> (二十一)浮浪の徒、追討令
(二十一)浮浪の徒、追討令
 その日、江戸城内は騒然とした。
 京都で起こったある事件の報道がもたらされたのだ。
 「京都三条の旅籠(はたご)に京都守護職(しゅ ご しょく)配下の治安維持部隊が御用改(ご よう あらた)めに突入し、長州藩をはじめとした尊王攘夷派(そん のう じょう い は)浪士二十数名を一網打尽(いち もう だ じん)にしたが、その()(さま)たるや惨憺(さん たん)たるものだったらしい」
 と、その血なまぐさい様子を伝えた。世にいう新選組による池田屋事件≠ナある。
 京都における攘夷派への取り締まりは江戸の比でない。長州征討がささやかれる中、攘夷派の手による辻斬(つじ ぎ)りなどの暗躍はますますその度を増して、会津藩京都守護職は市内の警備や捜索を一層強化させていた。その折り攘夷派の尻尾(しっぽ)(つか)んだ新選組は、謀反(む ほん)の証拠となる武器や長州藩との書簡を隠す古高俊太郎(ふる たか しゅん た ろう)という商人を捕え拷問(ごう もん)にかけると、
 「祇園祭(ぎ おん さい)前の風の強い日を狙って御所(ご しょ)に火を放ち、混乱に乗じて攘夷派公卿を幽閉し、一橋慶喜や会津藩主松平容保(かたもり)らを暗殺した上、孝明天皇を長州へ連れ去る」
 という驚くべき計画を自白させたのだった。
 長州藩を中心としたその計画の談合が池田屋で行われていることを突き止めた新選組は、六月五日(元治元年)()(こく)(二十二時頃)過ぎ、組長近藤勇(こん どう いさみ)率いる数名が突入し、攘夷派を相手に真夜中の大格闘を始めた。最初多勢に無勢の新選組は危機に陥るが、遅れて駆け付けた副長土方歳三(ひじ かた とし ぞう)部隊の応援で、死闘の末攘夷派の目論見(もく ろ み)を打ち砕く。結果その現場で死者九名、捕縛者四名、翌朝からの捜査を含めて攘夷派二十数名を捕縛して、幕府側でも会津藩五名、彦根藩四名、桑名藩二名という犠牲者を出す大惨事となった。これにより新選組は一躍その名を挙げ、長州藩にとっては(はなは)だしい怨恨(えん こん)を残すことになった。
 昨年十一月の火事で江戸城本丸が焼け落ち、もうじき落成予定の西の丸は現在工事の真っ最中で、先月二十日に京より戻った将軍家茂(いえ もち)は江戸城田安門内の田安邸で政務を執っている。
 以前は昼飯といえば持ってきた弁当を、本丸表御殿と中奥との間に位置した御台所と呼ばれる大広間の一角で食べていた幕府の役人たちは、今は焼け残っている建物を使って昼食をとるより仕方ない。
 「堀殿は今日もパンですか?」
 (いびつ)なパンを片手に沢庵(たく あん)をポリポリやっている直虎の隣に、土佐新田藩主山内豊福(とよ よし)が腰を下ろして弁当を広げた。
 「ほう、そちらは伊達巻卵(だ て まき たまご)にメザシですか? (たけのこ)土佐煮(と さ に)もついておる! よほど典子(かね こ)夫人に愛されているのですなぁ」
 典子というのは豊福の妻の名である。
 「おひとつどうぞ」と、豊福は筍を(はし)でつまんで直虎の沢庵の横に置いた。
 そこへ、
 「なんじゃ内蔵(く ら)さん、今日もパンか?」
 とやって来たのは下手渡(しも て ど)藩主立花種恭(たね ゆき)で、二人の向かいに座ってむすびを食い始めた。
 「(いず)さん≠ヘずいぶん暇そうじゃなあ? こっちはいつ水戸への征討命令が下るかと冷や冷やしているというのに……」
 実は今、江戸の政務は完全に止まっている。というのは、天狗党(てん ぐ とう)の対応をめぐって上層部で意見が対立し合い、老中はじめ若年寄等の主要閣僚が登城を拒否してほとんどいない。ところが若年寄の中でも外国奉行の任を帯びた種恭は、水戸問題に対しては蚊帳(か や)の外で、
 「おかげで横浜鎖港問題も棚上げ状態じゃ。外人さん相手の仕事は暇にもなるさ。それより、京都が騒然としておるようだが、あの話では長州の気がおさまらんだろう?」
