雷神の門 大運動会
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大航海時代の中の島国
 小さな島国である日本国内が戦乱に明け暮れていた頃、世界はどうであったか?
 『大航海時代』という言葉が象徴するとおり、それは羅針盤がヨーロッパに伝わったことと、造船技術の発展がもたらした、海を股にかけた地球的規模の新しい時代の到来であり、それは欧州西南のイベリア半島から興った。
 国でいえばヨーロッパ最西端に位置するポルトガルであり、またスペイン(イスパニア)であり、およそ海に突き出す半島や岬のような地形が文明の起点になったり、先駆者を輩出する傾向があるのは、海には人の夢とロマンを駆り立てる力があるからかも知れない。世界初の『航海学校』を創設したポルトガルのエンリケ王子が移り住んだのも、そこイベリア半島南端に位置するサグレス岬であった。長い間イスラム勢力からの圧力を受けてきたこの両国は、まだ見たことのない海の向こうの世界へと飛び出したのである。
 十五世紀半ばのヨーロッパとアジアを結ぶ交易は、地中海が大きな役割を担っていたが、その制海権はオスマントルコが握っていた。その高い関税から逃れるためには、ヨーロッパ諸国にとっては新しい交易ルートの開拓が不可欠だったのである。
 そのころポルトガルにおいてはエンリケ航海王子、スペインにおいてはカルロス一世の出現により、ヨーロッパ諸国に先駆けて中央集権型の国家が確立しており、イスラム勢力に対抗し得る力を蓄えつつ、北アフリカ沿岸への進出を果たし、やがては競い合って大海原へ乗り出すようになっていく。すると未知の国から得る利益で一夜で巨万の富を得るような者達も現れ、ついには一大航海ブームを巻き起こしたのである。
 一四八八年、ポルトガルのバルトロメウ・ディアスはアフリカ南端の『喜望峰』を発見し、その十年後には同じポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマは、『喜望峰』を経由しモザンビーク海峡を通ってインドに到達する。そしてインドから胡椒をはじめとする香辛料を持ち帰った。ヨーロッパで香辛料は古代から貴重品だったのである。
 十六世紀に入り、ポルトガルの軍人フランシスコ・デ・アルメイダは、国王の命により遠征艦隊を率い、インドのディーウ港の近くのアラビア海でイスラム勢力に勝利して、インドとの直接交易を獲得するに至ると、その勢いでマレー半島、セイロン島と次々東南アジアの国々を掌握せしめ、一五五七年にはマカオに極東の拠点を築きあげた。
 日本の種子島に鉄砲が伝来したのも一五四三年というからちょうどその頃で、その時渡ったたった二丁の鉄砲は、三十二年後の長篠の戦いでは織田信長の手により、槍や刀に替わる戦闘兵器へと変貌を遂げるのである。
 一方、ポルトガルに少し遅れをとっていたスペインは、航海探検家のコロンブスを雇い、彼が提唱していた「地球が球体であるならば、西に進めば東端にたどりつく」という西回りインド航路の開拓に乗り出した。コロンブスはもともとマルコ・ポーロの『東方見聞録』に記された黄金の国ジパングに強く惹かれていたというが、一四九二年、スペインのパロス港を大西洋へ出航した彼は、皮肉なことにアメリカ新大陸の発見という思わぬ結末を見る。
 アメリカ大陸には豊富な金銀があった。新たな交易品を得たスペインは、やがてかのアステカ帝国やインカ帝国をも植民地化し、ついには滅ぼしてしまうのである。
 アメリカ大陸の発見により大航海合戦は、今度はスペインが先んじた。するとポルトガルは、一五〇〇年にブラジルに到達して植民地とし、原住民に母国語を強要し、かつ富を奪っていく。
 対してマゼランを擁したスペインは、一五一九年、西回りで東南アジアのモルッカ諸島へ向けて航路開拓に出る。そして南アメリカ南端のマゼラン海峡を通過し、広大な太平洋を横断して、ついにグァム島に到達、一五二一年にはフィリピン諸島に至る。ここで住民の争いに巻き込まれたマゼランは殺害されるが、部下エルカーノが率いるビクトリア号は一五二二年、見事世界一周を成し遂げて、地球が球体であることを実証したのである。出航の際は五隻の船に二六五名いた乗組員は、このとき残された一隻の船には一八名が乗り合わせていただけだったという。一五七一年、フィリピンはスペインの植民地となるが、そうした権利をめぐって、スペインとポルトガルはしばしば摩擦を起こすようになった。ちなみにフィリピンという名は、当時スペイン王子であったフェリペ(後のフェリペ二世)にちなんで付けられた。
