雷神の門 大運動会
> 第1章 > 菖蒲あやめの決意
菖蒲あやめの決意
はしいろ☆まんぢう作品  

 夜も明けようとする頃、八王子に着いた小太郎はまっすぐ御主殿の滝に来た。来たるべき戦いに備えてだろう、城山川のやや下流には堰が作られており、滝壺には満々たる水をたたえ天然の水堀となって御主殿の守りを固めていた。小太郎は滝の上方にある水汲み場に立ち、「まだ眠っているだろう?」と思いつつ呼び笛を吹く。常人には聞こえない笛の音が、胸の高鳴りに合わせて激しく揺れているのが分かった。暫く吹いて諦めた頃、その愛しい女は彼の前に立っていた。
 「どうした、こんな時間に。よほど明日にせぬかと恨めしく思ったが、うるさくて困るので出てきてやった」
 そう言いながらも薄化粧を施し、口に紅をさした菖蒲の表情は心なしか明るい。
 「おう、会いたかったぞ」
 小太郎は彼女を静かに抱き寄せた。
 「いきなりなんじゃ、離せ!」
 菖蒲はその腕を払って背を向けた。久し振りに会ったというのに、そのそっけない態度に温度差を感じながら、それでも「照れているのだろう」と思い直して「すまぬ……」と謝る小太郎に、菖蒲は「許す」と笑って見せた。
 「鉢形の方はどうであった? 風魔の目論見はうまくいったか?」
 最初はやはりその話題である。すべてを知っているような含み笑いで菖蒲は聞いた。
 「赤猿にまんまとやられたわい。影武者を使うとはよう考えたのう。あれは幸村の策であろうか?」
 「察する通りじゃ。稀代の策士であろう。それでいて私と同い年というのだから驚きじゃ」
 「なにっ?」と小太郎は声を挙げた。彼女と年が同じといえば自分とも同年代だ。もし幸村と同じ立場であったとして、果たしてあのような鮮やかな策を考え出せるかといえば甚だ疑問である。小太郎は自分以上にできる男の存在にますます落ち込んだが、菖蒲に知られては向きが悪いので、気を取り直して話を続ける。
 「鉢形城も間もなく落ちるだろう。次はいよいよ八王子だな。しかし滝壺を水堀にしてしまうとはうまいことを考えたな。菖蒲の方の算段は首尾よくいっておるのか?」
 小太郎は聞いた。
 「北条に付いたお前に話す馬鹿がどこにおる」
 「それもそうじゃ……」と小太郎は寂しそうに、深い淵のような滝の下流の揺れる水面を見つめて一つ小さなため息を落とした。
 「いつもの調子はどうした──何かあったか?」
 会えばから元気な小太郎の今日の様子がいつもと違っていることくらい、最初にひと目見たとき既に気づいている。
 「なんにもないわ。菖蒲の顔を見たからもう大事ない」
 「なんじゃ、話してみよ。私はお前の主人じゃ。主人は家来のことを知る義務がある」
 「話したら接吻してくれるか?」
 「それとこれとは話は別じゃ」
 菖蒲は少し怒ったふうを装って、近くの岩に腰を下ろした。
 「実はのう……」と、小太郎は胸のもやもやを、懺悔するキリスト信者のように語り出した。もとよりそれを聞いてほしくて菖蒲に会いに来たのだ。
 猪助を手玉に取って風魔を使い、天下をひっくり返そうと思ったところが、結局幻術の秘儀の秘密もつかめないまま都合よく働かされてしまったこと。表面上は頼りにしているような素振りをしながらも、め組の婆さんも猪助も結局疑いの眼で自分を見ていたこと。風魔の昌幸暗殺作戦においても、自分を作戦の中核に据えて進めてきたにも関わらず、結局最後は主戦場には従わせることなく、逆に飛猿と戦ってみたいという戦闘本能を利用されて丸めこまれてしまったこと。また、飛猿との決闘においても、最初から自分の動きを見透かされ、戦い始めた時には勝てる見込みがないことを思い知らされてしまったこと。そのうえ飛猿は、自分の相手をするばかりでなく、そのときすでに昌幸の影武者計画を実行しており、すべて計算通りに事を運んで、自分はそのレールの上を走らされていただけであったこと。加えてその策が(今知ったことだが)、自分と同年代の幸村が考えたものであること。おまけに飛猿にも軽くあしらわれ、赤子でもなだめるように「もっとよく考えて味方になれ」と誘われたこと──。思い出すほどにはらわたが煮えくり返り、
