> (21)物理で女心を研究する男
(21)物理で女心を研究する男

ネット小説ランキング>一般・現代文学 コミカル>大運動会
 研究集会が無事に終了し、学校内は俄かに安堵感に包まれた。五学年の先生方は、反省を兼ねて打ち上げをしようと早々に学校を出てしまったが、そうでない先生方は、いつもと変わらない残業をこなしていた。しかし城田の頭の中は相変わらず円塔のことでいっぱいで、次は何をすればよいか考えあぐね、ガリ先生に相談してみようと理科室に向かった。思えばガリ先生も研究授業の対象者だったので、さすがに今日は早々に帰宅してしまったかなと思いながら理科研究準備室の扉を開ければ、彼はパソコンの前に座って何かに没頭している様子。
 城田は「研究授業ご苦労さまでした。好評だったようですね」とその背中に向って言うと、ガリ先生はキーボードを打つ手を休めて「ああ城田先生、おかげさまで」と振り返った。
 「熱心ですね、研究授業の次は何の研究ですか?」
 城田はそう言ってパソコンの画面を覗けば、カラフルな色を記載した何かの表欄で、何気なく縦軸に目をやると、蛍ヶ丘小学校に勤務する独身の女性教諭の名が連ねてあるではないか。不審に思った城田はガリ先生の顔をいぶかしげに見つめた。
 「ああ、これ?」
 ガリ先生は慌てた様子でPCの画面を切り替えると、「何のご用でしょう?」と話題をそらすように言った。しかし一度見てしまった城田は気が気でない。教師として何か由々しきことをしているのではないかと心配して「今の……は?」と問い詰めた。
 「まいったなあ……やはり気になりますか?別にストーカー行為をやっているわけではありませんから」
 ガリ先生は観念した笑みを浮かべて、隠した表計算の画面を再び表示した。そして何の脈絡もなく、
 「城田先生はこの世で最も不可思議なものって何だとお考えです?」
 突然そんな質問を投げかけた。城田はしばらく考え込むが、
 「僕は女心≠セと思っているんです」
 と、ガリ先生は少しの悪びれもなく、研究に没頭する科学者特有の淡々とした口調で言った。言われてみれば人の心ほど不可思議なものはなく、男の立場でいえば、移ろいやすい女心ほど不可解なものはないと城田は思った。ガリ先生は続けた。
 「僕は物理学の力で、その女心というものを解明できないかと研究しているのです」
 「物理で女心を……?」
 興味深い話に、城田はすっかり心奪われた。
 「そうです。まあ僕の研究は精神物理学の分野に入りますが、つまり外からの刺激とそれに対応する女性の感覚を測定し、その関係性を明らかにしたいのです。人は視覚や聴覚などの五感を駆使して自分が置かれている環境を認識していますが、要するに人の心はその人を取り巻く環境や出来事と非常に密接な関係にある。つまりそれらを物理的に検証すれば、環境や事象は女性感情のブラックボックスとも言えるのですよ」
 解かったような判らないような説明だが、ガリ先生の考えそうなことだと思いながら、城田は相談のことなど忘れてその話に惹きこまれていった。彼は更に続ける。
 「そこで僕は考えた。この学校の女の先生方に協力していただき、データを集めさせていただこうと」
 「データ?―――何の?」
 「心の状態です。もっとも心なんて見えませんから色で表してもらうことにしました。しかし作為や意図が入ってしまったら研究になりませんから、無意識で色を選ばせるよう、二十四色入の色鉛筆を彼女たちに与えまして、年間の子ども達の物理的な学習環境を調べたいから≠ニ言って、毎日一時間目の開始時の、彼女たちのいる教室における室温と湿度を測定するようお願いしたのです。一つだけ条件をつけて―――」
 「条件……?」
 「そう、その日の朝の気分の色を、色鉛筆から選んでこの紙に記入するという―――」
 ガリ先生は、教室名と室温と湿度を記入するだけの簡単な自作の用紙を城田に見せた。
 「学校では一日にいろいろなことが起こりますから、あまり外的影響を受けていない一時間目の開始時が一番いい。子どもの学習環境と教師の気分と何の関係があるか≠ニ最初は不審な顔をされましたが、何人かの先生方は僕の要望を受け入れてくれました」
