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(20)過去を知る者との再会

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 目を覚ますと、いつもと違う様子の室内に驚いて、城田はガバッと飛び起きた。そして暫くは自分が今いる状況を考えて、昨日の晩、原田の日の出食堂で飲んでいたことを思い出した。ところが島村社長と文房具の林さんが入ってきて、救助マットの話をしたところまでは覚えているが、その後は、何の話をしてどうやってここまでたどり着いたのかまるで覚えがない。時計を見ればまだ朝の五時半で、今日は郡市の教育研究集会であることを思い出し、車を近くのコンビニまで走らせ、洗面用具一式を買い込んで身づくろいをした。
 この日は郡市内の他の学校は全て休みで、それに合わせて給食センターも休みなので、子ども達は給食なしの半日授業である。九時ころから郡市内の先生方が蛍ヶ丘小学校へ集まって来て、研究授業に直接関わらない先生方は、臨時駐車場となる校庭に出て、来校する車の誘導役員をすることになっており、2時間目から通常授業を行って子ども達を帰えす。一方、研究授業対象の学級は、3、4時間目に研究授業が行われ、その授業の様子を参観した郡市の先生方は、お昼休みを挟んで午後に、分科会に分かれて意見交換を行い、その後全体会に出席して散会する流れである。もちろん午後からは研究授業に関わらなかった先生方も本会に合流する。
 城田は研究授業にはからんでいなかったので、五年愛組の安岡先生などに比べたらまったく気が楽だったが、校長、教頭はじめ研究授業を行う先生やその学年の学年主任の先生などは、話しかけるのも気が引けるほど神経をピリピリさせていたので、学校全体は凛とした緊張感に包まれる。しかも市長と教育長が来校するというからその緊張に輪をかけた。
 朝の職員会では、まっぱつ校長の烏山から、昨日のSTBニュースの話題が出された。
 「明るい話題を本校から発信できることは非常に喜ばしいことですが、この取り組みには危険も多いし反対の声もあります」と、高橋先生や城田と話し合いをしたことや、自分の考えを述べながら、基本的な考え方と学校方針を打ち出した。
 「とにかく絶対に無理はしない!いいですか絶対≠ナすよ。そして、十段はあくまで目標であるということ!」
 そう強調して、STBの特別番組で学校に取材が入ることを伝えた。
 続いて教務主任の高橋先生からは、教育研究集会の一日の流れが説明された。強行に反対した十段円塔を取り組むことになったためだろう、朝から城田とは目を合わせようともしない。席が隣同士なのに「おはようございます」の挨拶すらかわそうとしなかった。

 一時間目―――。
 桜田愛の四年敬組は、彼女が駐車場整理役員を免れたため通常授業だった。教室の扉を開けた瞬間、瑠璃の周りに集まっていたのだろう、女子の多くが慌てて席に着き、希に目をやれば、朝の読書の本を開きもせず、俯いて小さなため息をついているのが判った。
 完全にバレてる―――
 愛はそう思ったが、かける言葉も見つからず、「当番の人、お願いします」と、朝の挨拶をして授業に入ったのだった。そして、一学期には終わっていなければいけないはずの算数の1桁で割る割り算の単元にあった文章題を、黒板に書いて読み上げた。
 「1円玉20枚を積み上げると、高さは3cmになります。高さ9mの校舎の高さまで1円玉を積み上げるには、何枚の1円玉が必要でしょう?」
 よりによって円≠ェたくさん出てくるなと思いながら、希が円塔≠連想しないだろうかと気をもんだ。気になり出すと矢も楯もたまらない。一時間中円≠ニいう言葉が出て来るたびに、希の顔色をうかがって何て説明しようか悩み続けた。そうして長い一時限が終わって、ついに腹を決めて希を呼び寄せたのだった。
 「ちょっと希さん、来てちょうだい―――」
 希はつつつと愛のところに近寄ると、つぶらな瞳で、
 「なんですか?」
 と小さな声で言った。愛が言葉に詰まっていると、
 「大丈夫です。ぜんぜん気にしてませんから」
 と、十段円塔≠フ十≠フ字も出さないうち希が淡々と答えた。
 めちゃくちゃ気にしてるじゃん!―――
 愛は『お父さんに手がとどくかな』と言った希が気の毒で、泣きそうになりながら「ごめんね……」とだけ言って、逃げるように教室を飛び出した。そして「なんで私が言わなきゃいけないの!城田のばか、ばか、ばか!」と心で繰り返しながら職員室に戻った。
 城田ら男性職員は駐車場の整理役員でグランドに出てしまっており、接待を任された養護の鶴田美由紀先生と事務の山際先生は何だか忙しそうに厨房で話をしていて、職員室は閑散としていた。そろそろ集まり始めた郡市の先生方は体育館に集められ、二時間目の始業に合わせて開会式が行われ、三時間目から授業の参観をする予定なのだ。職員室の廊下が急に騒然としたと思うと、外で役員についていた男性陣が戻ってきたようで、愛は噛みつくように城田に食ってかかった。
 「城田先生!希ちゃんにバレちゃいましたよ!どうするんですか、彼女、気にしてないとは言ってますが、そうとう無理してますよ、あれは!」
 「ああ……、もうじき二時間目が始まってしまいますので、後でゆっくり話しましょう」
 まるで取り付く島も与えない応対に、愛はますます彼が憎たらしくなった。

