雷神の門 大運動会
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真田昌幸討たれる
はしいろ☆まんぢう作品  

 小太郎と飛猿が末野へ向かう頃、猪助による真田昌幸暗殺計画はまさに実行されようとしていた。山城である虎ケ岡城はわずか一〇〇人あまりの兵で必死に抵抗したが、数の力で難なく攻略を成功させた昌幸は、山を降りて麓を流れる荒川沿いに出た。そしてそのまま花園城方面へ向かって進軍するが、数千もの兵が片田舎の細い街道を移動するわけだからおのずと長蛇の列になる。しかも馬に乗っている武将は大将クラスの僅かな数で、そのうえ昌幸の周りを取り囲むようにして歩く護衛の馬廻り達は、「真田安房守昌幸様ここにあり」と言わんばかりの大きな赤い六文銭の旗を掲げていたから、彼の存在は遠くからでもよく分かった。
 「あいつじゃ、間違いない。いい具合に風も吹いておる。奴が野に出たら“まやかし玉”を炊け」
 葦の茂みからその行列を見つめていた猪助は部下の一人にそう命じると、自らは“は組”の騎馬隊が待機している場所へ行き、黒頭巾の一部をマスク替わりにして鼻と口を覆うと、忍び刀を背負って馬にまたがった。黒頭巾は“まやかし玉”から出る匂いと煙封じの役割もあるのだろう。
 やがて昌幸がひらけた野に出たとき、芳しい微香と共に、あたりは俄かに靄が立ち込め、瞬く間に周辺を深い霧のように覆った。昌幸の兵達は「何事か?」と言いながら足を止め、周囲を四顧して警戒を深めたが、やがて心地良い香りにうっとりとして、すっかり緊張感を和らげた。
 「この霞は何か?」
 馬上の昌幸が聞いた。
 「今日は少し肌寒く、近くに川が流れておりますゆえ、霧が立ち込めたのでありましょう」
 「それにこの匂いはなんじゃ?」
 「およそその土地々々の匂いがあるものでございます。きっとこの土地特有の植物が香っているものでしょう。良い香りではありませんか、新緑の候ですなぁ」
 馬廻りが知ったかぶって答えた時、行列の脇、霞の中に、“め”の字の書かれた幟を掲げた二、三〇騎程の馬に乗った忍び装束の一隊が忽然と姿を現した。
 昌幸はぴたりと馬の歩みを止めた。
 小太郎と飛猿が現場に到着したのはちょうどその頃だった。二人は辺くにあった農作業用の掘っ立て小屋の陰に身を潜めると、じっとその様子を伺った。
 「はじまるぞ。鼻をつまんでおけ、さもなくばお主も幻術にやられるぞ」
 飛猿が言ったので、小太郎は言われるままに鼻をつまむ。するとどこからともなく意味の分からない呪文のような声が空から降ってきた。声の出どこは風魔の騎馬隊からのようである。小太郎は「例の呪文だ」と思いつつ、
 「何と言っておるのだ?」
 飛猿は全てお見通しだとばかりにニンマリ笑んで「梵語じゃ」と答えた。しかし梵語なら小太郎も多少は知っている。特に『वै(臨)』『(兵)』『हः(闘)』『हँ(者)』『ं(皆)』『स(陣)』『ीः(裂)』『(在)』『मँ(前)』の九字からなる護身法なら、仏神の加護により病魔や災厄を身から遠ざけるとされ、その“印”の結び方から“呪”の唱え方まで、物心つくころには覚えさせられたものだ。それぞれに対応した梵語があり、また、それぞれに諸仏、諸菩薩、諸天善神の名が対応している。「臨」には「毘沙門天」と「天照皇大神」、「兵」には「十一面観音」と「八幡神」、「闘」には「如意輪観音」と「春日大明神」、「者」には「不動明王」と「加茂大明神」、「皆」には「愛染明王」と「稲荷大明神」、「陣」には「聖観音」と「住吉大明神」、「裂」には「阿弥陀如来」と「丹生大明神」、「在」には「弥勒菩薩」と「日天子」、「前」には「文殊菩薩」と「摩利支天」という意味があり、朝晩には勤行のように“印”を結び“呪”を唱えることを習慣づけられた。子供心にあるとき、
 「そんな仏神が本当におるのか?」
 と不思議に思ったことがあるが、
 「それらは人の形をしているわけではない。お前の周りの働きのことを言っておる。お前が良い行いをしておれば仏菩薩はお前に良い働きをしてくれるし、悪い行いをしておれば悪い働きとなって顕われる」
 と母が教えてくれた。
 「目に見えぬのならわからん」
 と応えれば、
 「目で見ようとするから見えぬ。感ずるのだ。肌や身で“観”ずる──さすれば諸天善神、諸菩薩の御姿が観えてくるものじゃ」