 と言いながら直虎の前に置かれていた湯呑のお茶をすすった。
 「長州征討が実行される前に、長州藩の方から京に攻め上って(いくさ)なんてことにはなりますまいか……」
 と危惧(き ぐ)したのは豊福である。種恭は笑いながら、
 「京には天子(てん し)様がおる。それに兵力は歴然だ。いくら長州藩でもそこまで馬鹿ではなかろう」
 と答えた。すると、
 「どうもきな(くさ)い──」
 ぽつんと呟いたのは直虎だった。豊福と種恭は同時にその顔を見つめた。
 「先日は水戸の筑波山(つくばさん)で攘夷派浪士たちが挙兵したと言うだろう? 攘夷派は東西同時挙兵を企てているわけではあるまいか? 命知らずの攘夷派の連中ならやりかねん」
 「ま、まさか……」と、豊福と種恭は顔を見合わせた。もしそんな事にでもなれば、幕府と攘夷派による関ケ原以来の大合戦になりかねない。「そうは思いたくないが」というような顔つきで種恭は言葉を継いだ。
 「実は先日、ドセンデベルクという男が新しくフランス公使になったので、老中の井上様と板倉様たちと出向いて食事を共にしたのだが、帰りが遅くなったから浪士たちには十分気をつけて帰れ≠ニ促したのだ。ところが、彼らは攘夷派の連中などまったく歯牙にもかけとらん。『恐いのは天の思し召しじゃ』と、むしろ日本国内が乱れるのを高見の見物でもするように面白がっておる。混乱に乗じて日本を乗っ取ろうとしているのではないかとさえ思えてしまう」
 実はこのとき既に、昨年五月に起こった長州藩の攘夷戦争(下関戦争)の報復を目的として、イギリス、フランス、オランダ、アメリカによる四ケ国連合が成立していたことをまだ幕府は知らない。
 「それはあり得るな。今は日本国内でいざこざを起こしている時でない。各藩が総力をあげて西洋諸国に匹敵する力をつけなければならない時なのだ」
 直虎は再び沢庵をポリポリとかじった。
 「それで内蔵(く ら)さん≠ヘいつも()きずにパンというわけか。それにしたってパンに沢庵はいかがなものか?」
 「なかなか美味であるぞ──」
 直虎は羽織の裏にこしらえたポッケットの様なところに隠し持っている常備食のパンを二人に差し出し、
 「売るほどありますのでどうぞ」
 と笑う。最初のうちは珍しがって食していた種恭も、さすがに会うたび勧められては飽きてしまうのも無理はない。「遠慮しとくよ」と拒むが、豊福の方は断るのも失礼に思って、
 「今度うちの家内にも作り方を教えて下さい」
 と言って手に取った。
 長州藩の動きも去ることながら、江戸においては水戸の動向の方が深刻だった。
 どこから情報を吸い上げて来るのか、以前に増して柘植角二(つ げ かく じ)との夜の密談が頻繁になり、幕府上層部からの情報と重ね合わせて、水戸の動きは手に取るように掌握できる直虎なのである。
 一連の浮浪(ふ ろう)()(天狗党)の横行に対して幕府の対応が後手後手にまわってしまったのは将軍家茂が江戸不在だったことによる。最初は武田耕雲斎(たけ だ こう うん さい)を使って水戸藩内での収拾を促していた幕府だったが、ついに介在せざるを得ない時を迎えていた。水戸藩主徳川慶篤(よし あつ)が、
 「横浜鎖港(攘夷)を実行しない限り、筑波山に立て(こも)る挙兵勢力は鎮撫(ちん ぶ)できない」
 と主張したため、幕府は政事総裁職にあった川越藩主松平直克(まつ だいら なお かつ)と共に横浜鎖港実行の任を与えたが、老中板倉勝静(いた くら かつ きよ)牧野忠恭(まき の ただ ゆき)たちは関東一円の著しい治安悪化を(ほう)っておけず、江戸に戻った家茂に、
 「すみやかに天狗党を追討すべきです」
 と、鎮圧を優先する進言をしたのである。
 これに呼応する形で水戸藩の諸生党(しょ せい とう)は、約六〇〇の人員を江戸の水戸藩邸に送り藩執行部から攘夷派幹部を駆逐(く ちく)してしまい、江戸にいた武田耕雲斎ほか古参(こ さん)の執政に対して隠居のうえ謹慎を言い渡して耕雲斎を水戸に帰した。
