雷神の門 大運動会
> 第1章 > 嵐の前
嵐の前
はしいろ☆まんぢう作品  

 鉢形城を落とした北国軍はそのまま南下し、八王子城下町の手前に位置する横川村に到着すると、八王子城に降伏勧告の使者を出した。これまでさほど大きな戦いもせずに支城を開城させてきた前田利家は、ここでも同様の手段で臨もうとしたのである。
 「関白秀吉様の使いである。鉢形城はじめ周囲の城は既に明け渡たされている。八王子城も悲劇を見る前に早々お渡し願いたい」
 八王子城主は北条氏照であるが、前述している通り彼は精鋭一万の軍勢を率いて小田原城に詰めている。このとき留守居で城代を務めていたのは横地監物吉信という五十算の家老で、城にはもう老臣と、わずか五〇〇あまりの兵が残っているだけだった。ところが横地監物はその使者を斬り捨て、徹底抗戦の構えを見せたのである。
 利家は横川村に陣を敷き、上杉勢には城の東側の案下に火を放って威嚇するよう命じると、自らは上杉景勝と一緒に、小田原の笠懸山にいる豊臣秀吉のところへ、鉢形城攻略成就の報告に出たのであった。ところが面会した秀吉は「ご苦労であった」のねぎらいの言葉ひとつかけるわけでなく、
 「いつまでやっとる!」
 と激怒したかと思えば、利家の北条氏邦に対する厳罰の甘さを散々愚痴る。
 「が、しかし、関白様も降伏した者の命は助けて来たではございませぬか?」
 と言おうものなら、
 「ばっかもん!時と場合によるというのが分からんか!此度の北条は火種を残すわけにはいかん、根絶やしじゃ!信長公もそうしてきたのじゃ!」
 と取りつく島もない。挙句、
 「次は三日で落とせ!」
 と無理難題を吹っ掛けた上に、
 「いま利家の軍勢は三万か? 老いぼれしかおらぬ八王子を落とすにそんなにいらぬ。半分を忍城へ援軍に回せ」
 けんもほろろに突き返された。
 ちょうどその頃、館林城を落とした石田三成率いる別動隊は、忍城攻略に手間取っていた。三成は、秀吉が備中高松城を攻略した時と同じ水攻めの作戦を取るが、折からの大雨で堤が決壊し、逆に自軍に被害が出るといった憂き目を経験している真っ最中である。
 「あの剣幕では今度ばかりは和平交渉などと言っておれまいな」
 顔を見合わせ頭を抱える利家と景勝は、陣に戻るとやむなく直江兼続や真田親子を忍城へ派遣するのである。

 八王子城下は日に日に緊張感を増していた。
 城下を脱出して城に立て籠ろうと試みた五人の僧尼が前田兵に捕らわれ、「城内の様子を教えよ!命だけは助けてやる」と執拗に責められるがついには口をわらず、怒った兵はその五人の尼を斬り捨てた事件や、また、滝村の宝蔵院という男は将兵と小競り合いを起こして殺された。
 そんな著しく不穏な空気を読み取って、周辺の領民達は農民、商人を問わず陸続と城に結集していた。城に籠城し、城と命運を共にしようという者も少なくない。実にその数二千とも三千とも言われており、その半数近くが女、子供であったと想像すると、例えそれが触れによる召集だったにせよ、氏照という人物の領民からの慕われようが伺い知れる。
 大奥の敷地は御主殿と会所が建っている更にその奥にある。
 「最近ずいぶんとお館の周りが賑やかじゃのう?」
 城主氏照の側室お豊の方が、子供たちの遊び声が飛び交う外を気にして吹く笛の手を休めた。
 「お笛様、お稽古中でございます。怠ると氏照様が悲しまれますぞ」
 「それを言うな彦兵衛。わらわは笛を吹くのは好きじゃが稽古は嫌いじゃ」
 通称笛の彦兵衛は、本名を浅尾彦兵衛清範という武士で笛の名手であった。予てより氏照の笛の相手をして大変に気に入られていたが、豊の笛の指南役として普段から御主殿への出入りを認められていた。
