに由来する。その仰々しい出で立ちに驚いた小藩の大名たちは、幕府から追討命令が下されているにも関わらず、ただ傍観(ぼう かん)して見送ったり、中には密かに交渉を交わし、城下の通行を避けてもらう代わりに軍用金を差し出した藩もあったと云う。
 武田耕雲斎は非常に慎重だった。そこには深い思慮に基づく尊王攘夷思想が見てとれる。その彼が天狗党の総大将に担ぎ上げられたのが元治元年(一八六四)十月二十五日だから直虎が謹慎している時の少し後である。
 彼の目的は、水戸藩出身の一橋慶喜に直接会って、横浜鎖港の実現とともに幕府が尊王攘夷への方針転換を嘆願することだった。少し前まで慶喜の片腕とまで言われ、厚い信頼を寄せられていると信じる彼は、「話せば必ず解かってくれる」と疑わない。
 「我らの目的は合戦にあらず! 是が非でも京におわす慶喜様にお会いし、この熱き尊攘の思いを伝えようではないか!」
 と、総勢およそ一千数百名に膨らんだ集団を引き連れ、大砲十二門、小銃約四百挺に火薬弾薬を携えて一路京都へと向かった。
 耕雲斎の掲げる『攘夷』とは、列強諸国の言いなりになっていればいずれ日本は骨抜きにされ、やがて植民地化されてしまうという強い怖れから出たものであることは、おそらく心ある者なら理解できたはずだった。直虎の支持する『開国』といっても貿易を武器に列強諸国の仲間入りをすべき≠ニいうのはあくまで希望でしかなく、両者はとるべき方法が異なるだけで、日本の将来を危惧する幕臣としての心は同じであった。
 なるほど耕雲斎のことを知れば知るほど、その曲がった事が嫌いな性格は直虎とよく似ており、その行動は小気味よくさえ感じる。耕雲斎の振る舞いはいちいち実直一筋で、天狗党の行軍には女性も含まれていたと言うから、派手な出で立ちはどうあれ単なる暴動でないのは明白だ。その証拠に、中山道沿いの諸藩のほとんどが抵抗もせずに道を開けたのは、その本意を(おもんぱか)ってのことではなかったか。
 つまり耕雲斎は、ただ純粋に幕府の方針を『尊王攘夷』に改めたいだけで、謀反する気などさらさらない。ただなりゆき上総大将に担ぎ上げられ、なった以上は自分にできることを最後まで貫こうと、死を覚悟で行動していることが直虎には痛いほど理解できた。
 「話せば必ず通じ合うはずだ。討つにはあまりに惜しい人物だ」
 これは直虎が天狗党討伐を拒んだもう一つの大きな理由なのである。
 京都を目前にして天狗党が越前新保宿に入ったのは十二月十一日のこと。
 ところがそこで耕雲斎を待ち受けていたのは、温かく迎え入れてくれると固く信じていた一橋慶喜の天狗党総攻撃の布陣であった。禁裏守衛総督の慶喜はすでに耕雲斎の理解者でなく、水戸の人でもなかった。
 ここに至って絶望した耕雲斎は、
 「これまで軍行して諸藩を動揺させ、実に天下の大法を犯したことを深く反省し、一同降伏いたします。いかようにでも処罰してください」
 と、微塵も弁明することなく斬首される道を選ぶ。その(いさぎよ)さは直虎にとって尊敬に値した。もし天狗党討伐を拒んでいなければ、大番頭たる自分が彼を江戸まで連行する事になっただろう。そう考えると、果てしない世の無常とともに、人の運命の(たえ)なるを感じずにいられない。
 そして元治二年二月四日、武田耕雲斎は六十三年の生涯を閉じる。
 『討つもはた討たれるもはた哀れなり同じ日本の乱れとおもえば』
 後にこの辞世を知った直虎は、耕雲斎の(しかばね)(ほうむ)られた方角に畏敬の眼差しを向け、ねんごろに合掌するのであった──。


 それにしても最近の大関泰次郎(おお ぜき たい じ ろう)は須坂藩邸に入りびたり。
 「結婚などせぬ!」と言い張っていた直虎が突然妻帯したことにひどく感化された様子で、加えてその仲睦(なか むつ)まじい様子を見せつけられては心が動くのも当然だった。ところが、蓮池藩(はすいけはん)鍋島家との縁組話の方は一向に進まない。現代で言うところのマリッジブルーほどデリケートなものでないが、すっかり大人しくなってふらりと遊びに来ては勝手に公の間に入り込み、閉門中の直虎を(さかな)に気のない様子で世間話をしていくのだ。
 「泰次郎はいつも暇そうじゃの?」
 「そう言う兄貴(あにき)もずいぶんと暇そうですねぇ……」
 「わしは仕方なかろう、謹慎中じゃ。どうした? 人生が終わってしまったかのような顔をしているな。婚儀の準備は進んでおるか?」
 「さあ……? 父上が参勤したら早急にという話ですが、いつになるか分かりません……」
 「蓮池藩の姫君の名は(つな)子≠ニ申したか? 良い女か?」
 「別に……千姉(ち づる ねえ)さんほどじゃありません。まだ十三の童女(こども)ですよ、話し相手にもなりません。それに話が決ったっきり延び延びで、もうどうでもよくなってしまいました……」
 泰次郎は大きな欠伸(あくび)と一緒にそう呟いた。
 肥前蓮池藩の鍋島摂津守直与(なお とも)といえば、江戸でも有名な蘭癖(らん ぺき)大名であることは以前にも少し触れた。もっとも今は家督を長男に譲って隠居の身だが、藩主時代は高島秋帆(たか しま しゅう はん)の長男浅五郎を藩に招いて新式大砲を製造させたり、佐賀で蘭学の祖といわれる島本良順(しま もと りょう じゅん)招聘(しょう へい)して自ら西洋の習俗を模倣した生活を送ってみたり、このとき(よわい)六十七歳、その西洋に対する厚い情熱は見習うに値する。それに比べて──、
 今の須坂藩士たちのこの(てい)たらくはなんだ?
