雷神の門 大運動会
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大誤算
はしいろ☆まんぢう作品  

 甲賀忍者の情報伝達の手段は、通常真夜中、梟とか野良猫とか蛙の鳴き声を真似て、相手に来たことを知らせ、人目の付かない物陰で密会して密書のやり取りや口伝をする。甲賀忍者の蜻蛉は、その動物の鳴き真似が他の誰よりも上手だった。菖蒲と幸村とのこれまでの連携も、蜻蛉と他数名の甲賀者とを介して行われていたが、その夜も闇で梟が鳴くと、目を覚ました菖蒲は周囲に人の気配がないことを確認し、音もなく外に現れて物陰に身体を潜めた。
 「菖蒲様、飛猿さんからの伝言です。館を出よ──と」
 「どういうことだ?」
 菖蒲は声にならない小さな声で聞き返した。
 「のっぴきならない事態が生じました。幸村様は忍城へゆかれました。作戦は中止との事です」
 「言っている意味が分からんが?」
 「とにかく明日にでも隙を見つけて館を出、八王子からお逃げ下さい」
 「納得がゆかぬ。飛猿はいまどこじゃ?」
 「滝山の熊野神社におられます」
 「私が行って直に聞く。案内せよ」
 と菖蒲は音もなく寝所に戻り、隠ししまっていた忍び装束に着替えると、再び音もなく現れて、蜻蛉の後を追いかけた。八王子城下は風魔党は組の縄張りだが、何度も行き来している蜻蛉にとっては我が家の庭と同じで、どこに蛇が隠れ、毒蜘蛛が潜んでいるか熟知しており、町民に扮している同じ甲賀者の手を借りて、難なく城下を抜け出した。
 やがて熊野神社に着いた時、「ここは噂に聞く狭間隼人と安寧姫の願掛けの場所ではないか」と思い出したが、一息つく間もなく闇の中から飛猿が現れて、来るとは思っていない菖蒲の姿を認めると、
 「菖蒲殿ではないか、一体どうした?」
 と懐かしそうに呟いた。実に半年ぶりの再会である。
 「“館を出よ”とはどういうことじゃ?」
 開口一番菖蒲が聞くと、
 「実は状況が変わった」と飛猿は事態の急変を告げた。
 話によれば、関白秀吉からの強い要請で、忍城への援軍として兵の半分を回さなければならないとかで、真田昌幸様も信幸様も幸村様もそちらへ行かなければならなくなったのだと言う。なんでも戦わずに進軍して来たことが秀吉には不服のようで、今度ばかりはさすがの前田利家公も何も言い返せずに小田原から戻って来たそうじゃと付け加えた。
 「八王子城はどうなる?」
 「幸村様不在では作戦の続行は不可能じゃ。おそらく戦は免れん。早ければここ数日中に狼煙が挙がる。菖蒲殿も一刻も早く城を立ち去られよ」
 と涼しい声で飛猿は答えた。
 「今までの調略工作は無駄になったということか?」
 「一番悔やんでいるのは幸村様じゃ。なんせ最初から自ら手を打っておられたからの。人の石垣からなる坂東武者の城を無血開城してみせると意気込んでおられたわい。ご心痛お察し申し上げたいのう」
 「ほれ、用土源信と申す者がおったろう? そいつも忍城へ行くのか?」
 「あいつは八王子城攻略の要じゃ。こちらに残るだろうな。しかしなんといっても役不足は否めん──」と言った時、彼女の口から用土源信の名が出たことに不審を感じた飛猿は、
 「ま、まさか、菖蒲殿も残るなどと言うのではないでしょうな?」
 と早口で言った。菖蒲は言葉を詰まらせた。
 「情が湧いたか? 甘いですぞ菖蒲殿。それとも何かあり申したか? どちらにせよ悪いことは言いません。幸村様の命令でもある。そうじゃ館を出たら真っ先に蓮のところへ行ってやるのがよい。いま松井田で虎之助が面倒を見ておる。菖蒲姉ちゃんはまだかまだかと半べそをかいておるぞ」
 「蓮か……早く会いたいものじゃ」
 「そうせい、そうせい。わしはこれから蜻蛉と忍城へ向かわねばならん。それとも菖蒲殿も一緒に参りますか?」
 「城でやり残していることがある」
 「そうですか、わかりました……くれぐれもバカなことはお考えなさるな!」
 飛猿はいつになく厳しい口調でそう言った。そこへ、
 「何の相談じゃぁ?」
 突然男の声がした。咄嗟に身構えた飛猿は、闇の中に立つその姿を一瞬にしてとらえ、
