雷神の門 大運動会
> 第1章 > 豊臣の世
豊臣の世
 さてこのあたりで時代背景を述べておかねばなるまい。
 ―――天正十年(一五八二)六月、明智光秀の謀反により、本能寺で織田信長が死んだことはすでに多くの読者も知るところであろう。
 そのとき豊臣秀吉は―――もっとも当時は羽柴秀吉といったが、信長の家臣として備中高松城を攻めており、毛利輝元の家臣で城主の清水宗治むねはるとの戦いの真っ最中だった。信長急死の知らせを受けた秀吉は、後に中国大返しと呼ばれる大転換でただちに軍を京都に取って返し、山崎の戦いでまたたくまに明智光秀を討ち取った。そして京都における支配権を奪取した彼は、そこから天下統一への道を拓いていくことになる。
 秀吉の出生を探れば農民の子であるとか足軽の子であるとか、あるいは大工とか鍛冶かじ職人とか行商人の子であるとか諸説あるが、いずれにせよ貧しい下層階級の出であったことに違いはないようで、中には公卿くげの血を引いているといったものまであるが、これは後に関白になって以降の身分を汚さないための贋作がんさくだろうと考えられる。
 人の人格は、その幼少期に形成されるものであるとすれば、後に巨大な権力を手に入れ、現在では侵略といわれる朝鮮に対する蛮行ばんこうを行った秀吉にしても、その衣をはぎとっていけば、最後に残るものは貧しい幼少時代の経験が基になっているに違いない。その人間味臭い人柄は、正妻ねねや身内に宛てた手紙の内容からも推察することができるが、いわば秀吉とは、巨万の富と巨大な権力を運よくつかむことのできた、一介の田舎育ちの庶民であった。
 信長が死に、尾張の清洲きよす城で行われた後継者と遺領いりょう分割の割り振りを決める清洲会議では、織田家筆頭家老ひっとうかろう柴田勝家の意見を跳ね返し、秀吉は信長の嫡孫ちゃくそんであり織田信忠の長男であった三法師さんぽうし(後の織田秀信)を信長の後継者にと推し進めた。ところがこのとき三法師は若干三歳。勝家は大きな難色を示すが、秀吉には光秀征伐の戦功もあり、また山崎の戦いで秀吉とともに戦った池田恒興つねおき丹羽たんば長秀らの後押しもあり、結局、幼少の三法師の後見人こうけんにんとして、勝家が推していた信長の三男信孝を推する妥協案だきょうあんで丸め込まれてしまったのだった。
 また遺領分割においても、柴田勝家が秀吉の領地だった近江長浜の十二万石が与えられたのに対し、秀吉は明智光秀の旧領であった丹波や山城やましろ、更には河内かわちを与えられて二十八万石の増となったのである。織田家筆頭家老の勝家にとっては当然面白くないだろう。賤民せんみん出の草履ぞうり持ちが、自分の意見をくつがえし、更には自分より大きな大名になったのだから―――。そこから旧信長勢力を二分する両者の対立が始まるのである。
 その頃までの秀吉の成長を見てみると、彼は単に運の良さだけで成り上がってきたわけでないことが分る。草履取りで信長ほどの人物の歓心を獲得した人心をつかたくみな言動といい、一夜城いちやじょうや高松城の水攻めやなどの既知きちにとんだ発想力といい、その率先力で得た戦場での数々の功績、中国大返しに見られる時を逃さない敏捷びんしょうさ、そして三木みき殺しや鳥取城の飢え殺しなどの残忍さを見せながらも、その頭の良さと的確な行動は、下層階級育ちの生きるための知恵が媒体ばいたいとなってつちかわれた能力だったろう。
 秀吉と柴田勝家の対立は、やがて後に言う賤ヶ岳しずがたけの戦い≠ノ発展していく。その発端は秀吉が山崎に宝寺城ほうじじょうを築城したことにはじまる。
