雷神の門 大運動会
> 第1章 > 甲賀の飛び猿
甲賀の飛び猿
 さて、温泉を出て久かたぶりの布団に入ってはみたものの、小太郎の脳裏には夕食前に見た菖蒲あやめという名の女のことばかりが浮かんで、すると、なにやら股間がむずむずとしていつまで経っても寝付けない。おまけに風呂で出会った赤猿が、あの女の亭主と聞いたからには、隣の部屋で二人がいま何をしているのか気がかりで仕方がない。しかも隣部屋に通ずるふすまの向こうからは、いつまで経ってもこそこそ話が途切れないのだ。
 「末蔵すえぞう、寝たか……?」
 「いいや……、お隣が気になって眠れん……」
 「わしもじゃ」と、小太郎は物音をたてずに布団から抜け出すと、襖に耳をあて、赤猿たちの会話を盗み聞きしようと試みた。ところがその襖からだと距離があるらしく、忍びで鍛えた聴力をして聞き取ることはできなかった。
 「こりゃ天井に上がらんと聞こえんぞ」
 「そのうちナニ≠ェはじまるな……」
 すでに鼻の下を長くした小太郎と末蔵は、「のぞき見に行くか?」と思い合わせたように、自分たちの部屋からこっそり天井裏へ忍び込んだ。天井裏に身を隠すのは遁術とんじゅつのいろは≠ナ、そんなことなら末蔵にもできた―――。
 果たして赤猿と菖蒲あやめは、ちょうどいま小太郎たちの真下にいる。
 ところが会話の中身といえば期待していたものとは程遠く、世の中の情勢に関わる複雑な話をしているようで、二人が夫婦めおとでないことは、赤猿が菖蒲に対して平伏していることからもすぐに判った。小太郎と末蔵は首を傾げた。
 「拙者せっしゃ伏見ふしみまでしかお伴できません。その後、駿府すんぷに参らねばなりませんから。いやいやご心配は無用、拙者の手下どもが菖蒲様をお守りしてそのまま大坂まで届けてくれます」
 「承知いたしました。飛猿とびざるは駿府ですか。何用で?」
 飛猿とびざる≠ニ聞いて、小太郎の脳裏にはひとりの甲賀者の名が浮かんだ。
 甲賀こうがの飛猿―――。
 その名は忍びの者ならおそらく知らぬ者はないだろう。
 『身軽なことムササビの如く、刀を握れば九郎くろう義経よしつねの如し。がまがえるを家来に従え、毒蛇を自在にあやつる。走ればひと夜で百里の道をゆき、水土すいどとんずること七日間。雲霧うんむに潜んで瓢箪ひょうたんの如く現われ、雷雨らいうを起こして風の如く消滅する―――』
 この例えは買いかぶりの比喩ひゆに違いなかろうが、その忍術の巧みさは日本一とのうわさである。小太郎はいくら忍びでもそんな馬鹿なことができるものかといつも鼻で笑っていたが、当の飛猿は今、信州は真田家に仕えていると聞く。
 「あの赤猿め、甲賀飛猿に相違あるまい―――」
 いわゆる甲賀は伊賀の北側に位置する隣国である。伊賀と並んで全国に知れ渡った忍びの産出国であるが、伊賀の乱のような悲劇がなかった分、当時人材も多く活躍の場も広かった。その昔は互いに知り得た情報を交換しあい、両国繁栄のための協力体制もしっかりしていたが、こと織田信長の勢力が台頭するようになってからというもの、手柄の奪い合いやうその情報を流すような勢力争いが頻繁ひんぱんに起こり、そのうち互いの存在を警戒するようになっていた。
 甲賀も伊賀同様、国主というものを持たないそう≠ニ呼ばれる政治的組織を形成しており、信長台頭以前、その勢力は南近江みなみおうみの大名六角ろっかく義治の傘下さんかにあった。ところが永禄十一年(一五六八)、六角氏が信長に滅ぼされると、甲賀の立場は微妙なものとなる。信長にとっては敵対関係であり、伊賀同様の怪しい組織形態はけっして見過ごすことはできなかったはずである。いわば甲賀においても伊賀の乱同様の事件が起こってもおかしくはなかった。
