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堀直虎・考J 「叒」の心
 須坂新聞社の大硲真一氏のご提案により、元須坂市立博物館館長で須坂史誌編纂委員の涌井二夫先生と、田中本家第十二代当主田中宏和氏との、堀直虎をめぐる語らいの場を得た。もともと直虎についてはまだまだ駆け出しの若輩者の身に余ったが、こうしたチャンスを与えてくださった関係者の方々に心より感謝申し上げたい。
 そこで話題に挙がったのが直虎直筆の『叒譜』についてである。もともとは原題を「花譜」といい、享和三年(一八〇三)に江州蒲生郡仁正寺城主古橋長昭や幕臣櫻井絢、京都の三熊花顛らによる桜花写生帖全五帖二五二図のうち、序や奥附などがはぶかれた図集のみ転写された原本を手にした直虎が模写し、文久元年(一八六一)、須坂藩主になる少し前に序を添えて成立したものである。模写とはいえ、その桜花の完成度は学術的にも芸術的にも申し分ない緻密さで、なるほど見る者を魅了する。
 涌井先生の関心は、序文を添える際に書のタイトルを「花譜」から『叒譜』に代えたところの直虎の心で、田中氏もまた奥田神社に「叒譜の杜」を作る計画に情熱を傾けている。その点筆者は赤面の至りで、直虎の父直格が編纂した「扶桑名画伝」の「扶桑」を取って付けたものだろうと、ものすごく安易に考えていた。「扶桑」とは中国から見た日本の美称であり「叒」とも言うからである。
 そこで今回はこの「叒」について、筆者なりに考察してみたい。
 さて「叒譜」だが、世の中に3冊しか現存していない。そのうちの2冊は国立国会図書館に収蔵され、残りの1冊が須坂市にあり、現在市の指定文化財になっている。その内容は桜花の図鑑と言うべきもので、一八七種二五〇の桜花図が直虎の手によって描かれたとされる。その数だけ見ても当時日本に自生していた桜と園芸品種のほとんどを網羅しており、序文には韓詩の余暇に写本したことが記されるが、余暇というにはあまりに細緻だ。ちなみに韓詩とは「韓詩外伝」のことで、中国の「詩経」に出てくる故事や逸事、伝承が書かれた中国古代の説話集である。漢学の学習を深める中で、きっと彼は世界最古の漢字辞書と言われる「説文解字」にも触れ、その中の次の記述を見つけたに相違ない。
 『日初出東方湯谷所登榑桑。叒木也。』
 訳すと「日初めて東方の湯谷に出て、登る所の槫桑は叒木なり」。槫桑とは扶桑のことで、古代中国の神話では巨木として登場し、東海にあるその扶桑樹、つまり叒木から日が昇ると考えられていた。最古の地理書と言われる『山海経』には、扶桑という神木から十個の太陽が昇ってくるが、一人の射手がそのうちの九個を射抜いたため太陽は一つになり、天が安らぎ地も喜んだとされ、いずれにせよ扶桑つまり叒木は世界樹とか宇宙樹とか、いわば「生命の樹」の象徴とされていたのである。扶桑という言葉は後に転じて日本の代名詞となり、やがて自国日本でも自称するようになっていく。
 ただ扶桑は書いて字の如く桑の木としての意味合いが強い。これは養蚕発祥地である中国では桑は聖なる木と考えられていたからであり、桑はそのまま日本においても霊力があるとされ、雷よけの呪文として「桑ばら、桑ばら」と言う俗習が残った。
 今回問題にするのは、「花(桜花)」がなぜ「叒」と訳されたかであり、そこに直虎の心に迫るヒントが隠されていると考える。もっとも涌井先生の研究によれば、「叒」とは「神の木」という意味で、農耕が中心だった当時の民は、田畑の作付け時期を桜の開花を見て判断した事実から、直虎の心には絶えず庶民を思う心があり、「今年も豊作であるように」と、桜の中に神聖なる生命を見ていたのではないかと言う。
 ここ信州須坂の地では毎年臥龍公園の桜が咲くのは四月中旬から下旬あたりである。公園の桜はソメイヨシノで、同種は実は人工的に品種改良されたものだと言われ、植樹されはじめたのが江戸末期。根付きが良く一斉に開花することから明治以降全国的規模で圧倒的に植えられるようになっていく。今では日本にある桜の八〇パーセントがソメイヨシノと言われ、桜の代名詞にもなっている。だから気象庁のさくら開花前線にも使われているわけだ。
 ところが叒譜にソメイヨシノは描かれていない。あるのは山野に自生する日本在来のいわゆるヤマザクラで、種類によってはソメイヨシノより数週間遅く咲くものもあるから、地域によって、桜の種類によって作付けの目安になるわけである。
