雷神の門 大運動会
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触発の炎
はしいろ☆まんぢう作品  

 上田で甲賀の赤猿──いや飛び猿と遇って、菖蒲を追いかけて来たものの、どうした行き違いか会うことはなく、そのまま小田原城下まで来てしまった小太郎である。
 秀吉の小田原攻めに対抗する準備のためか、小田原城に続々と入場する家臣たちの兵で溢れ、町は少し前に見た大坂城下さながらの賑わいを見せていた。このまま何もせずに引き返すには惜しい小太郎は、せめての慰みに物見遊山でもして戻ろうと、口中清涼、臭い消しに効くと噂の相州小田原『透頂香』とはいかなるものかと、その薬を扱う宇野藤右衛門の屋敷を探してみたり、今宵は小田原の女と遊んでいこうと金の心配をしながら色町はないかと方々を歩きまわっているうちに、ある質屋の前を通りかかったところで、
 「小太郎ちゃんじゃないか!」
 彼を呼び止める女の声がした。見れば京の三条通りの煮売り屋吉兆屋≠ナ、賄いの女中をしていたお銀ではないか。
 「お銀さん!」と思わず小太郎は大声を挙げた。
 「あんた一体どこにいたんだい? ちょっと出て来るって吉兆屋を飛び出したっきり、全く帰って来ないから熊にでも喰われちまったんじゃないかってずいぶん心配してたんだ。あの後あんたの連れが『小太郎はどこにおる!』って大騒ぎして大変だったんだから!」
 「おお末蔵か。相変わらず土いじりをしておるか?」
 「そうそう末蔵っていったね。それが長次郎さんとこ飛び出して姿を消しちまったままなのさ。ほれ、光悦さんから紹介された聚楽焼のおっしょさん、いただろ」
 「そういえばそんな事を言っておったなあ」
 「のんきだねえ、うらやましいよ。早く茶碗を返してあげなよ」
 小太郎は大坂で高山右近を見付け、その茶会の場に忘れて来てしまった茶色い古びた茶碗のことを思い出して苦笑いした。まさかそれが今は千利休の手元にあることは知る由もない。
 「なくしちまったのかい? 知らないよ、末蔵さん、あんな剣幕だったから、もしかしたら死ぬかも知れないな──」
 「おいおい脅かさないでくれよ──」
 「それより女は見つかったか?」
 「おんな?」
 「あれ? 女のケツを追っかけて吉兆屋#び出したんじゃなかったのかい?」
 小太郎は目ざとい女狐だと閉口しながらも、今もまた同じ女を追いかけて小田原くんだりまで来てしまっている自分を顧みながら、その成長のなさに情けなく肩を落とした。
 「お銀さんこそこんな所で何してんだい?」
 「動乱の起こるところ伊賀者あり、ってね」
 「仕事か? どんな仕事だ、何を探っとる!」
 「目の色を変えたところを見ると、相変わらず職に飢えているな。まあ小太郎ちゃんには関係ないことよ。それより今晩この店で市≠ェ開かれるんだけど顔出していかないかい? 何か耳寄りな情報が得られるかもよ」
 市≠ニは忍びの隠語で、立場や仕官先への忠義を越えて行われる伊賀者同士の情報交換の場のことである。伊賀の乱以降、機能しているいないは別として、京の吉兆屋≠フような、表向きはなんの変哲もない店舗や家屋が全国に点在していると聞いている。小田原には質屋の孫六という伊賀者が町人になりすましており、いままさに通り過ぎようとしていた質≠ニ掲げた看板の店がそれだった。主人の孫六は三十半ばの男で嫁も子もあったが、彼が忍びであることはつゆほども知らない。市の日は、決まって「仕事仲間の寄り合いがあるから」と言って女房子供を城下町を囲う土塁の外側にある実家に帰らせていたから、今は店内には孫六とお銀がいるだけだった。
 「孫六さん、仲間だよ」
 と言ってお銀は小太郎を紹介すると、孫六はむすりとした表情で一瞥しただけだった。
 「根は悪い人じゃないから気にしないで」
 お銀はそう言うと奥の土間で、市で振る舞うのであろう大きな鍋の、作りかけた煮物の火加減を調節しながら味見した。小太郎は狭い店内を見まわして、
 「それにしても小田原城下のど真ん中によくこんな会所があったものだ。風魔にでも見つかったら一巻の終わりじゃないのか?」
 と感心すると、すかさず、
 「孫六さんは伊賀者でもあるけど風魔党でもあるんだよ。下手な忍びよりよほど信用できるって風魔の間でも評判なのさ、ね、孫六さんっ」
