雷神の門 大運動会
> 第1章 > 本阿弥光悦
本阿弥光悦
 当時本阿弥光悦ほんあみこうえつは、一条戻橋あたりに居を構え、足利尊氏の時代から代々続く刀剣の鑑定や研磨けんま浄拭しょくじょうを業とする『ほんなみ』という店を父光二と一緒に営んでいた。当時二十九歳の青年ではあったが、父の仕事柄、幼少の頃から工芸万般に接する機会に恵まれたためか、今ではその眼力は父をも凌ぎ日本一だと専らの評判で、当代随一の目利きであり、また芸術家であり、現代的にいえば文化コンサルタントともいうべき青年実業家として名を馳せていた。
 刀剣を扱う店にして芸術とは少し異な気もするが、刀にはさやつばなどのように刀身以外の部分に使われる部品があり、その製作工程には木工や金工をはじめ、漆工、皮細工など様々な工芸技術とも密接につながっている。それに関連して今では漆器や陶器や磁器、また蒔絵まきえや染織や螺鈿らでんなど、仕事の巾は刀剣関連ばかりにとどまらず、様々な工芸芸術にも関わるようになっていた。光悦の芸術的眼力はそうした仕事を通して培われたものに違いなく、幅広い職人や文化人との交流の中で、自らも和歌を詠み、書を書き、漆器や陶器までも手掛けるアーティストでもあった。
 末蔵がそんな彼の居場所を探すのに雑作もなかった。街中で一人、二人に声をかければ、
 「光悦先生なら一条戻橋のほんなみ≠ニいう店におる」
 と、口をそろえたように教えてくれる。そのたび末蔵の鼓動は高鳴った。
 さて、ちょうどそのころ光悦は、自分の書斎に閉じこもったまま、墨をすり、真剣な表情でひとつの書物の書写をしていた。それは本阿弥家の菩提寺ぼだいじである本法寺の住職日通に依頼されたもので、光悦はその内容に読み入り、深い思索をしているようでもあった。
 もともと菩提寺の本法寺は、鎌倉時代の日蓮に淵源を求める法華経寺系の日蓮宗の寺で、開祖である日親が永享八年(一四三六)に建立した。法華経寺とは、日蓮の檀徒のひとり富木常忍ときじょうにんから派生した寺である。
 日蓮が時の権力者北条時頼に、自らの書である『立正安国論』を提出し国主諫暁こくしゅかんぎょうしたことに習い、本法寺の開祖日親もまた、時の将軍足利義教に「立正安国論」を献じ諫言かんげんした。ところがこれが将軍の忌諱きいに触れるところとなり、日蓮が打ち首を免れ佐渡へ流罪されたが如くに、二度に渡る投獄と、焼鍋を頭にかぶせられ、更には寺までも焼き払われるという大きな難に遭う。しかし嘉吉の乱で義教が死ぬと赦免され、その精神が時の天皇の感銘を得ることとなり、四条高倉辺りに本堂が再建された。その後、幾度かの移転をした末、天文年間には一条戻橋、現在の晴明神社あたりに移転されていた。
 本阿弥家と本法寺との縁は深く、その関係は寺を創建した日親の時代にまでさかのぼる。それは光悦の曾祖父に当たる本阿弥清信が、今の店を経営していた時の話である。
 当時清信は将軍足利義教に仕えていた。ところが、鑑定を誤ったか刀の研ぎが甘かったか理由は定かでないが、ある日、将軍の怒りに触れるという一家において重大な事件が起こった。清信は投獄されてしまうが、その獄舎で出会ったのが日親だった。
 清信は日親に身の上を話すうち、日親が語る日蓮の教えに深く感動し、やがて赦免されて出獄したあかつきに、日蓮の教えに帰依して本光という法名を授かった。以来本阿弥家はその信徒となって現在に至っている。
 そんな家で育った光悦も、日蓮のことを親しみを込めて日蓮御坊にちれんごぼう≠ニ呼ぶほどの熱心な信徒であった。寺から頼まれ事があると、いつも喜んでその仕事に打ち込んだ。つい最近にもこんなことがあった。秀吉が聚楽第を建設することになった時、本法寺があった区域は区画整理の対象となり、替地として与えられた寺之内に移転する際、父の光二と私財を投げうち、その再建に尽力したのである。今はまさにその引っ越しの真っ最中で、光悦は後に『三つ巴の庭』と呼ばれる庭園づくりに骨を折っていた。
 そんな光悦のところに末蔵が訪ねて来たのは、ちょうど昼時、聚楽第建設に関わる職人たちが休憩を取り始める時分だった。光悦の部屋のふすまの外で、奉公の女が、
 「光悦先生にお目にかかりたいという方がいらっしゃいますが、いかがいたしまひょ?」
 と言った。
 「すまぬが今は手が離せん。日を改めて来てもらうよう丁重に帰しなさい」
