雷神の門 大運動会
> 第1章 > 船上の稲妻
船上の稲妻
 「おい、目を覚ませ!」
 暗闇の中、男勝りの荒い囁き声は女のものだった。
 「ううっ……」とうめき声を吐きながら深い眠りから覚めた小太郎は、おぼろげな視界に写し出された女の顔に焦点が合った時、ガバリと上半身を起こして思わずに「菖蒲殿……」と声を挙げた。見間違えるはずもない、それは大坂城で別れて以来、ずっと脳裏にこびりついて離れない、美しいあの女の泥に汚れた怪しげな表情である。
 「ここはどこじゃ? なぜここにおる?」
 小太郎はうずくように痛む頭を押さえて暗い周囲を見回した。すると細長い倉庫のようなところに、泥で汚れた農民姿や町人姿をした若い男女が二、三〇名ほど、鉄製の手枷・足枷につながれ、うずくまるようにしてじっと息をひそめて眠っている光景を見たのであった。
 「南蛮船の船底じゃ。私らは奴隷としてこれから長崎に運ばれる」
 菖蒲は他人事のように言うと、「あんなデカいだけの男にやられるとはお主も頼りにならぬの」と吐き捨てた。その言葉で小太郎は、錠前を開けようとしている最中に、ポルトガルの大男に脳天を殴られたことを思い出した。そして「あの信号は菖蒲殿であったな。“木叩き信号”が甲賀にもあるとはのう」と感心したように呟いた。
 「そんなことよりこの鉄の重りをはずしてくれ。動きずらくて仕方がない」
 幸い小太郎は足枷もされず、縄で縛られていただけだったので腕や肩の関節をはずし、縄抜けの術ですぐに自由になったが、忍び刀を押収されたらしく、鉄を切る道具といえば“しころ”と呼ばれる楕円形をした携帯用の鋸しかなかった。本来は家屋などへ侵入する際に邪魔な木材を切るための道具で、左右両側に刻まれた刃は粗びきと細びきになっており用途によって使い分けるものである。
 「このシコロはな、伊賀一の鋸職人だった湯本爺さんに作ってもらった特製じゃ。鉄だって切れるぞ、信長に殺されたが―――」昔を思い出すようにしみじみ言うと、「手と足、どちらから自由にしてほしい?」と聞いた。
 「逃げるには足が先じゃ、早よしろ!」
 泥で汚れてはいるが、美しすぎる脚線を見て生唾を飲み込んだ小太郎は、その柔らかいふくらはぎを遠慮がちに握って足枷の鉄に切り込みを入れた。
 「まだか?ひとつ切るのにこんなに時間がかかっていたら、とっくに日が昇ってしまうぞ。日が昇ったら船が出る。そしたらここにいる者達の脱出する機会は失われてしまう。早くしてくれ」
 「ここにいる者らを逃がすつもりか?」
 「当たり前じゃ!この者達は、何も知らずに南蛮へ売られようとしておるのじゃ」
 菖蒲は人が変わったように感情的になった。
 「およそ耶蘇たちが考えそうなことじゃ」
 「違う! これは欲深い商人どもの仕業なのだ」
 「キリシタン達もその片棒を担いでいるではないか」
 「違う! デウス様はそのような事はなさらない」
 「テレジア……」と呟いたのは、罪もない哀れな若者を救おうとしている菖蒲が、神から遣わされた天使のように見えたからである。しかし彼女のその目は、信じる宗教を否定された憤りからか、泣きそうな真剣さで小太郎を睨みつけるのであった。
 「右近に会ったぞ」
 小太郎が静かに言った。「兄上に……?」と、菖蒲の鬼のような目つきが俄かに郷愁を帯びたものに変わると、「達者でしたか?」と付け加えた。鉄を切る手を動かしながら、大坂城で別れてから現在に至るまでの経緯を話しているうちに、ようやく片方の足枷がはずれ、もう片方の作業に取り掛かった小太郎は、着物の裾からはだけるなまめかしい彼女の太腿を見ていた。
 「菖蒲殿はなぜ博多になんぞおる? 大坂城の真田幸村のところにおったのではないか?」
 以前感じたような鋭い殺気は潜めているのか、目の前の菖蒲は妙にしおらしく、静かに身の上を語り始めた。その内容に嘘は感じられない。
