雷神の門 大運動会
> 第1章 > 刺殺命令
刺殺命令
はしいろ☆まんぢう作品  

 その頃、高山右近を伴った前田利家一万八千の軍は金沢を発っていた。それに先立ち上杉景勝も一万の軍を率いて春日山城を発ち二者は信濃で合流し、そこに真田昌幸軍三千と松平康国軍四千も加わり総勢三万五千の大軍は、北国軍を形成して一路小田原を目指した。そして徳川家康二万の軍勢もまた駿府を発ち、ついに本陣豊臣秀吉率いる三万二千が小田原へ向けて京を発っしたのが三月一日のことだった。
 次々ともたらされる各方面からの出陣の知らせを受けて領内の武将は小田原城に結集し、籠城戦に備えて備蓄米を搬入し、城の西側の砦となる箱根足柄に塁を築いたと思えば、そこに当主氏直の叔父にあたる佐野氏忠を向かわせ防備を固めるといった、小太郎が城下に来たのはまさにそんな大混乱の最中なのである。
 その日、風魔猪助直属の配下に置かれた小太郎は、城下町のはずれに建てられた粗末な陣所のような所に連れられた。今にも壊れそうだが小ぎれいにしている狭い大部屋には十数人の猪助の部下が交代で雑魚寝をしている。夜中に活動をしている彼らにとっては、太陽が昇るこれからの時間が休息の時間なのである。
 「皆の衆、起きろ!」
 猪助に叩き起こされた部下たちは、おのおの眠そうな目をこすりながら猪助の横に立つ見慣れない男に目をやった。
 「い組に配属された甲山小太郎という。少しばかり伊賀流忍術の心得があるそうだが今日よりは風魔じゃ。我らのしきたりをしっかり教えてやれ!」
 「へえ」
 と返事したきり、小太郎には自己紹介の機も与えないまま、部下たちは再び横になってしまった。猪助は小太郎に「そのうち慣れるわ」と低い声で言うと、続けて、
 「お主には今晩、さっそく仕事をしてもらう。寝れる時に寝ておけ」
 と付け加えた。小太郎は「わしは七日七晩寝ずとも動ける。余計な心配は無用」と返したが、
 「無理はするな。先は長い」
 身体が大きく厳めしい顔付きをしている割に、根は案外人間味があるのではと思われる猪助は、そう言い残すと小太郎の肩を叩いてどこかへ行ってしまった。
 小太郎は腰の刀を肩に抱え、部屋の隅の空いている場所に腰を下ろして、背を壁にもたれて目を閉じた。すると近くに寝ていた男が、
 「なかなか良い腰の物を持っておるではないか。鞘の紋は五三桐だな。どこで手に入れた?」
 と聞く。五三桐は豊臣の家紋だが、秀吉から貰った『正宗』にすぐ目を付けるとは、なかなか目ざとい男ではないか。
 「憎っくきあの秀吉の馬廻りの家来の家に忍んで盗んでやったのさ」
 と小太郎はとぼけ、
 「ところでお前らの頭のあの風魔猪助って奴は偉いのか?」
 続けて目を閉じたままの恰好で聞いてみた。すると男は「よくぞ聞いてくれた」とばかりに上半身を起こし、「あんた運がいいよ」と答えて目を輝かせる。その話によると──
 風魔党は現在『い組』から『す組』の『いろは四八組』により構成されており、その組は六人の大組頭に配分されていると言う。猪助は大組頭の一人であるらしく、その大組頭を統括しているのが五代目風魔小太郎である。今ここにいる『い組』の者たちは猪助直属のいわば特殊部隊であり、『い組』は他の組より格が高いのだと教えた。その男が誇らしげに言うには、
 「猪助様は風魔小太郎様に次ぐ実質の風魔党二番頭だ──」
 らしく、その忍術の腕や馬術や鉄砲術においては、歴代の風魔小太郎の誰よりも勝っているだろうと力説した。「ならばなぜ頭になれぬ?」と小太郎が聞くと、それには訳があるらしく、理由はいくら聞いても教えてくれなかった。しかし男は最後に、