 「こ、甲山小太郎、いつの間に?」
 と声を挙げた。
 「お、お前──どうしてここにおる?」
 続けて驚きの声を発したのは菖蒲である。
 「悪いと思ったが、御主殿からずっと後を付けて来た」
 飛猿は怒ったように「付けられていたことに気づかなかったのか?」と蜻蛉の方を睨んだ。
 「相手がわしでは仕方あるまい。あまりそいつを叱ってやるな」と、いつもの減らず口をたたいた小太郎は、静かに菖蒲と飛猿の正面に寄って来た。戦闘意思はないと見定めた飛猿は、
 「ちょうどよいところに来てくれた。ひとつ借りをつくりたいがどうじゃ。菖蒲殿を無事に八王子城まで届けてくれぬか。城下は風魔がぴりぴりしておって危険だ」
 「わしも風魔党の一員じゃぞ。それでもよいか? しかし待てよ?わしは菖蒲の下臣でもあるなあ?」
 「どっちじゃ?」と、飛猿はまどろこっしい奴だなと頬をひくりとさせた。
 「大丈夫だ。小太郎は私の言う事なら聞く」と菖蒲が言った。小太郎は「余計なことを」と顔をしかめた。
 「それより何の話をしていた?」
 「お主には関係なかろう」
 「大ありじゃ、わしと菖蒲は──」と調子に乗って言いかけた時、「小太郎!」と菖蒲が遮った。気持ちは分かるが今言うべきことではない。飛猿は不審そうに二人の顔を交互に見つめて、「なんじゃ、なんじゃ、気になるではないか」と言ったが、続けて、
 「まあよい。では一つだけ教えてやろう」と、間もなく八王子城は戦場になるであろうことを教えた。そして、「わしは別の場所で仕事ができたゆえ行くが、お主もいつまでも風魔になんぞに仕えておらんで、今のうちに次の仕事を探しておけ」と悪たれを吐くと、蜻蛉と一緒に風のように消えてしまった。それを見送った小太郎は、
 「煙管の煙みたいなやつじゃのう」と冷やかした。
 「気が合いそうじゃのぉ」
 菖蒲は小太郎の顔を見てまたぷっと吹いた。
 「なにが可笑しい? しかし、その忍び姿もなかなかよいなぁ」
 「ばか──っ」
 木々のさざめきを作って二人の間に初夏の温かい黒い風が吹き抜けた。
 「いよいよ戦か──」
 小太郎がぽつんと呟くと、「一刻も早く城を出よ」と言われた事や、菖蒲は今聞いた情報をそのまま話すのだった。
 「どうするつもりじゃ?」
 すると少し考えて菖蒲はこう答えた。
 「今回のこの任務は、私が忍びとしての最後の仕事じゃ。どんな形で終わろうと、最後まで成り行きを見届けたいのだ……」
 小太郎はやさしく微笑んだ。
 「菖蒲がそう決めたなら、そうするがよいさ」
 「だが小太郎──」
 菖蒲は少し悲しそうな目をしてその名を呼んだ。
 「城の連中は思いのほか結束が固い。女子供まで槍を持って戦う覚悟じゃ。少数ではあるが火の玉となって敵を迎えうつだろう。あの城は簡単には落ちぬ。燃え尽きるまで」
 「怖いのか?」
 「うむ……」と菖蒲は初めて彼の前で弱気を見せた。
 「そうなったら小太郎、──私を守ってくれるか?」
 「無論」
 菖蒲は安心したようにニコリと微笑み、熊野神社の石段をゆっくり下り始めた。が、途中まで来たとき、不意に何か思いついたように境内に駆け戻ると、足元に転がる小さな石を拾って小太郎に見せた。ここが狭間隼人と安寧姫の二人が結ばれた願掛けをした場所であることを思い出したのだ。もとより浮世の戯言であることは知っている。己の住む世界とはあまりにかけ離れた俗世間の習わしであることも承知のうえで、それでも成就祈願の真似事をしてみたくなったのは、彼女自身知らない心の奥でくすぶっていた淡い乙女心であったに相違ない。
 小太郎は、彼女の白い掌に乗せられた小さな石を見て「なんじゃ?」と言った。
 「小石じゃ、お前も拾え」
 「なぜじゃ?」
 「いいから拾え──いや、そんなでかいのじゃダメだ、もっと小さな石だ、小石(恋し)じゃ!」
 「これでどうじゃ」と小太郎が拾った小石を、菖蒲は奪うように取り上げると、自分の拾った小石と重ね合わせ、黒頭巾の紐を引きちぎって堅くぐるぐる巻きにした。
 「なにをしておる?」
