雷神の門 大運動会
> 第1章 > 筒抜け
筒抜け
はしいろ☆まんぢう作品  

 果たして猪助との約束の期限である十日が過ぎた。八王子を守護するは組≠フ連中は、問答無用で小太郎の殺害を企てたが、それを難なくかわした彼は猪助に会うため小田原へ向かった。い組≠フ屯所で小太郎の帰りを待っていた猪助は、
 「女ひとり殺るのに随分と時間がかかったな」
 と皮肉たっぷりに迎え入れたが、舌を痛めた小太郎の呂律が回らない言い訳に、顔を真っ赤にして「しくじったのか!」と怒声を浴びせた。
 「ひくちっかなではない。ひゃらなかってたけた」
 「何を言っているか分からん。もっとはっきり申せ!」
 猪助は小太郎の口の動きで正確な発音を確認しながら、「しくじったのではない、殺らなかっただけだ?」と繰り返し、「つまらん言い訳はよい!」と叫んで背の忍び刀を引き抜いた。
 「はやはんが! はしはははひをひけ!」
 「今度は何だ?」
 と再び口の動きを確認して「早まるな、わしの話を聞け──だと?」と繰り返し、込み上げる怒りをぐっと抑えた。小田原界隈では泣く子も黙る≠ニ称される風魔党である。そのヤクザな集団に対し小太郎の度胸には舌を巻くが、それに免じて「話しだけ聞いてやる」と情けを掛けた猪助は、刀を鞘に納めて、近くにいた部下に、
 「おい、塩を用意しろ」
 「塩なんか何に使うんです?」
 「つまらねえ事を言ったらこいつのべろに擦り込んでやるのさ」
 と言って、屯所の奥の部屋つまり猪助専用の控え室に小太郎を連れ込んだ。
 「事と次第によっては塩を擦り込むだけでは済まんぞ」と猪助は意地悪な笑みを浮かべ、そこからちぐはぐな会話が始まった。小太郎の話を要約するとこうである。
 初日に忍んだところが役人に見つかり、お縄になっては組≠ノ引き渡されたところまでは猪助も報告を受けていた。その後、寝首をかきに御主殿に忍び込もうとしたが、警備が厳しくなっていて入ることができず、御主殿の滝に潜んでいたところに折よく百合がやって来たのだと言う。これ幸いとばかりに刀を抜いて、斬り殺そうとしたところが、
 「なにゆえに私が殺されねばなりませぬ?」
 と女が言った。かれこれしかじかと説明すれば、
 「なんたる不幸。幼き頃より用土家に仕えてきた身の上なのに、どうして豊臣の間者と間違えられたのでしょうか。これでは死んでも亡き父母に顔向けができませぬ」
 としくしく泣き出すので、可哀そうに思ったわし(小太郎)は「ならば間者でない証拠を見せよ」と問うた。すると女が懐から取り出したのが、
 「からじゃ(これじゃ)──」
 と、小太郎は菖蒲から受け取った二雁金五月の用土家の家紋が刻まれている印籠を猪助に差し出した。猪助はそれを手に取ってじっと見つめ、
 「これを本当に侍女が持っていたのか?」
 小太郎は「持っていたからこうしてわしの手元にある」と、ボソボソとした発音で答えた。
 「最初に申したはずじゃ。わしは女は斬らぬ。今回はそれが北条に害をなすくノ一だと言うので引き受けたが、くノ一でないことが証明された以上、斬るにはあまりに不憫と思った。逆に聞くが、二曲輪さんはどうしてあの女をくノ一だと思ったか?」
 「小賢しい奴だ」と顔をしかめた猪助に理由などない。単なる忍びとしての直感なのだ。
 「それよりなぜまともに喋れぬ。ちょっとべろを見せてみろ」
 今度は小太郎が言葉を詰まらせた。まさか思いを寄せる女にディープキスをして舌を噛み切られたなど伊賀者の名折れ、忍びの大恥、口が裂けても言えない。
 「熱いそばを喰って火傷した──俺を斬るか? それとも解雇するか?」