 幸村の侍女として大坂城に入った菖蒲は、間もなく九州討伐の秀吉護衛を命じられた幸村に随行して九州まで来たのだと言う。もう一つの動機は、九州におけるキリシタン大名の良からぬ噂の真意を確かめたかったのだと、「お主も高槻の教会で盗み聞いていたであろう?」と付け加えた。「やはり知ってたか。喰えぬ女だ」と小太郎は思った。北九州から薩摩へ向かった軍を離れた彼女は、博多で人身売買の実態を探るため逗留するが、ついに奴隷の一時収容所を発見したところで、例のポルトガルの大男に拉致されて「このありさまじゃ」と珍しく笑った。そして、
 「どうしてか分からぬが、監禁されている間中、お前が来てくれるのではないかと思えて仕方がなかった」
 と言った。彼女のしおらしさは、どうやらそれが現実となった小太郎に対する信頼の芽生えからきているようである。小太郎は、
 「わしはお主に惚れておるからのう」
 と、以前も漏らしたような戯れを口にした。それは本当でもあり嘘でもあった。小太郎自身よく分からない感情なのである。
 「早くしろ、もう日が昇る」
 暗い船底の木の隙間から、ほのかな光が入り始めていた。

 さて日が昇り、秀吉を引き連れたコエリュがフスタ船の乗り場にやって来た。そこにはモンテイロや秀吉の側近はもちろん、高山右近と小西行長も居合わせた。
 「本当は“ナウ船”という大型船をお目に入れようと思ったのですが、この港は遠浅のため乗り入れることができませんでしたので、やむなくこの“フスタ船”をご覧にいれます。小型ではありますが人力で動きますので小回りがきき、最新の大砲も積んでございますので必ずやご満足いただけることでしょう」
 コエリュはこう言うと、門番の大男に目配せをした。大男は小太郎を船底の倉庫に押し込めた例のポルトガル人で、船上の乗り組員達に「partida !!」と叫ぶと一行を船に乗せ、自らも乗り込んだ。こうして穏やかな湾内のクルージングが始まったのである。
 風を受ける二本のマストのロープを巧みに操る乗組員たちはみなポルトガル人だったが、何より目に付くのは船の両サイドで号令に合わせて必死にオールを漕ぐ痩せこけた男達の様子であった。よく見れば真黒に日焼けした彼等はポルトガル人ではなく明らかに日本人で、それを問い質そうとする秀吉の関心をそらすようにコエリュは操舵室を案内したり、船首と船尾に据えられた最新型の大砲を見せ、使い方など説明して回るのであった。
 「いかがでございましょう?」
 と、自慢げに言うコエリュに向かって秀吉が聞いた。
 「船を漕ぐ者達はみな我が国の民のようじゃが、いったいどうしてここにおる?」
 近くにいた右近と行長は焦燥して秀吉の顔色をうかがった。
 「この者達はみな罪人でございます」
 コエリュは平然と答えた。秀吉はその強かな顔を見て、
 「船底が見たいが」
 と言った。
 「船底は倉庫になっているだけです。今は長崎への積み荷で乱れ放題の有様。とても関白殿下にお見せできるような状態ではございません、どうかご勘弁を」
 「かまわぬ、見せよ」
 「私に恥をかかせないで下さいませ」
 「見せよと申しておる!」
 コエリュは言葉を失った。モンテイロは「逆らってはまずい」と彼を促した。
 船底といってもいくつかの部屋に区切られており、奴隷として売り渡す者達を監禁していたのはその中でも一番奥のスペースであった。さすがにそこまで案内しなければ良いと判断したコエリュは、
 「こちらでございます」
 と、甲板中央の主屋形の中へ秀吉を案内したのであった。その厳重に封鎖される戸口の鎖を見た秀吉は「随分と用心深いのう」と皮肉を言うと、「ええ、貴重な物ゆえ盗まれたら一大事です」とコエリュは何食わぬ顔で答え、例の大男に錠前の鍵を開けるよう命じた。
 やがてジャラリジャラリと鎖が外された時、戸口を開くよりも早く、いきなり中からムササビのように飛び出した大きな黒い物体があった。それには一同驚愕して、大声を挙げて全員尻餅をついた。