 と替わりに応えるお銀はなんとも先ほどからお喋りな女であるが、そうして相手からうっかり秘密を聞き出す、それが京で鳴らした彼女が地獄耳の空蝉≠ニ呼ばれる所以である。
 「ふん、諜報の傍ら別の職業をする話なら巨万と聞くが、流派で二足の草鞋を履いた忍びなど聞いたことがないわ」
 孫六は小太郎を睨みつけると、
 「やることは一緒じゃ」
 と、質入れのあった刀の手入れをしながらぶっきらぼうに呟いた。
 一息つく間もなく、お銀は京を出てから現在に至るまでの経緯を根掘り葉掘り聞くものだから、小太郎は高山右近の所で暇をもてあそばせながらなんとなく仕えていることや、キリシタンになれとしつこく誘われていること、そして、今回の北条攻めでは菖蒲を追って小田原まで来たとは言えず、少し話を盛って偵察に来ていることなど、適当にあしらいながら答えた。
 「高山右近ていったら博多の追放令に逆らって左遷されたキリシタン大名だろ? それじゃ今回小太郎ちゃんは前田利家の下で働くわけだ。とりあえず仕事があって良かったじゃないか」
 「良いものか! あんなお人好しの伴天連主君に仕えていても体がなまるだけじゃ。俺はもっと大きな仕事がしたいのだ」
 お銀はその強がりを見抜いて腹を抱えて笑った。

 やがて夜の帳が降り、周囲の家の明かりも一つ二つと消えていくと、どこからともなく闇に紛れて音もなく、一人二人と黒い影が質屋に集まってきた。それが十ばかりになって暫くしたとき、「嘉兵衛はどうした?」と誰かが言った。
 「どうも昨晩、城内に忍び込んだところを風魔に見つかって殺られたようだ」
 「小田原城内に? また無茶なことをする」
 「あいつは宇喜多秀家に仕えていたな? よほど切羽詰まった事情があったのだろう」
 と、口々に話し出すと、それはもう市の始まりだった。
 「まあこれを食いながらおやりよ」と、お銀が振る舞った椀の煮物をすすりながら、まずは風魔党忍者のことが話題となった。小太郎は何も言わずに耳を傾けていただけだが、大方話の内容は次の通りである。
 現在風魔党忍者を束ねているのは五代目風魔小太郎という男で、その配下の乱波の数は二〇〇人とも三〇〇人ともされ、その基本的な行動は一組四〇名から五〇名からなる集団によるもので、それぞれの組が城の警備や諜報の任務に当たっているという。主だった人物としては二曲輪猪助だとか太田犬之助とか風間主水正とか妙円斎とかの名が挙がったが、個々で行動する伊賀者に対して団体で襲撃を仕掛けてくる風魔は非常に厄介で、ひとたび目を付けられたらもはや逃れることはできないだろうと、その存在は市に参加する者たちの脅威でもあるようだった。
 なるほど考えてみれば、北条家は昔から諜報活動といえば風魔党を使っていることは小太郎も知っていたから、北条側に仕える伊賀者など数えるほどしかいない。なので忍びの者の立場から見れば、今回の北条討伐は、北条風魔党忍者対伊賀はじめ甲賀その他諸々の忍びという構図が出来上がっているわけだ。その北条家に仕える貴重な伊賀者の一人が、市の場所の提供者である孫六であった。口数が少なく、いつも場所を提供するだけで会話にはほとんど口をはさまないその孫六が、この日珍しく口を開いた。
 「どうやら北条は籠城して関白を迎え撃つつもりだ」
 そして淡々と続けるには──
 現在北条家内部は、当主が秀吉と謁見して戦を避けるべきとする穏健派と、戦うべきだとする主戦派に分かれていると言う。ところが実質的な権力者である当主氏直の父氏政は徹底抗戦を主張しており、どうにも秀吉に屈服するのが嫌であるらしい。北条家は代々武家の名門であるのに対し、秀吉はもとを正せばただの農民出の成り上がり者である。兵や財力ではとても及ばないと知りつつも小田原城の堅固さを過信している節が見られる。かつてその城を手にした北条早雲の時代より防衛の拡張工事を着実に続け、その護りの堅さは今や大阪城をも凌ぐものになっていることを自負しつつ、実際に過去の戦でも落ちたことがないという話を神話のように持ち出した。確かに町全体を含む巨大な惣構えの中には耕作地もあり、籠城しても数年は持ちこたえることが想定できるのに対し、秀吉は何十万もの兵を動かして来るわけだから長期戦に持ち込めば秀吉軍の兵糧も尽きるに決まっているという算段である。加えて北条家には東北の伊達家が付くし、今は秀吉になびいている徳川家康とて、婚姻関係は裏切れないと見て必ず北条に味方すると信じている。客観的には数に勝る秀吉有利に見えるが、その勝利への道筋が北条氏政の口から出ると、まことしやかに聴衆を信じ込ませる力があるのだと、孫六は静かな口調で話し終えた。