 一方幕府は、浪士らの動きに対して、常陸(ひたち)下野(しもつけ)に高崎藩主大河内輝声(おお こう ち てる な)と笠間藩主牧野貞直(まき の さだ なお)を派遣し、宇都宮、土浦、壬生(み ぶ)結城(ゆう き)下館(しも だて)谷田部(やたべ)足利(あし かが)、川越、下妻(しも つま)、常陸府中の諸藩に藩兵を送り込むよう命じ、ついに六月十四日、水戸諸生党の天狗党追討の要請に応じて、同藩の重鎮市川弘美(ひろ とみ)を陣将とした天狗党討伐軍を組織して、兵を随時江戸から出発させていた。
 時を同じくして水戸からは、前藩主徳川斉昭(なり あき)の遺書を奉じて旧執政達とその士庶が藩論を挽回しようと次々と江戸へ向かって水戸を発ち、ついに心ある藩士たちが大挙して江戸へ向かう大発勢≠ェ沸き起こったのが六月十九日のことだった。
 江戸城では六月頭、登城した政事総裁職の松平直克(なお かつ)が、天狗党追討を主張する板倉勝静(かつ きよ)、酒井忠績(ただ しげ)、諏訪忠誠(ただ まさ)、松平乗謨(のり あきら)ら閣老四人の排除を家茂に迫り登城停止に追い込むが、その翌日、慶篤(よし あつ)が直克を激しく非難したため直克も登城停止となって、主要閣僚が誰も登城しない異例の状態が実に十日あまり続くといった事態に陥っていた。
 やがて閣老の入れ替えによって江戸城はようやく機能を取り戻すが、二十日に行われた御前評議で、松平直克が天狗党討伐に反対したことへの批判や反発が相次ぎ、結局直克は政事総裁職を罷免され、その失脚によってようやく幕府は天狗党鎮圧の方針を固めたという背景がある。
 柘植角二(つ げ かく じ)が、
 「現在天狗党は、下総国(しもうさのくに)小金駅(こがねのえき)東漸寺(とう ぜん じ)に停留中とのこと。武田耕雲斎は浪士らと行動を伴にしている模様です」
 と直虎に告げたのは六月二十二日の事だった。
 「木乃伊(みいら)取りが木乃伊になったか! 耕雲斎め、担ぎ上げられたな……」
 直虎は、友人が事を仕損じたかのようにちっ≠ニ舌打ちをした。
 「彼らの要求は横浜港の即時鎖港です。日光東照宮へ攘夷祈願をしておりますので、あくまで東照権現(とう しょう ごん げん)(徳川家康)様の遺訓を笠に着ておりますが、その武装勢力すでに千数百──」
 「横浜鎖港は勅命(ちょく めい)でもある。完璧な大義名分というわけか……。こりゃそろそろわしも腹をくくらにゃならんな……」
 大番頭(おお ばん がしら)の役どころ、こうなってはいつまでも知らぬ顔をしているわけにいかない。既に直属の上司に当たる老中井上正直(いの うえ なお まさ)からも、「いつ出陣の命が下されるか分からぬ故、国許から兵を集めておけ」と内々に通達を受けていた。
 直虎は要右衛門を呼びつけ、穏やかならぬ口調で、
 「エゲレスからの武器はまだか?」
 と聞いた。
 「いえ、まだ……」
 「ええい、早よせい!」
 「そう申されましてもなぁ……エゲレスまで催促に行くわけにもいきますまい? 旅費だけで武器が買えてしまいますわい」
 要右衛門は悠長に「はははっ」と笑いながら、
 「メリケン国の内戦が終わるのを待つというのも手ですぞ。終結すれば武器など不要の長物、最新式の銃や大砲が二束三文で出回るに違いありませんからな」
 「なに? メリケン国の内戦はいつ終わる?」
 「あと一年、いや──二年くらいかな?」
 「阿呆(あ ほう)、待てるか! 呑気(のん き)に笑っている場合でないぞい、()されてしまうわい」
 直虎の心配が現実となったのは、七月に入って八日目のことだった。一日には『西之丸仮御殿(にし の まる かり ご てん)』が落成し、家茂も田安邸から転居するといった新鮮さと慌ただしさが交じり合う雰囲気の中、江戸城に登って早々、老中御用部屋(ろう じゅう ご よう べ や)に呼び出されたのである。
 ここでこの『西之丸仮御殿(にしのまるかりごてん)』について述べておこう。