 一同正気に戻ってその黒い物体を確認すれば、女を抱えた男が一人、こちらを睨んで身構えているではないか。言わずと知れた小太郎で、抱えられている女を見て、右近が「テレジア」と呟いたのを行長が聞いたのと同時に、小太郎は「兄上」と呟く菖蒲の声を聞いた。
 小太郎は右近の姿を確認すると、
 「驚かせて済まなんだ。右近殿、日の出にはちと間に合わなんだが、この南蛮船は奴隷輸送の船である。船底の奥に南蛮人に拉致された者達がおるぞ。直ちに救出してやるがよい!」
 と叫んだ。そのうち戸口の中から、手枷・足枷をしたままの若者たちが、一人二人と地面から湧くように姿を現し、秀吉が「どういうことじゃ?」とコエリュに問い質すと、
 「みな犯罪人でございます」
 と白を切る。
 「どのような犯罪を犯したのか、一人一人の罪状を説明してみよ」
 コエリュはカッと頭に血をのぼらせて、「あの不届きな密航者を殺せ!」と大男に命じた。小太郎は菖蒲を抱えたままひらりと甲板に躍り出たが、次に聞こえたのは大男が放った大きな銃声だった。見れば髭を蓄えた大男の両手には、当時海賊たちが使っていたのと同じ、いわゆるラッパ銃が握られている。
 「昨晩の仕返しをしてやろうと思ったが、飛び道具とは卑怯ではないか!」
 小太郎は挑発するように叫んだ。すると大男は二発、三発と乱射した。ところがこのラッパ銃、至近距離においては恐るべき威力を発揮したが、揺れる船などで容易に弾込めができるよう発射口がラッパのように広がっている分、命中率が非常に低い。しかも一発放てば弾を込めるのに時間が必要で、通常は何丁ものそれを腰に巻いて戦うのである。案の条、発砲された弾は全てあらぬ方向へ飛んでいき、全て打ち尽くしてしまった大男は銃を捨て、今度は朝星棒を取り出した。
 朝星棒とはモーニングスターとも呼ばれる西洋の金棒のようなものである。二尺ほどの棒の先端に金属球があり、その金属球の周りには無数の尖った金属や刃物がついた打撃殺傷の武器である。しかもこの大男が手にしたのは、その身体の大きさに合わせた朝星棒だったから、長さはおよそ三尺ほどで、先端には二、三〇キロはあろうと思われる棘付きの巨大な鉄球がついていた。それをまるで扇子でも扇ぐようにして、軽々とブルンブルンと音をたてて振り廻し始める。むしろ大男にとっては銃より得手だったのだ。
 あんな巨大な鈍器に当たったりでもしたら、頭はかち割られ、骨は粉々に砕けて即死である。小太郎は菖蒲を舳先の船首楼に控えさせ、「ちと待っておれ」と言ったと思うと、トビウオのように大男の前に立ちはだかった。
 「ほれほれ、腕力だけで振り廻しておったらまったく力が無駄であるぞ!武器というのは腰で扱うものじゃ!」
 とはいえ小太郎は何も武器を持っていない。次の瞬間、大男の金属球が小太郎の脳天めがけて振り下ろされた。が、砕けたのは南蛮船の分厚い床で、その衝撃で船が大きく傾いだ。「どこに消えた?」とキョロキョロ周囲を見回す大男だが、当の小太郎は男の大股の間を潜り抜け、反対側にいた右近の腰の刀を「ちと拝借」と言って引き抜いたと思うと、すかさず大男めがけて斬りかかったのである。しかしそこは大男も負けてはいない。向かってくる刀の芯をめがけて朝星棒を振り下ろせば、玄界灘に響く鈍い金属音は、右近の刀を真っ二つに砕いていた。小太郎は折れた刀を見て目を丸くした。
 「右近殿! もうちとましな刀はなかったか?」
 すると秀吉が「これを使うが良い!」と、小太郎に自らの太刀を投げて渡した。それを受け取った小太郎は、鞘から刀を引き抜いて、その刃渡りをしみじみ見つめた。
 「これは見事な太刀じゃ……一生かかってもお目にかかることはなかろう」
 まさにいま隙だらけの小太郎目がけて、大男の朝星棒は左側から襲って来た。と、小太郎の姿が夢か幻の如く消え、次の瞬間轟いたのは、大男の怪獣のような叫び声だった。そのとき既に小太郎は、秀吉の前にひざまずき、鞘に収めた太刀を返納していた。