 小太郎は一言も言わないまま話の成り行きを見守っていたが、突然、
 「この戦、もし北条が勝ったら天下はどうなる?」
 と声を挙げた。その愚問に、参集者の視線はその見慣れない若僧の顔に集まった。
 「おお、紹介が遅れたが、こいつは甲山太郎次郎さんの倅で小太郎ってんだ」
 お銀が言うと、不審な空気が一瞬にして尊敬と羨望に変わった。小太郎にしてみれば、いまだ父親の威厳に守られていることにいい気持ちはしない。「誰に仕えている?」とか中には太郎次郎との思い出を語り出す者もいたが、小太郎は一蹴して、
 「北条が勝ったら天下はどうなるか教えてくれ」
 と繰り返した。
 「それは十中八、九ありえんな」と誰かが言った。
 「そんなことは聞いておらん。勝ったらどうかと聞いておる」
 「そりゃお前さん、戦乱の世に逆戻りだな。ようやく関白さんが天下統一を果たしたのに、次の覇者をめぐって再び大混乱になる」と他の誰かが言った。
 「それがなぜいかん? わしらはそれで飯を食ってるんじゃないのか」
 「いかんとは言ってないさ。ただ、また死人が大勢出る」
 「死人がなんだ! わしらの里はあの信長に滅ぼされたのだぞ! それが天の報いなら、天は戦乱を望んでおるのじゃ!」
 議論の趣旨を著しくたがえるその激しい発言に、
 「小太郎ちゃん、やめときなよ。そんな事を言ったって仕方がないじゃないか」
 とお銀はさえぎったが、小太郎の心に暫く眠っていたやりどころのない信長に対する憎悪の炎は、再びメラメラと燃え始めたのだった。それは、高山右近に伴って、九州征討から今に至るまでの平穏すぎる日々に慣れてしまっていた伊賀者の血が、同じ里の者と接触した際に発火した化学反応かも知れなかった。小太郎は我を失って、
 「わしは北条に付く!」
 と叫んだ。その行為が右近に対する裏切りになることなど全く考えていないどころか、小太郎の脳裏には菖蒲さえもいなかった。
 思わず孫六も小太郎を見つめる。
 「孫六さんといったな。天下をひっくり返すためならおれは何でもする。北条家の重臣と引き合わせてくれぬか?」
 「小太郎ちゃん本気で言ってるのかい?」とのお銀の驚きを横目にして、孫六は小太郎の目をじっと見つめ、
 「ならばあのお方が良かろう」
 とボソリと言った──。

 翌朝、早々に目通り叶ったのが八王子城主の北条氏照である。孫六が小太郎を紹介するのに氏照を選んだ理由は、現在北条家内で分裂する主戦派と穏健派の内、この氏照こそが抗戦論を牽引する中心人物であるからだった。彼は評定のため今は小田原城内にいる。目通りといっても城内の屋敷内で引き合わされたわけでなく、忍びが主君と話をする時は、大抵庭先とか廊下とか床下や天井裏などに隠れて、けっして目立たない場所で密かな言葉を交わすのが通例である。
 この時も寝起きの厠を出た氏照をつかまえて、「お話しがございます」と、孫六は廊下を歩く彼を引き止めた。
 「なんじゃ、孫六か。手短かに申せ」
 「実は北条家に仕えたいと申す伊賀者がおりまして」
 「伊賀者? だめじゃ、伊賀者は信用おけぬ」
 「それが、関白秀吉に恨みを持つ者にて、何でもするから雇ってくれと乞われまして」
 「何でも=c…?」
 忍びの言うところの何でも≠ニは刺し違えても≠ニいう意味である。氏照は表情ひとつ変えず、
 「会おう」
 と言った。孫六は呼び寄せる手招きをすると、そこに風のように一人の男がひれ伏した。
 「伊賀の甲山小太郎と申す。お見知りおきを」
 「裏切ったらどうなるか知っておろうな?」
 「無論」
 氏照はしばらく小太郎の小気味よいしたたかな顔を凝視すると、「猪助はおるか!」と声を挙げた。すると、これまたつむじ風のようにいま一人の男が現れて同じ場所にひれ伏した。風魔猪助であった。
 「この者を預けるゆえ自由に使え。伊賀者じゃそうな。もし違背の兆しが少しでも見えたら即座に斬り捨てよ。──甲山小太郎、それでもよいか?」
 「御意!」
 氏照はそう言い残すと、何事もなかったかのように座敷の奥へ戻った。
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