 『仮御殿(かり ご てん)』と言うからには一時的な間に合わせとして建設されたからに相違ないだろう。そうでなければ旧来の本丸御殿とは似付かぬ粗末さだったので仮≠フ字が当てられたものか──この建物は本丸・二之丸の南側に位置した西之丸にあり、格式の高い白書院(しろ しょ いん)のかわりに日常の生活が色濃い黒書院(くろ しょ いん)を設けたり、屋根や天井の格式も以前の本丸御殿と比較すればかなり簡略化した構造だった。
 この後、実質的な政務はここで行なわれることになるが、結局、再び手が加えられることは二度となく、江戸無血開城がなされた後皇居となるも、一八七三年(明治六年)の失火により焼失し使命を終えることになる。
 中央で分断された南半分は表≠ニ呼ばれるエリアで、大広間や黒書院、そのほか大名や旗本などの詰所(つめ しょ)があり、北半分は大奥≠ナある。つまり本丸御殿の機能をそのまま備えた、これが幕末末期の江戸城の姿であり、特筆すべきは建物の二階に、諸外国との外交問題を扱う執務室が二部屋並んで存在したことである。
 通常、政務の役人がここに来るには外桜田門(そと さくら だ もん)から入る。この門は西之丸防備のための大きな門で、古くはその辺りを桜田郷(さくらだごう)と呼んでいたことに由来する。江戸城には外≠ニ内≠フ二つの『桜田門』があるが、単に「桜田門」という場合は『外桜田門』の方を指す。大老井伊直弼(い い なお すけ)が暗殺された場所である。もう一方は別称『桔梗門(き きょう もん)』と呼ばれた。
 そこから濠を迂回して『西之丸大手門』をくぐり、さらに『高麗門(こう らい もん)』をくぐり、枡形(ます がた)の造りを右に折れて中仕切の門を通れば右手側に『御書院御門(ご しょ いん ご もん)』が見えた。この門をくぐった場所も枡形になっており、その先が西之丸仮御殿の表玄関だった。
 玄関前の広い敷地は、いざ出陣≠フ際は曲輪(くるわ)の役割を果たしただろう、敷地を囲む土塀の内側には細長い屋根の下何人も座れる長腰掛(なが こし かけ)が据えられ、そこは役人たちや待ち合いの休憩場所にもなったに違いあるまい。
 玄関を入るとすぐ左側には番所があり、正面は『遠侍(とおざむらい)』である。遠侍は主君警護の御徒衆(おかちしゅう)の詰所であり、別名『獅子(し し)の間』と呼ばれるのは、中に牡丹(ぼたん)唐獅子(から じ し)≠フ襖絵(ふすま え)があったからである。その手前を左に幅二間(四メートル弱)ほどの廊下が延びていて、そこを進めば右手側に『御次(お つぎ)』部屋を経て『(とら)の間』がある。そこは来訪者が控える場所で、襖絵には竹に虎≠ェ描かれ、獰猛(どう もう)な虎とその目の鋭いことから、遠方から訪れた者に対して徳川の威厳を植え付ける機能があったという説や、その逆で、虎が竹の中に身を置くのは象などの強敵から身を守るためだから、来訪者に危害を与えないという意志の表われだとする説もあるが、いずれにせよ牡丹に唐獅子≠竍竹に虎≠ヘ梅に(うぐいす)紅葉(もみじ)鹿(しか)%ッ様、取り合わせの優れた芸術題材であり、徳川中枢(ちゅう すう)に据えられた文化感覚のあらわれに違いない。
 その先に進むと主君の伴侍(とも ざむらい)の待機部屋である『蘇鉄(そてつ)の間』と続き、更にその正面には上段、下段、二之間、三之間、四之間(よん の ま)入側(いり がわ)などを備えた広さ四〇〇畳以上もの大広間があった。仮御殿のそれは中段(ちゅう だん)(おく)の間に中門(ちゅう もん)こそないものの、城内で最も広い書院であることには違いなく、焼失した本丸御殿の障壁画(しょう へき が)には、幕府御用絵師狩野探幽(か のう たん ゆう)の手によって、徳川の象徴である松と、そして長寿を象徴する鶴が描かれていた。