 泰次郎の欠伸が伝染でもしたように、生あくびを繰り返す藩邸内の男たちの様子を見まわして直虎は嘆いた。
 「お前たち、することがないなら英語の一つも覚えたらどうか!」
 「そんなこと申しましてもね、殿がお役御免のうえ閉門ときたら、こっちだって働く気もおこりませんよ」
 竹中清之丞が鼻をほじくりながらそうぼやく。
 悔しいが、主君が謹慎とあっては家臣たちも行動を自粛するしかないかと思うと次の言葉が出てこない。そんな中、ひとり文机に向かって筆を走らせるのは祐筆の野平野平(の だいら や へい)である。
 「ほう、お前だけは感心じゃなぁ。何をまとめておる」
 と声をかければ、野平(や へい)はウサギのように飛び跳ねて、慌てて書きかけの書を文机の下に隠した。
 「何を隠した。見せてみよ」
 「いえ……っ」と(かたく)なに拒む様子に泰次郎が寄って来て、
 「野平(の だいら)さん、例のものを書いていたんだね。おいらを登場させてくれたかい?」
 意味が飲み込めない直虎は首を傾げた。
 「例の物とは何じゃ?」
 「草紙(そう し)だよ」と泰次郎。
 「草紙……? 八犬伝とか膝栗毛(ひざ くり げ)とかの読本(よみ ほん)か? 野平(や へい)にはそんな趣味があったのか?」
 野平は顔を真っ赤にして俯いた。
 恥ずかしい話、家臣たちの日常の個人的な趣味などに関しては、いつも自分の家のように藩邸を出入りして藩士たちと無駄話をする泰次郎の方が余程詳しいようだ。
 「いいから見せてみよ」と直虎は強引に書きかけの半紙を取り上げ、
 「堀家十叒士(ほりけじゅうじゃくし)……? なんじゃ、これは?」
 と、書かれた表題を読み上げた。
 「あれ? 前は九叒士(くじゃくし)だったじゃない。一人増えてる……」と泰次郎。
 「泰次郎さんの要望を承り、叒士を一人増やしました」と野平野平(の だいら や へい)は少し得意げに応えた。
 直虎は呆れながら表紙をめくれば、そこに物語の登場人物らしき名が記されている。


殿 内蔵頭(くらのかみ)直虎須高(す こう)藩当主)
奥方 千鶴姫(ち づる ひめ)小県(ちいさがた)藩姫君)
以下叒士
 駒澤式左衛門貞利(こまざわしきざえもんさだとし)(須高藩江戸家老)
 丸山次郎本政(まるやまじろうもともさ)(須高藩国家老)
 小林要右衛門季定(こばやしようえもんすえさだ)(側近)
 真木万之助永保(まきまんのすけながやす)(中老)
 北村方義(きた むら ほう ぎ)(藩校教授)
 柘植角二忠固(つ げ かく じ ただ かた)隠密(おん みつ)
 中野五郎太夫(なか の ご ろう だ ゆう)(家臣)
 竹中清之丞(たけ なか せい の じょう)(家臣)
 野平野平(の だいら や へい)(祐筆)
 大関泰次郎(おお ぜき たい じ ろう)黒茄子(くろ な す)御曹司(おん ぞう し)


 「何じゃこの須高藩だの小県藩というのは?」
 「物語の登場人物にございます。身の回りの方々のお名をお借りしました」
 「そのまんまじゃないか。ちゃっかり作者も登場しておるわい。いったいどんな話じゃ?」
 本来なら野平が話すところを、脇から泰次郎がしゃしゃり出た。
 「須高藩を舞台にした悪霊退治(あく りょう たい じ)の話さ! 小県藩の姫君が悪霊にさらわれて十人の叒士(じゃくし)が力を合わせて救い出すんでしょ?」
 「ま、まあ、そんなところです……」
 「おいらの役回りはどんなんだい? 恰好よく描いて下さいよ!」と調子に乗った泰次郎を挫くように、
 「呆れた奴だ。暇をもてあそんでこんなものを書いていたか!」と直虎は頭を抱えた。
 「面目(めん ぼく)ありません……」
 野平はすまなそうに頭を掻きながら、
 「ところで殿、前から聞こうと思っていたのですが(じゃく)≠ニはいったい何でございます?」
 と真顔で聞いた。
 「題号に叒士≠ニあるではないか。知らずに書いておるのか?」
 「へえ……。殿がよくお使いになる言葉ですので、受け売りにございます」
 「これまた呆れた。自分で調べよ!」
 直虎は「預かっておく」と言って原稿を取り上げてしまうと、よい暇つぶしができたとばかりに公の間に戻った。