 「へい」と女奉公人は行ったようだったが、暫くたって再び、
 「あのお、光悦先生にお目にかかるまでは帰らないと申しております……」
 と言いに来た。
 「だから今は忙しいと言うておる」
 「でも……、光悦先生にお会いできなければ腹を切ると申して聞きません」
 「物騒なことを申すな。では、手がすいたらこちらから尋ねるゆえ、住所を聞いておきなさい」
 「へい」と再び引き返したが、暫くすると三度やって来て、
 「どうにも物分りの悪いお方で、待たせてもらうと、店先でお座りになってしまいました。あれではお客様のご迷惑になってしまいます。どうしまひょ?」
 「まったく!これでは集中して書写もできん」と光悦は筆を休ませ、「仕方がないから通しなさい」と迷惑そうに言った。
 こうして書斎に通された末蔵だったが、光悦はほんの一瞬彼の顔を見ただけで、
 「申し訳ありませんが、これが終わるまでそこでお待ちください」
 と言ったきり、末蔵をそっちのけに再び書写に没頭しはじめてしまった。末蔵は「これが噂の光悦か……」と、最初はいかにも緊張した面持おももちで横顔を眺めていたが、一時間経っても二時間経ってもいっこうに終わる気配がない。ついに「あのお……」と声をかけたところが、「もうじき終わります。声をかけないでくださいませんか!」と怒られた。
 その間、部屋に飾ってある漆器や陶磁器を眺めている中に、妙な美しさを持つ黄土色の素焼きの茶碗に目にいった。感激で思わず声を上げそうになった末蔵は立ち上がり、そろりそろりと近寄って手に取って見た。そうなると一時間でも二時間でもまったく苦にならない末蔵である。
 「さて、ようやく終わりました……」
 と、光悦は筆を置くと、正座して素焼きの茶碗をじっと凝視する末蔵に、「お待たせしました」と言った。ところが今度は末蔵の方が鑑賞に夢中で、光悦の声に気付かなかった。
 「お気に召しましたかな?」
 末蔵は「はっ」として、その茶碗をあったところに戻した。
 「この茶碗は、いったい誰が作ったのでしょうか?」
 光悦はやや嬉しそうな表情をして「ほう?貴方にその茶碗の良さが分りますか?」と言った。
 「なんというか……、素焼きのせいか、非常に素朴な中に、生きる力というか、あがきとでもいうか、苦しみの中で輝く純粋な光を感じます。これを作った人は相当苦労したのでしょう」
 光悦は末蔵を驚いたように見つめると、笑みを含んだ顔で、
 「それは朝鮮国で作られた沙鉢サバルというものです」
 と教えた。
 「朝鮮国……」
 「大坂の千利休せんのりきゅうが、輸入されたばかりの珍品じゃと言うて送ってきましてな。しかし私には、どうも悲しみばかりが伝わってきて好みません。朝鮮ではその茶碗は観賞用ではなく日常の食事で使っているというが、素焼きのうえいびつでつくりも荒く、どう見ても完成品とは思えません。まあ、そこがいま流行のび≠ノ通じるといったところでしょうが、貴方はどう思いますか?」
 「俺は伊賀で陶芸をしておりましたが、この茶碗には力強さを感じます。確かに悲しみも伝わってきますが、その悲しみに負けるものかという強い生気を感じる……」
 「ほう。よろしければ差し上げましょう。私より貴方が所持していた方が、その茶碗にとっても仕合せでしょう」
 「ええっ!よろしいのですか?」
 光悦は惜しげもなくその茶碗を末蔵に与えてしまうと、
 「ところで御用は何ですか?」
 と聞いた。末蔵は思い出したように正座をしなおし、背筋を伸ばすと、
 「不躾ぶしつけながら、本阿弥光悦先生に教えていただきたいことがあって参りました!」
 と平伏した。
 「はて、なんでしょう?」
 「俺は生涯、陶器づくりに命を懸けたいと思っております!」
 それは、それまで溜めてきた思いを一気に投げつけたような強い語気だった。ところが光悦ときたら、そよ風をあびるような涼しげな声で「それはよろしいお考えで。そうなさい」と言ったきり、筆具を静かに片付けはじめるのだった。末蔵は続けて、
 「将来、俺は日本一の陶芸家になろうと思う!」
 「それは頼もしい。ぜひ、そうなさい」
 末蔵にしてみれば、何かしらのアドバイスをもらえると期待していただけに、光悦の素っ気ない「そうなさい」という言葉は、不満を隠せないばかりか、逆に呆気あっけにとられて次の言葉が見つからなかった。さらに、暫くの間を作った光悦は、