 「猪助も飛猿も幸村も気にくわん!」
 足元の小石を掴んで淵へ投げ込んだ。
 「術が弱くなっているのか?」
 と菖蒲が言った。忍術にもいろいろあるが、戦いにおける策や身のこなし、あるいはその時の状況に応じた閃きなども、全部ひっくるめて“術”と言う場合がある。例えば腕の立つ忍者の事を“術が切れる”とか“術回しが上手だ”といった表現をする。菖蒲はさも楽しそうに、
 「それでどうした?」
 その声は他人ごとのように涼し気だった。小太郎はむっとして彼女を睨む。
 「それより菖蒲、お主はわしの知らぬところで、わしを青二才と言っとるそうじゃないか」
 「そんなことを言った覚えはない。いったい誰が申した?」
 誤解だとばかりに彼女は咄嗟に答えたが、ふと何か思いついたように“ぷっ”と吹いた。その仕草が、髪結いの店にいた楓が「女難の相が出ている」と笑った様子とあまりに似ていたので、小太郎はますます腹が立ってきた。
 「なにが可笑しい?」
 「ひょっとして飛猿がそう申したか? まんまと乗せられおって。そういうところを青二才だと言ったのであろう。私は言ってはおらんぞ」
 菖蒲は可笑しくて、珍しく声を挙げて笑った。その表情が可愛くもあり、美しくもあり、無性に愛おしくなって、小太郎は今すぐにでも抱きしめたい衝動に駆られた。
 「ほれ、いま確かに“青二才”と申したぞ!」
 菖蒲の笑いは暫く止まらなかったが、やがて、
 「小太郎、お前は周りのことにいちいち腹を立てているようだが、それらは小太郎自身の鏡であるということを忘れておるのではないか?」
 と言った。
 「どういう意味じゃ?」
 「お前を取り巻く環境は、お前自身が作り出しているということじゃ。風魔や飛猿の小太郎に対する振る舞いや所業は、お前の心をそのまま映しているのだ。小太郎は、風魔や飛猿や幸村様に腹を立てているのではなく、己自身に腹を立てておる」
 「なぜわしがわしに腹を立てねばならん?」
 「未熟だからであろう」
 気にしていることをずけずけと言う女である。その言葉は父親同様日の本一の忍者を名乗りたい彼の心に深く突き刺さったが、彼女が言うと不思議と腹が立たない。
 「知ったようなことを言いおって。こんな話をして損をした気分じゃ!」
 「私が慰めるとでも思ったか?」
 「思った──」
 小太郎は菖蒲のところに寄っていき、その隣に腰を下ろして彼女の横顔をじっと見つめた。そしてめ組の婆さんが「その女もお前を好いておる」と占った言葉を思い出し、この美しい女が自分のものであると信じると、夢心地で瞳や眉や唇や、うなじに生える産毛などをうっとりとして見とれるのだった。思えば贄川の宿で会ってより、一度は命を狙われ、博多では逆にその命を救い、気づけばいつのまにか今のような妙な関係になっている。人の縁とは不思議なもので、誰がこうなることを予想しただろう。そのくせ彼女の生まれや生い立ちなどについては何ひとつ知るわけでなし、感情だけが先走って無性に股間を熱くする。所詮男女の関係とはそんなものか?と納得するも、無意識のうちに鼻の下が伸び、目じりが異様に下がっているのが自分でも分かることが嫌だった。
 「どうした? また妙な気を起こしたら痛い目にあうぞ」
 菖蒲は警戒して少し離れて座りなおす。
 「のう菖蒲……普通おなごというのは男が落ち込んでいたら、何も言わずに優しく抱きしめてくれるものではないのか?」
 「それはどんな妄想じゃ? 私は女郎ではない。望むなら女郎小屋に行け」
 「お主でなければだめなのじゃ……」
 小太郎は菖蒲の方へすり寄った。菖蒲は戸惑ったように上半身をしなやかに遠ざけたが、その肩は、男の強い腕によって引き戻された。
 暁鐘を迎えようとする東の空は、ほんのわずかに白み始めていた。菖蒲の貞操観念はその状況から逃れようと必死に言い訳を模索した。
 「そろそろ笛様を起こす準備をしなくてはならん──すまんが──」
 と顔を向けた時、その口に小太郎が吸い付いた。菖蒲は目を見開いた。