 (じゃく)──
 家臣に問われ、直虎はこの漢字をはじめて知った時の事を思い出した。
 それは漢学を必死で学んでいた青春期、亀田鴬谷(かめ だ おう こく)先生の塾に行き、日本に扶桑(ふ そう)≠ニいう別称があるのを知った日のことだった。そのころ父が編纂(へん さん)していた『扶桑名画伝(ふ そう めい が でん)』の意味をはじめて納得したと同時に、
 「扶桑とは叒木(じゃく ぼく)、そして日ノ本(ひ の もと)のことだ」
 と鴬谷先生が教えてくれた。
 叒≠ニいう漢字にはおおよそ次のような意味がある。
 この字は『又』という字を三つ組み合わせたものだが、『又』という字はもともと右手を表す象形文字である。だから『右』という字の原字でもあり、「かばう」とか「(たす)ける」という意味を含む。転じて『友』や『有』の原字ともなり、発展して「さらに」とか「くわえて」の意味が生じ、最終的に「また」の意に用いられるようになったと考えられる。
 この『又』が横に二つ並ぶと『双』になる。
 これは「二つ対の」とか「両方の」とか「二つの」とか、あるいは「並ぶ」とか「並ぶもの」という意味になり、やがて発展して「仲間」という意味にも使われるようになった。さらに中国では『又』が縦にならんだ『又』という古い書き方もあり、こうなると「仲間」とか「友」という意でも上下関係の意味合いが生じてくる。
 そして『又』を三つ組み合わせた『叒』である。
 これはもともとは中国の伝説上の木を指しており、扶桑のことだと考えられている。扶桑とは「桑」を意味するが、本来は中国から見て東の海に存在するとされていた巨木のことであり、古代中国の人たちはこの巨木から太陽が昇ると考えていた。
 世界最古の地理書とされる中国の『山海経(せんがいきょう)』には、
 『下有湯谷、湯谷上有扶桑、十日所浴。在黒歯北、居水中有大木、九日居下枝、一日居上枝。(下に湯谷があり、湯谷の上に扶桑があり、十の太陽が水浴びをする。黒歯国の北にあり、その大木は水中にあって、九つの太陽は下の枝に、一つの太陽が上の枝にある。』
 とあり、この『扶桑』が『叒』である。
 更に中国後漢時代の儒学者であり文字学者の許慎(きょ しん)が著した『説文解字(せつ もん かい じ)』には、
 『日初出東方湯谷、所登扶桑叒木也。(日の初めて東方の湯谷に出で、登る所の扶桑は叒木なり。)』
 とある。
 つまりこの日出ずる国≠ェ日本≠ナあり、古くから扶桑国≠ニ称されてきた所以である。
 同じ『説文解字(せつ もん かい じ)』は「叒」は桑の葉の象形字とされていることから「扶桑」は「桑の木」ともされたのだ。
 また、甲骨文字(中国の古代文字)や金文(青銅器に刻まれた文字)では、『叒』は『若』と同じ字形で、若≠ニの関係もあるとされる。音読みで「ジャク」と読むのはそのためだろう。
 『若』は(ひざまず)いて手を挙げる巫女(み こ)の象形字であり、『叒』は巫女の手や頭の部分を表しているという。そして「若」と通じて「従う」という意味が生まれ、『叒』の訓読みは「ふそう」の他に「したがう」とも読む。
 更に『又』が四つ集まると『叕』という字になる。
 これは紐を綴り連ねたものの象形で「(つづ)る」とか「連ねる」という意味になる。逆に考えると「短い」とか「足りない」という意味が生じ、安定しないというニュアンスが含まれてくる。
 漢字の成り立ちは一画、一文字に深い意味があり、その組み合せによって意味が何倍、何十倍、何百倍にも広がるのだ。『又』が二つ並んだ『双』や『又』が、「二つ」や「並ぶ」あるいは「仲間」という意味なら、四つ並んだ『叕』との間の『叒』は、「安定」とか「調和」「協調」などの意味合いが生まれ、つまり直虎の言うところの叒≠ノは和=A転じて日本≠ニいう意味合いがあり、かつて桜の系譜を描いた書を『叒譜(じゃく ふ)』と名付けたのは、冬を耐えて春咲く桜の花の中に日本≠ニか調和≠ニいったものを見出したためである。
 直虎は野平野平(の だいら や へい)の原稿を広げ、
 「あいつに解かるか?」
 とにんまり微笑んだ。