雷神の門 大運動会
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主君を持たぬ者
はしいろ☆まんぢう作品  

 菖蒲が百合と変名して豊の方付きの侍女として御主殿にいることを知った小太郎は、その日より館の水汲み場である滝壺近くの雑木林に潜み隠れることにした。半助の言う通り警備は厳しくなり、流石の彼も敷地内に忍び込むのは困難で、あえて危険を冒すよりそこで待っていれば必ず会えるに違いないと考えたのである。
 周囲を崖に囲まれた滝の音しかしないひっそりとした空間は、やがて戦火でまみえるであろうことなど知る由もなく、たまに雑木林から飛び立つ鳥の姿に驚かされながら、小太郎は足元に芽吹く蕗の薹を摘んで口に含んだ。ここ数日、ずっと草陰に潜んでいるものの、滝壺に現われる者といえば御主殿の勝手仕事の給仕であろう館で使う水汲みの女中だけで、たまに別の用事で来たかと思えば着物や布類の洗濯をして帰る者達だった。
 猪助との約束である十日も近づいたある日中のこと、思惑通り菖蒲は再び豊の方を連れて姿を現した。どうやらいつもの駄々を聞き入れて、笛を吹かせに来たに相違なかろう。豊は懐から愛笛『雲丸』をおもむろに取り出すと、前と同じように美しい音色を奏で始めた。小太郎は気配を消してそっと近寄り、
 「なかなかのお手前じゃのう」
 驚いた菖蒲は再び声を挙げようとしたところを、今度はそれより早く小太郎はさっと彼女の後ろに回り込み、口をおさえて、
 「声を挙げるな。乱暴するつもりはない」
 と、豊に目を向け微笑みかけた。豊は別段驚いた様子もなく吹くのをやめて、
 「おぉ、そなたはこの間の賊か?」
 と言った。
 「賊ではござらん。あまりに笛の音が美しかったゆえ聞き惚れていただけじゃ。この前はとんだ邪魔者が入って心行くまで聞くことができんかったが、今日はこうしてこの悪戯な口を押えておるゆえ安心でござる。よろしければもう少し聞かせてはもらえまいか?」
 豊はニコリと笑み「よし」と言って再び笛を奏で始めた。その傍らで、小太郎は菖蒲を後ろから抱きしめた格好で口を押えたまま聞き入った。
 そうして一曲吹き終えたところで、豊は歌口から唇を離した。
 「そなたは百合の何なのじゃ? わらわが奏じておる横で見せつけるように抱き合っておられては、気が散ってどうも気が乗らぬ」
 「ならばこの百合に声を挙げぬよう命じて下さいませ」
 小太郎は菖蒲のこめかみに頬をすりよせるようにして言うと、豊は「よし」と頷き「百合、声を挙げるなよ」と命じた。小太郎はゆっくり菖蒲の口から手を離すと豊の方の前に跪いた。
 「拙者、甲山小太郎と申します。どこから話せばよいか──実は拙者この女に惚れておりまして、なんと申しましょうか──この百合を追っかけて小田原まで行ったのですが、会えずじまいで八王子に寄ったところが、どこからともなく美しい笛の音、音に誘われるままやって来ましたところ、こうして百合とばったり会ったという次第でございます」
 「そなた、小田原まで行ったのか?」
 豊は二人が会ったことよりも小田原に行ったということの方に強く反応して、驚いたような声を挙げた。当時女性の身で遠出するなど、輿入れの時でなくば余程の事がない限りあり得ない時代である。八王子から小田原といえば、今でいえば海外へでも行く感覚であったろう。たとえ男であってもそのような遠出ができる者は、ある程度の地位を有すると信じていたから、
 「小田原まで行ったのなら教えておくれ。お館様は息災でありましたか?」
 と聞いた。
 「お館さま……?」
