雷神の門 大運動会
> 第1章 > 聚楽城じゅらくじょう
聚楽城じゅらくじょう
 二人は中山道を西に、美濃、近江を経、京都は山城国三条大橋に着いたのが、贄川にえかわを出て五日目の朝だった。江戸時代の記録によると、江戸日本橋から京都の三条大橋まで、男の足でおよそ十四日から十五日、女連れなら十八日から二十日程度かかったそうである。贄川宿は中山道のほぼ中間点に位置するから、小太郎たちの歩みは一般の旅よりかなり速かった。小太郎だけならばもっと早く到着しただろうが、末蔵すえぞうと一緒ではそうもいかない。しかし末蔵も末蔵なりに早足で、京での夢に期待をふくらませ、疲れなどほとんど見せなかった。おそらく途中のどこかで菖蒲あやめたちも追い抜いたはずなのだが、女連れのそれらしき姿を見かけることはなかった。
 三条の鴨川かもがわの河原で連れ小便をしながら、「これからお主はどうする?」と小太郎が、すでにひとみをらんらんと輝かせている末蔵に聞いた。
 「とりあえず本阿弥光悦ほんあみこうえつがどこにおるのか探してみるさ」
 と、生きる目的を見出した末蔵は水を得た魚のように、その言葉はとても楽しそうである。
 「お前は?俺に付き合うか?」
 「いいや。ちと、わしゃ休む。しばらくは吉兆きっちょう≠ノ逗留とうりゅうするつもりじゃ。もし身の振り方が決まったら連絡してくれ」
 「わかった!」と、末蔵はまるで好いた女でも待たせているかのように立ち去った。
 吉兆≠ニは吉兆屋きっちょうや≠ニいう店の名称で、三条通りにある煮売にうり屋のことである。煮売り屋とは現在の居酒屋のような役割を担った店で、昼は蕎麦そばやうどんや団子だんごやお茶、夜になれば煮魚や煮物や吸い物や、あとは酒などを出して、町民や旅人たちの腹を満たしていた―――とは表向きで、実は伊賀者たちの情報交換の拠点である。玄関の脇に据えられた赤い番傘ばんがさと長椅子、こんに白字の吉兆屋≠フ文字がある大きな暖簾のれんをくぐれば土間が広がり、一尺ほどの段差がある座敷は八畳ほどで、障子の衝立ついたてでいくつかに仕切られていた。そして同じ土間には調理台と釜台かまだいがあり、壁際の棚にはいくつもの皿やどんぶりや椀や酒など、下にはひつが整然と並べられて、天井からは魚や鳥などもるされている。そこは要するに客をもてなす空間で、奥には店主や料理人やまかない達の休憩所と居間があった。一見なんの変哲もない平屋造りの店舗であるが、居間にある床の間の掛け軸の裏を覗けば、そこに一本のなわが釣り下がっていた。引けば天井から隠し階段が下りてくる仕組みで、つまり店舗の屋根裏は、伊賀者たちの情報交換や密談の隠れ家だったのである。
 三条大橋といえば東海道や中山道の始点、終着点でもあり、加えて古来、酒のある店には様々な情報が集まってくるものだ。伊賀の乱以前には月に二、三度、各地に散っている伊賀者たちが密かに集まり、忍びの隠語いんごいち≠ニ呼ばれる定期的な集会を開いていたが、近年はとんとそのうわさも聞かない。小太郎も幾度か父に連れられては、そこで美味うまいめしを食わせてもらったが、その間父は二階の部屋でその会議に出席していたのだろう。
 今は誰が店主を務めているのか、だが、伊賀者であればおそらく、無条件で快く受け入れてくれるはずだった。小太郎は六、七年振りかにその吉兆屋の暖簾をくぐった。
 「主人はおるか?拙者せっしゃ甲斐かいの国より参った浪人でござる。ちと道をお尋ね申す」
 諸国の浪人がいきなり店に入り、道を尋ねるのにわざわざ店主の所在を確かめるとは不審であるが、伊賀者同士にとってこれは暗文あんぶんなのである。甲斐を反対から読むとイカ≠ニなる。つまり伊賀の浪人が参ったぞという意味なのだ。朝も早く、まだ客などいない店内で、暇そうに掃除をしていた賄いの女が「へえ」と言って、奥の部屋に向かって「旦那様だんなさま、お客様どすえ!」と言った。おそらくその女も伊賀者だろう。
 間もなく店に顔を出したのは、小太郎も顔見知りの男である。思わず、
 「なんじゃ!さいじゃねえか!」