 「いいから見ておれ」と、続いて樫の御神木のところに立つと、堅く結んだその二つの小石を、根元に奉納して両手を合わせた。
 「なんの真似じゃ?」
 「いいからお前もやれ」
 小太郎は首を傾げた。ここは熊野神社である。この名の神社は熊野権現という三人の神を祀っている場所だと聞いたことがある。しかも忍びの者が神社の境内で手を合わせるなどあまり見たことがない。更にそのうえ菖蒲は、
 「お主はキリシタンではないのか?」
 「そのキリシタンの娘もこうしたのじゃ」
 「デウスさんが怒るのではないか?」
 「デウス様は八百万の神の頂点におわす神じゃ。ここの神とも通じておろう。つべこべ言わずにやれ!」
 小太郎は言われるままに両手を合わせた。

 鉢形城が落ちてからまだ五日と経っていない。
 前田利家を総大将とする豊臣軍は、横川に陣を敷いたとはいえ、万全な体勢を整えるには時間がかかる。城下周辺は今、突貫工事の建設ラッシュで、城へ通ずる全ての道を封鎖したかと思えば、仮の陣所や物見櫓、大砲を据える台場などが次々と建っていく。その様子に肝を冷やしながら、八王子城内御主殿の広間では深刻な軍議が行われていた。正面には北条氏照正室の比佐が飾り物のように置かれ、その脇に城代の横地監物が座している。他は老中、奉行などの重臣たちの面々で、その中に風魔党二番頭二曲輪猪助の顔もあった。
 城を取り囲む敵の兵力はざっと見て一万五千、迎え撃つ北条方は多く見積もっても三千足らず。しかもそのほとんどが戦の経験などない領民たちで、武士と呼べる者など五百人ほどしかない。加えてその頼みの綱の武士たちも、みな四〇を越えた古参ばかりで、たまに若者がいたかと思えば、まだ元服したばかりの十五、六の少年だった。戦って勝ち目など皆無なのだ。
 「氏照様が必ず来て下さる。援軍を待つしかない」と言う者もいれば、「開城やむなし」と言う者もいる。「城を枕に死ぬる覚悟で先制攻撃を仕掛けるべし」と言う者もいれば、「敵が動くまで待て」と言う者もいた。しかしいっこうに結論が出ないまま時間だけが過ぎた。
 そんなとき庭の方から子供たちの遊ぶ声が響いた。
 「うるさい! 静かにさせよ!」
 普段は穏やかな老中の一人、中山勘解由がいきなり怒鳴った。しかし「子供じゃ、よいではないか」と言う者など一人もない。
 そんな緊迫した空気とは裏腹に、側室の間では豊が菖蒲を相手に世間話に花を咲かせていた。ひょんなことからある夜滝に忍んで来た小太郎のことを思い出した豊が、「その後会っておるのか?」と執拗に聞くので、「この戦が終わったら一緒になるつもりだ」と顔を赤らめたところ、まるで自分のことのように喜んで、
 「それはめでたい! 祝いには何が欲しい?」
 と、全国津々浦々の名産品の話をし始め、「わらわが着ているこの振袖も、氏照様が京の都の西陣から取りよせてくれたものなのじゃ」と自慢げに見せるのだった。ところがその話にも飽きてしまうと、
 「わらわも氏照様にはよ会いたい……」
 と、ため息を落とし遠くを見つめた。
 「ところで朝から広間では何の話し合いをしておるのじゃ?」
 急に話題を変えてケロリとしているのはいつものことだった。しかし今日の場合は昨夜のある出来事を引きずっているようで、「そういえば昨晩、お比佐殿も呼ばれたと得意気に申しておったが、なぜわらわは呼ばれないのだ?」と不服を漏らす。
 「それはおかしなことですねぇ?」と菖蒲は吹っ掛けた。今更城内の動向を知り得たところで、情報を流すところなどないというのに、この城の行く末がひどく気になるのだ。
 「お笛様は氏照様の御内儀にございます。一緒にお話をお聞きになってはいかがです?」
 菖蒲にとっては側室付き侍女として、大広間の脇に控えて話の内容を聞ける絶好の機会だ。
 「それはよい。じゃが突然わらわが行って、皆がびっくりするのではないか?」
 「おそらくこの城の将来に関わる重要な会議をしていると思われます。その場にお笛様がいないでは、氏照様も悲しまれましょう」
 「百合の言う通りじゃ。よし、参る!」