 この大広間は、年始御礼や将軍宣下(せん げ)の儀式、あるいは外国人との謁見(えっ けん)など、公的な大きな儀式や行事が執り行われるのに使われる。上段之間に将軍が座し、以下大名の座る場所は格式によって厳格に定められていて、将軍に謁見し単独で新年の祝意を表わすことができたのは侍従(じ じゅう)以上、従四位以上の者に限られた。五位以下の大名と役人は二の間、三の間、四の間に並び、将軍との謁見は、まず将軍が下段之間に立ち、大名、役人一同が一斉に平伏すると、次に襖が開けられた瞬間、揃って挨拶する立礼の儀式≠ェ行なわれる。平伏したままの大名や役人はけっして将軍の姿を見ることができないのが普通だった。
 玄関から大広間を前にして板縁の廊下を左に回り込めば、そこには将軍が出掛ける際の正式玄関御駕籠台(おかごだい)≠ェあった。この僅か後、将軍徳川家茂が長州征討へ出陣する際はここを通る。
 また、右の入側に入って左へ真っすぐ進むと中庭(なかのにわ)≠ノ出る。そこを取り囲むようにして、『(やなぎ)の間』『紅葉(もみじ)の間』『(きく)の間』『(かり)の間』『芙蓉(ふ よう)の間』と順に続き、そして庭を挟んだ向かいに見えるのが『松の大廊下』である。元禄十四年(一七〇一)に起こった浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)吉良上野介(きらこうずけのすけ)斬りつけた傷害事件はあまりに有名だが、これは焼失前の本丸御殿での出来事である。この事件がもとで生まれた赤穂義士(あこ う ぎ し)の『忠臣蔵(ちゅう しん ぐら)』の忠義の物語は江戸時代の人たちに深い共感を与え、この幕末において義士≠ニか志士≠ニか呼ばれる者たちにも多大な影響を与える。
 そしてこの仮御殿の二階中央には『海事方(かいじかた)』という部屋があり、その他『海軍方』や『外国方』や『御目付方(お め つけ がた)外国(がかり)』等の執務室があったのは特筆しておくべきだろう。
 とまれかくも広く部屋数が多いからには、中には部屋を間違えて入ってしまう者もいた。実際間違えて旗本(御目見(お め みえ)以上)から御家人(ご け にん)(御目見以下)へ格下げされたケースもあるほどだ。
 ──直虎は真新しい木の匂いを嗅ぎながら廊下を進んだ。そして老中御用部屋(ろう じゅう ご よう べ や)に入れば、まだ襖絵などには装飾が行き届いていない部屋の中に、水野忠精(ただきよ)、井上河内守(かわちのかみ)正直、牧野忠恭(ただゆき)稲葉正邦(いな ば まさ くに)、阿部正外(まさとう)ら老中と老中格諏訪忠誠(す わ ただ まさ)の面々が顔を並べている。そこに加えて松前(まつまえ)伊豆守崇広(たかひろ)は、つい昨日寺社奉行から老中格兼陸海軍惣奉行(そう ぶ ぎょう)に任じられたばかりの気荒で無骨な男であった。
 これに対して対面に座したのは大番頭(おお ばん がしら)の直虎をはじめ、御書院番頭(ごしょいんばんがしら)織田伊賀守(い がの かみ)御小姓組(こしょうくみ)番頭井上源三郎、御持筒頭(お もち づつ がしら)和田伝右衛門、御手洗鉄砲頭(お て あらい てっ ぽう がしら)土屋駒之丞(こまのじょう)御徒頭(お かち がしら)遠山三郎右衛門、小十人頭(こじゅうにんがしら)竹田日向守(ひゅうがのかみ)等七名で、やがて諏訪忠誠(す わ ただ まさ)が神妙な口ぶりでこう告げた。
 「野州(や しゅう)下野国(しもつけのくに))で浮浪の(やから)が挙兵したことはその方らも存じておろう。閣議(かく ぎ)の結果、その方ら並びに組頭(くみ がしら)にその追討を命ずる。火急に出陣の用意を致せ。なお田沼玄蕃頭(たぬまげんばのかみ)にも出陣を仰せつけたので、諸事差し計って早々に出立し、田沼玄蕃の指示に従え。なおこの話はまた御前(ご ぜん)において上意があろう」
 さあっ≠ニ直虎は血の気が引いて「恐れながら!」と思わず叫んだ。その瞬間、緊張の空気が張り詰めた。
 「なんじゃ内蔵頭(くらのかみ)殿、申してみよ」
 左右の老中たちの顔色を伺いながら「妙な事を言うなよ……」という顔でそう聞いたのは、直属の上司井上正直(いの うえ まさ なお)である。