 桜といえばパッと咲きパッと散るというイメージがあるが、それはソメイヨシノの特徴を利用して戦時中の軍国日本が大きく喧伝したもので、純粋で若く尊い命がどれだけ戦火に散ったことかと、その話をする涌井先生の口調は厳しく、目の奥は悲しみを帯びていた―――。なるほど先生に言われてしまえば「叒」とは「神の木」という考察ももっともな気がしてくる。

 そこで日本人と桜の関係をもう少し掘り下げてみることにした。
 まず、桜を詠んだ最古の歌を調べると、「日本書紀」に出て来る次の歌が挙げられる。
 「花はぐし桜の愛で同愛でば早く愛でず我が愛づる子ら」
 これは「古事記」と「日本書紀」にある衣通姫伝説から生まれたもので、允恭天皇が娘を思って詠んだものと言われる。実はこの物語、兄妹による近親相姦のラブロマンスで、意味は「桜のように可愛い子供達が道を外してしまった。それでもなお愛さずにいられない」といったところだろうか。
 また同二書には木花之佐久夜毘売と木花開耶姫という桜のように美しいという意味の名を持つ二人の女性が登場する。“サクヤ”が桜の意で、二人とも初代天皇である神武天皇の出生に深く関わっている。
 次に「万葉集」を見てみたい。まずは作者不詳の長歌である。
 「娘子らが頭挿のために風流士の縵のためと敷きませる国のはたてに咲きにける桜の花のにほひはもあなに」
 “敷きませる”とは天皇が統治しているという意味で、「天皇が統治しているこの国に咲き誇った花の何と美しいことでしょう。この桜の花は乙女たちの頭挿や風流男の縵のために咲いたのですよ」。なんとも美しい情景が目に浮かぶ。その返歌として、若宮年魚麻呂という人物が次の歌を詠った。
 「去年の春逢へりし君に恋ひにてし桜の花は迎へけらしも」
 意味は「去年の春にお会いしたあなたが恋しくて、桜の花が咲いて迎えているようです」と、春になると宮中で華やかな花見の宴が行われていたことを物語る。「万葉集」にはまだまだある。
 「あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいと恋ひめやも」
 「見渡せば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも」
 「春さらばかざしにせむと我が思ひし桜の花は散りにけるかも」
 挙げればきりがないが、万葉集約四、五〇〇首の中に、桜を詠んだものが四〇首くらい存在する。
 九世紀に入って嵯峨天皇のこんなエピソードがある。牛車で出かけたところ偶然見かけた桜の美しさに心を奪われ、三回も引き返して鑑賞したという。間もなく嵯峨天皇は宮中の南殿に桜を植えて宴を催したのが花見の最初と言われ、やがて平安貴族のあいだで桜が大ブームになる。証拠に「古今集」になると約一、一〇〇首中、桜が詠まれている歌は五〇首以上となり、梅をはるかにしのぐテーマになっているのだ。
 それから時が下って室町時代に入ると、とんちで有名な一休宗純が出てきて「花は桜木、人は武士……」という有名な言葉を残す。更に戦国時代では豊臣秀吉が後世に語り継がれる盛大な醍醐の花見を催し、徳川の世になって三代将軍徳川家光は、上野の寛永寺に吉野の桜を移植し、隅田川の川岸にも桜を植えた。さらに八代将軍徳川吉宗は、飛鳥山を桜の名所に発展させていく。こうしてみると桜は歴史的にも日本の花といっても過言でない。
 そして江戸時代も中期を過ぎた頃、大ヒット歌舞伎が登場した。その演目名は「仮名手本忠臣蔵」で、元禄十五年(一七〇三)の赤穂浪士討ち入り事件より実に半世紀近く経っていた。場面は十段目「天川屋義兵内の場」、討ち入りの武器を調達した大坂堺の商人天川屋義平は捕り手に囲まれ、「計画を白状しろ」と息子の喉元に刀を突きつけられる。実はこの役人たちは赤穂浪士で、町人の義平が秘密をもらしはしないかと疑い試したのである。ところが義平はひるまず「天川屋義平は男でござる!さァ、子を殺せ」ときっぱり言い放つ。そこへ登場するのが主役の大石内蔵助がモデルの大星由良之助。義平に「すまぬ!」と土下座して、一世を風靡したあの名台詞を放つ。
 「花は桜木、人は武士と申せども、いっかな武士も及ばぬ御所存!」
 その台詞に江戸の庶民は大拍手と喝采を送った。この頃になると武士道の精神は町民の中にも浸透しており、同時に桜を花の代表格として当たり前のように賛美していたわけだ。いわば「武士」と「桜」とは必然的な組み合わせと言うべきか。当然この名台詞は直虎も知っていたことだろう。