 山崎と丹波で検地を実施しながら、私的に織田家諸大名と友好を結んでいく秀吉の動きに不信感を募らせた勝家は、滝川一益いちますや織田信孝と同盟して秀吉に対する弾劾状だんがいじょうを諸大名にばらまいた。それに対して秀吉は、信長に違背いはいないことを示すため、信長の四男にあたる養子の羽柴秀勝を喪主もしゅに立て、盛大な信長の葬儀を行なうのである。そして天正十年(一五八二)十二月、織田信孝が三法師を安土あづちに戻さないことを理由に五万の兵を挙げ、宝寺城から佐和山城へ、そして柴田勝家の養子にあたる柴田勝豊かつとよが守っていた長浜城を手中に収め、さらに兵力を増強しながら美濃に侵攻して加治田城かじたじょうを落とした。やがて岐阜城に孤立した信孝は、三法師の引き渡しと生母および娘を人質に出すことで和議を結ぶ。
 翌年三月、ついに勝家は前田利家としいえの息子利長を先陣として、自らも三万の大軍を率いて近江おうみで秀吉に対峙たいじした。当初、秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣の寝返りや織田信孝の再挙兵に加え、大岩山砦おおいわやまとりで岩崎山砦いわさきやまとりででは重臣佐久間盛政さくまもりまさの奇襲の成功で勝家優勢に見えた。ところがそのとき美濃にいた秀吉は、戦場まで五二キロの距離をたった五時間で移動して、戦況は一気に逆転する。これが世にいう美濃大返しであるが、その勢いに押されて前田利家は戦わずに居城の府中城に単身逃げ戻り、勝家も越前に撤退することになる。
 打倒柴田勝家の秀吉はそのまま北上を続け、途中、前田利家の府中城に立ち寄ることになるが、当然利家とて籠城ろうじょう戦あるいは攻め殺されることを覚悟していただろう。が、そのときとった秀吉の行動が意外である。奇行きこうと言ってもいいだろう。単身で城に乗り込んで来たかと思えば、
 「おみゃあが頼りなんじゃ!」
 と、秀吉の科白せりふがこうだった。この一言で利家は秀吉に寝返ることになるが、前田利家は、その後平定された加賀と能登を与えられ、これが加賀百万石のいしずえとなると同時に、豊臣の五大老に数えられる豊臣政権の中枢ちゅうすう大名になっていく。
 一方、柴田勝家は北ノ庄城きたのしょうじょうに追い詰められた。そして、落ち行く城の天守閣九段目に登った彼は、
 「わしの腹を切り割く様を見て後学のために役立てよ!」
 と叫び、正妻のお市と侍女たちを一突きにした後、自らの腹を十文字に割いて自害して果てたという。
 そして織田信孝を自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。ここまでが所謂いわゆる賤ヶ岳の戦い≠ナある。
 こうしてかつての織田家の実力者たちをほうむった秀吉は、信長家臣第一の地位を確立し、表向きは三法師を持ち上げつつも、実質的には織田家中を牛耳ぎゅうじることになる。
 この頃の秀吉には勢いがある。勢いに乗りつつもタイミングをけっして見逃さないしたたかさと、相手の気持ちを察し先手を打つ名人、人たらし≠ニも呼ばれた彼天性の才本領発揮ほんりょうはっきの感がある。天下統一もこの頃になると現実のものとして捕えていたに違いない。
 ところが天下を狙う秀吉にとって、目の上のこぶだったのが東国一の大名徳川家康である。
 天正十二年(一五八四)三月、かつての織田家臣たちをことごとく配下に置いてしまった秀吉に対し、信長の次男である織田信雄が宣戦布告をする。このとき彼に加担したのが家康だった。それに伴って四国の長宗我部元親ちょうそかべもとちかや紀伊雑賀衆ざっかしゅうなども決起した。