 小太郎は首を傾げると、豊の脇の菖蒲が「この城の城主北条氏照様のことだ。このお方は氏照様のご側室お豊の方様である」とぶっきらぼうに教えた。
 小太郎は、孫六に連れられた小田原城内で会った偉そうな男が氏照と呼ばれていたことを思い出し、途端、菖蒲がこの城に潜んでいる理由がいっぺんに解した気がした。
 「あぁ、あのお方か──すこぶる達者であったぞ」
 「そうか! 達者であったか! わらわの事は何か申しておったか?」
 豊はなくした宝物を見付けた時のように歓声を挙げた。
 「はい──毎晩お方様の吹かれる笛の音がこの小田原まで聞こえてくる──そう申しておりました」
 脇の菖蒲は「適当なことを申すな」という訝しい表情を作った。
 「そうか! でも変じゃな? わらわは毎日吹いておるわけではないぞ。吹きたくともお比佐殿がうるさいと申して吹けぬのじゃ」
 「お比佐……?」
 すると再び菖蒲は「氏照様のご正室だ」と教えた。
 「きっとそのお慕いするお心が、笛の調べとなってお館様へ届いているのでございましょう」
 菖蒲は「よくもまあ次から次と女子を喜ばす言葉が出て来るものだ」と、訝し気な表情を感心に変えた。
 「そなたもそう思うか?」と豊は無邪気に喜んだ。
 「ところでそなた、百合に惚れていると申したな。百合はそなたの事をどう思っておるのじゃ?」
 「それは当人に聞いてみないと分かりません」
 小太郎は意地悪そうに、また、豊は興味津々とした表情で菖蒲の顔を覗き込んだ。菖蒲はばつが悪そうに下を向いてしまうと、
 「ほぉ、まんざらでもなさそうじゃな」
 豊は可笑しそうにからからと笑う。
 「違います! 好いてなどおりません──」
 「ほれ、知り合いではないか。この前は存ぜぬと申したのに?」
 「それは──」
 「まあよい。男女の関係は犬も喰わぬと申す。わらわがいては積もる話もしにくかろう。御主殿へ引き返すゆえ、ゆるりとしてゆくがよい」
 豊は彼女なりに気を利かせて館に戻ろうと急な細径を登り出した。それを手助けするように菖蒲が付き添うと、
 「小太郎殿、御主殿への坂道はきつくて困る。送り届けてもらったら必ずそなたの元へ行くよう命ずるので、暫し百合を貸してたもれ」
 お姫様育ちの割に案外物分かりの良い田舎っぽさを感じる豊の方に好感を持ちながら、小太郎は「では暫しお待ち申しておる」と答えて二人を見送った。
 こうして四半時もしないうちに戻って来た菖蒲は「何をしに来た!」とぞんざいな声を挙げたのである。
 「久しぶりに会ったというのに‶何をしに来た″はなかろう」
 「兄上のところにいたのではないのか? それにしてもよく風魔党の連中に捕らわれて生きて戻って来れたものだ。もっともあの程度のことで死ぬとは思っておらぬが……」
 小太郎は苦笑いを浮かべると、この度の北条攻めで高山右近が前田利家に同行して小田原に来る事を伝え、「その偵察に来たのだ」とうそぶいた。
 「どうせ偵察を口実に私に会いに来たのであろう。小太郎は私に惚れておるからの」
 「図星じゃ」と笑いながらそれが本当になっていることを感じつつ、小太郎は以前博多で「花菖蒲より白百合が好きだ」と言った彼女の恍惚とした表情と照れ隠しの今の表情を重ねて、愛おしさのあまり菖蒲をすぐにでも抱きしめたい感情にとらわれた。
 「菖蒲殿の方こそこんなところで何をしておる? 百合と名前まで変えているのを見ると、おおかた真田幸村あたりの小賢しい忍び働きでもしておるのじゃろう。何を企んでおる?」