 しかし地形がそこに住む人々に与える影響というのもけっして無視できない。甲賀の人々は国境から二里も行けば、さして地形的な障害もなく、日本一の広さを誇る琵琶湖びわこに達した。豊富な水と湖で獲れる食の恵みを受けられるその影響からか、四方を山で囲まれる土地の人間より人柄もおおらかで人当たりも良かった。要するに外交能力に優れていた。加えて甲賀出身の滝川一益かずますという武将は信長の重臣に取りたてられており、それゆえか伊賀の乱では甲賀は織田家に従属して派兵までした。以来両者の犬猿の仲はますます深刻なものとなり、信長もついには甲賀を攻めることはなかった。
 組織が大きい分、甲賀忍者は集団諜報術ちょうほうじゅつを得意とした。また甲賀には伊賀のように上忍、中忍、下忍というような身分はなく、地侍じざむらいの五十三家と、特に六角氏傘下以来の二十一家が中心となってその組織全体を束ねていた。家つまり領主とその土地に住む住民との関係はあっても身分はない、諜報活動においてはいわば甲賀飛猿こうがのとびざるのような技能有能者こそ、その親玉的な存在になり得たのである。飛猿の出現は小太郎の闘争心に、にわかに燃え上がる炎を点した。
 真下の会話は続いている―――。
 「大きな声では言えませんが、昌幸様の書状を家康に届けねばなりません」
 「昌幸様の?では、いよいよ……」
 菖蒲の声はどこまでも透明で、その中に腹の座った気丈な覇気はきが隠されている。「ただの女ではないな」と小太郎にはすぐに分かった。
 「左様。三月あたりには昌幸様は家康と会うことになるでしょうな。それにしても武田家が滅んでからの昌幸様のご心痛といったら見てはおれんでござる。いくら小さな大名とはいえ、徳川、北条、上杉の三者ににらまれ、おまけに大坂からは幸村ゆきむら様を人質に出せと言ってくる。昨年は昨年で家康の奴め、またりずに上田に攻め入ろうとするし―――。今は表面上、家康の配下にはなっているが、しかしそれは昌幸様の本心ではござらん。家康は煮ても焼いても喰えんぞ。いつ秀吉に反旗をひるがえすか知ったものではない。小国の定めとはいえほんとに辛いお立場でござる。だから今の真田家は近隣に愛想を振りまき、どっち付かずの均衡きんこうを保つことが肝要でござる。それゆえ菖蒲様の任務も相当重要ですぞ」
 「分っております」
 「まあ幸村様が大坂におりますので、首尾よく取り計らってくれましょう。菖蒲様は秀吉の近くに身を置き、その動きを逐次ちくじご報告くだされば良い。ご苦労をかけますがご容赦ください」
 「わたくしの定めでございます」
 「くの一か!」と、小太郎は思わず声をあげそうになった。菖蒲あやめは続けた。
 「ところで隣部屋の男連れですが、わたくしの顔を覗きに来たようでしたが……」
 小太郎は「しまった!勘付かれたか?」と末蔵の方へ目を移せば、末蔵は寒さのために体をがたがたと震わせている。天井裏に忍び込むまでは良かったが、どのような環境下であれ、長時間同じ場所に潜むという術を、この男はまだ会得していないのだ。
 「なに?隣の?菖蒲様のお顔を……?」
 「はい。少し気になったもので……」
 「なあに心配には及びませんでしょう。拙者も風呂で会いましたが、一人は陶芸の熱狂者で、もう一人の方は非常に勘繰かんぐり深い剣士のようでしたが、どちらもまだ毛が生えたばかりの青二才、おおかた物見遊山ものみゆさんの道中でありましょう」
 とその時、末蔵がくしゃみをしそうになった。小太郎は慌てて口をおさえたが、そのかすかな音は下の会話をぴたりと止めた。「しまった!」と思うと同時に小太郎は盛んに猫真似ねこまねをする。末蔵に猫の声色こわいろをせよというのである。末蔵はすかさず猫の鳴き真似をした。が、会話は再開されることはなかった。続いて小太郎は口元でねずみの声色をせよと伝えた。猫と鼠の争いを演じろというのだ。末蔵はすぐに了解した。それはまさに天井裏で繰り広げられる猫と鼠の死闘の争いだった。やがて猫は鼠を追いかけてどこかに行ってしまうというシナリオだが、ここが演芸場ならば拍手喝采を浴びる迫真はくしんの演技である。