 対して秀吉は、関盛信せきもりのぶ(万鉄)や九鬼嘉隆くきよしたか、織田信包のぶかねといった伊勢の諸将を味方にし、さらに美濃の池田恒興を味方につけて、恒興つねおきは尾張犬山城を攻略し、また、伊勢においては峰城を落とした。世に言う小牧・長久手ながくての戦い≠フ緒戦は秀吉優勢に見えた。
 一方、家康と信雄の三万の連合軍は、羽黒の戦いで森長可もりながよしを破り小牧に陣を敷き、大坂から犬山城に入った秀吉軍十万の兵と、そこ小牧で睨み合いの膠着こうちゃく状態を続ける。
  そんな中、先の敗戦で雪辱に燃える森長可や池田恒興が、秀吉の甥にあたる三好秀次(豊臣秀次)を総大将にして三河奇襲作戦を開始した。ところが家康の張った監視兵の網にかかり、徳川軍の追尾を受けてあえなく二人は戦死する。この長久手の戦いによって家康の強さが証明されたわけだが、数の上では圧倒的な兵力であったにも関わらず、相次ぐ戦況悪化で秀吉は自らが攻略に乗り出すことを余儀なくされたのである。
 しかし信雄も家康も、秀吉の財力と兵力には圧倒されていたことは事実で、その後も秀吉は美濃における諸城を次々と攻略していく。そして信雄の自領も次々と落とされ、ついに十一月、信雄は伊賀と南伊勢、そして北伊勢の一部の割譲かつじょうなどを条件に、家康に無断で秀吉と単独講和に踏み切るのだった。
 この時点で家康も、秀吉と戦う大義名分を失い、しかも単独では事実上秀吉と対等に戦うことなどできなくなった。家康は講和の代償に次男於義丸おぎまるを秀吉の養子に差し出した。養子とは聞こえはいいが、つまり人質である。ところが秀吉にとって家康は、けっして敵にはまわしたくない存在だった。それどころか、なんとしても従わせたい存在だった。
 そして家康獲得のために考えた苦肉くにくの策が、妹の朝日姫を家康の正室として送り、さらには母のなか(大政所)をも人質として家康のもとに送ることだった。そしてそれと引き換えに、配下として上洛じょうらくするよう家康に促すのである。
 このあたりの秀吉の判断をどう見るべきだろう?
 政略のためとはいえ、庶民感覚の彼が、産みの母親と幼少期に苦楽を共にした実の妹を人質に出すとはどうしたことだろうか?
 秀吉は、家康ほどの器量ならば、むやみに自分の身内を粗末に扱うことはないだろうと考えたに違いないし、配下に従わせるためには、自分の一番大事なものを差し出せば、家康の慈悲じひの心にも訴えかけることができるだろうとも考えたろうが、それは一世一代の大きなけには違いない。身内を賭けの道具に使うとは、言い換えればこの時点で秀吉は、庶民の象徴的美徳である家族愛と、権力の象徴的悪徳である社会支配力とを交換したことになる。ここに筆者は覇権はけんの欲望にとらわれた人間の恐ろしさを見るのである。
 案の定、家康は秀吉への臣従を誓う―――。
 時の流れに乗ったとでもいうか、天を味方に付けたとでもいうか、その後の秀吉は一種のカリスマ性をはらんで突き進む。
 その後、紀伊を平定し、次は瀬戸内海を渡って四国へ総勢十万ともいわれる大軍を送り込む。それに対して四国の長宗我部元親は果敢に応戦するが、圧倒的な兵力の差で降伏を余儀なくされた。しかし元親は土佐を安堵あんどされることで許されるが、これこそ秀吉の真骨頂しんこっちょうなのだ。
 その後はほとんど戦うことなくして越中を治め、その勢いは飛ぶ鳥が如くである。
 その間、石山本願寺の跡地に、当時最大の要塞ようさいと言われた大坂城を築き、その絢爛豪華けんらんごうかな姿は「三国無双の城」とも称えられ、難攻不落の城とも言われた。