 と小太郎が叫んだその男の名を、服部才之進はっとりさいのしんといった。彼らは伊賀にいる頃から忍びの技を競い合ったいわばライバル同士で、本名を呼ぶのもなんだがしゃくに触って、小太郎は彼のことを才の字≠ニ呼んでいた。才之進も少なからず驚いた様子で、
 「小太郎、生きておったか」
 と、無表情の上、無感情な抑揚よくようでそう言った。
 「お前、吉兆の店主をやっておったか!」
 「柘植つげ殿は今はおらん」
 柘植とは店主の名であろう。才之進は続けて、
 「店先でそんな大声を出されたのではかなわん。来い」
 と、小太郎の手を引いて近くの雑木林ぞうきばやしの中に連れ込んだ。
 服部といえば伊賀では上忍クラスの忍びである。しかし才之進は分家の子で、伊賀の乱では百地三太夫ももちさんだゆうとは別部隊で戦っていた。小太郎とは幼な馴染みだが、昔から喜怒哀楽の感情というものをどこかへ置いてきてしまったかのように、笑顔を見せたこともなければ悲しい表情も見せたこともない。忍びとしては得な性質であるが、彼が何を思っているかは目の動きと言葉の抑揚で探るしかなく、時に感情の起伏が激しい小太郎はやきもきして、二人はよく喧嘩けんかもした。またある時は、どちらが伊賀一の忍びか決めようと果し合いをしたこともあるが、その時は両者の親に見つかって、「伊賀者同士優劣をつけるとは何事か!」と、こっぴどく太郎次郎に叱られた。そんな生意気な才之進でも、伊賀の乱以降生き延びていたことを知って小太郎は嬉しかった。ところが久しぶりに会ったその彼の最初の一言が、
 「何しに(京に)来た」
 だった。それもれものを触るような抑揚で、小太郎はカチンと頭に血が上ったが、ライバルの手前、「いまだ無職で、末蔵に誘われるまま何となしに」とも言えない。
 「大坂にちと用があるのじゃ。京へは何か有益な情報がないか、ついでに寄ったまでよ」
 ととぼけた。
 「大坂に?するとお主、秀吉に……。誰の使いじゃ?」
 と、早くも勘繰かんぐりをはじめた才之進だったが、「それはまだ言えぬ」と小太郎はお茶を濁してごまかした。
 「才の字の方はどうなんじゃ。今は誰の手下になっておる」
 「手下になどなっとらん!だが、加藤清正公の下で働いておる」
 「ほう、何とかの七本槍ななほんやりに数えられる槍遣やりつかいか」
 「俺が言ったのだから貴様も言え!」
 伊賀者同士には情報交換の義務がある。それが例え自分が仕える主君に不利な情報であったとしても、伊賀に有益な事柄であれば同郷の者として伝えなければならなかった。少なくとも伊賀の乱以前は。それは今でも風習として残っているはずなのだ。
 「だから今はまだ言えん!」
 「ほう?」と才之進は目にあざけるような笑みを浮かべ、「ひょっとしてお主まだプー太郎だな?京には仕事を見つけに来たのだろう」と、滅多めったに見せない笑いを浮かべた。
 ほぼ同じ実力の忍び同士である。一方は既に働き場所を見つけて活躍しているというのに、一方はいまだ生きる目的すら見い出せず、各地を彷徨さまよう放浪人。その現実は小太郎にとって屈辱だった。人間、図星な事を言われるとつい腹が立つ。小太郎の眉間みけんに表れた僅かな怒りの感情を読み取った才之進は、見下したように再度目だけで笑った。
 「なんとも気に入らん奴じゃ」と小太郎は思ったが、己と他人を比較して、片や優越感に浸り片や劣等感を覚えるとは、まだまだ二人は子どもであった。
 「まあ、せっかく京に来たのだから見物でもしていけ。そうじゃ、御所の近くに秀吉邸が完成したようだから後学のために見に行ったらどうじゃ?俺はじきに九州へ行くことになるが」
 才之進はそう言うと、笑顔ひとつ残さず吉兆の方へ戻っていった。小太郎は「ちっ!」と舌打したうちをした。
 才之進が言った秀吉邸とは、秀吉が九州平定後に聚楽第じゅらくだい、または聚楽亭あるいは聚楽城と呼ぶことになる豊臣秀吉の京都における邸宅のことである。
