雷神の門 大運動会
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調略の準備
はしいろ☆まんぢう作品  

 小田原城は、戦国最強の武将と恐れられた武田信玄をして、また、軍神と崇められた上杉謙信をして落とせなかった難攻不落の城である。関東統一を視座に入れて勢力を広げてきた北条氏は、この城を拠点に無数の支城をはりめぐらせ、特に重要地点には一族の者を城主に据え、各支城との迅速な情報伝達を実現するため伝馬制度を充実させていた。鉢形城や滝山城もそのひとつで、永禄一二年(一五六九)に武田信玄が小田原攻めを行った際も、この二つの支城は落ちなかった。もっとも滝山城の方は陥落寸前にまで追い込まれたが、その戦いで防御が不十分であることを思い知らされた城主北条氏照は、「滝」には「落ちる」という意味があることも嫌い、更に急峻で攻めにくい地形を求めて八王子城を築いた。そしてその八王子城こそ、関東の西を護る小田原城最後の砦であった。
 前田利家をはじめとする北国軍は、かつて信玄が経由した街道をたどり小田原へ進軍する予定であるが、一足先に偵察に出た真田幸村は、菖蒲と二、三の忍びの者を引き連れて、碓氷峠から上野国の松井田、箕輪、平井を経、武蔵国に入って鉢形を過ぎた。やがて一行は八王子城と目と鼻の先にある阿伎留神社に到着すると、おのおの人目を忍んで物陰に身をひそめて旅装束を着替え、やがて互いの恰好を確認し合うように集まった。彼らの風貌は織物商人を装い、幸村と菖蒲はさながら夫婦で、そこに荷物運びの奉公人に扮した甲賀者と、もう一人はそれを護衛する修験者を装っている。一行は諜報活動のためにそんな変装を松井田城下、鉢形城下でも繰り返してきたのだ。
 「八王子城には北条家きっての強者、北条氏照がいる。用心して参るぞ」
 修験者の男が言った。北条早雲にはじまる後北条家の現在の当主は第五代氏直であるが、家督を譲っていたとはいえ実質の権力はその父親である四代氏政が握っていた。氏照はその氏政の弟であり、“北条一の弓取り”との噂は、豊臣秀吉が最も警戒した人物の一人であるとも言われる。その意味からも八王子城の攻略は、今回の小田原攻めにおける肝とも言えた。
 「なあに、まさかその城内に上杉に通じる間者がいるとは夢にも思っておるまいて」
 今度は荷物運びの一人が言った。見覚えのある顔──そうだ、菖蒲が京から大坂に向かう途中、小太郎を襲った二人の甲賀者に違いない。修験者に扮している方は虎之助と呼ばれていた男であり、もう一人は、
 「蜻蛉、声がでかい!」
 そう、蜻蛉。菖蒲はきつい目付きで「聞かれていたらどうする」と周囲を四顧して彼を戒めた。この二人、どうやら以前より菖蒲護衛の任務を任されているようだ。もっとも修験者に扮した虎之助は甲賀者でなく、信州は戸隠の山奥で忍術の修行を積んだ戸隠流の使い手であった。信玄の時代から真田家に仕え、忠義心においては誰よりも熱いものを持っている。その様子を幸村は静かな笑みを浮かべて見守っていた。
 上杉の家臣に藤田能登守信吉という男がいる。またの名を用土源心と言った。戦国の世にあって生涯主君を渡り歩くが、こと上杉家に仕えていた時の彼は、調略をもって城を落とす名手である。上杉家に謀反し対立した一連の新発田重家討伐においては、天正一三年(一五八五)に新潟城と沼垂城を落とし、天正一五年(一五八七)には赤谷城への救援部隊を阻む功績を挙げて赤谷城攻略の立役者となり、更には新発田勢の重臣五十公野信宗が篭城する五十公野城を落城させ、内乱終結に大きな功績を残した。しかもその城落としの常套手段はいずれも調略によるもので、五十公野城攻略の時は城を包囲すると、家老の河瀬次太夫や近習の渋谷氏などを寝返らせ、城門を開かせ総攻撃で城主信宗を討ちとった。
 しかし、もともと源心が調略の策士であったかといえばそうではない。彼に調略の味といろはを教えたのは、何を隠そう幸村の父真田安房守昌幸なのである。
 用土源心はもともと武蔵国の生まれで北条家の家臣であった。天正六年(一五七八)五月に上杉謙信が死去して家督争いが勃発(御館の乱)すると、上野国沼田城は北条氏の支配下となり、このとき猪俣邦憲が城主となり、少しして城将を任されたのが源心である。地理的に関東と越後、そして信濃を結ぶ軍事上の重要地点としてこの城は、上杉氏と北条氏と武田氏の争奪劇を繰り返していく。
 その後まもなく上杉景勝と武田勝頼が同盟関係になると、勝頼は真田昌幸に沼田城攻略を命じた。天正七年(一五七九)九月、昌幸は沼田城周辺の名胡桃城と小川城を攻略し、両城を拠点に沼田城攻撃を開始する。そのとき源心は、
 「いつのまにか情勢が逆転しておる!」