 そして一介の貧しい庶民から、日本最大の武将に成り上がった秀吉は、天正十二年十一月には従三位権大納言ごんだいなごんに、翌年三月には正二位内大臣ないだいじん叙位じょいされ、驚くことに朝廷の仲間入りを果たすのである。更に同年七月には関白にまで上り詰め、天正十四年十二月、つまりこの小説の書き出しにあたる少し前、彼は太政大臣に就任して豊臣姓をたまわった。このとき遂に、名実ともに日本という島国に豊臣政権が確立したわけである。
 ―――さて、時代背景はここまでにして、物語の本筋を戻そう。

 飛猿の手から辛くも逃れた小太郎は、そこから一番近い一里塚に向かった。兼ねてからの末蔵との申し合わせで、もしはぐれたら一里塚のたもとふみを埋めて居場所を知らせるという手筈てはずだった。
 果たして着いたところが文を掘り返すまでもなく、そこには黒い末蔵の影が立っていた。
 「おお!小太郎!無事だったか!」
 末蔵は小太郎を強く抱きかかえ、目にはたくさんの涙を浮かべているようだった。
 「恐ろしい奴じゃったのう。生きて帰れて何よりじゃ」
 甲賀飛猿の出現は、末蔵にとっても脅威だった。いくら小太郎が伊賀流忍術の達人だったとはいえ、実戦経験の少ない彼に飛猿を負かすことなど百に一つもないと半分諦めていたのだ。
 「それよりこれからどうする?大事な刀を宿に置いたままじゃ」
 小太郎は口惜しそうに言った。
 「明ければ奴らは発つじゃろう。暫く待って昼ごろまた宿に戻ってみよう。宿賃も払ってないしな」
 そのあたり、末蔵は律儀りちぎだった。このまま宿代を無心して、どこかにとんずらしてしまおうかとも考えていた小太郎は苦笑いを返したが、そこが末蔵を憎めないところであり、好きなところではあった。
 時刻は丑三うしみつ時だろうか。大気はますます冷え、宿に帰るわけにもいかず、その夜は近くにあった観音寺という寺の境内で休むことにした。野宿というものにはすっかり慣れっこで、屋根があれば上等なのだ。文無しの彼らが贄川の宿場に泊まろうとすることができたのは、先の農民一揆に加担する前金を、ほんの少しばかりせしめていたからである。今晩こそは温かい布団にくるまって眠れるところだったが、にわかに起こした助平根性すけべこんじょうのために、とんだ大損をした気分である。幸い境内の一か所にわらが積んであるのを見つけた。藁は布団がわりになる。
 いつもならどんな寒空の下でもすぐに寝付いてしまうところが、今晩に限ってなかなか寝付くことができなかったのは、飛猿のことが頭を駆け巡り、いらぬことを次々考えずにいられなかったからである。それは二人とも同じであった。しかしそれが二人の人生の進む道において、あきらかな方向付けを決定していくとは思いもしない。
 両手を枕に、眼を開いたままの小太郎は、ついさっきまで目の前にいた飛猿の体から放出される威圧感のことを考えていた。それは今まで経験したことのない恐怖とも呼べるもので、「父太郎次郎は、奴を相手にどのように戦ったのだろうか?」と、小太郎の興味はそれである。仮にあのとき太刀を持っていたとして、自分はどのようにしてあの危機を乗り越えたろうか?考えれば考えるほどおぞましい結果が見えて体を震わせた。
