雷神の門 大運動会
> 第1章 > 妖艶ようえんふくろうやみ
妖艶ようえんふくろうやみ
 さて、末蔵が吉兆屋に着いたとき、小太郎は二階の座敷で高鼾たかいびきをかいていた。
 「小太郎!光悦に会ってきたぞ!」
 小太郎は「そうか……」と言ったきり寝返りを打った。忍びは熟睡はしない。いや、半分の脳はすっかり熟睡していても、もう半分の脳は絶えず周囲を警戒しながら気配を感じとっている。だから今の小太郎も、半分の脳でいびきをかき、もう半分の脳で末蔵と会話をするといった特技ができる。
 「俺は今から、長次郎という聚楽焼じゅらくやき窯元かまもとで修行をすることにした。お前はどうする?身の振り方は決まったか?」
 と、末蔵は少し興奮気味に話を続けた。
 「そう簡単に決まるわけがなかろう……」
 小太郎は寝言でそう答えた。口の中で唾液だえきを転がす「むにゃ、むにゃ」という音が寝言であることを物語っていた。
 「どうする?俺といっしょに行くか?」
 「むにゃ……、阿呆あほう、わしに泥んこいじりをしろと言うのか……?むにゃむにゃ……」
 「ならばこれにて暫しのお別れじゃ。俺は東山の清水寺の近くにおる。用があったら長次郎という焼き物職人を尋ねてこい。じゃあな!」
 「あいよ……。むにゃ……。おお、そういえば才之進に会ったぞ……」
 「服部才之進か?どこじゃ?」
 「今晩、大坂に行くと言っとったから、まだそのへんにおるじゃろ……?」
 「そうか!生きておったか!」
 末蔵は同郷の友の生存にすっかり喜んで、そのまま部屋をとび出した。
 「まったくせっかちな奴じゃ……」と、小太郎は目を覚まして上半身を起こすと、異常にのどが渇いていることに気付いた。すると手の届くところに茶瓶ちゃびんがあったので無造作に取って、注ぎ口をくわえようとしたところが、ふと、末蔵の手荷物の風呂敷包みの隙間に、ほどよい素焼きの茶碗を見つけた。
 「おや?光悦大先生殿の手土産かな?」
 小太郎はそれを取り出して水を数杯ついで、がぶがぶと喉に流し込んだ。そこへ「すでに大坂に発ったそうじゃ」と言いながら戻って来た末蔵は、「じゃあな小太郎、俺はいくぞ!」とせわしなく飛び出して行った。
 「ったく、いつからあんなにせっかちになったんじゃ……」
 と、手元の素焼きの茶碗に気付いた小太郎は、
 「おい!忘れものじゃ!」
 と叫んだが、末蔵はすでに吉兆屋を出た後だった。追いかけるのも面倒に思った小太郎は、「また届ければいいか……」と、さして気にする様子もなく、茶碗を枕元に置いて再び高鼾をかきはじめた。
 すっかり夜も更けて、ようやく目を覚ました小太郎は、吉兆屋の店内で大根と小魚の煮物を食いながら、何気なく三条通りを行きかう町人や旅人の様子を眺めていた。陽も暮れたというのに、人通りが多いことに驚いていると、そこに酒の入った銚子ちょうしを持ってきたまかないの女が、
 「お代はきっちり払っておくれよ」
 と言いながら、やや乱暴に小太郎の前に置いた。
 「それが仕官のない惨めな浪人様に言う言葉かい?伊賀者同士、困っている時は助けあうものだろう?」
 「それと扶持ぶち代とは別さ。こっちだって商売なんだからね!」
 女の名をお銀といった。もっともくの一としての俗称もあり、そちらの方は空蝉うつせみといった。小太郎がここ吉兆屋に来て初めて声をかけたのが彼女で、地獄耳の空蝉といえば京界隈かいわいで活動する忍びで知らない者はないほど京の情報に精通している。男勝りの口を聞くが、すっかり幼さも抜けた女盛りの年代で、今朝方突然訪れた十ほども若い小太郎とはすぐに冗談も通じ合うほど馬が合った。
 「おや?変わった趣味の湯のみだね?」
 お銀は手酌で酒を注ぐ素焼きの茶碗を見て言った。
 「わしの連れのモンじゃ。清水寺の長次郎とかいう窯元の所に届けにゃならん。知ってるか?」
 「長次郎っていえば聚楽第専属の陶器職人だよ。あんたの連れってさっき来た末蔵とかいう男だろ?長次郎んとこで働くとは、まったくうまいことやったもんだね!」
 「そんなに有名なのか?」