 と、驚きを隠せなかった。沼田同様北条支配下にあったはずの名胡桃城代の鈴木主水重則と、小川城主の小川可遊斎が俄かに寝返っていたのである。その時は援軍が駆け付けたため沼田城は落ちることはなかったが、その危機が昌幸の調略によるものであると知った時、大きな敗北感とともに、昌幸への羨望が目覚めたのであった。
 翌年閏三月、真田昌幸は再び沼田城への攻撃を開始した。そして五月、ついに沼田城を無血開城することに成功するわけだが、その際、城主の猪俣邦憲は小田原へ逃れたが、用土源心は降伏して昌幸の臣下となったのだった。
 「このたびの沼田攻略の一件、まっこと見事でござった。ひとつ安房守殿の調略の勘どころ、この源心めにご教示下さらぬか? きっとお役に立てましょうぞ」
 源心が昌幸に問うたとき、昌幸は源心のしたたかさを見抜いてこう答えた。
 「わしのような弱小武将が城を落とそうとしたなら、まず人を落とすのが鉄則じゃ。城の要となっている人物を見つけ出し、その者の弱点を見極める。大抵の人間は“利”で落ちる。”利”を用いて駄目なら”情”を用い、”情”で落ちずば”義”を用いる。”義”の中でも最も効果的なのは”恩義”というものじゃ。調略とはそういうものぞ」
 「ならば安房守殿は何を用いて落ちるか?」
 「そうよのう……」と昌幸はしばらく考えたあと、
 「信玄公の命とあらばこの命惜しくない」
 と答え、続けて、
 「源心殿、わしがかような手の内を敵とも味方とも知れぬそこもとに教える心が解るかな?」
 と言った。その鷹のような眼光に源心は震えあがった。昌幸は「今わしは、お前に”恩”を売ったのだ」と言っている。その”恩”を恭順で報いるか謀反で報いるか、「お前の人間性を最期まで見届けてやるぞ」と、それは脅迫にも似ていた。
 その後、武田氏支配下に置かれた沼田城は、引き続き用土源心が城代を務めることとなり、加えて目付役の意味もあったのだろう、真田家縁故の海野幸光、輝幸兄弟らが城代に据えられた。ところが天正九年(一五八一)、元沼田城主の庶子である沼田平八郎景義が、北条氏の援助を得て沼田城奪還の狼煙を挙げる。源心はその闘い(田北の原の戦い)に敗れたが、昌幸は偽の起請文で景義を沼田城内に招き寄せ、城内で刺殺し沼田氏を滅亡させた。
 天正十年(一五八二)三月、織田信長の勢力拡大によって武田勝頼が自害し武田家が滅びると、主君を失った昌幸は行き場を失う。そのとき源心は昌幸にこう問うた。
 「武田家が滅びたいま、安房守殿を動かせるものは何か?」
 と。すると昌幸は軽くあしらってこう返した。
 「何もなくなった」
 昌幸は信長の武田討伐で戦功を挙げた滝川一益の傘下に降り、沼田城主は滝川氏にとって代わった。そして六月、本能寺の変で信長が没すると、滝川一益は明智光秀を討つため京へ向かうが、その機に乗じた北条氏直は、関東最大の野戦と言われる神流川の戦いを演じ、結果的に敗れた一益は本拠地伊勢に逃亡し、その隙に昌幸は沼田城を奪還して北条氏に臣従した。その後も昌幸は徳川家康に臣従したり、天正一三年には上杉景勝に臣従して人質として幸村を越後へ送る。わずか三年の間で武田から織田、織田から北条、北条から徳川、徳川から上杉とあざやかな転身振りを発揮するが、それは戦国時代の様相を浮き彫りにするものでもあろう。
 その間源心も上杉景勝を頼って越後へ逃れ、以後彼は上杉家臣として活躍していたのである。
 その源心は武蔵七党の一つ「猪俣党」の出であるとも言われ、幼少を過ごした武蔵国には旧知の有力者も多かった。八王子城で普請奉行を務める平井無辺という男もその一人で、今回秀吉から小田原征伐の命がくだったとき、源心は真っ先に昌幸と連携を図った。
 『こたびは上杉と真田、前田に従い、共に小田原を攻めることに相なり申した。しかるに吾輩は上杉の家臣でもあるが昌幸様の臣下でもある。武蔵国は我が故郷にて友人も多く、調略は吾輩の役目と深く決意しているところだが、故郷を離れてより幾星霜、旧知の友も心変わりしているかも知れない。ついては昌幸様の諜報力を持って網を張っておいて頂きたく、平にお願い申し上げ候』
 と、以下に調略対象となる者の名がつらつらと書き記してあった。昌幸は、
 「あやつめ、たった二言三言のわしの教示で、調略の要領をつかんだとみえる。したたかな奴よ」
 と舌を打った。諜報力で網を張ってほしいというのは昌幸子飼いの忍びの者達を各支城に潜伏させておいてくれという意味で、源心旧知の者達に背信の可能性はあるか、あるいは弱みはないかなど、探りを入れてほしいと言うわけである。無論言われなくとも手を打つつもりであった昌幸だったが、謀反を起こす可能性のある具体的な人物の情報を得たことは大きな収穫だった。こうして幸村を偵察に向かわせたわけなのだ。