 その一瞬の間に何が起こったのか肉眼で見た者は一人もない。ただ、大男の左足の上に、朝星棒から切り落とされた先端の金属球が、痛々しく足に突き刺さっていたのを見ただけである。
 小太郎は風のように菖蒲の待つ船首楼に戻ると、身体を抱き上げ、
 「ごめん!」
 と言い残して海に飛び込んでしまった。
 船上の者たちは暫く呆気に取られていたが、やがて秀吉は苛立ちを隠せない様子で「今すぐ船を岸に戻せ!」と命じた。
 その様子をつぶさに見ていた右近と行長は、すっかり蒼白になってコエリュに言った。
 「このままでは秀吉様は、どのような沙汰を下されるか考えただけで恐ろしくなります。一刻も早くご機嫌を回復させるには、どうだろうか、このフスタ船を今すぐ秀吉様に献上してはくれまいか?」
 右近の言葉に行長も続いた。
 「あの剣幕だからそれだけでは足りんだろう。大型のナウ船を二、三隻ほど……」
 「バカを申すな」とコエリュは笑った。
 この頃日本にいる宣教師達の間では、キリシタン領主に対して過度の軍事援助を慎むようにとの方針が打ち出されている。コエリョの行動はこれに対して行き過ぎたものであった。その方針を打ち出したのはイエズス会東インド管区巡察師のヴァリニャーノで、この頃彼は日本にはいない。彼は日本における宣教方針として「適応主義」を取った。つまり自国の習慣にとらわれず、日本文化に適応させたやり方で布教を進めることである。そのためか織田信長とも非常に良い人間関係を築いているし、もしこのときの折衝人がコエリュではなくヴァリニャーノであったなら、日本の歴史はまた違った形になっていたかも知れない。
 コエリュは続けた。
 「そのような高価なものを、本国の許可なしで私の一存だけでできるわけがないだろう」
 「大村純忠様はあなた方のために、長崎を寄進したのですぞ!」と行長は続けた。
 「信者が神のために献納するのは当然だろう」
 行長がカッとなってコエリュの襟首を掴んだのを、慌てて右近が押し止めた。
 「お主はどこまでお人好しなのじゃ!」
 行長は右近にそう吐き捨てると、掴んだ襟首を払い、そのまま二人を睨んで立ち去った。
 さて筥崎宮に戻った秀吉は、早々にコエリュを呼びつけて詰問を開始した。
 「先程、船底に積まれ、鎖につながれていた者達は、奴隷として南方へ連れて行こうとしていたのではないか? また、あの櫂を漕いでいたのも囚人でなく、お前たちが奴隷とした者達であろう」
 秀吉はきっちり裏を取った上でこの話をしている。現にこの時代、ヨーロッパ方面へ売られた女性を主とした奴隷の数は五〇万人にも及ぶとする説もある。一五八二年(天正十年)にローマへ派遣された少年使節団一行も、世界各地で多くの日本人が奴隷として扱われている光景を見て驚愕したという記述が見られる。「行く先々で家畜同然に売られる日本人を親しく見たとき、激しい念に燃え立たざるを得なかった」「実際、あれほど多くの男女や童が、世界中の多くの地域で売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか」―――と。秀吉は続けた。
 「わが国では人買いは禁止しておる。お前たちは何故それほどまでにキリスト教を熱心に布教し、日本人を買って奴隷として船に連行するのか?」
 するとコエリュはこう答えた。
 「ちょっとお待ち下さい。ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人の方から売りつけて来るからではありませんか」
 その屁理屈についに秀吉は激怒した。そのうえコエリュは、
 「我々宣教師の後には、ポルトガル王国はもちろん、あの無敵を誇るスペイン艦隊がついていることをお忘れなく」
 と威圧をかけてきたのである。この翌年、スペイン艦隊はイギリスによってアルマダの海戦で敗れることになるが、もはやこのとき、秀吉の堪忍袋の緒は切れた。