 「それで?」
 と淡々と言う。末蔵はすっかり面食らった。
 ところが末蔵が何の返答もできないのを見てとると、
 「貴方はわざわざそんなことを言うために、私の仕事の手をわずらわせたのかい?」
 と、光悦はむくむくと笑い出した。
 「違います!陶芸に命を懸けるため、日本一の陶芸家になるために、何かしらのご教示をたまわりたいと思って来たのです!」
 「私に教える事なんて何もありません。貴方がそうしたいのなら、そうすればいい。でも貴方は迷っている。だから私のところに来たのでしょう?」
 光悦は今まで書いていた書を、「これを見なさい」と言うように末蔵に手渡した。
 本阿弥光悦といえば後に近衛信尹このえのぶただ松花堂昭乗しょうかどうしょうじょうに並んで寛永の三筆≠ノ数えられる書の達人でもある。見れば流暢りゅうちょうな漢文のようだが、末蔵にはさっぱり意味が分からない。「これは?」と聞くと、
 「いまさっきまで私が書いていた、日蓮御坊の立正安国論≠フ写しですよ」
 と答えた。そして光悦は、子供に諭すような優しい口調で続けた。
 「日蓮御坊の教義に因果具時いんがぐじ≠ニいうのがある。因すなわち原因と、果すなわち結果とは、同時にそなわっているという意味です。貴方が日本一の陶芸家になると決めた瞬間、すでに貴方は奥低おうていでは日本一の陶芸家なのですよ。問題は今の貴方の一念です。しかしさっき貴方はなろうと思う≠ニ言った。思う≠ナはいけません。なるのだ!≠ニいう決定けつじょうした一念に変えなければ、貴方は一生かかっても陶芸の道を究めるどころか、陶芸家にもなれないでしょう」
 「ここにはそんなことが書いてあるのか?」
 と、末蔵は立正安国論の文字を追ってみた。ところが難しい漢字ばかりで、やはり読むことができない。
 「そこには書いてありませんよ。そこには世の乱れの根本原因と、その打開策が書いてある」
 と、光悦はひと仕事終えた余裕からか静かに笑って、立正安国論の概略を説明しはじめた。
 光悦が語るところによれば、世の乱れは人の思想の乱れが根本原因だと言う。そして日蓮御坊の時代においては、根本法の当体である日蓮御坊をいじめたがゆえに正嘉の大地震が起こり、自界反逆難じかいほんぎゃくなんたる北条家の二月騒動が起こり、さらには他国進逼難たこくしんぴつなんたる元寇げんこうが起こったのだと言う。仏法では衣正不二えしょうふにと説くところから、主体たる人間と客体たる環境とは不二であるから、人間の思想の乱れはそのまま環境の不調に影響するという論理である。
 「思うに今の世を見よ。日本という小さな島国で、どんぐりの背比べの武将たちが、我先にと天下を治めようと殺し合いをしておる。なにも国を治めるのに戦などする必要はないと思わぬか?茶でもすすりながら話し合いをすればすむ事ではないか?私はどうも今の世が好かん。どうやら生まれてくる時代を間違えたようだ」
 光悦は遠くをみつめるようにつぶやいた。末蔵は「意味が解せぬ」といった腑抜ふぬけた顔で光悦を見つめ返した。
 「おお、ところでまだ名前を聞いてませんでしたね」
 末蔵はえりを正して、
 「申し遅れました。百地末蔵といいます」
 「旅客きたりて嘆いていわく……。日蓮御坊とは次元が異なりますが、いま正に貴方は自分の行く末を嘆いて私のところに来たわけだ」と光悦は笑った。
 「どうも俺には先生の申される意味がよくわかりません……」
 「今は分らなくても、陶芸の道に精進しぬけば分かる時が来るでしょう。そうだ、その道を究めようというなら、貴方によい働き口を紹介しましょう」
 と、光悦は長次郎という男を紹介したのだった。聞けばその男、「聚楽焼」の創始者であると言う。後に楽焼と呼ばれるようになるそれは、素焼きした後、加茂川から採取される黒石から作られた鉄釉てつゆうをかけて陰干しし、乾いてから再び釉薬ゆうやくをかけるということを十数回繰り返した後、およそ一、〇〇〇度の窯で焼成する。そして焼成中に釉薬が溶けたところで窯から出し、急冷すると黒く変色する。その色合いから黒楽茶碗とも言われるが、その新進気鋭な作風は、これから本格的に陶芸を学ぶ者にとってはぴったりだと光悦は言うのだった。
 こうして末蔵は、紹介状と長次郎の窯の場所を教えられ、
 「またいつでも来なさい」
 と本阿弥光悦に見送られながら彼の店を後にした。