 新航路開拓と海外領土獲得競争がいよいよ白熱化してくると、両国間に激しい紛争が発生するのは必然だった。特に香辛料の一大産地であるモルッカ諸島の奪い合いは熾烈を極め、加えて他のヨーロッパ諸国の海外進出も重なり、独占体制を脅かされるようになった両国は、ローマ教皇に仲介を求める。
 こうして締結されたのが一四九四年のトルデシリャス条約である。つまりヨーロッパを除く地域で、西経四六度三七分を境に東側の新領土をポルトガルに、西側をスペインに属することが定められた。ところがマゼラン艦隊が世界一周を成し遂げた際、「地球が丸いのであれば、もう一本線を引かなければ意味がない」ということになり、一五二九年、東経一四四度三〇分の子午線を第二の境界としたのである。これがサラゴサ条約で、この際アジアにおける地位を保全してもらう代償としてスペインに賠償金を支払ったポルトガルにはマカオにおける権益が承認され、子午線の西側にあるフィリピンもまた、例外としてスペイン領として認められた。
 ところがこのサラゴサ条約が島国日本においては、一層複雑な状況を生み出す結果となった。現代の正確な地図でいえば、東経一四四度三〇分の子午線は北海道の摩周湖あたりを通ることになり、それより西にある日本列島のほとんどはポルトガル領有権内になるはずなのだが、当時のおおざっぱな地図によれば、日本は東西真っ二つに分断される形になった。つまり日本は極東であると同時に、イスパニアとポルトガルの衝突地点ともなり、両国の人種が入り乱れて日本の末をどう料理するか、虎視眈々と狙う格好の標的だったわけだ―――。
 総じて要約すれば『大航海時代』とは、ポルトガルとスペインが我がもの顔で世界を凌駕するやりたい放題の時代であり、きれいな言葉を使えば“海外貿易”であるが、その内実を問えば、未文明地帯の資源や源産物の略奪であり、原住民の奴隷化であり、汚い言葉を使えば“世界侵略”なのである。
 侵略される側から見れば、東南アジアや南米の原住民達は、なぜいとも簡単に彼等の奴隷となってしまったのか? それについては、それまでアジアを支配した封建主義や、南米に見られた神君主義が人々の精神を無気力にしていたという見方である。つまり命令されたり、服従することに慣れ切ってしまっていた原住民たちの前に、突然現れたポルトガル人やスペイン人は、見かけは非常に紳士的で、金持ちな上に頭も良い。そんな人間たちが技術革新で得た見た事もない珍しい品々を目の前でちらつかせ、おまけに彼等は驚嘆するほどの巨大な船でやって来た。最初から抵抗できるはずがないと諦めた原住民たちは、ヨーロッパの人々を“新しい主人”として容易に受け入れた。あるいは他者を受け入れる大らかな精神的土壌があったのだろう。
 それにしてもヨーロッパ人の世界進出には非道極まりない面が目に付き過ぎる。ここから白人至上主義というヨーロッパ人特有の傲慢さが生まれたのだと思うが、彼らにとって白人以外の人種は動物であり、人間ではなかった。白人種こそ世界に最たる霊長類であると過信した彼らの蛮行は、略奪や侵略はもとより、奴隷化した原住民達を人身売買の“物”にまでしてしまうのである。
 本来そうした人道を正す役割を果たさなければならないのが宗教のはずだった。
 ところがヨーロッパの宗教(カトリック教会)はといえば、大航海時代とほぼ時を同じくし、ローマ教皇を頂点とした巨大ピラミッド型の組織は強大な権力を持って形骸化していた。聖職者であるはずの牧師たちはその権威をかざし、迷える信徒を救うどころか、免罪符を売って金儲けの道具にしていたのである。
 その腐敗ぶりに立ち上がったのがドイツのマルティン・ルターであった。彼から始まった改革運動は、カトリックに対抗するプロテスタント諸派を誕生させながら、またたくまにヨーロッパ全土に激しい宗教革命の波を起こしていったのだ。
 そもそも『大航海時代』自体、ポルトガルとスペインによって開かれたようになっているが、実は当初、国家や商人が大航海に乗り出すためには、カトリック教会の長たるローマ教皇の許可が必要だった。ヨーロッパ諸国に先んじてポルトガルとスペインは、このローマ教皇からその大義名分を得ていたわけだ。