 「わらわも遊びたい」
 「だめでございます」
 豊はぷっと膨れた顔を作ると、いつものように「百合、百合はおるか」と声を挙げた。
 「ここに──」と、菖蒲は襖を開けて平伏した。
 「藤菊丸を呼べ。一緒にすごろくがしたい。笛の稽古はもう飽いた」
 藤菊丸というのは氏照と豊の間に生まれた今年五つになる子の名である。この時代、上級武家の子の養育は乳母の仕事であるが、特に正室に嫡子がない場合、側室の子は正室の子として育てられたため、日常の生活は常に別々であるのが普通だった。
 「ただいま御主殿の庭にて、村の子どもらと遊んでおります」
 「それでこんなに賑やかなのだな? でもどうして村の童が御主殿に来ておるのじゃ?」
 「豊臣の兵が八王子城の周りを取り囲んだ様子にございます。それで行き場を失った領民たちが城に集まっているものと……」
 「戦が起こるのか? 百合、なんとかせよ。わらわは戦が嫌いじゃ」
 「御心配には及びませぬ。戦はおそらく起こりませぬ」
 菖蒲は平井無辺調略による無血開城のための工作をしている。調略工作といっても彼と直接接触してどうこうするわけでなく、城の者から情報を引き出し、知り得た情報を流すだけの役割を担うが、血を見るのは彼女とて不本意なのだ。すると、
 「なぜそんなことが言えるのだ?」
 笛の彦兵衛が怪訝な顔をして、「お主、坂東の生まれでないな?」と懐疑の目を向けた。一瞬「しまった」と思った菖蒲は、
 「きっと氏照様がお守り下さいましょう」
 と付け加えた。
 「その通りじゃ彦兵衛。疑うのは良くないぞ。百合はいいやつじゃ」
 豊がそうかばった時、庭の方から法螺貝の音がした。「戦が始まったのか?」と豊は驚いたが、続いて子供たちの大きな笑い声が響いたので、
 「おそらく“お祓い四郎兵”でございましょう」
 と彦兵衛が言った。城中公認の陣貝吹きだが、いつも自慢話ばかりしており、不意にお祓いの真似事をする変人だったから皆からそう呼ばれている。あることないことでっちあげ、大法螺をふくので周囲の者達は誰も相手にしなかったが、子供たちからは絶大な人気を博していた。老中の一人中山勘解由家範は、
 「よいではないか。陣貝吹きだけに法螺も吹くさ」
 と笑ったものだが、その子供たちの声があまりに楽しそうだったので、ついに耐えられなくなった豊は、「ちとわらわも行って見て来る!」と立ち上がると、そのまま部屋を飛び出した。
 「やれやれ、お笛の方様の天真爛漫さにも困ったものだ……」
 一人残された彦兵衛は、大きなため息を落とした。

 その彦兵衛の一番弟子に、狭間の郷出身の隼人という名の青年がいた。彼は宴でよく獅子舞が演じられると、ひときわ目立って笛を吹いたものだが、あるとき氏照が催した月夜峰の宴に出席できなくなった笛彦兵衛は、代理に彼を推挙した。その音色を聞いた氏照は、すっかりその才能に惚れ込んでしまい、以来宴といえば必ず狭間隼人の顔があった。
 そしてもう一人、宴といえば必ず呼ばれる姫がいた。氏照の家臣で篠村左近之助の一人娘、安寧という名の美しい乙女である。
 気付く読者もいるかも知れないが、この“安寧”という名は日本人名ではない。“アンネ”もしくは“アンナ”の当て字である。中国由来の言葉で世の「安寧(穏やかで安定していること)」を願って『安寧寺』とか『安寧門』というのもあるが、その時代有数の権力者が刮目するほどの、且つ、宴のような華やかな場所には常に置いておきたいほどの美貌の持ち主となれば、これはもうハーフであろうと筆者は考えた。問題はこの時代の小田原、鎌倉地方周辺に西洋人女性がいたかである。
