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堀直虎・考L 堀直虎諌言の謎
 堀直虎が将軍徳川慶喜に諌言した内容とはいったい何か?
 これは、現在までの直虎研究の最大の謎とされ、おそらく証拠が出ない限り、これからも永遠の謎として議論されていくものだろう。それは仕方のないこととして、筆者は筆者なりに一つの結論を示しておきたい。
 前回、直虎辞世の歌の解読を通して、「わらび山」とは『史記(伯夷列伝)第一』に出てくる「首陽山」を指していることに言及した。大要を述べると、「史記」の伯夷と叔斉が武王に諌言した行為と直虎が将軍慶喜に諌言した行為、そして伯夷と叔斉が世を憂いて首陽山で餓死した故事と直虎が世を憂いて寝食を忘れ深く思い悩んだ事実の二点が酷似していることから、直虎は、殷の紂王が朝廷の名を冠した薩長軍で、周の武王が慶喜であると重ねて見ていたのではないかと推察し、もし人生の最期の最期に詠んだ諫死直前の歌にその意味を込めていたとしたら、伯夷と叔斉が武王に諌言した内容に準じたものこそが、直虎が慶喜に諌言した内容であると考えることができる―――というものである。
 核心に迫る前に、大坂からの慶喜帰還から直虎自刃までの六日の間に起こった、筆者が気になる二つの事柄について記しておきたい。

 一つは小栗上野介忠順の存在である。小栗は評定で激しく「抗戦論」を説くが、慶喜の逆鱗に触れ一月一五日にそれまでの職だった陸軍奉行並と勘定奉行の御役御免を言い渡される。その行動から慶喜は、既にそのとき恭順を決めていたと解釈され、直虎の存在を隠してしまっている感があるからだ。
 確かに小栗上野介は幕臣のナンバー2とまで言われる逸材で、日米修好通商条約批准書交換のためポーハタン号でアメリカへ渡った使節団の実質的責任者であり、帰国後は、後の日本に大きく貢献することになる横須賀製鉄所の建設を行った当時の幕臣にして、先進的すぎる洞察力と実行力を持っていた。ところが大政奉還を境に彼の運命は大きく変わる。戊辰戦争の引き金ともなった江戸薩摩藩邸焼き討ちの火付け役でもあり、結果的には徳川家を窮地に追い込んでしまったという悲しい一面も持ち、直虎同様根っからの幕臣には違いないが、評定における激しい「抗戦論」など見ても、玉に傷とも言うべき癇癪癖を持っていたことも否めない。
 一月一二日から行われた評定において、榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らを従えた小栗は、最初から徹底抗戦を主張していた。その巧妙なる作戦とは、
 「新政府軍が箱根関に入ったところを陸から迎撃し、同時に榎本率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させ、後続部隊を艦砲射撃で足止めし、孤立化した箱根の敵軍を殲滅する」
 というもので、後に長州藩の天才軍略家大村益次郎にして「もし実行されていたら我々の首はなかった」とまで言わしめた秘策である。ところがそれを聞いた慶喜は俄かに席を立ち、その際小栗は慶喜の袴の裾を掴み決断を迫ったという逸話まで残る。結局慶喜はその策を聞き入れなかったばかりか小栗を罷免する。
 確かにこの様子を見る限り慶喜は恭順のように見えるが、であったなら拭いきれない非常に大きな疑問が残ってしまう。それは、なぜ直虎は死ぬ必要があったかという、直虎側に立つ者でなくとも当然生じる根本的な疑問である。小栗が罷免されたのが一五日だから、直虎が自刃するまでにはまだ少なくも一日以上残されている。その間、慶喜が恭順方針を固めていたなら、一分一秒を争う重要な時期に幕府は一日早く次の行動に移れたはずだし、まして直虎が死ぬ必要もなかった。やはりその時点では「慶喜はまだ迷っていた」という以外ない。