 「怖れながら申し上げます。私は大番頭(おお ばん がしら)でございます」
 「それがどうした?」
 一も二もなく荒い口調で返したのは松前(まつまえ)崇広(たかひろ)、つい昨日寺社奉行から老中格への昇進を遂げた彼は、一刻も早く手柄を立ててやろうと燃えていた。直虎は崇広に向かって言った。
 「大番頭といえば、東照宮(徳川家康)様以来老中支配のお役にございます。それを田沼玄蕃殿の指示に従えとは徳川幕府の義に(はん)しましょう」
 田沼玄蕃頭意尊(おき たか)は若年寄である。つまり、本来老中支配の大番頭が若年寄の配下に置かれるのは徳川の始祖家康に違背しているという意味で、咄嗟(とっ さ)の思い付きにしては機転の利いた妙案であった。(まと)()た道理に松前崇広が顔を赤くして吠えた。
 「幕府に盾突(たて つ)(やから)が兵を挙げたのだぞ。今は緊急事態、左様に悠長な事を申している場合でない! これは上様(うえ さま)の御上意であるぞ!」
 「幕府に盾突いたと仰せですが、天狗党と呼ばれる野州の浮浪人たちの抑えは武田耕雲斎(たけ だ こう うん さい)殿に委ねたはず。彼は水戸藩なかんずく一橋(ひとつ ばし)公の忠臣と聞き及んでおります。しかも横浜鎖港は天子様のご意思でありましょう。つい先ごろまで幕府のために浪士の輩を鎮めようと奔走していた者が、(にわ)かに反旗を(ひるがえ)すなど考えられません」
 「寝返ったのだ!」
 「いいえ違います! 武田耕雲斎の目的は謀反(む ほん)でなく、単に鎖港問題を話し合いたいだけです。そのことは上様もご存知のはず」
 「奴らは武装した上に、すでに資金調達のためあちこちで強盗沙汰を働いておる! これを反逆と言わずに何と申すか!」
 「でなくば、挑発だとしたらいかがしょう! こちらが下手に兵を動かせば、必ず一人二人の流血だけでは済みませんぞ。そうでなくとも攘夷派の連中は京都の一件でいきり立っております。よもや長州を刺激して東西同時挙兵の事態に陥れば、それこそ日本国内だけの問題ではありません。その隙に乗じて西洋諸国に油揚げをさらわれます! 陸海軍惣奉行を兼ねておられる伊豆守様がかような未来予測ができぬとは思われませんな?」
 「一言余計だったか──」と直虎は己の軽い口を今更のように後悔した。
 崇広は突然大声で笑い出した。
 「内蔵頭(くらのかみ)は怖じ気づいたのだ! 老中諸君、こんな腰抜けに天狗党討伐など任せられません。大番頭なら他にもおる。こいつは即刻罷免(ひ めん)ですなぁ」
 「まあまあ」と井上がなだめたが、鼻息を荒げた崇広(たかひろ)は「やってられん!」とそっぽを向いてしまった。
 「しかし内蔵頭殿の意見にも一理ありますぞ」
 と助け舟を出すように井上が続けた。彼は外国御用取扱(ご よう とり あつかい)として諸外国の要人たちとの面識も広く、イギリスをはじめフランス、アメリカ、ロシアの四ヶ国の動きをよく掌握している。それによれば、「昨年起こった長州藩による攘夷戦争の報復攻撃をするため既に同盟を結んでいる」という噂があると説き、直虎の意見を尊重しつつ、
 「しかしさすがの長州藩も幕府に(にら)まれた上、四ヶ国に囲まれたら身動きが取れないだろう。東西同時挙兵などありえん」
 と楽観して言った。なるほど海外通の井上の予測は的確で、直虎も納得せざるを得ない。
 「では、内蔵頭殿の沙汰(さ た)は追って協議するとして、他に異存のない者はさがれ」
 と諏訪忠誠が場をつないだ。集められた者たちは直虎を残して部屋を出て行き、やがて老中たちも井上を残して控え部屋へと戻って行った。
 部屋に残された直虎を見つめ、やがて井上は静かに話し始めた。
 「(ほり)さん、なぜ(こば)んだのか?」
 そういえば、いつからだったか最近、井上が直虎のことを堀さん≠ニ呼ぶようになった事に内心首を傾げた。なにやら身内に対する温かさを感じるのだ。
 「申し訳ございません。井上様の面目(めん もく)を潰してしまいました……」