 「有名もなにも元々はかわら職人の棟梁とうりょうさ。なんでも秀吉が聚楽第の屋根瓦を見てさ、『この瓦と同じ茶器を揃えたい』なんて言ったもんだから千利休せんのりきゅうが張り切っちゃってさ、その長次郎さんに頼んで屋根瓦と同じ土で茶碗を作らせたって噂だよ。今じゃ天下御免の秀吉お抱えの流行作家さ!」
 と、そのときふいに小太郎が勢いよく立ち上がった。
 「なにもそんなに驚くことはないじゃないかい?」
 「お銀さん、ちょっと出てくる!」
 見れば小太郎の顔は紅潮している。そのまま太刀を腰にさして出ようとしたところを、
 「小太郎ちゃん、忘れ物だよ!相棒んとこ持ってくんだろ?」
 と、飲み残しの酒を一口にふくんだお銀は、そのまま素焼きの茶碗を投げた。小太郎はそれを受け取ると、懐にしまいこんで吉兆屋を飛び出した。
 「なんだい、慌ててさ!」とお銀は、走る小太郎の先を歩く女の旅姿を見つけてにやりと微笑んだ。
 小太郎の目に狂いがなければ、それは贄川にえかわの宿で出会った菖蒲あやめに違いない。二人の旅姿の男と連れ立って、女の旅装束姿が吉兆屋の前を通り過ぎたとき、小太郎の目に飛び込んだその女の気配には、贄川で見た冷たい殺気と同じものが隠されていた。小太郎は気配を消して一行の後をつけた。
 ところが闇が深まりふくろうき声が聞こえ始めたというのに、一行の歩みは止まらない。やがて九条の東寺をつっきると、羅城門をくぐって西国街道を進み始めた。
 「こりゃ大阪まで行く気かな……?」
 そう思った時、梟の声が俄かにやんだかと思うと、小太郎めがけて数羽の黒い小鳥が襲い掛かった。すかさず腰の剣を引き抜いた小太郎はその鳥を払いのけると、闇の中にいくつかの火花が散ると同時に、甲高い鉄がはじける音が響いた。それは鳥ではなく、手裏剣、あるいはクナイに相違なかった。
 「お主、三条あたりから我らをつけているようだが、何用か?」
 気付いた時には小太郎の背後に一人と、前方には菖蒲あやめを護衛する恰好の一人の男に取り囲まれていた。
 「旅の宿で出会ったその御嬢さんに、ちと御挨拶でもしようと思って後を付け申した。そっちこそいきなり武器を投げつけてくるとは物騒な挨拶じゃないか!」
 護衛する男が「お知り合いですか?」と菖蒲あやめに聞いた。
 「知らぬ。れ」
 表情ひとつ変えない冷酷な菖蒲の言葉に、男は小太郎の背後のもう一人に「やれ!」と目で合図すると、二人の男はほぼ同時に小太郎に斬りかかったが、一瞬消えたかに見えた小太郎は、またたくまに彼らの延髄えんずいに一太刀あびせて、後は剣を納めて菖蒲の正面に立って笑った。
 「こんな腑抜けた護衛では心もとなかろう。どうじゃ、わしを雇わんか?」
 菖蒲はその小太郎の笑みを少し驚いた表情で睨んだ。少なくとも今やられた二人の男は、甲賀でも腕の立つ忍びの者だったはずなのだ。
 「なあに心配はいらん。峰で打っただけじゃ。二、三日もすればひょっこり目を覚ますさ。わしは目的のない殺しはせん」
 「何ゆえ私をつけていた?」
 一度、贄川でも聞いたその声と、透き通るような肌の容姿は、やはり女神のように美しく小太郎の目に映った。
 「理由などない。お主が気になって後をつけただけじゃ」
 「伊賀者の言葉は信用できぬ」
 「それより菖蒲殿あやめどのひとりになってしまわれたぞ。大坂へはまだ遠い。わしを護衛に雇え。こんな夜中に女一人では山賊に襲われる……」
 そのとき菖蒲の表情に、ある種のひらめきが起こった微妙な変化を、小太郎はけっして見逃さなかった。それは小太郎をあやめるための算段ができたことを示す変化だと直感した。
 しばらく何も答えなかった菖蒲は、やがて「分りました、雇いましょう。で、いくら欲しいのか?」と聞いた。
 「わしは女からは金は取らん」
 商談が成立したところで、菖蒲は気絶している二人の男に近寄って「大丈夫ですか?」と声をかけた。
 「無駄じゃ、ほおっておけ。そのうち勝手に目を覚ます」
 こうして菖蒲と小太郎の二人は、会話もなく再び西国街道を歩き始めたが、東寺を出て最初の山崎宿まではまだ距離がある。おまけに少し進んだところで、行く手を桂川かつらがわがさえぎっていた。
 「菖蒲殿、こんな夜更けでは渡し舟は出ませんぞ。そのへんの民家で宿をとりましょう」