 菖蒲はすっかり油断していた。まさか兄である右近の配下にいた者が俄かに北条側に翻っているとは夢にも思っていない。その上、自分を疑う者から暗殺命令を帯びて現れたなど思いもつかなかった。それより隠していた小太郎と再会した歓びの方が勝って、うっかりこれまでの経緯を安易に話してしまうのである。
 そうなると逆に小太郎の方が罪悪感を抱き始めた。今、目の前の女は男を疑う事もなく、用土新左衛門の縁者と謀って城内に忍び込み、奉行の平井無辺を調略せんと工作している事まで話し出す。「くノ一とはいえやはり女は情に流される」と哀れみに似た感情を抱きながら、小太郎は菖蒲の唇に人差し指を当ててそのお喋りな言葉を遮った。
 「わしに会って嬉しいのは分かるが、ちと話し過ぎではないか? もし、わしが北条側に付いており、八王子城に仕官した女を間者と疑う者から暗殺を命じられてここに来ていたとしたらどうする?」
 言われてハッと言葉を止めた。彼女にしても元々おかしいと思っていたことだった。なぜ小太郎が突然目の前に現れたのか? なぜ風魔党に捕らえられたはずが無傷で逃げ出す事ができたのか? そして再び現れたのか? 自分に惚れているからという理由で結びついていたこれらのおかしな点が別の理由でつながった時、菖蒲の表情はみるみる鬼のような形相に変わった。と、懐に隠し持っていた短剣をいきなり小太郎に斬りつけた。しかしその刃が小太郎の頸動脈から鮮血を噴き出させたと思ったのは気のせいで、彼の左腕は菖蒲の短剣を握った右腕を掴み抑え、ぐいっとか細い身体を引き寄せたと思うと、その唇に自分のそれを強く重ね合わせていた。
 「やめろっ! 何をする、離せ!」
 菖蒲は必至でもがいたが、やがて激しい吐息と共に口の中に入り込んできた得体の知れない肉の塊で言葉が遮られ、もはや言葉ではなくなった。菖蒲はその肉の塊が小太郎の舌であることを知った。そして女の本能が目覚めたように全てに身を任せようと意識が遠のいた瞬間、ハッと我に返ったくノ一としての本能は、その肉の塊を力任せに嚙みついたのだった。
 それには小太郎もたまらない。思わず後ろにのけぞって、「ちと待て!ちと待て!」と逃げ腰の左掌を前に出して叫ぶが舌が痛くて言葉にならず、普通なら傷口を舌で舐めるものだがその舌がやられたものだから手の施しようがない。しかも舌には、噛み切ると焼いたスルメのように丸まって気管を詰まらせる性質がある。舌を噛み切って自殺する者の死因はほぼ百パーセント窒息死であることをご存知だろうか。それを知っている小太郎は、慌てて右手の人差し指と中指を口の中に突っ込み、喉をふさいでいる舌を引き出して気道を確保した。この術はくノ一が男を殺す際の常套手段なのだ。哀れ小太郎はその初歩的な技に引っかかって、指を突っ込んだ口から真っ赤な血を垂れ流し、その形相を生肉をそのまま喰らう獣のようにして苦しんだ。
 「お前は豊臣の味方か、それとも北条の味方か! どっちじゃ、答えろ!」
 菖蒲の剣幕もすさまじい。兄の家臣というだけですっかり気を許し、秘密工作まで話してしまった上に、女にとっては貞操として守るべき大切な唇まで奪われてしまったのである。もはや小太郎は許すまじ男であり、手にした短剣を8の字に振り回して獣のように襲い掛かった。
 「ちと待て悪かった、そんなに怒るな。わしは菖蒲殿の味方じゃ!」
 と叫んだ小太郎だが、右手の指を咥えているため言葉にならない。ついに川底の石に滑ってドボンと滝壺の中に落ちた。そこに覆いかぶさるように菖蒲が乗って、手にした短剣は小太郎の喉元を突き刺そうと振り下ろされた。左手は水面に顔を出そうともがき、舌を押える右手と口の隙間からは冷たい水がガボガボと口中に入り込む。小太郎が命を諦めたのはこれで二度目で、一度目の才之進と技比べをした時の悪夢が再び脳裏によみがえり、人間というものは殺される時は案外身内の手によるものかも知れないと、状況とは裏腹な妙に落ちついた意識の中で小太郎は思った。