 古来武蔵国を流れる多摩川沿岸では麻や絹織物の生産が盛んであった。稲作や生糸づくり等の大陸文化を持ち込んだ高麗人が帰化した場所だからとも言われるが、西行法師がこの地を通った際、

 浅川を渡れば富士のかげきよく桑の都に青嵐吹く

 と歌ったことから、江戸時代に入ると八王子一帯は「桑都」とも呼ばれるようになる。
 北条氏照が滝山城に入った際、八日市、横山、八幡の三宿を開いて城下町を形成するが、拠点を八王子城に移すと三宿をそのまま移転させて同じ城下町を作った。それが現在の元八王子である。八日市ではその名の通り、毎月八の付く日に市が開かれ、天正年間(一五七三〜九二)の詩歌には、

 蚕飼う桑の都の青嵐市のかりやに騒ぐ諸人

 と歌われるほどの大賑わい見せていた。特にこのころ現れた『紬座』という絹織物を扱う座は大人気で、幸村一行が織物商人を装ったのもそのためだった。
 「おい、貴様ら! いったい誰の許可を得てここで商売をしておる!」
 八王子城下を見回る二人組の役人が、見慣れぬ顔の商人の市座を見付けて、ひどい剣幕で叱り付けた。そこでは幸村と菖蒲、そして修験者姿の虎之助がへらへらと笑いながら織物を売っていた。蜻蛉ともう一人の甲賀者はどこかに身を潜めているようだ。秀吉が小田原征討令を発してよりここ八王子も、みな神経をピリピリとがらせているのだ。
 「へえ、けっして怪しい者ではございません。あっしらは桐生の織物を扱うしがない商人でございます。八王子の紬座の人気を聞きつけて、こうして桐生よりはるばる売りに参った次第。許可が必要とは存じませなんだ」
 威厳も風格も感じないただそそっかしいだけの言い訳は幸村が吐いた台詞である。役人の一人は「桐生?」とつぶやくと、もう一人は「桐生といえば由良国繁殿の所だ。先日、北条氏直様と共に弟の長尾顕長殿を引き連れて小田原城に入ったと聞いておる」とささやいて、やや不審をやわらげて再び幸村たちを睨みつけた。
 「お前は店主か?」と問うと幸村はすかさず「へえ」と答えた。
 「この女は?」
 「あっしの妹でごぜえます。兄の口から言うのもなんですがね、なかなかの器量よし。ひょいとこの織物を身にまとえば百人力の売り子に早変わりって寸法ですわい。しかしこいつにしてみれば旅先でよい嫁入り先を見付けるっていうつまらぬ欲望を抱いているみたいですがね、それほど世の中は甘かないって話しでさぁ! はっはっは」
 役人は菖蒲の姿をじろじろと見つめた後、ひと回り大きい図体の修験者に目をやった。
 「この入道は用心棒でございます。追剥から身を守るために雇っております。なあに見かけは強面ですがね、根はやさしい奴なんでさあ」
 二人の役人は申し合わせたように、
 「まずは平井様に報告だ。素性が知れるまで一の櫓にでも放り込んでおけ」
 と、お縄をかけたような乱暴振りで、三人を城の方へと引っ張って行った。
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