 大坂城の完成を見、関白となった秀吉は、すかさず京都に政庁の役割を果たすための聚楽第の建設に着手した。御所の西側約一キロ地点、当時は内野うちのと呼ばれていた平安京大内裏だいり跡地の北東部分、『聚楽じゅらく』とは『長生不老のうたまいあつむるもの』という意味で、これは秀吉の造語らしい。
 その規模、北は一条通りから南は下長者通しもちょうじゃどおりの北、東は大宮通りから西は裏門通りに囲まれた区間で、ほりを廻らせたところまでの敷地面積がおよそ二六万八千平方メートルというから、京都御所の約三分の一近くの広さを誇っていた。その内部は本丸、北ノ丸、南二ノ丸、西ノ丸とに別れ、本丸の北西角には金張きんばりの屋根瓦やねがわらで五層の天守閣がそびえていたことは、現在残されている屏風絵びょうぶえと、発掘して出てきた瓦の破片から知ることができる。それは邸宅とか政庁というよりまさに城郭だった。
 その建設工事は昨年(天正十四年)二月から着工され、小太郎たちが京都に着いた頃には建物自体はほぼ完成しており、庭園に使う石材の搬入はんにゅうが始まっていた。そればかりでない。秀吉はそこ聚楽第を日本一の城下町に仕上げるべく区画整理をし、周辺には譜代ふだいの大名屋敷を置き、大坂の堺や畿内きない有数の商人や文化人、芸術家たちを集め、一大文化商業都市を築こうとしていたのである。記録によると大坂城建築に関わった人員が延べ七万から十万人とされているが、聚楽第建設にはそれとほぼ同規模かそれ以上の動員があったと推測されている。それも僅か一年半あまりで完成させようというのだから、その頃の京都の街はお祭りのような忙しさでごった返していた。
 さて聚楽第に天守閣はあったか?―――とは研究者の間でしばしば話題になるところである。現在残されている三井記念美術館所蔵の『聚楽第図屏風』や、近年発見され上越市立総合博物館で公開された『御所参内さんだい・聚楽第行幸図ぎょうこうず屏風』には、その姿がはっきりと残されているものの、その絵図自体、実際に聚楽第を見て描いたものなのか、後年資料に基づいて描いたものだとか、あるいは描かれている建物は天守閣に似てはいるが天守閣の条件を満たしていないとか、様々に疑問視されている。その否定論を唱える最も重要な手掛かりは、当時諸国の大名の家臣やインドの使節団一行など、聚楽第の見学をした者たちの文献に、その天守に登ったという記録がないことである。さらに二度の聚楽第行幸に関する史料においても見当たらない。
 本来、己の権力と財力を満天下に示すため、その象徴でもある天守閣は、例え訪問者が遠慮えんりょしたとしても見せたがるところである。現に大坂城の天守閣には、秀吉自らの案内で、積極的に見せて回っているのである。
 もう一つは、聚楽第跡地に天守を支える天守台があった痕跡が少しもないという地形的根拠である。ここまで話すとどうやら聚楽第には天守閣はなかったと思えてくる。
 しかし逆に、天守閣はあったとする文献も存在することに、この議論はイタチごっこの感をていするのである。
 先に挙げた屏風絵は視覚的証拠として最たるものであるが、当時、周辺の大名達は、聚楽第へ行くことを登城≠ニ表記していることである。そればかりでない。もっと信憑性しんぴょうせいがあるものとして、吉田神社の吉田兼見という神主かんぬしが残した日記に、豊臣秀吉の側室で前田利家の三女、後に加賀殿と呼ばれる摩阿姫まあひめのことを聚楽天主≠ニ呼び、彼女のおはらいをした記録があると言うのだ。聚楽天主≠ニは聚楽第の天守閣の主、つまり、摩阿姫は天守に住んでいたのだと言う。また、秀吉の家臣である駒井重勝や公卿の山科言経やましなときつねの日記にも殿主でんしゅ≠フ言葉が見られ、これは紛れもなく天守≠フことを指しており、そこで後の聚楽亭主豊臣秀次から黄金を見せられたり、床の間の高価な織物を見せられたりしていると言う。
 これらを総合的に推理してみると、どうやら聚楽第には確たる天守閣はなかったものの、天守閣に似た、あるいは天守閣に相当する建物があったように思われる。だとすれば、浪費を惜しまない絢爛けんらん好きな秀吉にして中途半端な建造物ではある。それを立証するには、天皇の存在と、秀吉の朝廷に対する認識を考慮しなければならないだろう。