 幸いそこには渡し舟の待ち合い所と、周辺には一、二軒の茶屋を営む民家がある。小太郎はそのひとつの玄関の戸を叩くと、
 「すまぬ!旅の者じゃ!一晩の宿を貸していただけぬか!」
 と叫んだ。中から出てきたのは一人の老婆ろうばで、二人の姿恰好をじろじろ見つめると、不審そうに「どこの者じゃ?」と言った。
 「伊賀じゃ。実は駆け落ちして逃げておる」
 と、小太郎は口から出まかせの言葉に、菖蒲あやめを恋人にしてしまった図々ずうずうしさに内心笑いながら、贄川の宿であの赤猿も同じような事を言っていたことを思い出した。菖蒲には、嘘でも自分の嫁にしてしまいたいほど男の心をそそる怪しい美しさがあるのだ。
 老婆は「ふ〜ん、駆け落ちかい?」と、ぶつぶつ言いながら二人を家の中に招き入れた。それでも気をきかせて四畳半ほどの小さな部屋に二人を案内すると、行燈あんどんを点し火鉢に火を入れ「めしはまだだろう。あまり物しかないが持ってきてやるよ。風呂も奥にあるから勝手に使いな」と、旅人の扱いにはずいぶん慣れている様子だった。
 やがて老婆は部屋を出て行ったが、菖蒲はいっこうに口を聞こうとしない。小太郎は呆れて、しばらくは菖蒲に背を向けて手枕で寝転がっていたが、やがて老婆が大根の入ったかゆのような食事を茶碗に入れて持ってきた。
 「こんなもんしかないが食べなさい―――。まあ、若いうちはいろいろあるからね。あたしだって今はこんなババアになってしまったが、昔は色ごとの一つや二つ、あったものさ」
 老婆は本当に二人が駆け落ちした者同士と思い込んでいる様子だった。
 「ほう……、面白そうだね。ひとつ、聞かせてください」
 悪乗りを始めた小太郎の言葉に、
 「あの……」
 と菖蒲あやめがさえぎった。
 「先にお風呂をいただけませんか?」
 「そうかい、先にお風呂かい。まあ、今晩はゆっくり休みなさい」
 と、老婆は菖蒲を風呂に案内しようと一緒に部屋を出て行った。
 狭い部屋に一人残された小太郎は、大根粥を腹にかき込むと、ものの数分もしないうちに寝てしまった。まったくこの男、よく眠れるものである。つい夕刻まで吉兆屋で寝ていたはずだが、半日も経たずに、もう高鼾をかいている。小太郎いわく、これを寝だめの術≠ニいうらしいが、休める時に休むというのが幼少からのくせらしい。しかも片側の脳だけ熟睡して、もう片方の脳は周囲の殺気を常に意識している。
 どこかで啼いている梟の声に心奪われていると、やがて部屋の襖がサーッと開く音がした。次の瞬間、小太郎の嗅覚きゅうかくをついたのは、怪しい妖艶な麝香じゃこうの香りだった。小太郎は背中で菖蒲が戻ってきたことを知った。荷物の中からくしと鏡でも取り出したのだろう、やがて髪を整えはじめる気配を読み取ったが、髪に櫛を通すたび、その身体から香る甘い匂いは、ほのかな風に乗って小太郎の欲情を刺激する。
 髪に櫛を通す音と麝香じゃこうの薫り、そしてかすかな息づかいとたまに物と物とが触れる音―――。しばらくは官能的な空間の中で股間こかんをむずむずさせていた小太郎だったが、彼女が小さなせきをした拍子にたまらずひょいと跳ね起きた。
 「はよ、めしを食え。すっかり冷めてしまったぞ」
 と、菖蒲に視線を移したところが、視覚に飛び込んできたのは、うなじから肩にえりを落とし、いま少しで乳房が見えんばかりの妖艶な女の姿だった。
 菖蒲は「はっ!」としたように襟元を整え、次にあらわになっていた白い足のふくらはぎをすそで隠した。
 「す、すまぬ……」
 小太郎は慌てて顔をそむけて背を向けた。
 「いいえ……」
 菖蒲は正座をしなおして、再び髪に櫛を通しはじめた。
 それにしても狭い部屋なのだ。二人とも背を向けて座っている形になっているが、その間隔はたたみ一畳分もない。小太郎にしてみれば、彼女を抱こうと思えば雑作もない距離である。ところが話すに言葉もみつからない小太郎は、
 「わしゃ寝るぞ!」
 と言って、再び横になった。とはいえ贄川の宿で出会った一目惚れの女が、今はすぐ近くにいるのである。寝つこうにも寝つけるはずがない。