 ここまで話すと、「ああ、この事は他の先生方には内緒にしてください。特に男の先生にはお願いしてないものですから」と、ガリ先生は珍しく感情的になって城田を牽制した。
 「ところで、何かお話があったのではないですか?」
 ガリ先生は急に話を打ち切ろうとしたが、既に興味津々の城田は「それで?」と目を輝かせた。
 「そんなに聞きたいですか?」
 城田は何度もうなずいた。
 「いいですか、これはあくまで、物理で女心を解明しようとする観察実験であり研究です。しかしここから先は、個人情報なんかよりもっと深い次元で彼女たちの事を知ることになります。もしこの研究が犯罪と言われたとしたら、城田先生も共犯者ということになりますが……それでも聞きたいですか?」
 城田は生唾を飲みこんだ。
 「わかりました」とガリ先生は平常心を装うが、内心研究の途中経過を人に話したくて仕方がないのだ。
 「室内の温度と湿度を、僕の要望通りにその日の気分の色を使ってデータを提供してくれたのはこの6名です」
 ガリ先生は先ほどまでキーボードを打ち込んでいた画面を指さした。表欄の縦軸に名前があった先生とは、一年敬組の相田まゆみ先生、二年信組の木村志乃先生、三年愛組の小林紗羅先生、四年敬組の桜田愛先生、保健室の鶴田美由紀先生、事務室の山際聡美先生という顔ぶれでみな独身の6人である。
 「ここに名前のない先生方は、ボールペンや普通の鉛筆で記入してきたり、記録するのを忘れていたりでデータになりませんでしたので除外しました。でも記録として別のファイルに保存してあります。そしてこの表の見方ですが、横軸は日付で、物理的環境となるのが日付の下、一時間目開始8時50分時の天候と気圧、そして先生方が測定してくれた温度と湿度、加えて月も影響していると考え、その日の月齢を記録しています。そして各先生方の覧のこの色ですが、その日に彼女たちが選んだ色鉛筆の色を表わしています」
 城田はじっと表を眺めて、
 「ここから何が分かるのですか?」
 と言った。ガリ先生はニヤリと笑むと、
 「好きな色の傾向が判ります」
 と答えた。ところが城田にはいまひとつ理解できない。
 「好きな色というのはその人の性格を表わす場合が多い。近年注目されている色彩心理学という分野になりますが、例えばうちの先生で一番顕著なのが桜田先生。彼女の記録は、ほら、ほとんどピンク系の色鉛筆で書かれていました。彼女の身の周りの持ち物を知っていますか?好きな色というのは、スマホとか財布、マグカップなどに出やすいのですが、彼女のそれらの持ち物は全てピンクです」
 城田は「そうだったかな?」と、目線を左斜め上に向けて思い出そうと努力した。
 「ピンクが好きな女性というのはロマンチストが多い。愛情深くて世話好きな反面、デリケートで傷つきやすく、常に愛し愛されることを望む傾向があります。一見、穏やかに見えますが実は芯は強くて嫉妬深いのも特徴で、ですから、ああいう女性とは誠実に付き合わないと痛い目をみますよ」
 なるほど言われれば当たっているかもしれないと城田は思った。
 「僕の研究は色彩心理ではありませんので話を進めますが、この表から読み取れるその先生固有の好きな色、それを僕は固有基本色≠ニ名付けましたが、見て気づきませんか?どの女性もひと月に一度、同じ周期で固有基本色とは違う傾向の色を使っている、こことかここ―――どうしてだか判ります?」
 ガリ先生は声のトーンを落として、
 「生理ですよ」
 と言った。そして「そういう日は気分も落ち込みイライラしてますから近寄らない方がいい」と付け加えた。たまたま城田が見ていた桜田先生の今日の色は、数日前からピンクとは真逆の緑色で、恐い目付きで希のことで話があると言ってきたことを思い出し、今日は話さなくて正解だったと胸を撫で下ろした。