 「そんなことは聞いておらんのです。なぜ拒んだかと聞いているのじゃ」
 直虎は直属の上司の悲しそうな顔付きに、不知恩(ふ ち おん)の部下だと自分を責めた。
 「国許(くに もと)からの兵の人足(にん そく)が間に合いません……」
 「かような事になるかも知れぬからと、ひと月も前に打診しておいたはずではないか……?」
 そうだ、彼が堀さん≠ニ呼ぶようになったのはその時からだと思いながら、
 「それでも間に合いませんでした」
 直虎は(ひたい)を畳にこすりつけて謝罪した。
 「何か別の理由がありそうですね? 申して下さい」
 直虎は観念した。単なる仕事上の上司とはいえ、これ以上本当のことを隠すのは人の道に外れると感じた。
 「実はいま、当家は武装できません。(よろい)もなければ、火縄銃(ひ なわ じゅう)も刀も(やり)もございません。西洋の武器を買うため全て売り払ったのですが、肝心の武器弾薬がいまだエゲレスから届かないのであります」
 井上は俄かに笑い出した。
 「そんなもんもっと早くに相談してくれれば、我が浜松藩からいくらでも貸してやる。今からでも遅くありません。出陣してくれますな?」
 「そ、それは……できかねます──」
 「何故か?」
 「無駄な血は見たくないのでございます」
 これが直虎の本心である。
 「そんなことを申しても(いくさ)になれば武士ならば戦わねばなりますまい」
 「戦わぬ武士の道もございましょう……」
 「戦う必要がないなら、なぜ西洋の武器を欲しがるか?」
 「西洋諸国と同等の力をつけるためでございます。いま日本は内乱を起こしている時でなく、諸藩一丸となって列強諸国と肩を並べる力をつける時だと信じております」
 「お(ぬし)の言い分はわしとて理解できる。しかしそれには時間もかかろう。水戸浪士が結集して幕府の脅威になりつつある現実は緊急を要す。もし堀さんが言うように東西同時挙兵が誠のものになったとしても、それでも戦わぬおつもりか?」
 「そのときは──命を賭して戦を喰い止めまする!」
 口からの出まかせか、あるいは本心か、それは彼自身にも分からなかった。しかしそれが反射的に漏れた言葉であることには違いなかった。
 「どうやって?」と言おうとした井上は、真っ直ぐな直虎の視線に押さえつけられて、その言葉をためらった。
 「仕方ありません。堀さんの後任はすぐにでも決まるでしょう。追って御沙汰も(くだ)りましょう。こんな言い方はしたくありませんが、首を洗ってお待ちください……」
 井上は口惜しそうにそう言い残して御用部屋を出たが、直虎を擁護(よう ご)した(とが)で、その日のうちに老中および兼務していた外国御用取扱を罷免されたことを直虎は知らない。


 江戸城でのこの一部始終を聞いて須坂藩邸は上を下への大混乱に陥った。
 「幕命を()るとは何事か!」と直格(なお ただ)が上屋敷に怒鳴り込んで来たり、「お家御断絶になったらどうしましょ!」と母の静は泣き臥せってしまったり、要右衛門などは「ご切腹の沙汰が下されるかもしれん」といらぬ事を言うものだから、家臣一同意気消沈して、中には「拙者(せっ しゃ)も腹を切る!」と慟哭(どう こく)する者まで現れる始末。
 「そうはならぬ、心配するな。井上様がなんとかしてくれるから」
 と、強がっては見せるものの、内心一番心配なのは沙汰が出るまで謹慎を申しつけられた当の本人なのだ。あのとき井上正直に「本当に東西同時挙兵が現実になったらどうする?」と問われ、「命を賭して戦を喰い止める」と答えた己の言葉が真実かそうでないかも判断できないまま、あのとき直虎の目力を見た井上の言葉の詰まった本意が、自分に良い働きをするのを信じるしかない。
 そうして幕府からの沙汰を持って井上が須坂藩邸にやって来たのは、天狗党征伐を拒んでから四日後の七月十三日の事だった。彼を藩邸内に迎え入れたのは直虎でも式左衛門でもなく、奥からつつつと姿を現した(しゅん)で、いきなり初対面とは思えない口調で、