 しばらくして、菖蒲は髪結いを終えたようだった。ところが、次に彼女がとった行動は、それまでの彼女とはまるで別人の、男にしてみれば性本能が願っていたとおりの事だった。突然、小太郎の背中にすりよせるように身体を横たえたかと思うと、菖蒲はその柔らかい女の手を、男の襟から胸へと忍ばせてきたのである。更にはその男の首筋に、かすれた声のような甘い吐息といきを吹きかけ、その小さな気流の乱れは、小太郎の嗅覚をかすめた。
 「抱いてください……」
 と、確かに菖蒲はそう言った。そして、小太郎の身体を静かに仰向けにすると、彼のはだけた胸にその美しい顔をうずめた。
 強い麝香じゃこうの匂いは思考力を麻痺させ、目前には美しい女体があった。そして軟らかい肉体の感触は、もはや理性の支配するところではなくなり、小太郎はおもむろにその身体を抱き寄せた―――。
 「菖蒲殿あやめどの……」
 小太郎は彼女を優しく抱きながら、
 「お主、まだ男をったことがないな……」
 と、ふいにケラケラと笑い出した。
 「やめじゃ、やめじゃ!ヘタな芝居はこれまでにしよう!」
 途端、豹変ひょうへんした菖蒲あやめは、着物の内側に隠したはずの物をしきりに探し始めて戸惑った。
 「合口あいくちならここにあるぞ」
 見れば小太郎の右手に、先ほど身体にひそめ隠したはずの短刀がかざされている。「いつのまに?」との表情を隠し切れず、菖蒲あやめは観念したように顔をそむけた。
 「わしを殺しそこねたか?残念だが、そなたの腕ではわしは殺せん。第一、その惚れ薬はなんじゃ?そんな匂いをプンプンさせて部屋に入ってきたら、何かしようとしている下心が見え見えだ。それどころか、薬の成分まで相手に教えているのじゃ。麝香じゃこうは良いが、中にはちみつ芥子けしの実を混ぜているだろう。蜜は惚れ薬に使われ、芥子は意識を麻痺させる。そんなものが混じっていれば誰でも警戒するさ。男を落とすなら、もうちと控えめにせにゃ。それに、今の今までほとんど口を聞かなかった女が、いきなり『抱いて』はなかろう。猿芝居もここまで真面目に演じられたのでは、わしもどう対応してよいか迷ったぞ」
 相手が小太郎でなければ必ず仕留めていたに違いない。現に菖蒲は香水や惚れ薬など使わなくても、男を惑わせるには十分すぎる容姿をしていた。それは彼女にも自信があったし、小太郎もそう思っていたに違いない。ただ、相手が悪かった―――、菖蒲は悔しそうにしたまま動かなかった。
 「なぜ、まだ敵か味方か分らん者を殺そうとする?赤猿のとき然り、先ほどの二人の甲賀者しかり、そして今の菖蒲殿しかり。三たびも命を取り損ねてさぞ悔しかろうが、わしは殺すには惜しい忍びじゃ。味方につければきっと大きな仕事をいたしますぞ。その方がそなたにとっても得だと思うがの?」
 小太郎の言葉に、菖蒲あやめは荒い口調で言い返す。
 「密談を聞かれたからには排除するしかございますまい。我ら甲賀者は、もともと伊賀者が嫌いなのでございます。それとも忠誠を誓い、私どもと行動を共にすることができるとでも言うのですか?」
 「忠誠……?誰にじゃ?」
 「それは申せません」
 「海のものとも山のものとも分らぬ者に忠誠など誓えん。だが……」
 菖蒲は小太郎を見つめた。
 「菖蒲殿になら誓ってもよい」
 「なぜ命を取ろうとした私に、忠誠など誓えましょうか?」
 「惚れたからよ―――。いかんか?」
 「…………」
 小太郎は妙な成り行きになっていることを感じながら、先ほど彼女から取り上げた合口のさやを引き抜くと、やいばを自分の方へ向けて菖蒲あやめに持たせた。
 「さあ、殺したければ殺すがよい」
 菖蒲は小さく震えながら小太郎を睨みつけた。いま合口を突き出せば、先ほど仕損じた伊賀者の命を、いとも簡単に奪うことができるのだ。が、しばらくすると、菖蒲は力なく腕を降ろした。
 「大坂までは私の護衛をする契約です。殺すのはその後にいたしましょう……」
 菖蒲は乱れた着物を整えると、やがて背を向けて横になり、間もなく小さな寝息をたてはじめると、遠くで啼くふくろうの声が聞こえた。
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