 これならだませたと安心した時、薄い天井板をつらぬいて、小太郎の眼前に刀のやいばが突き刺さった。その一突きでバランスを崩した小太郎と末蔵は、そのまま天井板を破り砕いて真っ逆さまに飛猿の前に落ちた。
 「何者だ!」
 驚いたのは飛猿と菖蒲である。飛猿はすかさず戦闘の構えを取ると「貴様らか!」と叫んで、「どこの忍びだ!家康か!北条か!」と付け加えた。そのすさまじい殺気に「斬られる!」と思った小太郎は、
 「ここはわしに任せろ!末蔵は逃げろ!」
 と、力任せに末蔵を押し出し、障子しょうじを破って外に逃がした。末蔵は闇に紛れて命からがら逃げて行ったが、気付けば菖蒲までが小刀を片手に構えていた。
 「話を聞かれたからには生かして返すわけにはいくまい。残念だがお命あきらめろ」
 飛猿の剣幕はただならなかった。おそらく天井裏に忍ぶ気配に気付くのが遅かったことに自尊心を痛めたのだろう。と小太郎は思った。
 「聞かれてはまずい話だったのか?ふん、たいした内容ではなかったぞ!」
 から元気の小太郎は腰の太刀たちに手をかけた。が、右手は空をつかんで愕然がくぜんとした。まさかこのような展開になるとは思わず、部屋に太刀を置いたままなのにそのとき気付いた。小太郎の額や脇下からどっと冷や汗がにじみ出た。
 「貴様、伊賀者だな?」
 飛猿は早くも小太郎の正体を見破った。戦闘に入る直前の体位には、剣術においては各流派、忍術においても各派それぞれに特徴があるものである。あくまで闇の中にて任務遂行にあたる忍びの者にとって、相手に自分が何者か知られることは、本来あってはならないことである。それは少なからず戦意をくじく。しかしここでおくしてはならない。
 「そうよ!よく分ったな!甲賀こうがの飛猿!」
 と、その上をゆくはずの科白せりふを小太郎は吐いた。
 「ほほう、さっきの会話で拙者の名を知ったか」
 「一度立ちうてみたいと思っていたぞ!」
 相手の挑発を誘って油断を引き出す戦法だったが、さすがにそんな甘い手に乗る相手でない。
 「なにを抜かすか青二才め!貴様なんぞは片腕だけで十分でござる」
 と、すかさず飛猿は予告通りに片腕だけで、山猿のような素早さで小太郎めがけて真一文字まいちもんじに斬りつけた。大抵の人間ならこの時点ですべて終わるところだが、小太郎はひょいとやいばの軌跡より一尺ほど高く舞い上がったかと思うと、着地しざまにふところに隠し持っていた幾つかの小くない≠飛猿めがけて放った。さすがの飛猿も「まさか!」と思ったのであろう、忍び刀を両手で握り直し、闇に光った火花とともに、それらをかろうじてはじき飛ばした。
 「ほう―――、なかなかやるではないか。名を申せ」
 今度は飛猿の方が感心したふうな言葉をかけて油断を仕掛けた。しかし小太郎もその手には乗らない。
 「阿呆あほう!剣術使いではあるまいし、自分からなんなにがしでござい≠ネどと名乗る間抜けな忍びもおるまい」
 「そりゃそうだ」と言いながら万全を期したのであろう、飛猿は小太郎からけっして目を離さずに、菖蒲あやめに逃げるよう合図した。頷いた菖蒲は、そのまま廊下へと姿を消した。
 「お前の嫁さんもとんだ喰わせ者じゃ。くの一とはのう」
 さっきから強がってみせてはいるが、刀なしでは小太郎に勝ち目がないことは彼自身よく知っていた。先ほどから逃げるタイミングを見つけてはいるが、この飛猿、なかなかすきを与えてくれないどころか、睨めば睨むほど威圧感が大きくなるばかり。一方、飛猿には余裕があり、いつでも斬りかかれば容易に小太郎を仕留めたに違いなかった。
 ところがふとした拍子に、飛猿には妙な興味が湧いていた。それは小太郎の戦闘態勢の構えを見たときで、目の前の伊賀者の名を急に確かめたくなったのである。というのは彼の過去と深く関わりのある、彼にとってはちょっとしたけ事遊びに似ていた。そんなことにきょうじてみようと思ったのも、飛猿には小太郎をいつでも斬れる自信があるからだった。