 「あの方の下で働いていればそのうち分かるよ」
 とだけ言うと、そのまま寝息を立て始めた。小太郎はつまらぬ勘ぐりはやめにして、日が暮れるのを待つことにした──。
 日没にはまだ早い刻限、うつらうつらとしていた小太郎に、
 「甲山、ゆくぞ」
 と起こしたのは猪助である。「小太郎」と言わず「甲山」と呼んだのは、頭と同じ名に敬称を省くことを憚ったからかも知れない。
 「仕事か? どこへ行く?」
 「どこでもよい。付いてこい」
 猪助は小太郎に馬を与えると、小田原城郭を飛び出した。
 風を切って走る馬上で小太郎は、さすがに馬を使いこなす忍び集団の駒は速い上に乗り心地が良いなと感心したが、やがて相模国から武蔵国に入ったところで「少し馬を休ませる」と言って猪助は駒を止めた。手綱を近くの木に結び付けると、日はもう西に傾きかけている。
 「仕事とは何だ? どこへ向かっておる?」
 眼前に広がる武蔵野を眺めて小太郎は聞いた。
 「お前は俺の言う通りに動いておればよい。余計な詮索はせぬことだ」
 「そうはゆかぬ。わしにも心というものがある。あんたの言うがまま動いて、それが北条に害のある働きだったらどうする?」
 猪助は小気味よい返答にムッとした表情をつくった。
 「海の物とも山の物とも知れぬお前が、俺が信用できぬと申すか?」
 「忍びをやっとる奴は誰も信用せぬことにしておる。理由くらい聞かせてくれてもよかろう」
 猪助は不敵な笑みを浮かべ、
 「人を斬ってもらう──」
 と静かに言った。″人斬り≠ニは小太郎にとってはできれば避けたい仕事である。
 「それは男か? 女か?」
 「女だ」
 「女は斬らぬ。そんなもの、あんたが殺ればよいではないか」
 「なに?」と言った瞬間、猪助は刀を抜いてそのまま小太郎を斬りつけた。しかし小太郎はサッと後方に翻って難なくその刃をかわした。
 「ほう、少しはできるようだな」
 猪助は感心して刀を鞘におさめた。
 「まあ聞け。女は女でもくノ一だ」
 「くノ一だろうと女は斬らぬ」
 「それが北条に害をなす女だとしてもか?」
 小太郎は少し考えて「誰だ?」と聞いた。
 「最近八王子城に仕官した侍女だ。奉行の平井様にたいそうのお気に入られようで、八王子城を警護するは組の連中も手が出せん」
 「そこで後腐れのないわしに殺らせようってわけか。どうも気に食わん。たかが女一人斬ったところで天下は動かんだろう。その女、本当にくノ一なのか?」
 「口の減らない小僧だ。やりたくなくば今すぐここを去れ。風魔党はお前など必要としない。氏照様は必要がなければ即刻斬り捨てよと言われたが、お前とて命は惜しかろう。最初だけ見逃してやるから二度と我らの前に姿を見せるな。ゆけ」
 その決断の早さに小太郎は慌てた。と同時に、猪助が風魔党の頭になれない理由が分かった気がした。主君に斬り捨てよと命じられたにも関わらず、この男は「逃げよ」と言う。情け≠ヘ忍びの者として致命的な欠陥ではないか。小田原のい組の陣所で男が「お前は運がいい」と言ったのはこのことで、非情≠ノなりきれないほんの僅かの優しさに、小太郎は猪助に自分と同じものを見た気がした。
 「ちと待て、やらぬとは言ってない」
 早口に隠れた動揺を、猪助はすっかり見抜いていたかも知れない。
 「どっちじゃ、はっきりしろ」
 「わ、わかった、引き受けた──で、その女の名は?」