 「そちが井上正直か?」
 と馴れ馴れしく言った。これには直虎も顔を蒼白にし、「コレ、口を慎みなさい」と叱って井上に頭を下げたが、俊はおかまいなしに、
 「(よし)≠ヘ達者か?」
 と、旧知の親しみようで満面の笑みを作った。ところが井上の方も「もしや?」と思い出したふうに威厳な態度を翻し、
 「あらまっ、貴方(あなた)俊姉様(しゅん ねえ さま)!」
 呆気(あっ け)にとられた直虎は、二人の顔を交互に見つめた。
 聞けば芳≠ニは井上のところに嫁いだ俊の実の妹であることを知ってびっくり仰天。俊に妹があるのは知っていたが、まさか井上の家内とは初耳で、実に世間とは狭いものである。
 それはさておき、(こう)()に入った二人は神妙な顔付で対座した。
 「野州討伐の堀さんの替わりは、もう一人の大番頭、旗本の神保山城守(じん ぼ やま しろの かみ)殿が勤めることになった。堀さんへの沙汰はその書状に記されているとおりです」
 直虎は沙汰状を受け取り、恐る恐る広げた。
 『右の者、異見あるにより五十日間の差控(さしひかえ)に処す──』
 直虎は破裂しそうな風船の空気がごく小さな穴から漏れて(しぼ)むるように肩を崩した。
 差控(さし ひかえ)≠ニは謹慎のことだが、五十日と期限がついているということは閉門(へい もん)≠ナある。屋敷の門や窓を閉ざし、その間、屋敷からの出入りが一切禁じられる罰則である。ともすれば切腹あるいは最悪お家断絶も頭をよぎった心配に比べれば嘘のように軽い沙汰ではある。
 「こ、これだけですか……?」
 「不服か?」
 「め、滅相もございません──」
 「堀さんの異見を容認する向きもあったが、私は昨日付でお役御免だ。この書状を届けるのが老中として最後の務めということになるかな……」
 「ええっ!」と直虎の両目が俄かに潤む。
 「おっと勘違いなさるな。堀さんをかばったのは私だけでない。立花さんや、そうそう小笠原長行(お がさ わら なが みち)様も陰でいろいろ手を尽くしてくれたのです。私は単に用無しというわけだ」
 そうは言ったが、真相は細君の姉の旦那を(かば)おうと、捨て身で折衝してくれたに相違ない。でなければ幕府命令を断っておいて五十日間の閉門などという軽い罪で許されるはずがない。なんだかんだ言ってもこの世は人と人との思いやりとかばい合いで成り立っている側面もあるものか──、「この御恩は決して忘れぬ」と眼に溢れそうな涙を浮かべて誓う直虎である。
 そのとき、(ふすま)の外から直虎を呼ぶ要右衛門の声がした。
 「ご来客中だ、後にせい!」
 「火急の知らせなれば」
 「何事じゃ?」
 と襖が開いて、井上に気遣いながら入って来た要右衛門から手渡された書き付けを読んだ直虎は、次の瞬間表情を硬直させた。
 「どうされた? なにか悪い知らせか?」
 「は、はあ……京都にて佐久間象山(さ く ま しょう ざん)先生が何者かに刺殺されたと──」
 「な、なんと! 佐久間象山とは松代藩のあの佐久間象山か?」
 それはまさに青天の霹靂(へき れき)だった。
 象山が、京都にいる一橋慶喜に招かれ松代を発ったのはこの年の三月。上洛して公武合体≠ニ開国≠説いて歩いたが、蟄居(ちっ きょ)を解かれて間もない彼は、怒涛(ど とう)の如く流れる時の情勢にあまりに無頓着(む とん ちゃく)だったと言わざるを得ない。それとも過剰な自己過信が(たた)ったか? 移動するのに供も連れずにいたとも言われ、七月十一日、三条木屋町(き や まち)で尊王攘夷派浪士の手にかかって暗殺された。享年五十四歳──それは学術の一大巨人によって推進されてきた一つの時代の終焉(しゅう えん)を告げるものでもあった。
 そればかりでない。さらにこれより六日後の七月十九日には、直虎たちが恐れていたことが現実となる。長州藩が京都に攻め入り、京の都を灰燼(かい じん)にした世に言う禁門(きん もん)(へん)≠ェ勃発(ぼっ ぱつ)するのである。
 幕府はついに長州征討≠布告した。