 豊はそう言って立ち上がると大広間に向かい、軍議が行われている障子を無造作に開けた。そして「わらわも混ぜてくれ」と平気な顔をして比佐の隣にちょこんと座る。菖蒲は隣の部屋で襖を背にして控える正室付きの侍女に向かって目礼すると、その隣に正座した。
 なんの進展もない軍議に豊が現れたことで空気が一変し、氏照家臣たちは再び議論をかわし始めたが、とどのつまりは妙案など出るはずもなく、ついにしびれを切らした猪助は口をはさんだ。
 「風魔衆の二曲輪猪助と申す。恐れながら──かような軍議を続けていても、状況は何もかわりませんぞ。先の鉢形城では北条氏邦様もひと月以上よく持ちこたえられましたが、結局のところ敵の石火矢で総崩れと相成り申した。石火矢を配備されてからでは我らの勝機はなくなりましょう」
 「なにか策でもおありか? 申してみよ」
 横地監物が言った。
 「我らが生き残る道はただひとつ──敵の布陣が完全に整う前に、いや、もっと申せば、こうしている今この瞬間にでも、奇襲攻撃を仕掛けて前田利家の首を取る以外ありません」
 猪助は小軍が大軍と戦う必勝法を知っていた。それは奇襲戦法しかない。北条忍者集団風魔党の十八番である。それ以前に彼にとっては、鉢形の末野で謀られた真田昌幸の首のことを思い出すと腹の底から煮えくりかえる。将の首を討ち取ることは、彼の悲願ともなっていた。
 「源九郎義経の一ノ谷の戦い然り、毛利の厳島の戦い然り、また織田の桶狭間の戦い然り、そして我らが先師北条新九郎氏康公も、河越城の戦いで上杉、足利の大軍を僅かの兵力で破ったのじゃ。勝利はそうやってもぎ取るものではないか!」
 と吠えた。北条新九郎氏康は後北条家第三代目の当主である。天文十五年(一五四六)の「河越城の戦い」は、関東の政局を決定した重大な戦いで、北条家に勝利をもたらした彼の名は、いまや伝説的なものとなって彼らの精神的支柱ともなっていた。
 「しかしなあ、失敗したらどうじゃ? やはり氏照様が来るまで力を温存しておく方が……」
 と言ったのは平井無辺である。彼は端から籠城派で、本音を言えば無駄な血を流すことには反対して、できることなら開城の方策を訴えたいところであった。ところが、
 「氏照様は来ん!」
 と猪助が問答無用で叫んだので、無責任に聞こえたその言葉に「なぜそのようなことが言える!」と、籠城派の者達が立ち上がって目くじらを立てた。
 「よーく考えてみよ! 氏照様の守る小田原城とて、秀吉に睨まれて身動きが取れる状態ではない! 援軍など送っている場合ではないのだ!」
 小田原の様子を誰よりも知っているだけに彼の言葉には説得力があった。
 「いきり立って仲間割れしている場合ではないぞ! まあ座れ」
 監物は立ち上がった者達をなだめると、昔の佳き時代を思い出すように、
 「新九郎氏康様は天下に名だたる名将だった。関八州を平定したのも新九郎様であったのう。さっき猪助が申した河越城の戦いは夜襲であったな。どうじゃ皆の衆、年はとったが我々とて坂東武者のはしくれじゃ。氏照様のためにも、城を枕に死ぬる覚悟を決してみぬか?」
 城代にそう言われては、もはや異存を申す者などない。
 通説では八王子城の合戦は豊臣方が先に仕掛けたことになっている。八王子方にしてみれば百に一つの勝ち目もない戦であるから当然の発想ではあるが、筆者はふと首を傾げてしまう。豊臣方が先に仕掛けたとすれば不自然な点がいくつかあるからだ。
 一点目は戦が始まった時間と状況である。記録によれば前田利家が攻撃を開始したのは六月二十三日深夜、午前二時から三時とするものや午前一時から三時とするものがあり、しかもそのとき夜霧が立ち込めていた。豊臣は数万の兵である。仮に武力行使の決定がなされていたにしても、領民を含めた僅か数千の敵を相手に、わざわざそのような攻めにくい時間を選ぶだろうか?これは明らかに奇襲する側に利のある時間と状況なのだ。
 二点目は戦が開始された直後は、八王子方が優勢だった点である。豊臣方が先に仕掛けたとすれば、記録にあるような無残な押され方はしないはずであり、これは明らかに八王子方が念入りな罠を仕掛けていたことを意味するのではないだろうか?