 「やめろっ!」
 と抵抗するも無理やり押し倒されて、二人は一面に萌え出したばかりの雀の帷子の中にずれ落ちた。菖蒲は小太郎の腕の中で必死にもがいたが、もう女の力ではどうにもならない。
 「やめよ! お前を嫌いになってしまうではないか!」
 小太郎はふっと力を緩め、両手で女の両腕を抑えたままその瞳を凝視した。そこには唇を強引に奪ったあの日と同じ、夜叉のような光が宿っていた。
 「今度は舌を噛み切るだけでは済まんぞ。お前のあそこを掻き切るぞ!」
 小太郎は「ハッ」と我に返った。舌を噛み切られた時のことを思い出したのと同時に、くノ一が男を殺める時の最終手段を知っていたからである。くノ一などどこに刃物を隠し持っているか分からない。膣の中に常備していると聞いたこともある。つまり性交渉をするときばかりは、どれほど腕の立つ達人でも一瞬の隙が生ずるという動物本能的な欠点があることだ。これまでもそうして生殖器を切られたという男を知っていたし、忍びにとってそれはとても不名誉なことでもあった。
 小太郎は菖蒲から離れて「なぜ拒む!」と叫んだ。
 菖蒲は襟元を整えながら悲しそうな目をした。
 「なあ小太郎……お前の術が以前より衰えているのは、もしかして私のせいではないか?」
 「そんなことはあるまい」
 「しかし聞いたことがある、女に懸想した途端に術が使えなくなった話を──」
 「そんなことは──」と言いつつ、思い当たる節がある──というより図星ではないか! 小太郎は今更のように自分の中の彼女に対する恋慕の思いが誠であることに驚いた。
 「お前は本当にこんな私を好いてくれているのか?」
 「前から申しておる」
 「伊賀者は信用ならぬと教えられた。それに、私はサタンかも知れぬぞ。自分で自分がようわからなくなる時がある──」
 「承知しておる。でも、己のことをそんなに悪く言うな。菖蒲はわしにとっては菩薩じゃ」
 「またそんなことを……。忍びの言葉はみな信用できん。特に伊賀者はな。しかしお前なら信用してもよいと思うておるのじゃ」
 菖蒲は混乱する気持ちを抑えるように、すくっと立ち上がると川の際に立ち尽くした。
 「実は少し前から考えていたことがある──」
 「なんじゃ?」
 「此度の戦が終わったら、くノ一をやめようかと思うておる」
 意外な言葉に小太郎は首を傾げた。しかしそれは彼女の決意であり、彼女の人生における大きな決断でもあった。その気持ちを小太郎が理解するには、あまりに彼女のことを知らな過ぎた。
 「やめてどうする?」
 菖蒲は急に恥じらいを見せると、小さな声で確かにこう言った。
 「お前さえよければ……夫婦になろう」
 「な、なんと申した?」
 「女に二度も言わせるな!」
 小太郎はまさか彼女の口からそのような言葉が出るとは夢にも思っておらず、呆然自失して言葉を失った。しかしその真剣な眼光を見た時、俄かに天に昇るような幸福感を覚えた。これまでにも楽しい事や嬉しくなる事は幾たびもあったが、これほど複雑で、かつ胸がときめくような歓喜が湧いてきたのは生まれてこのかた初めてのことだった。
 「いやか?」
 「そんなはずはなかろう。だが少し驚いた。お主の方こそこんなわしでよいのか?」
 菖蒲は「うむ」と頷き、「お前は悪い奴ではない、いいやつだ」と言った。
 「異存はあるか?」
 「ない──わしは天下一の果報者じゃ」
 菖蒲がしおらしく微笑んだとき、空の白は少しずつ辺りに光の生命を吹き込み始めた。
 「そうと決まれば、一刻も早くこの戦いを終わらせなければならんのう」
 「なんじゃ、天下をひっくり返すという野望はもう終いか?」
 「お主を妻にすること以上の野望がどこにある?」
 「相変わらず歯の浮いたような科白がよく出てくるものじゃ」
 「生まれつきじゃ」
 菖蒲は呆れたように笑むと、急に神妙な顔つきに変えて、
 「ひとつだけ約束してほしいことがある」
 と言った。
 「なんじゃ?」
 「私はデウス様に仕える身。同じものを信じてもらえぬか?」
 小太郎は静かに頷いた。