 一方、末蔵の方も飛猿のことを考えていたが、小太郎がすっかり無事で帰って来たことに安心したためか、その内容は温泉で言われた彼の「将来も見えておる」そして「大志を抱け」という言葉の意味だった。あのとき返す言葉も見つからず、感情に任せて怒ったまま我を忘れる自分がいた。怒ることなど滅多にない自分の憤りに彼自身が驚いたほどで、その原因の正体をつきつめているうちに、伊賀の乱が起こる前まで、のどかな里のかまで陶器を焼きながら、いつか上層階級の人間たちが自分の作品を競って買い求めて来るような茶器を作ってやろうと、そのことばかりを考えていた平和な夢を思い起こした。そして目的もなく放浪するような今の自分に疑問を抱きはじめ、それが不安となって大きく成長していくのを感じた。
 「今のままではいけない―――」
 そう思うのは小太郎も同じだが、末蔵の方が二つほど年上な分、加えて今は乱世、その気になれば小太郎の働き口などいくらでもあるはずで、末蔵にとってはいっそう深刻だった。そんな事を考えているうち、いつのまにか朝が来た。
 寺の住職が起き出し、少し騒がしくなったのを合図に二人は上半身を起こし、そのまま寺を後にした。そして木曽川を探し、水で顔を洗った。刺すような冷たさは、寝ぼけ眼をいっぺんに目覚めさせ、着物の袖でふき取った二人は、そのまま近くの大きな石の上に腰を下ろす。空を見上げると、雪でも降り出しそうなどんよりとした雲があった。
 「小太郎、このまま上田に行くのか?」
 末蔵がぽつんとつぶやいた。
 「いいや、まだ決めとらん。あの赤猿と同じ主君というのは気に入らん」
 すると、小太郎の言葉がまるで耳に入っていない様子の末蔵は、突然思い出したように大声を張り上げた。
 「実は昨晩、ずっと考えていたんだ。俺は京に行こうと思う!」
 「京に?なにしに?」
 「京に行って本阿弥光悦ほんあみこうえつに会う!」
 小太郎は馬鹿げた話を聞いたといったふうに笑った。
 「なんじゃあ?風呂で言ってた赤猿の口車に乗せられたか?」
 「いや違う!じゃが奴の言っていたことには一理ある。俺は目的もなくこのまま旅をしていていいのかとずっと考えていた。そしてあいつに言われて思い出したのだ。俺が本当にやりたいことを。俺は陶芸の道を究めたい!陶芸がやりたいんじゃ!本阿弥光悦なら今おのれが何をすべきか、なにか糸口を教えてくれるかもしれん!」
 小太郎は己の為すべき道を見つけた末蔵を祝福してあげたかった。反面、いまだ宙ぶらりんの自分の行く末を思わずにはいられない。
 「そうか……」
 「小太郎、お前はどうする……?」
 小太郎は言葉を詰まらせた。
 「どうすると言われてものう……」
 「俺と一緒にゆかぬか?どうせ確たる目的などないだろう?京へゆけば人も大勢おるし、きっと何か見つけることができるかもしれんぞ!」
 「京ねえ……」
 と言いながら、昨晩の赤猿と菖蒲あやめの会話を思い出していた。末蔵に付き合って京に出たところで、彼には陶芸をやる気などさらさらない。しかし大坂になら、秀吉の下に集まる武将を相手に、自分の技を売り込むこともできると考えた。何より今世間で噂の、大坂城というのをいっぺん見てみたいとも思った。
 「そういえば、昨日の菖蒲とかいう女、秀吉のところへ行くと言っておったな。ひとつわしも、大坂にでも行ってみようかな?」
 「女か……。まあこの際、女のケツを追い回すのもよかろう。そうじゃ、そうしろ!犬も歩けば棒に当たると言うではないか。真田のような田舎大名に仕えるより、豊臣の方が将来なにかにつけて有望じゃ!秀吉の近くにいれば、きっと仕事にもありつけるぞ。国を動かすような何かができるかもしれんな!」
 小太郎は末蔵の能天気な解釈に「ふん……」と苦笑いを作ったが、かくして末蔵と小太郎の二人は、一路上方かみがたへと向かうことになった。
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