 「実は拙者、伊賀者には多少の恨みがござってなあ」
 「そんなことは俺には関係ない!勝手に恨んでおればよい!」
 「それがそうはいかんのじゃ。毎年冬になると思い出す。お前さんも風呂で見ただろう、拙者の胸の刀傷。冬になるとこいつがしくしくと痛むのよ」
 「良い医者を紹介してやってもいいぞ!」
 「まあ人の話を聞け。この傷、追っ手に斬られたのではない。この傷を作ったのは、一人の伊賀者よ!」
 普通だったら日本一との噂の忍者を斬った同郷の忍び、「誰じゃ?」と困惑を招くところだが、小太郎に流れる忍びの血は、咄嗟とっさに次の算段を導き出していた。
 「伊賀の術は貴様ら甲賀の術の及ぶところではない!当然じゃ!」
 と言いつつも、まだ幼い頃、父が右手首に深手を負って帰ってきた時のことを思い出した。そのとき確かに父は言っていた。
 「わしが右利きだったら確実にやられていた。恐ろしい奴よ、甲賀飛猿―――」
 と。途端、「もしや猿を斬ったのは我が父甲山太郎次郎?」というひらめきが頭をよぎったその隙を、飛猿は確実に読み切っただろうが、彼は攻撃を仕掛けてこなかった。今の彼にとっては、小太郎を斬ることより、小太郎の名を言い当てることの方に興味があったのだ。
 「お主のその護身ごしんの八方構え、いったい誰に習った?」
 と、含み笑いで飛猿が叫んだ。
 「知らん!」
 「ほう、知らんでござるか。ならば拙者が教えてやろう。この傷を付けた奴も今のお主と同じ構えをしておった。その名は、甲山太郎次郎―――」
 寸分程の精神の乱れを生じる言葉を、小太郎は聞くまいとして更に警戒心を強めた。飛猿は続けた。
 「ついでに冥土めいど土産みやげにお主の名前も教えてやるよ。甲山太郎次郎の小倅こせがれ、甲山小太郎!どうだ、違うか?」
 飛猿は左のほおに不敵なしたり笑みを浮かべた。小太郎はそれに乗じてわずかにうろたえの仕草をつくった。
 「図星だな……」
 と言った瞬間、飛猿は先ほどの自分にかせた賭けに勝った満足感と優越感で、ほんの一瞬のすきを見せた。それこそ咄嗟に浮かんだ小太郎の作戦のチャンスの時だった。うろたえの仕草は意図的であり、飛猿に隙を作らせるための手段だったのである。
 まさにその一瞬の隙をねらって、小太郎は口中いっぱいに含んでいた胃液と唾液だえきの混合液を、霧状にしてぷうっ!≠ニ飛猿の顔めがけて吹きかけた。これは父に習った遁術だ。胃袋の周りの筋肉を使い胃袋を絞って中の胃液を口に運び、同時に梅干しなどのい食物を思い出して唾液を溜めるが、それも鍛錬によって大量ににじみ出させることができるのだ。そうして口の中いっぱいに溜めたその液体を、鼻から吸い込んだ空気で一瞬間のうちに噴出するのである。辺りは白いもやに包まれた。まさかのきりの発生にさすがの飛猿もひるんだ。と思った次の瞬間、小太郎は懐から二寸ほどの煙玉けむりだまを投げつけた。そして、またたく間に濛々もうもうと立ちおこる煙の中にすでに小太郎はいなかった。
 ふいを付かれた飛猿は既に時遅し―――。煙玉に含有されていた唐辛子とうがらしやら山椒さんしょうやら胡椒こしょうなどの成分でくしゃみは出るし目は沁みる。おまけに芥子けしなども含まれていたから、意識が朦朧もうろうとしてくる。そこで深追いをしてしまったら、小太郎が去る時に撒き散らしたはずの撒菱まきびし餌食えじきとなるところである。案の定小太郎はその遁術の常套じょうとう手段を忘れていない。飛猿ははやる心を自重した。
 やがて煙はおさまり、飛猿は小太郎が撒いた撒菱の一つを拾い上げ、悔し紛れに思い切り地面に投げつけた。
 「くそっ!」
 と叫んだ声は、贄川にえかわの宿に休む何人もの目を覚まさせるほどだった。飛猿は赤い顔を更に赤くさせ、じだんだ踏んだ。