 「百合」
 小太郎は博多で純白の百合の花を愛でていた菖蒲の姿を思い出した。
 「初仕事ゆえ十日与える。片がついたら小田原に戻れ。次の指令を与える」
 猪助は再び馬にまたがった。
 二人が八王子に到着した頃はすっかり夜も更けた。猪助は八王子城警護のは組の屯所になっている宗関寺に小太郎を連れて部下に紹介だけすると、自らは更に先に北にある鉢形城に向かって馬を走らせて行った。
 は組の組長を任されていたのは半助という髷を結った男で、猪助は半助にだけ小太郎に与えた任務を伝えていた。
 「おい新入り、今回の仕事はお前が風魔党に入るための試験も兼ねているみたいだぜ。俺たちは手を貸してはいけないそうじゃ。猶予は十日、その間に殺れなかったら斬り捨てろとのお達しだ。せいぜい頑張れ」
 と冷ややかに言った。
 「こんな片田舎の山城の警備がどれほどのものか知らぬが、三日もいらぬわ」
 小太郎は腰の政宗をキラリと煌めかすと静かに鞘におさめた。「びっくりするじゃねえか!」と叫んだ半助の髷がバサリと地面に落ちたのも見ず、小太郎は闇に姿を消した。

 八王子城主北条氏照の正室を比佐と言う。彼女はもともと木曾義仲の血を引く滝山城主大石定久の娘である。後北条家第三代当主北条氏康の三男氏照は、比佐を娶り一旦は大石源三氏照を名乗って滝山城主となるが、家督を継ぐと北条姓に復し、大石氏を北条配下に置いて八王子城を築き居城とした。二人の間には貞心という一人娘があった。貞心は、氏照の重臣山中頼元に嫁いだものの早くに夫を亡くし、その所領に龍淵山天応院を中興開基して出家する。しかし間もなく、彼女自身も後を追うように他界したのが、およそ一年半ほど前のことである。
 一方、跡継ぎを得るため氏照には豊という名の若い側室がいた。殊の外笛吹きが上手であったため城の者は皆お笛の方≠ニ呼んでいたが、八王子城内の同じ御主殿に住む二人の間には女同士の確執があった。それは些細なところに顕われるもので、お笛の方は寂しくなると氏照から所望した『雲丸』という愛笛を吹いたが、比佐はその音が聞こえるたびに「うるさい!」と言って機嫌を悪くするのだ。侍女たちは困り果てていたが、そのお笛の方の世話役として召し抱えられたのが百合と変名した菖蒲である。
 「百合はおるか?」
 と仕官してより、年は菖蒲の方が七つ八つ下のはずだが、その関係は菖蒲が姉に見えるほどのお姫様育ちのお笛は、夜も寝静まった頃に百合を呼びつけては、
 「わらわは笛が吹きたい」
 と駄々をこねた。
 「外はお寒うございます。明日、日が昇りましたら、山の曲輪へ参ってお吹き遊ばすのがよろしいでしょう」
 「いやじゃいやじゃ、いま吹きたい」
 百合は困ったが、ついに押し切られてお笛を星空の下へ連れ出した。御主殿の虎口とは反対にある搦め手門の門番に事情を話し、水汲み場へ通ずる細い道を下れば館の脇を流れる城山川に出た。そこにはおよそ二間ほどの高さから落ちる二筋のしぶきをあげる『御主殿の滝』と呼ばれる滝壺があり、そこでならいくら大きな音を出しても滝の音でかき消され、比佐の耳には届かないというわけだった。
 「どうぞ存分にお吹き下さいませ」
 「いやじゃ。こんなに水しぶきがうるさければ、笛の音が氏照様に届かぬではないか」
 こうなると百合はいつもあの手この手でお笛をなだめる。
 「笛は心で奏でるものと聞いたことがございます。お笛様のお心は、きっと小田原のお館様にとどきましょう」
 「それはまことか──なれば……」