 三点目は利家が最初に開城勧告の使者を送ったとき、城代横地監物はその使者を殺してしまったとされる点である。これは明らかに抗戦の構えである。
 四点目に、豊臣勢が鉢形城を落としてから八王子城攻めまでの日数が短いのではないかと思う点である。鉢形城陥落が六月十四日で八王子城攻めが六月二十二日深夜だからその間八日。数万の兵がおよそ一〇〇キロの道のりを移動するのに最低でも一日二日はかかるとして残り六日間、大将の利家が秀吉に謁見していたとしたら更に一日減ることになり、鉢形城でその威力を発揮した石火矢の運搬と設置の時間を考えればおそらくこの六月二十二日というのは最短だったとも言えるだろうが、鉢形を落とすのに一ケ月以上かかっている上に、八王子城も山の地形を利用した天然の要害であり、前身とも言える滝山城はかの武田信玄をして落とせず、それより強固な山城攻略にかくも安易に攻め込むものか?
 五点目に、これまで前田利家率いる北国軍は、さして大きな戦火を交えることなく開城勧告を主に支城を落城せしめて来た。それが秀吉の激昂を買ったからといって短絡的に行動に移すとは少し考えづらく、攻めるにしてももっと盤石な備えをしてからだろうと筆者は思う。
 八王子方にしてみれば、氏照が精鋭部隊を小田原城へ引き連れて行ってしまった時点で、城主の本城にて戦う覚悟を読み取っていただろうし、戻って来ないことは予測の範疇の上で、城主が戦う以上開城など考えなかった。何より六点目に、小田原城を守る氏政をはじめ、八王子城の氏照、そして鉢形城の氏邦はことごとく主戦派であり、彼らはみな「一代のうち数度の合戦に負けたことがない」とされる第三代当主北条氏康の子である。北条早雲以来、着実に成長、発展してきた北条家の“名門の誇り”があった。人間とは利害で価値を測るのでなく、最後は崇高な精神的価値に生きる動物でありたい。彼らには、籠城であれ野戦であれ、最後まで戦うしか道は残されていなかったに違いない。もしその状況の中で、仮に大将の首さえ討ち取ることができればという水中撈月な話が実現可能になったとしたら、奇蹟の夜襲成功を成し遂げた三代氏康の魂が、自分たちにも宿っていると考えても不思議はないのだ──。
 監物の言葉を受けて議論し尽くした強面の武将たちの視線が、最後の決断を求めて正面に座る正室比佐の方へ一斉に注がれた。
 「な、なんじゃ、その眼は──こ、この重大な局面を私に決めろと申すか?」
 比佐は目を丸くして震え上がった。そのとき、
 「よいではないか」
 と重い空気を引き裂いたのは豊の高い声だった。
 「わらわはようわからんが、その身体のでかい男が申したことが一番わかりやすかったし、良いと思ったぞ。いろいろ悩んでおらんでそうすれば良い」
 袋小路に突き当たり、万策尽きて次の一歩を踏み出せない時、ふと飛び出してきた鼠に驚いて、思わぬところに道を見出したような、豊のあっけらかんとした言葉はそこにいる者達の腹を決めさせた。菖蒲は静かに瞳を閉じた。

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