 時の天皇は後陽成ごようぜい天皇である。しかし長引く戦乱の世の中で、朝廷の権威は地に落ちていた。しかし日本書紀に始まる天皇の存在は、けっして消えることのないさがとして日本人民の血に流れ、その血は日本社会の下層階級で育った秀吉の中にも厳然と流れていたに違いない。
 当時の秀吉といえば既に日本国土の半分以上を手中に治め、政治的にも関白という地位を得ていたことは前述した。つまり全国の諸大名に対しては絶大なる権威を示しつつも、京都所司代に対しては朝廷の一機関という地位を明確にしておく必要があった。そのためには結婚披露宴で友人が新婦より派手であでやかな衣装を身に付けてはいけないように、御所より立派な建造物を建設してはいけなかった。合わせて聚楽第は公卿達との社交場にもなるはずで、城≠ニいう武家の代名詞のようなものでは朝廷には相手にされない。つまり逆の言い方をすれば、支配の権威として関白の位を利用するためには、天皇を尊重し、朝廷の威信を回復する必要があったといえる。
 その点、自身を神格化し、朝廷をも滅ぼそうとしていたきらいがある織田信長に対し、秀吉は朝廷に対しては至って日本人的発想を持ち、紛れもない日本人民の一人であった。
 しかし筆者は先に聚楽第のことを「金張りの屋根瓦で五層の天守閣がそびえ」「それは邸宅とか政庁というよりまさに城郭だった」と書いた。それはそれで間違いはないと思っている。時の秀吉の勢力は、おそらくこの言葉だけでは語り尽くせるものでなく、等身大のものでも肥大ひだいして見えてしまう近寄る者たちの委縮感であり、それこそ周囲を圧倒する当時の秀吉のカリスマ性なのだ。この項の題号を『聚楽』としたのもそのためである―――。
 小太郎は話のたねに行ってみようかとも思ったが、それより今はとにかく眠い。ひとまず寝ようと吉兆に戻った。
 「なんじゃ、また来たのか」
 と、吉兆二階の隠れ家に上ってみれば才之進がいる。
 「とにかくわしは寝るからお前は黙っていてくれ」
 と小太郎は布団を敷いて横になった。ところが才之進ときたら脇でいろいろ独り言のようにしゃべり出す。
 「いま大坂へ行っても仕官の口などないぞ。関白は九州征伐のため全国の大名を大坂に集めてはいるが、諸侯は出陣の準備に追われてそれどころでない。今日あたり宇喜多秀家が第一軍として出発しているはずじゃ。わしも今夜には大坂に戻る―――」
 彼は彼なりに小太郎のことを心配しているのだ。小太郎は目をつむりながら、その話を子守唄のように聞いていた。遠のく意識の中で才之進は秀吉の九州征伐について話していた。
 本州、四国を制圧した秀吉最後の目標は九州平定に違いない。ところが九州においてはいま、大友氏や龍造寺りゅうぞうじ氏を制圧した島津義久の勢力が拡大していると言う。それを押さえきれない大友宗麟そうりんが、秀吉に助けを求めてきたのが昨年の話、ついこの間のことである。それに対して関白となった秀吉は、朝廷権威をかざして島津義久と大友宗麟に停戦命令を発したが、九州平定を目前にした島津氏はこれをあっさり無視したのである。これによって秀吉には九州征伐の大義名分ができた。
 昨年十二月、秀吉は長宗我部元親、信親のぶちか親子と、十河存保そごうまさやすといった四国勢を豊後ぶんごの援軍として派遣するが、戸次川へつぎがわ(現大野川)において行われた合戦では、軍監仙石秀久せんごくひでひさの失策によって長宗我部信親や十河存保が討ち取られ、思わぬ大敗をきっしてしまう。その報を聞いて激怒した秀吉は、三十七ケ国の大名に大坂集結を命じ、自らが二〇万ともいわれる大軍を率いて、いま本格的な九州侵攻を開始していると才之進は言うのであった。
 「小太郎、場合によってはお前を加藤清正公に紹介してやってもよいが……、どうする?」
 小太郎は小さないびきをかきながら、「お前の世話にはならねえよ……」と寝言のようにつぶやいた。