 “アンネ”といえばドイツ人女性に多い名だが、当時の日本はドイツとの国交はない。あるとすればポルトガルかスペインだが、ポルトガルではあまり一般的な名でないのに対し、スペインでは“Anna”と綴って“アンナ”と読む女性名は一般的だ。日本の戦国時代のドイツは神聖ローマ帝国の一部であり、ルドルフ二世が皇帝だった時代である。ルドルフ二世は厳格なカトリック教徒で、幼少をスペインで過ごしイエズス会からも絶大な影響を受けていた。そのようなことを鑑みると、大航海時代の船に乗って、ヨーロッパから一人の女性がこの国に渡って来ていたとしても決して不思議でない。しかもトルデシリャス条約からの一五二九年のサラゴサ条約による日本列島分断の歴史においては、西日本がポルトガルの領域圏であるのに対し、東日本はスペインの領域圏である。日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルはスペイン人であるが、西日本の薩摩半島に上陸したのは遭難のためで意図的なものでない。とすれば、九州地方にあれほど頻繁にポルトガル人が渡航していた事実と重ねて、小田原や鎌倉にスペイン人が渡航していないのはおかしな話だ。
 ところがそのあたりの資料が見つからない。『北条五代記』には唐人渡来の図もあるし、一五六五年(永禄九年)には浦賀に明の船が来航した記録もあるので、後北条氏が明と貿易をしていたことは確かだが、とすれば南蛮船も来ていなければ不自然だ。
 昭和五十二年(一九七七)より継続的に行われている発掘調査では、主殿敷地内からベネチア産のレースガラスの破片が見つかっている。現地ガイドの説明によれば、北条氏照の家臣に間宮若狭守という者がおり、彼は天正八年(一五八〇)に使者として織田信長の安土城へ行っている。八王子城が関東の安土城と呼ばれるのもそのためで、石垣や御主殿へ続く虎口門からの石段の造りにその面影が見られる。ベネチア産のレースガラスは、その視察の土産として信長から拝受したものではないかとそのガイドは推察しており、この時代の小田原領内で、この手(西洋産)の品が見られるのは八王子城だけだとも言っていたが果たして本当なのだろうか。ちなみにこの間宮若狭守は、江戸後期に樺太や蝦夷の測量を行った間宮林蔵の先祖であるという。
 日本におけるキリシタンの歴史は九州を筆頭にした西日本が中心で、東日本におけるキリシタンが歴史に登場するのは慶長年間に入ってからである。ではそれまで全くなかったかといえば、それまた首を傾げなければならず、鎌倉にキリシタンがいたことは日本のキリシタン史では知られた話であるらしい。秀吉が九州で発したバテレン追放令によりキリシタンは一旦散り々々になるが、当初徳川家康は、貿易の実利を求めてそれを黙認していた。だから実質、家康が江戸幕府を開く以前から西日本のキリシタン信者が江戸に移住したり、宣教師が関東や東北で布教を始め、鎌倉にも立ち寄った記録も残っている。
 こうしたことを総合的に判断すると、やはりこの時代、八王子に西洋人女性がいたとしてもけっして間違いとは言えないとほぼ強引に結論付けた。所詮ベースとなる物語自体、伝承の域を脱しないのでその方が面白い。ともあれ北条氏照は、この“アンネ”という娘をたいそう可愛がり、城下の宴にはいつもそばに置いていた。