 猪助は暫く考えた。いますぐ斬ってしまうのは簡単だが、なかなか腕の立つ伊賀者のようだし、殺害に行かせた先で己のポリシーを貫くために証拠の品を掴んで来るとはなかなか賢い奴ではないか。手なずければ自分の片腕として使えるだろうが、一癖も二癖もある信用ならない厄介者であるのは間違いない。ならばできるだけ大きな仕事をやらせて使い捨てるのも悪くない。失敗して必定、うまくいけば儲けもの──猪助は不敵な笑みを浮かべると、
 「いま一度機会を与えよう。だが、しくじったら今度こそ死んでもらう」
 と低い声で言った。
 「何をすればよい? また人斬りか? 女なら斬らんぞ」
 「男だ。しかも大物だ」
 「秀吉か? それとも徳川か?」
 猪助は途方もない人物の名を呆れ顔で聞いたあと、まことしやかに「真田安房守昌幸を斬れ」と言った。
 「真田昌幸……」
 今度は小太郎が暫く考え込んだ。
 「秀吉や家康に比べれば赤子同然、たかだか数千の兵を従えた田舎侍だ。お主ほどの忍びにできぬ仕事ではなかろう」
 「できぬ仕事ではないがそいつはちと高くつく。それなりの報酬をいただかんとできぬ」
 「北条で働きたいと申したではないか。報酬を出せと言うか?」
 「当たり前だ。北条に付くとは言ったが安請け合いするつもりはない。ある意味真田安房守は秀吉や徳川より質が悪い。上田城の戦いでは僅か数千の兵で何万もの徳川軍を破ったと聞く。なによりあそこには甲賀飛猿がいる。とても一筋縄ではいかん」
 「甲賀飛猿? 天下一との噂のあの忍びか?」
 猪助の目付きが俄かに変わった。同じ忍びの者としてやはり気になる存在らしい。
 「天下一とは甚だあやしいが、かなり腕がたつのは事実じゃ」
 「知っているのか?」
 「知るも知らぬもわしは赤猿と呼んでおる。一度だけ立ち合うたことがあってな、まあ、あの時はわしが勝ったがの」
 本当は命からがら逃げのび、なんとか一命をつないだわけであるが、猪助の前でそんなことは言えない。「あいつが天下一ならわしは閻浮提一じゃ」と白を切って続けた。
 「確かに安房守を斬れば北から攻めて来る前田の軍勢に大打撃を与えることができるが、わし一人ではちと難しい。しかし、あんたが手を貸してくれるならできん話でもない。なんせ赤猿の奴、風魔に苦手意識を持っておるからな。それとも甲賀が怖くてわし一人にやらせるか?」
 猪助はニヤリとほほ笑んだ。
 「風魔と甲賀の技比べか……面白そうじゃの」
 真田安房守昌幸暗殺とは半分思い付きで出たものだが、もし可能ならば刺し違えても相手に不足はない。それに北条家が武田家と争っていた頃、武田にいた甲賀忍者に風魔が圧勝したという話を聞いたことがあり、なんとも此度も負ける気がしない。猪助はひとつ小太郎の挑発に乗ってみようと考えた──。
 その密談の内容が真田側に筒抜けになっていたのは、菖蒲の下僕となった小太郎が、その後たびたび彼女と密会しては風魔の動きを克明に伝えていたからである。そのころ真田幸村は、前田隊と上杉隊と合流するため軽井沢に滞在する真田昌幸隊の先発として、碓氷峠を越えたところの北条領内、松井田の崇徳寺という寺にいる。その菖蒲からの密書を虎之助から受け取った幸村はすぐに飛猿を呼びつけ、「北条領内で父上の人相と背格好の似た者を数人集めよ」と命じた。幸村にとって父上≠ニは真田昌幸の事だから、「昌幸の影武者を用意せよ」と言っていることは、勘ぐり深い飛猿のすぐに察するところである。
 「菖蒲殿からの密書ですな? なんと書いて?」
 「甲山小太郎という伊賀者を知っておるか?」