 幼い小太郎は「そんなものか」ときょとんとした顔を向けたが、その愛する母は、織田信長の伊賀攻めの際、うす汚れた足軽に犯された挙句にあっけなく殺された。そして伊賀も滅び去ってしまった時、全てがただの観念であることを悟ったのだ。
 ともあれ、もともと九字護身法などは、仏教、とりわけ密教から派生し、日本で独自の発展をしてきたものである、そもそも忍者のルーツをたどれば天台と真言の密教を修行する山伏等が祖とされているからそれらの梵語とは無関係でない。ところが風魔が唱える“呪”は、小太郎が知るところの梵語とはまるで別物で、その流暢すぎる発音や抑揚は異国の言葉そのものだった。
 「奴らの梵語は日本に伝わる真言密教由来のものではない。むしろ大陸から直接もたらされた原語に近い言葉ではないかとわしは見ておる。風魔の先祖は大陸から渡って来た騎馬民族だという話を聞いたことがあるからな」
 飛猿はこれから起こる出来事に興味津々な様子で言った──。
 さて、突然の出来事に慌てた昌幸であるが、
 「何奴じゃ!」
 と敵を威嚇するような大声を挙げた。ところが周囲の兵達は一人二人とみるみる顔が蒼白になっていき、やがてざわめきが生じたかと思うと、ついには口々に奇声を発した。そのはずである、行列の前に突如として現れたのは、戦ってもとても勝ち目などなさそうな驚異の武装をした、数万とも思えるほどの数の大騎馬軍団であったからだ。昌幸隊の兵士はことごとく幻術にかかり、その陣列は一気に乱れた。中には逃げ出す者も出て、将たる昌幸までが驚きのあまり馬上から転げ落ちる始末。
 飛猿はその戦術を観察しながら、
 「見てみろ、慌てているのは兵達だけじゃ。さすがの幻術も馬には効かぬと見える」
 見ればなるほどその通りで、慌てふためく兵達の中で、歩みを止めた馬だけは呑気に足元に生えている野草を食べている。まるで高見の見物の飛猿は、馬とは対照的な逃げ惑う兵達の様子を見ながら、さも面白そうに声を出して笑った。そうなると小太郎の方が心配になって、
 「安房守を助けにゆかんでよいのか?」
 と聞くと、
 「なあに大丈夫だ。昌幸様は簡単にはやられはせん」
 と、飛猿は戦う気などないといった様子で観察に夢中であった。
 そうこうしているうちに、猪助を先頭にした風魔の騎馬隊が一斉に駆け出し、落馬した昌幸一点めがけて疾駆した。それでも立ち向かう弱腰の歩兵達を跳ね除け蹴散らし、馬から飛び降りた猪助は背の忍び刀を引き抜いたと思うと、えも言われぬ速さで昌幸の首をかき斬り、生首を高くかざして「退散じゃ!」と叫んだ。
 それは時間にして一分にも満たない目の覚めるほどの鮮やかな活劇のようだった。風魔の騎馬隊が一陣の風のように立ち去った後は、首のない昌幸の亡骸を抱き上げて、兵達の動揺と慟哭の声が響き渡ると、やがて霧も晴れていった。
 「簡単にやれてしまったぞ……?」
 小太郎は呆れて飛猿に目をやった。飛猿は慌てた様子もなく「まっ、そういうことだな」と他人ごとのように呟やくと、小太郎の肩をぽんと叩いて、
 「次に会うのは八王子か? まあそれまでにどちらに付くか、も一度よく考えておけ」
 と言い残すと、煙のように姿を消した。小太郎は飛猿のあっけらかんとした態度に首を傾げつつも、負けたような思いになって「チッ」と舌打ちをした。

 小太郎が髪結いの店に戻ったとき、中では“め組”の女達が忙しく動き回っていた。「小太郎ちゃん、お帰り」という楓の明るい声に迎え入れられた彼は、
 「なんの騒ぎじゃ? 祭りでも始めるか?」
 と聞けば、
 「これから祝杯を挙げるんだってさ。すごいのよ、真田昌幸の首を捕ったのよ!」
 と我が夫の手柄のように喜んだ。
 「猪助はどこじゃ?」
 小太郎は浮かれた気分になれるはずもなく、いの一番に猪助にもの申したいことがある。
 「離れで身支度してるよ。すぐに小田原へ報告に行くんだって」
 言い終わらぬ楓の目の前から一瞬にして消えた小太郎は、離れの猪助が着替える部屋へ無造作に入り込んだ。
 「よう甲山、ご苦労であった。お前が飛猿を抑えていてくれたおかげで昌幸の首を捕ったぞ」
 と、いきなり現れた無礼な小太郎に腹を立てる様子もない猪助は、部屋の隅に置かれた風呂敷に包まれた四角い箱を指さしてひどくご機嫌な様子で言った。中に昌幸の生首が入っている。
 「そのことじゃ! なぜわしに飛猿の相手なんぞさせおった」