 「問題はそこではなく、毎日の色が違っていることです。大きな違いもあれば三、四日続けて同じ色の時もある。なぜか?僕は特に気圧と月齢との関係に注目しています。例えば養護の鶴田先生、彼女の固有基本色は紫です。紫は美意識が高く繊細な感受性を持っていますが、裏返せばうぬぼれが強い。ところが、満月の日は茶系統の色になるんです。そしてもう一か所茶色になっているのが気圧が1015ヘクトパスカル以上の日。茶色は高級感のあるものに憧れながらも保守的で温厚を示しますから、ある意味紫とは逆の性格になっているのです。つまりこれが女心というわけです。いつもは気位が高そうな鶴田先生の場合、高気圧の満月の日に、ちょっとお洒落なスーツを着て高級レストランに誘ったとしたら―――」
 ガリ先生は急に言葉を止めて咳払いをした。城田はすかさず、
 「ひょっとして鶴田先生を口説こうとしてます?」
 ガリ先生は柄にもなく顔を赤くして、「冗談を言わないで下さい!僕はただ女心の謎を解きたいだけです」と、慌てて画面の表欄を閉じてしまった。
 「それより城田先生、なにか僕に話があって来たのではないですか?研究途中の精神物理の話はこれくらいにして先生の話を伺いますよ」
 城田は思い出したとばかりに話し出した。
 「実は十段円塔のことなのです。運動会まであとひと月を切りました。子ども達の方は毎日練習していますからあまり心配はしてないのですが、問題は協力していただく大人達です。人数を集めたまではいいのですが、どのように当日まで持っていけばよいか……。一番最初に相談に乗っていただいたのがガリ先生ですし、他に相談に乗ってくれそうな先生もいないもので―――」
 「なんだ、そんなことですか」と、まだ二十代後半のガリ先生は、かなり先輩の城田に向かって得意げに話し出した。
 「逆算するしかありませんよ。当日ぶっつけというわけにはいきませんし、練習日は2回くらい確保しなければならないでしょう。しかし親御さんや働いている大人達に学校まで来てもらうわけですから平日というわけにはいきません。とすると土曜は仕事の人も多いから日曜日に設定するしかない。運動会まで日曜が四回ありますから、一週間前の日曜とその前の日曜の2回を全体練習に当てると、残り2回の使い方が問題になります」
 「若いのになかなかしっかりしている」と、城田はすっかり感心してしまった。
 「まず説明会が必要でしょう。参加者に来ていただき、十段円塔とはどういうものかから始まって、肩の組み方や力の入れ方、いかに団結が必要かを説かなければいけません。そうだ、明日の土曜日はPTA作業の資源回収ですよね。終了後に開催してはいかがでしょう? もっとも今日の明日では人数が集まるとは思えません―――やはり改めて日程を設定し、説明会を開くしかありませんね。そこに出席できない人には説明会の内容を知らせる通知を出さなければなりませんし、それまでにこちらでは最も強固な並び順を割り出し、打ち出す必要があります。そうだ、身長と体重、性別と過去のスポーツ経験や、力に自信がある・なし等のアンケート用紙を早急に作って配布しましょう。そしてできるだけ早く回収し、並び順の名簿を作っておけば練習もスムーズに進めることができる。もちろん名簿には所属組織と連絡先も入れた方がいい。千人以上いるわけですからそれだけでも大変な作業ですよ―――。それと、必要な備品をピックアップし、集めなければいけませんねえ―――」
 ガリ先生はここまで一気に話したが、途中で「こりゃとても無理ですね」と言わんばかりに苦笑いをつくった。しかし城田はお構いなしで、
 「とすると、まず最初に私がやらなければならないことは何ですか?」
 その真剣なまなざしに、ガリ先生は「本当にやるつもりですか?」と呆れたふうに、
 「まずはアンケートづくり。そして全体説明会の開催通知と、説明会に出席できない人のための十段円塔の手引き書。その後に名簿作りといったところでしょうか? 備品の一覧表も必要でしょう。早めに手配しないと間に合わない物品もあるでしょうから。あと配置図とか……」
 と思い付きの案を並べた。
 城田は突然山積みにされたやるべき内容を頭の中で整理すると、慌てて職員室に戻ってパソコンとにらめっこを開始した。