 「甲山……? ああ一度贄川の宿で行き会いました。なんでも甲山太郎次郎の倅らしいのですが、まだまだケツの青いヒヨっコです。そういえば最近上田でも会いましたな。前田隊の偵察だとかで小田原方面へ向かったようです。ですが、あ奴がなにか?」
 「北条に寝返って風魔党と手を組んだそうだ。それだけなら捨て置くが、父上暗殺を目論んで動き始めたそうじゃ」
 飛猿の顔色が変わった。つい先日上田で会ったときには「手を組まないか」と誘ったばかりなのだ。そればかりでない。菖蒲の話では彼女の兄に当たる高山右近のもとで働いていたはずだが、小田原に行った途端北条に寝返るとはなんという変心ぶり。呆れてあいた口がふさがらない。
 「ま、昌幸様を? あいつめ、煮ても焼いても喰えぬと思ったが。しかしなぜそれを菖蒲殿が?」
 「その小太郎とやらを下僕に従えたそうじゃ」
 「え、あの男を? いったいどうやって? 若気の至りというか、跳ねっ返りの半端ないへそ曲がりで、屁理屈ばかり並べるこんちき野郎ですよ」
 飛猿がめずらしく真っ赤な顔にライバル心を表わしたのを見て、幸村は「どうやら人を従わせる才は菖蒲の方が上のようじゃな」と笑った。
 「我が戸隠流にはくノ一はおらんが、どうせ女の色≠使ったのじゃろ。拙僧もあやかりたいものだ」
 脇で話を聞いていた虎之助が、寺の境内で遊ぶ一人の童女を眺めて呟いた。無邪気に遊ぶ年端もいかないあの子娘も、いずれ甲賀流くノ一の色≠覚えて働くのであろうと憐れんだのだ。見れば年の頃なら十ばかり、その童女は飛猿が甲賀の里から連れてきた子で名を蓮(はちす)といった。もともとは菖蒲がどこぞで拾ってきた孤児であるが、彼女を姉あるいは母のように慕い、「菖蒲姉ちゃんは今どこじゃ?」としつこいほど駄々をこねるので、後学のためにと今回の戦に連れて来た。というのは表向きで──
 「菖蒲姉ちゃんがどうしたの? いま菖蒲姉ちゃんのお話ししてたでしょ?」
 と蓮が飛猿のところに駆け寄ると、
 「なんじゃ、聞こえてしまったか」
 飛猿は蓮を抱き上げる──その童女には尋常ならぬ特技があった。それはとてつもなく聴力が優れていたことである。幸村と飛猿と虎之助の三人の大人の会話を、遊びに夢中になっていた数間先で感知して、菖蒲の話題と知るや我がことのように駆け寄ったのだ。その敏感すぎる聴覚のため普段から耳栓をしているが、はずせば五、六〇間先(百メートル程度)のひそひそ話をも聞きわける力があった。それゆえに甲賀の里では気味悪がられ、いつも一人でいるところを可哀想に思った飛猿が、
 この能力、幸村様の護衛に使える──
 と、菖蒲も加わるこのたびの北条征伐に同行させたわけだ。耳が良い分彼女には世の中の雑音が必要以上に聞こえた。妬みの声、企みの声、蔑みの声、裏切りの声、世の中はそんな忌まわしい声で満ちていた。おのずと人間不信に陥った彼女を救ったのが菖蒲であった。菖蒲はくノ一である反面、宗教心を通して純粋に彼女と接していたのであろう。ひどく内気な彼女も、菖蒲にだけは心を開いたのである。もっとも子童を戦闘の最前線に連れて歩くのは危険だからいつも安全性を確保した上での随行だが、いままさに戦が行われようとしている北条領内の松井田に連れて来れたのには理由がある。それはこの後に説明することになるだろう。
 「ねえ、女の色≠チてなあに?」
 無邪気な蓮の質問に、飛猿は顔をしかめていらぬ事をぼやいた虎之助を睨んだ。
 「蓮はまだ知らんでもよいことじゃ。というより、この虎おじちゃんは甲賀のくノ一に対してなにか大きな勘違いをしているようじゃ」
 「なにが勘違いじゃ、くノ一なぞ所詮女じゃ」