 「なにをいきり立っておる? 飛猿の相手はお前にしかできぬ仕事と思ったからに決っとる。お前も喜んでおったではないか。不服だったのか?」
 「風魔の戦術をわしに知られぬためではないのか? わしを信用しとらんのであろう!」
 「さては飛猿に入れ知恵をされたな? 信用なんぞ最初からしておらぬわ。それがいやなら今すぐ出てゆけ。風魔はお前なんぞ必要としておらぬ。端から申したはずだ」
 のっけからそう言われてしまえば、小太郎には返す言葉がない。猪助は続けた。
 「わしはこれから昌幸の首を持って小田原へゆくが、甲山はどうする? これから“め組”の連中は宴会じゃそうだ。お前もたまにはゆるりと酒でも飲むがよい。次の指令は追って伝えるから、しばらくは鉢形におれ」
 「どうせここもすぐに落ちる」
 「いや分からんぞ。真田昌幸が死んだとあらば士気は一気に北条に傾く」
 「どちらが勝とうと興味がないわ。わしは天下をひっくり返したいだけじゃ。酒飲みはやめにして、次の戦場になるであろう八王子へ先に行っておることにする」
 そんなことを言って一刻も早く菖蒲に会いたい。このやるせない心のもやもやを打ち明けて、早く楽になりたかった。
 「熱心じゃな。まあ信用されるように励め」と、猪助は袴の帯をぎゅっと締めて、大小の刀を腰にさすと、風呂敷包みの箱を持って颯爽と部屋を出ようと襖を開けた。
 と、その時、血相を変えた一人の“め組”の男が跪き、
 「ただいま猪俣城が落ちたとの報が入りましてございます。それが……」
 男は少し言いにくそうに言葉を止めた。猪俣城は虎ケ岡城や花園城同様、鉢形支城の一つである。
 「それが──どうした?わしゃ忙しい、はよ申せ」
 「真田安房守が現れたとかで……」
 「バカを申すな、奴の首ならここにある!」
 と、まるでタイミングを計っていたかのように別の男が現れて同じように跪くと、
 「申し上げます。ただいま真田昌幸により天神山城が陥落したとの報告が入って参りました」
 と急報を告げた。猪助の表情がみるみる鬼のように変わっていった。小太郎は、猪助が昌幸の首を捕ったとき、少しの動揺も見せずに笑って様子を眺めていた飛猿の赤い顔を思い浮かべて合点した。どうやら時を同じくして真田昌幸が何人も出没しているらしい。
 「影武者か!」
 猪助は身体をぶるぶる振るわせて手にした風呂敷包みを床に叩きつけると、せっかく着付けた紋付き袴を脱ぎ捨て、
 「甲山、ついてこい!」
 「わしはこれから八王子に参る」
 「勝手にしろ!」
 猪助は叫んで荒々しく部屋を出て行った。
 その報は小太郎にとってもどことなし不愉快だった。猪助からは小間使い程度にしか扱われず、つい先ほどまで一緒にいた飛猿は影武者のことなど一言も言わなかったし、今ごろどこぞでほくそ笑んでいるかと思うと、その才に嫉妬もしたし腹も立った。結局自分はいずれからも蚊帳の外に置かれてもてあそばれているだけと思うと、先ほど抱いていたさるせなさに輪をかけて菖蒲に会いたい。小太郎は悔しさを振り払うように鉢形を発った。

 真田軍の周辺支城攻略の報が次々ともたらされたころ、鉢形城の大手門前には前田軍が布陣し、搦手門の方には上杉軍が布陣して、もはや開城は時間の問題と思われていた。ところが北条氏邦は降伏する気配も見せず、かといって天然の要害とも言える城への直接攻撃にはなかなか踏み切れない前田利家は躊躇していた。
 その態度についにしびれを切らせたのが徳川家臣本多忠勝だった。予ねてより築いた車山の発射台から石火矢攻撃を開始したのである。これにより城内は甚大な被害を被った。さらにはその騒ぎに乗じて徳川家臣の平岩親吉も、大手門の北側にある諏訪曲輪を攻撃して占拠する。このことで状況は大きく動く。ついに北条氏邦は、城兵の助命を条件に開城を決意したのである。時に天正十八年(一五九〇)六月十四日の事である。このとき鉢形城に籠城していた城兵には、士族ではない領民も多数含まれていたという。
 氏邦は剃髪して菩提寺である正龍寺に蟄居し名を宗青と改めた。鉢形開城の報告を受けた秀吉は「なぜ氏邦を切腹させぬ!」と激怒するが、一刻も早く小田原を落としたい秀吉は、前田、上杉連合軍を直ちに八王子城攻略へと向かわせた。その後氏邦は前田利家の預かりの身となり、鉢形を後にして加賀に赴く。そして慶長二年(一五七九)、五十七年の生涯を閉じる。
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