 二つ目の気になる事柄は、一三日夜半に起こった山内豊福の切腹である。筆者はこの親友の切腹が、直虎が自刃の覚悟を決めるに至った大きな動機の一つと考えているが、詳しい内容は以前「友よ、君も逝くのか妻女と共に」でも触れたので略す。
 というのは「史記」の伯夷列伝を知るにつけ、故事と対比するに人物が一人足りないという小さな矛盾を感じていたことによる。すなわち伯夷には叔斉という無二の弟がいたのに対して、直虎は一人だったのかという単純でごく小さな不快感に似たものであるが、考察を重ねるうち、もしかしたら直虎がこの故事を思い出した時、伯夷が自分ならば叔斉を豊福に重ねたのではないかと直感したのだ。なるほどそうであれば、切腹という最終決断を後押しした裏付けに親友の存在があったこと、そして直虎がこの故事から受けた説得性も非常に強烈なものであったろうと、いや増して納得を深めるのだ。
 「共に誓い合った幕臣としての道を、友を一人で逝かせてなるものか!」
 という熱く純粋で誠実な心を、直虎は持っていたに違いない。
 気になる二点とは以上で、これから述べる直虎諌言の内容とは直接関係しないが、それまでの経緯にあった事実として、ストーリーを支える重要な要素だと思っている。

 さて、諌言の内容である。今までずっと「史記(伯夷列伝)」になぞらえてきたからには、ある程度筆者の結論は決まっている。
 最初に、諌言内容に係わっていると思われる『史記(伯夷列伝)第一』の伯夷・叔斉の段の原文を確認しておきたい。
 『伯夷・叔斉、叩馬而諌曰、父死不葬、爰及干戈、可謂孝乎。以臣弑君、可謂仁乎。左右欲兵之。太公曰、此義人也。扶而去之。』
 この漢文を読み下すと次のようになる。
 『伯夷・叔斉、馬を叩へて諌さめて曰く、父して葬らず、爰に干戈に及ぶは孝と謂ふべきか、と。臣を以って君を弑するは、仁と謂ふべきか、と。左右之を兵んと欲っす。太公曰く、此れ義人なり、と。扶けて之を去しむ。』
 読み下してもなお分かりづらい部分があるので現代語訳を記しておく。
 『伯夷と叔斉は、その馬の手綱に取り付いて武王に諌めた。
 「亡くなられた父親を葬りもせず、しかも干戈(戦争)を起こすとは“孝”といえましょうか。臣として君を殺そうとすることは“仁”といえましょうか」
 側の者が刃を向けようとした。太公は「これぞ“義人”である」と言い、押し抱えて連れていった。』
 前回、「解読!直虎辞世の歌」でも触れた、これが伯夷と叔斉の諌言シーンである。
 ここでポイントになるのが“孝”と“仁”、そして“義人”という日本においても重要とされる三つの『徳』である。もともと中国思想における徳の規範として、特に「孝」と「仁」、そして「義」が示されており、「儒教の五常」では仁・義・礼・智・信に立て分けられ論じられてきたが、それはそのまま日本においても朱子学などの学派を問わず“人の道”の重要な規範となっていた。
 すなわち「孝」とは、子が親によく服従することを示す儒教の根幹をなす徳で、「仁」とは倫理規定、人間関係の基本を示す。つまり他人に対する親愛の情や優しさのことで、「礼」を支える精神であり心のあり方である。そして「義」とは人間の行動や志操に関する概念で、正しい行いを守ることであり、人間の欲望を追求する「利」とは対立する概念である。つまり「義人」とは「堅く正義を守る人。わが身の利害をかえりみずに他人のために尽くす人」である。
 “正しい行い”とか“正義”とは何ぞやという話になるとまた複雑になるのでここでは論ずることはしないが、幕末における正義といっても、やはり「徳」を基本としたところの人のとるべき道ではなかったか。そして直虎は、この「徳」の立場から諌言したと思うのだ。