 と、ようやくお笛は懐から『雲丸』を取り出すとおもむろに吹き始めた。春にはまだ早い冷たい大気は、彼女の細い指先を凍てつかせたろう。
 「おや? 笛の音……?」
 根小屋と呼ばれる城下町から家々が軒を連ねる大手門前広場を歩いて来た小太郎は、篝火が燃える八王子城の大手門までやって来た。堅く閉ざされた門を見上げているうちに、どこからともなく聞こえてきたのは確かに笛の音に違いない。それは川の流れの音に混ざって聞こえずらくはあったが、小太郎はその音に耳を澄ました。思えば音楽を聴くなど、高槻で立ち寄ったセミナリオで聴いたオルガン以来かも知れない。山城の構造を探ることなどすっかり忘れた彼は、暫しその笛の音色に聞き入った。
 「こんな夜更けにいったい誰が?」
 やがて好奇心に駆られるまま城山川の流域に立つと、その渓流の川上に向かって歩き出した小太郎は、小さな滝壺の脇、暗闇の中、岩を腰掛けがわりに佇む二人の女の姿をとらえると、俄かに目つきを変えた。
 「菖蒲どの……」
 すると笛の音がぴたりと止み、「たれじゃ?」とお笛から小さな声がもれた。
 「菖蒲どのではないか!」
 見まごうはずのない小太郎は、小躍りして二人の女の方へ駆け寄った。黒装束の不審な男の出現にお笛は別段驚く様子もなく、
 「あやめとはたれじゃ? 百合の知り合いか?」
 と聞いた。
 「ゆり……?」
 ‶菖蒲≠ナあるはずの女が‶百合≠ニ呼ばれたことから、猪助から「斬れ」と命じられた女が菖蒲であることを知ると同時に、小太郎は彼女が名を変えて城に忍んでいるとすぐに察しがついた。その安請け合いしてしまった仕事に早くも後悔の念が湧く。
 「存じませぬ!」
 菖蒲は咄嗟に関係を否定した。彼女と会いたいがためだけに小田原までやって来た小太郎は心外だった。
 「何を申す、わしじゃ、小太郎じゃ」
 言い終わらないうちに彼女の口から思わぬ大声が発せられた。
 「曲者じゃ! 誰かあるか!」
 その悲鳴に似た叫び声に驚いたのが、滝壺の水汲み場から細い崖路をあがったところの搦め手門の警備についていた門番である。足元もおぼつかない真っ暗闇の小道を転びながら駆け下り、腰の刀を引き抜いて小太郎の前に立ちはだかった。そして、懐にしまっておいた警笛を高らかに鳴り響かせると、途端に遠くのあちこちで同じ警笛が鳴り出し、御主殿の警備に付いていた侍はもちろん、どこからともなく風魔の″は組≠フ連中も現れて、小太郎は瞬く間に取り囲まれた。菖蒲に気を取られてさえいなければ逃げる隙などいくらでもあったはずだが、こうなってはさすがの小太郎も逃げ場を失った。
 侍の一人が手にしていた篝火が小太郎の顔を照らしたとき、風魔の一人が「あいつじゃねえか」と呟いて前に出たのは″は組≠フ組長の半助である。彼にしてみれば猪助の密命で動いている小太郎を知っているし、曲がりなりにも十日間は世話を任された新入りなのだ。御主殿の侍女の命を狙っていることなどは話せるはずもなし、すぐには殺せない理由がある。
 「この曲者は私らが追っかけていた伊賀者に違いありません。こいつの処分は我ら風魔党に任せちゃくれませんか」
 騒ぎを聞いて駆け付けた平井無辺は、「よかろう」と言ってお縄にした小太郎を半助に引き渡したが、屯所に戻った小太郎はいい笑い者だった。
 「三日もいらぬとほざいた割にはとんだ茶番だったな。今晩の騒ぎで城内の警備も厳しくなるだろう。貴様に本当に殺れるのか?」
 半助は髷を切られた恨みを嘲笑に変えて、他の仲間とお縄にされた小太郎を囲んで馬鹿にした。