 そうして若い狭間隼人とアンネ姫は、宴といえばいつも顔を合わせるようになった。ひとり身の隼人がその西洋の血が混じる美しい姫の姿をひと目見て心惹かれない道理がない。やがて二人の目線が合うようになり、ついには姫の方もその美しい笛の音を奏でる凛々しい青年の熱い視線を感じると、頬を赤らめて目をそらす。その二人の様子を氏照も薄々気づいていた。
 ところが隼人には越えがたい悩みがある。身分の違いだ。アンネ姫が士族の娘であるのに対し、彼は城下町はずれの貧しい農民の子。しかし惹かれ合う二人にとって身分の壁は、曇りひとつなく磨かれた見えないガラスのようだった。けして結ばれることのない苦悩に苛まれながらも、ある日こんな約束をした。
 「熊野神社に来て……」
 アンネ姫が屋敷のある近くの神社に彼を誘った。彼女の父篠村左近之助は、八王子城下より北に一里ばかり離れたところ、滝山街道近く熊野神社周辺の森の中にクルス紋の家紋を用いた小さな屋敷を構えていた。妻は南蛮女性で、名は──知らない。青い目をした金髪の妻は、城下に出るとやたらに目立つので、それを気にした夫妻は目立たぬ森の中でひっそりと暮らしていたわけである。それ以来、熊野神社が若い二人の逢引の場所になった。
 「これを見て?」
 アンネが足元の小さな小石を拾って隼人に見せた。
 「石ではないか……これがどうした?」
 「ただの石ではないわ、小さいでしょ?小さな石──」
 「小石か?」
 「小石ではないわ、恋しい……」
 「なるほど──」
 隼人はそう呟くと、同じような石を拾って笑って見せた。するとアンネはその石を手に取り、髪を結っていた紐をはずすと、二つの小石を堅く結び付けた。
 「来て!」
 と、嬉しそうに駆け出す後を追えば、すぐに境内に生える樫の神木の前で立ち止まった。
 「この神社はね、そのむかし、諸国を旅した仲の良い夫婦が最後にやっとたどり着いて、紀州の熊野大社を祀ったところなんだって。素敵な話でしょ?」
 そう言うと、先ほど結びつけた小石を根元に奉納して、二人は目を閉じ手を合わせた。するとその功徳か、間もなく氏照から二人に思わぬ沙汰が下った。
 「次の月夜峰の宴で、笛と和琴の共演をせよ」
 と言うのである。アンネに和琴のたしなみがあることを氏照は知っていたようだ。そして迎えた当日、二人は八王子城の重臣達がいる前で、見事な演奏をやってのけた。大喜びの氏照は、
 「今の共演を聴いて勘づいた者もいるかと思うが、この二人は完全にできておる!」
 会場から笑いが起こった。
 「しかし笛吹きの隼人は農民出、士分の娘を嫁にとることはできん。しかしここはわしに免じて二人の婚姻を認めてやってほしい。隼人に士分を与えたいと思うが、左近之助どうじゃ?」
 もとよりアンネの父左近之助も南蛮妻を娶るほどの当時にして大変な変わり者である。おまけにキリシタンということもあり、主の下では男も女も平等という概念は当時の武士達より開けた考えを持っていた。
 「仰せのままに」
 宴は大いに盛り上がり、それから間もなく二人は結ばれた──。

 このめでたい話は城内でも有名である。菖蒲がその話を初めて知ったとき、脳裏にふと浮かんだ男は小太郎だった。
 そのアンネをはじめ士族の女房達は、みな御主殿大奥の庭園にある楼閣に集められていた。そしてときたまそこからもれる和琴の音は、アンネが奏でているものだった。女房達にせがまれたものか、自ら弦を弾いたものか──しかしその和やかな音色は、城に立て籠る者達の萎えそうな心に、確かに希望の灯をともしていた。
 そのころ菖蒲と夫婦約束を交わした小太郎は、ときたま前田兵が巡回して緊迫した空気を漂わせる八王子城下町の中を、鼻歌を歌いながら、浮かれた気分で闊歩している。