 慶応四年一月一七日午前、ぶっ通しで実に五日間続けられてきた評定は、「抗戦論」「恭順論」両者の意見も策も出尽くして、その日大広間で行われた大評定では、もはや声を挙げる者も少なく、参加者たちの顔にも疲れの色が見えていた。
 後は慶喜の言葉を待つばかりといった異常なほどの緊張感に包まれているものの、慶喜はいまだ決断をしかねていた。「抗戦論」をとれば朝廷への違背、「恭順論」をとれば代々続く徳川家への冒涜、そのいずれの選択も耐えがたい屈辱に違いない。それ以前に慶喜にしてみれば自分を陥れた薩摩と長州こそ許しがたい奸賊であり、心のどこかで福井藩の松平春嶽や土佐藩の山内容堂が自分に同情し、手を差し伸べてくれることを、祈るような気持ちで待っているのだった。しかしそうしている間にも官軍は江戸に向かって進軍を開始しようとしている。もはや迷っている猶予などないギリギリの線なのだ。
 その時、
 「申し上げます!」
 静寂を切り裂く妙に落ち着き払った声を挙げた者がいた。直虎である。その表情は恍惚とし、もはや生きている者とも死んでいる者とも判断がつかない無機質な物体にも見えた。
 「申してみよ」と慶喜が言う。直虎は「はっ!」とかしこまり、後方から名立たる大名の合間を縫い“中段の間”に進み出ると、深々と頭を畳に押しつけた。そして「抗戦論」でもない「恭順論」でもない、全く別の角度から朗々と意見を申し述べたのである。
 「東照大権現様は“厭離穢土・欣求浄土”を御旗に掲げ、偃武の世を御つくりになられました。そして歴代の公方様はその御遺志を御継ぎあそばされ、二五〇年の泰平の世を築いてこられたのであります。この期に及び民を巻き込み、戦争を起こすことが“孝”といえましょうか? また、日本国は朝恩の上に成り立つ国であり、徳川といえど朝廷の臣。臣下の身で主君を討つことが“仁”といえましょうか!」
 東照大権現とは徳川宗家の始祖である徳川家康のことで、その旗印は『厭離穢土・欣求浄土』である。「厭離穢土」とは争いの世界を離れることであり、「欣求浄土」とは争いの無い世界を作ることで、家康はこの理想を旗に掲げ、戦国時代という争いの絶えない世の幕を閉じた。そして「偃武」とは武器を伏せて使わないことで、年号を「元和偃武」と改め、江戸という「和」を根幹に据えた新しい時代の到来を宣言したのである。これは世界的にも類を見ない軍縮政策の成功例として、現在大きく評価されるに至る。
 そして歴代の将軍は皆、毎日居住区である中奥で明け六ツ(日の出前に星が見えなくなる時刻)に起床し、大奥に渡って歴代の将軍の位牌に手を合わせた後、中奥に戻って朝食をとり衣服を改め、衣冠装束で再び大奥へ渡って江戸城内の紅葉山東照宮へ参拝することが欠かすことのない日課であった。
 また、家康は「禁中並公家書法度」で朝廷と政治を立て分けはしたが、天皇の臣下である立場を崩していない。つまり征夷大将軍という官職自体天皇から与えられたもので、それは今日に至るまで明確に保ってきた徳川宗家の朝廷に対する姿勢なのである。直虎は、それらのことを伯夷と叔斉の故事に習って「孝」と「仁」の立場から諌めたのだ。
 その意味を理解するまでには少しの時間が必要だった。やがて慶喜は口を開いた。
 「ならばお主は、わしにどうせよと言うのか?」
 直虎は面を上げ、慶喜をキッと見つめた。その表情はアルカイックスマイルとも言おうか、笑みすら含んでいるようだった。
 直虎は静かに言った。
 「―――“義”のままに」