 しかもである、ローマ教皇は航海の許可を与えていたばかりでなく、先住民の奴隷化を認め、キリスト教徒に対しては征服戦争への参加を呼びかけた上に、加担者には贖宥(免罪)まで与えていたという事実を知れば、一体宗教とは何であろうかと誰もが首を傾げたくなるはずだ。少なくともカトリックには、白人至上主義という危険なイデオロギーを抑制する力がなかったばかりか、それを助長する働きを作り出したのである。
 そもそもキリスト教は一神教であり、世界はその神なる一人の手によって創られたと説く。ローマ教皇はその神の名代であるならば、世界はすべからくローマ教皇に従うべきだという論理は彼等の教義の上では成り立つかもしれないが、本来宗教の使命とは、一人の人の幸福を実現するために布教するものであり、原住民を蹂躙し、富を得るために布教するのではない。宗教の正邪を見極める一つの方法として、その宗教に属する人達の考え方や振る舞いを見ることは、大きな判断材料であるだろう。
 次々とプロテスタント諸派を生み出した宗教革命の嵐は、ヨーロッパ諸国で連鎖的に立ち起こっていた。
 そんな中、プロテスタント勢力に対抗するように創設されたのが『イエズス会』である。一五三四年のことだった。イグナチオ・デ・ロヨラを筆頭に、パリ大学の学友だった七名の同志は、パリ郊外モンマルトルの丘中腹のサン・ドニ聖堂に集い、清貧、貞潔の誓いとともに「エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、それが無理なら教皇の望むところ何処へでもゆく」という誓いを立てるのである。その中には日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルもいた。
 そして『モンマルトルの誓い』を立てた一行はイタリアへ赴き、一五四〇年、正式にローマ教皇から修道会としての認可を得たのだった。極東の日本にキリスト教が伝来したのは、それからわずか九年後のことである。
 プロテスタントの増幅に危機感を抱いていたカトリック教会にとっては渡りに船だった。海外での新たな信者獲得のため、カトリック教国でもあるポルトガルとスペインが獲得した領土へ、使命感あふれる彼等を宣教師として派遣するようになったのである。
 つまりローマ教皇自身が海外侵略を強力に後押ししつつ、世界的な布教活動を開始する形になった。いわば原住民たちを蹂躙する暗黒の大航海時代の黒幕こそ、当時のローマ教皇と言われても仕方がないわけだ。
 年代と事柄を若干前後させながら記してきたが、大要はさほどずれていないと思っている。

 さてそんな大航海時代の中にあった島国日本の方へ目を移そう。
 天下統一を目前にした豊臣秀吉が、否が応にもその世界の動向に対峙しなければならない立場に置かれていたことを知るのは間もなくである。
 四国を治め、九州さえ平定できれば実質的な天下統一を果たすことになる秀吉は、最後の抵抗勢力である九州の島津氏討伐のため、八万の軍勢を率いて大坂城を発ったのが天正十五年(一五八七)三月一日のことだった。
 山陽道を下り、同月二十五日には本州側関門海峡の袂、赤間関に到着した彼は、異父弟の豊臣秀長と軍議を交わし、二十八日には海を渡っていよいよ九州に上陸する。更に小倉城を経て翌日には豊前馬ヶ岳(行橋市大谷)まで進軍を続け、四月一日には島津氏に味方していた秋月氏の守る、豊前一の堅城と言われていた岩石城をわずか一日で陥落させ、その後は筑後高良山を経由して同月十九日には肥後八代(熊本県八代市)に到着した。
 ここまで来れば島津氏の本拠地である薩摩はもう目と鼻の先、加えて秀吉軍は総計二十万の圧倒的な兵力を擁しており、もはや島津氏の降伏は時間の問題だった。
 そんなとき秀吉の前に現れたのが、ガスパル・コエリュというポルトガル人である。
 彼はイエズス会の宣教師であり、一五七二年(元亀三年)に来日し、九州地方における布教活動に当たり、イエズス会日本支部の準管区長も務めた。実はこのとき秀吉に謁見するのは二度目で、一度目は昨年(天正十四年)三月、九州地区の責任者として畿内の巡察を行った際、大坂城において日本における布教活動に対し正式な許可を得た時だった。
 そのときコエリュは秀吉にこう述べた。
 「日本全土がキリスト教に改宗した暁には、いよいよ次は中国でございます」
 これを通訳がどう訳したかは知らないが、秀吉は、
 「その折はそなた等の大型船を予に貸してくれるかな?」