 ところが振り下ろされた短剣は水を斬ったのである。そればかりか殺意に満ちていたはずの菖蒲は小太郎を救い出し、川縁へと引きずりあげたのだった。
 「大丈夫か!」
 「大丈夫なものか! 死ぬかと思ったわい!」
 その言葉にならないモゴモゴとした台詞を聞いて、菖蒲は俄かに笑い出した。
 「どれ、見せてみろ」
 菖蒲は小太郎の口を開かせると舌からドクドクと流れ出る血を見て「こりゃまずい」と呟き、
 「止血をする。変な気をおこしたら今度こそただではおかんぞ」
 と言ったと思うと、自らの舌を伸ばして傷口に押し当てた。小太郎は目を見開いた。が暫くすると静かに目を閉じ、されるがままに全身の力を抜いた。
 ──妙な気分である。本来なら殺しに忍んだ女に殺されかけたと思えば逆に助けられている。まな板の鯉のように仰向けに寝そべって、舌と舌を合わせた菖蒲の身体から漂う色香に酔いしれている己がいた。小太郎には菖蒲という女がいまだに分からない。つい先ほどまで地獄界に生きる殺人鬼だったのが、一転、菩薩界に住む仏に変じた。彼女に言わせればそれは仏ではなく聖母だと言ったかも知れないが、生死の淵にいるというのに股間のモノははちきれんばかりに大きくなっているのだ。
 やがて菖蒲は唇を遠ざけ「ここを押えておれ」と言って小太郎自身の指で傷口を押えさせると、周囲を四顧して薬草になりそうな植物を探した。そして両手いっぱいの蓬の葉を集めて来てすりつぶし、腰に吊り下げていた印籠から粉末の薬を混ぜ合わせ、出来上がった塊を無造作に小太郎の口の中に押し込んだ。
 「不便だろうが暫くそうしておれ。そのうち血も止まる」
 蓬が止血に効くことは小太郎も知っていたが、印籠の粉薬は甲賀の物か。それよりなぜ自分を助けたか知りたくて、言葉にならない声を投げかけた。おそらく彼女もその思いを伝えておきたかったに違いない。難なく意思が通じると、
 「主君を持たぬお前が急に哀れになった。もし私だけがお前の主人になれるなら、なってやっても良いと思ったのだ。どうだ? 私の配下になるか?」
 もはや小太郎は菖蒲の傀儡である。その輝く瞳を見つめてコクリと頷いた。
 こうして片言ながら話せるようになった小太郎は、北条家に付いて風魔党の猪助という忍びの下で百合の殺害を目論んで来たことを伝えた。「呆れた奴じゃ」と菖蒲はぼやいたが、北条家の中で百合を間者と疑っている人物が猪助だけであることを知ると、手にしていた印籠を小太郎に授けた。
 「これは?」
 「薬入れじゃ。二雁金五月の紋が彫ってあるだろう。それは上野国猪俣党一族用土家の家紋じゃ。私が用土新左衛門の縁者であることを証明する物だ」
 もちろん偽造である。しかし真田幸村のスパイ工作の裏には、これほど周到な下準備が積み重ねられていることを知るとき、小太郎は己の浅はかさを思わずにはいられなかった。
 「それをどう使うかはお前が考えろ」
 小太郎は何か重大な物件を手渡された気になって、いつになく緊張した面持ちで「わ、分かった……」と口ごもって答えた。その表情と仕草に思わず菖蒲はぷっと吹き出して、小太郎に接吻して立ち上がった。
 「い……いまのは何じゃ?」
 「知らぬ──自分で考えろ!」
 菖蒲は照れ隠しをして立ち去った。その後ろ姿を見つめて、
 「テレジア……」
 と小太郎は呟いた。
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