 飛猿のしかめっ面に虎之助がさげすんだように言った。この時代、女性蔑視の考え方はごく普通にある。
 「おい、女郎と甲賀のくノ一を一緒にするな。他は知らんが甲賀の女は人一倍貞操観念が強いんだ」
 更にこの時代、職業に対する偏見もごく普通にある。どうもこの二人、そりが合わぬところがあるらしい。飛猿は続けて、
 「甲賀のくノ一が色≠使うのはその男に心底惚れた時よ、つまりそれは忍びを辞める時じゃ。くノ一とはこの虎おじちゃんが言うような破廉恥なものではけっしてない。蓮もよくよく覚えておくのだぞ。女は貞操が命と心得よ」
 と、些細なことで衝突する二人の大人に戸惑った様子の蓮を諭す。現にくノ一といえば色≠武器に諜報活動を行うというイメージが定着しているが、その主な働きといえば、奉公に出た先や嫁いだ先の家で、甲賀に有益な情報を聞き得た際には郷土に報告する義務だけだった。ゆわゆるそれは一般的な婚姻生活の中にもある嫁姑の愚痴などを実家に漏らすようなごく当たり前な行為であり、それを義務としているところにくノ一たる所以がある。実際のところ数からいっても男の忍びに比べて格段に少なく、まして遁術や幻術などを使える者などごく稀なのだ。菖蒲のように敵陣に潜入するような危険な仕事を許されるのは、それなりの技量や能力を持ったくノ一のみで、飛猿にしてみればくノ一<Cコール色≠ニ勘違いする甲賀を知らない者が、あたかも知ったかぶって未来ある童女のいるところで言う虎之助の無神経さが勘に触る。一方戸隠流の虎之助にすれば、日の本一と称される甲賀、いわんや飛猿の実力を認めがたいといった嫉妬に似た気持ちもあったのであろう。そんな険悪なムードに終止符を打つため、
 「言い争いはつまらぬ。勝劣は働きで示せ」
 と、脇で幸村が一笑に伏した。
 「働きで示せと申されましても、敵の動きがこうも筒抜けなら既に我らが勝ったも同然。勝ちが見えているのに勝劣を競うのも馬鹿げているかと」
 「用心に過ぎたことはなかろう。戦いというのは最後に勝てばよいものじゃ。松井田の次は箕輪、岩槻、鉢形……まだまだ先は長い。私の算段では北国軍における小田原最後の砦は八王子。あそこが最大の激戦地となろう」
 「だからといって紬問屋に変装して幸村様自らが現地に赴くことなどなかったのでございます。度を過ぎた危険はお控えいただかなければ、この飛猿、命がいくつあっても足りません」
 「どうせそう言うと思って虎之助に伴を頼んだのじゃ。同じ信州育ちゆえか、そういうところでは妙に気が合う、のう虎之助。いずれにせよ八王子が決戦地だ。それまではのらりくらりと風魔に花を持たせて油断させておくのも策のひとつだろう」
 「わざと負けろと?」
 幸村は声を挙げて笑った。
 すると、俄かに耳栓を外した蓮が表情を変え、深い森に囲まれた崇徳寺から、木々しか見えないはずの遠くを見つめた。
 「どうした? 蓮──」
 「誰か来る……お馬さんの足音……、一つ、二つ、三つ……五人いる」
 途端に緊張感を表わした飛猿と虎之助は蓮と同じ方向を向いて耳を澄ましてみたが、忍びで鍛えた二人の聴力ですら、そよ吹く風の音のほかは何も聞こえない。
 「敵か? 味方か?」
 「わかんない……でもお馬さんのおしりを叩くのは男の人の声」
 「おそらく大道寺政繁殿だろう」
 涼しい顔をして幸村が呟いたのは敵であるはずの北条方の松井田城主の名であった。幸村はやがてのっそり立ち上がると、ほどなく蓮が言った通り馬にまたがった五人の武者たちが崇徳寺の境内に姿を現した。そのうちの一人は幸村の予想通り松井田城主大道寺政繁である。