 と言った。
 「それはもちろんでございます!」
 大いに気を良くした秀吉は、その見返りに布教の許しを与えたという経緯があった。
 日本全土を改宗した際には日本人を尖兵として、広大な中国に攻め入るという構想は、サラゴサ条約によって中国の領有権を持つポルトガルを祖国とした多くの宣教師達の共有認識だった。コエリュは肥後でもこれと同じようなことを述べた。
 「九州を抑えれば中国への道は開けます。神にご武運を祈りましょう、アーメン……」
 すると秀吉はコエリュの腹を探るように、
 「天下統一を果たした上は、まずは秩序立てた国を安定させ、大量の船を作って二、三十万の兵を率いて“唐入り”しようと思う。お前らポルトガル人はこれを喜ぶや否や?」
 と付け加えた。“唐入り”とは中国に行く事である。当時中国は明王朝であるが、仏教をはじめ中国が唐の時代に日本に流入した多くの文化の影響だろう、広く中国のことを“唐”の字を当てていた。するとコエリュはこう答えた。
 「大坂に凱旋される際は、ぜひ長崎にお立ち寄り下さい。関白殿下が驚かれる物をお見せしましょう」
 「帰りは博多に寄るつもりじゃ」
 「承知いたしました。ではそちらに」
 当然秀吉は、彼等が提供してくれるであろう大型船を思い浮かべた。ルイス・フロイスの『日本史』には、中国征服をほのめかせた秀吉の言葉を聞いたポルトガル人らの答えを聞いた時、「関白は無上にご満悦の様子だった」と記している。
 秀吉にとっての“唐入り”の構想は、このときに初めて降って湧いて出たようなものではない。「唐入り」という構想自体は既に織田信長が抱いていたことは、フロイスの証言するところであるし、信長のそれは家臣たちの割譲を目的としたものであった。
 秀吉が信長のその構想を聞いていたとするのは想像に難くなく、彼が初めて「唐人り」の意思を言明したのは、天正十三年(一五八五)九月三日付けの一柳末庵に宛たの朱印状の文面の中でである。そこには、子とも思う作内(加藤光泰)に要の城である大垣まで任せたのは、「日本国は申すに及ばず、“唐国”迄仰せ付けられ候心に候か」とある。つまり「唐人り」を子飼いの部将のために命じるのだと言っている。
 九州平定に自ら足を運んだのも、この「唐人り」のための重要拠点となる九州を、一刻も早く統治しておきたかったからとも取れ、少なくともこの時点でポルトガル人と秀吉の利害は一致していた。
 九州平定の方は、その後迅速な速さで薩摩国内に進軍した秀吉が、陸と海からの攻撃を開始し、島津方は女、子どもを巻き込んで善戦したが、五月八日、島津義久の剃髪をもって終結する。
 そして島津氏の降伏を見て帰途につく秀吉であるが、その翌日の九日には正室寧々の侍女である“こほ”という女性に宛てた書状の中で、戦勝報告と合わせてこんなことを言っている。
 「かうらい国(高麗国)へ御人しゆ(衆)つか(遣)はしかのくに(国)もせひはい(成敗)申つけ候まゝ、其あひた(間)はかた(博多)にとうりう(逗留)申へく候事。」
 高麗国とは朝鮮のことで、「朝鮮へ人を遣わして成敗を申し付けたままなので、暫くは博多に滞在する」と。更に熊本から本願寺に宛てた六月一日付けの朱印状には、対馬の宗氏の朝鮮との交渉状況を窺わせる内容が記される。
 「高麗国の事、対馬の者(宗氏)からは、いろいろ御調物を備え、重ねて人質を進上すると聞いている。懇ろと言えども申しておくが、調物などという気遣いは無用であると我が国は思っており、高麗国王が参内するという言葉が聞きたいのである。もし滞るならば、かの国へ人を送り追究したうえで成敗するつもりである。」
 天下統一を果たした直後の秀吉は、かなり上機嫌で有頂天になっていたに違いないが、続けざまに朝鮮のことを気にしているのは、次に成すべきことが朝鮮に関係していることを示す手がかりではないか。しかもこの内容から読み取れるのは、秀吉にとって朝鮮は、従わせるべき相手であって攻撃対象ではないことだ。つまり何のために朝鮮を従わせるのかが問題である。
 人の思考や思惑といったものは、言動に顕われるよりも、増して手紙で文字に記すよりも、遥か先の事を、しかも深く考えているものである。既に秀吉の頭の中では、ポルトガルの威光と文明力を後ろ盾にして、唐入りを果たす道筋のイメージがすっかり出来上がっていたに相違ない。それが戦国時代に天下人となった英雄の性であり、責任でもあった。