 日本の長い歴史の中でゆっくりと、しかし確かに形成されてきた武士道と呼ばれる精神の、最終手段における“義”の意味するものは切腹以外の何ものでもない。直虎の言葉は、まるで呼吸でもするように、あるいは水でも飲むようにあまりに自然ではあったが、そこからは想像もできないほどの重さがあった。慶喜の表情はみるみる憤怒を帯び、顔を真っ赤にして、
 「腹を切れと申すか!無礼者!」
 と言い放ったと思うと俄かに立ち上がり、足音を荒げてその場を立ち去った。
 「お待ちください!」
 思わず直虎は慶喜の足にしがみついた。
 「御決断を!」
 慶喜は直虎を力任せに蹴り飛ばし、そのまま大評定から姿を消した。
 将軍に物申した以上、武士のとるべき行為もまた決まっている。それ以前に、真の大和武士とはどうあるべきかを、魂まで西洋に売り渡そうとしている時の武士を名乗る者達に厳然と示す必要があった―――と言うより、彼の大和魂はそう欲したのであろう。直虎は将軍の後ろ姿を見送ると、大広間から白書院につながる松之廊下に躍り出て、身に着けていた紋付袴を脱ぎ捨て、もとより身にまとっていた白装束に変じると、懐に隠し持っていた短刀を引き抜いた。
 「御免!」
 周りが取り押さえるより早く、切っ先は彼の腹部を貫いた。
 筆者は更に付け加えよう―――どういう因果かそこは、かつて浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に斬りかかったのと同じ場所だった。いわゆる“江戸城を穢す”出来事は、その歴史において浅野内匠頭の傷害事件と堀直虎自刃の二度のみだったと言われる。あろうことか彼の遺体は、汚物を処分する雪隠(便所)に運ばれた。
 ではなぜ徳川家を最も大切に考えていた直虎が、江戸城内で血を流すことができたかと問えば、それは偏に将軍慶喜に対して鮮烈な印象を与え、徳川の世の幕引きの時を告げるためだったと考える。仮にあの時あのまま江戸戦争に突入していたならば、江戸城に流された血はけっして彼一人では済まなかった。彼は、江戸城で流れたはずの多くの血を、わが一身に移して犠牲になったともいえる。
 こうして直虎は己の成すべき使命を遂げた。つまり直虎の死とは、「諫死」というより『殉義』というべきもので、これが筆者が考える直虎自刃の一部始終である。

 最後にこの顛末を目撃したであろう直虎を乱心扱いした勝海舟の心境を推察しておく。
 勝はもともと幕臣には違いないが、小普請組という旗本の中でも最下層の無職の家に生まれた。当時の著しい身分社会では、かろうじて武士の仲間とはいえ農民同然の生活を強いられ、上級武士に対する激しい劣等感に苛まれながら成長したに違いない。町民層にも武士道精神は浸透していたとはいえ、幼少の勝にとっては無縁の世界だったろう。
 勝の業績は確かに人間味に満ち、偉大ではあるが、生死のあり方にこだわる大和武士としては三流だったと言わざるを得ない。アメリカ思想を抵抗なく受け入れ、その行動はどこまでも合理的かつ感情的。最も顕著なのは慶喜に対する不満と、前将軍家茂に対する好意とが際立っている点である。およそ武士ならば御家守護は当然として、例えどんな主君であろうと不平不満など口にしてはいけない。まして日記に書き残すなど考えも及ばないはずである。要するに勝は道義でなく感情で動いていたと言われても仕方なく、それが彼の特徴であり、西洋化に邁進していく近代日本の中で栄光を勝ち得た要因だろう。
 そんな勝にとって直虎の切腹はまったく奇怪、理解不能の行為だったのではなかろうか。
 「バッカじゃねえの?」
 という笑い声すら聞こえてくるのだ。価値観の違いは否めないが、要するに勝はサムライ(武士)ではなかったということである。
 しかしそのサムライでない多くの人間たちが、新しい時代を拓いた事実を慮れば、筆者の感慨は禁じ得ない。もっともそれゆえにこそ堀直虎は、ラスト・サムライに成り得るのである。