 ほぼ時を同じくして国学が興隆する。この学問は、日本の古典を研究しようとしたもので、儒教や仏教の影響を受ける以前の古代日本における独自の文化や思想、あるいは精神を明らかにしようとするもので、蘭学と並んで江戸時代を代表する学問の一つだった。そこには天皇の存在が厳然とし、やがて時代を動かす勤王思想へと発展していくわけである。

 日本における天皇の存在ほど難解なものはない。筆者は足りない頭で幾度となく考えをめぐらせてきたが、日本独特の天皇を頂点とした国家形態は、おそらく日本が島国であったことが最大の要因ではないかと考えている。余談になるが島国といえばイギリスもそうで、細かな国がいくつもあってその集合体が一つの国家を形成している点や、その頂点に天皇もしくは国王を置いている点、日本では武士道、イギリスでは騎士道という独自の文化を発展させてきた点など、少し考えただけでいくつもの共通点が思い浮かぶ。
 島国である日本は、大陸から攻め込まれたら頼る民族もなければ逃げ場もないわけで、追い詰められたら最後、降伏するか死ぬより仕方がない地形の中で歴史を積み重ねてきた。それはイギリスも同じだが、イギリスは緯度が高く寒そうに思われがちな国だから、古代人的感性に立てばいまひとつ魅力に欠ける。対して日本は大陸の最東端に位置した太陽が昇る所の国である。西洋ではジパング(黄金の国)、中国では扶桑と称されるほど魅力にあふれた国ではないか。おのずとそこに住む人々の自国に対する誇りと自尊心も高まったに違いない。幕末に巻き起こった攘夷運動も、太平洋戦争敗戦後に日本が植民地化されなかったのも、あるいは日本民族の誇り高さの証明だったかも知れない。
 戦国時代のように夷敵がない時は近隣でいざこざが絶えないが、太平洋戦争のように夷敵が出現した有事となれば、天皇を中心として国民が一丸となれる不思議な国でもある。そして日本の長い歴史の中で、天皇が存在しなかった時代など一度もないのだ。そんな極めて特殊な地形と風土の中で熟成されてきたものが武士道であり大和心である。「大和」とは「日本」の異名だ。日本という郷土の中で共存してきた日本人の感性にぴたりと一致する桜の美しさの中に、直虎はきっと日本人たる秀気を感じていたのではなかろうか。
 直虎は漢学を勉強していた。しかしそれは「和魂漢才」という師の亀田鶯谷特有の学問であった。つまり日本人の魂、言い換えれば「大和魂」に裏打ちされたところの漢学である。後に彼が西洋文明を学ぶのも、「大和魂」の上に蓄積される知識だったわけだ。

 ここで「叒譜」に書かれた直虎の序文を見てみたい。ここでは平成十六年四月十日付の「須坂新聞」に掲載された涌井先生ご自身が書かれた「知られざる『叒譜』の系譜と真価」から引用してみる。
一、「叒」とは東方秀気の集まる所に生じて、わが秋津洲(日本)にのみある木であり、中国などの書で「扶桑」がこれにあたる。
二、昔の人は桜桃や海棠にもあてるがそれは違う。「叒」は春の日差しに溶け込み、嬌蘂艶弁、爛漫妖嬈として、その美しさはまことに造花の絶技である。
三、しかし、この花を愛でる者は多いが、酔舞狼藉をし、赤と白の違いもわきまえない。まして子細に花を観察する者はない。
四、叒譜を撰したのは誰の手によるかは知らない。濃淡や重単同じでないものもある。図写してその名を記述したが、花の性種は知らない。
五、探捜の力を集めた。
六、他人の批判もまた受けたい。
七、文久元年に良山(直虎)が韓詩の余暇に写本した。
 概ねこのような意味に大別される。つまり直虎は、
 「勉強の合間に図写して名称を記してみたが、実は私も桜の花のことはよく知らない。ただ中国では扶桑と呼ばれ、その美しさは筆舌に尽くせない。しかし桜を愛する者は多いが、花見などして騒いでいるだけで、その姿は感心しない。この桜は我が日本国にのみある木で、東方の秀気が集まる所に生ずるのだ。その名を私は「叒」と名付けた。」
 直虎は桜の中に、日本の美意識とともに理想の日本人というものを見ていた。仮に筆者がいま一度「叒譜」を訳すとしたら、『大和桜の譜』としよう。
 「大和」とは「大和魂」のことである。それは直虎の生き方の中に筆者が常々感じてきた日本人固有の負けない精神のことである。かつて吉田松陰もまた日本の将来を案じ「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」と詠んだそれと同じものである。
 直虎は、日本有史以来静かに形成されてきた日本人の日本人たる水晶のような心をして、己が成すべき使命を確知していた。攘夷、開国、勤王、佐幕……、当時の思想的枠組みを超えて、日本人のDNAに刻まれた共通の思い―――それこそ「叒」ではなかったか。