 開会式で挨拶をした市長の五木雅雄と教育長の井ノ原弥生を連れて、校内を案内して回るのは烏山校長だった。そして大勢の教師陣が参観する研究授業が行われている二年敬組、三年信組、安岡先生の五年愛組、そしてガリ先生の授業が行われている理科室を順次視察すると、やがて穏やかな笑い声を挙げながら校長室に入った。そして接待用のソファに腰かけた市長と教育長の前に、鶴田先生が厳かにやって来て熱いお茶を置いた。
 「本当は午後も出席したかったのですが、別の要務がありましてね」
 と、五木市長がお茶をすすりながら、「運動会では何かすごい事をお考えらしいですね、見ましたよテレビ」と愉快そうに笑った。
 「十段円塔なんていったら、いったいどれほどの高さになるのでしょう?」
 その至って穏やかな口調に、
 「一段1メートルとしても十メートルです。ひょっとしてこの校舎より高くなるんじゃないかしら」
 と、今度は井ノ原教育長が言った。この辺では珍しい女性の教育長である。そして、
 「城田先生、相変わらず頑張っているようですわね」
 と付け加えた。
 「おや井ノ原先生、城田先生をご存知ですか?」
 烏山が驚いたように言った。
 「ええ、もう十年以上前になるかしら?私がまだ教頭をしている時、同じ小学校におりましたから」
 十年前と聞いて、烏山は一層驚いて口走った。
 「では、あの事故をご存知なのですか?」
 市長は「事故?」と言って怪訝な顔をした。
 「もちろんです、目の前で目撃しましたから。当時、城田先生と仲の良い先生が二人おりまして、アテネの三羽鴉なんて言われておりましたのよ―――」と、井ノ原教育長は当時の話を懐かしそうにし始めた。
 城田と春子がその小学校に赴任した翌年、井ノ原は教頭として二校目になるその学校にやってきた。当時から城田先生と紅矢(大悟)先生と静谷(春子)先生はとても仲が良く、非常に熱心に教育に取り組む姿を見て、ソクラテスとプラトンとアリストテレスに例えて彼らを「アテネの三羽烏」と命名したのは私なのだと笑う。ところがあの年、十段円塔に失敗し、校長と紅矢先生が停職になってしまい、自分は校長代理として職務の一切を担うことになったのだと、当時の大変さを笑い話に変えながら話した。と、
 「そろそろ私は役所に戻らなければなりません」
 五木市長が立ち上がった。
 「井ノ原さんはどうします?」
 「せっかく来たので城田先生にお会いしてから戻ろうと思います」
 市長は「ではお先に」と会釈して、最後に、
 「STB特番を楽しみにしています。須坂市が注目されて嬉しい。怪我のないようにお願いしますよ」
 と言い残して笑顔で帰って行った。それを玄関まで見送った烏山は、再び校長室に戻って、井ノ原に先ほどの続きを聞くことになる―――。
 およそ半年の停職処分を受けた紅矢先生はひどく落ち込んだようだが、城田先生と静谷先生は心配して毎日のように彼のアパートに激励に行っていたようだった。そして二学期が過ぎ、年が明けて、三学期も終わり、卒業式の後の離任式で、紅矢先生の転任と静谷先生の退職が発表されたのだと言う。もちろん公私に渡って様々に相談した挙句の結論だったわけだが、新学期を迎えて間もなく、紅矢先生と静谷先生の結婚披露宴の招待状が送られてきた。それに出席したきり二人には会っていないが、その翌年、紅矢先生が交通事故で亡くなったという話を城田先生に聞いたのだと語った。
 「では、その静谷先生というのは、結婚して紅矢と姓が変わったわけですね?」
 烏山は納得したというふうに「う〜ん」と深くうなった。
 「どうなさいました?」
 「その紅矢と同じ姓の子が、いまうちの学校の4年生にいるのです」
 「それはきっと紅矢先生と静谷先生の子どもに違いないです。紅矢なんて苗字、滅多にありませんから」
 「そういうことだったのですね―――」
 烏山は先日城田の話にはなかった、彼が十段円塔に執着するもう一つの大きな理由を知った気がした。

 四時間目が終わり子ども達が帰って、教育研究集会もお昼休憩となった。そして城田が職員室に戻ってきたとき、烏山校長が、
 「ちょっと校長室へいらっしゃい。あなたにとって懐かしい人がお見えですから」
 と校長室へ呼び入れた。入ると、
 「城田先生お久しぶり!」
 笑顔で握手を求めてきたのは井ノ原教育長で、城田はどぎまぎしながらその手を握り返した。実は彼女が須坂市の教育長を務めていることは知っていたが、あの当時の事を知っている人には、どちらかといえばあまり会いたくなかったのだ。社交事例のように、
 「お元気そうで何よりです。ご活躍はよく存じております」
 と頭を下げると、「挨拶なんか抜き」とでも言いたげな井ノ原は、
 「十段円塔に再挑戦なさるそうですね。頑張ってください、心から応援しています!」
 と笑う。城田は不思議に思って彼女を見つめた。あの時、もっとも大きな尻拭いをさせられた者こそ彼女だったはずだからだ。
 「あの失敗のあと、私もずいぶんひどい目に合いました。でも、あの時の経験があったからこそ、私は大きく成長することができ、今では教育長です。城田先生も思う存分やってくださいネ!」
 城田は急に嬉しくなって「はい!」と答えた。
 「でもね―――今日は会ってひとつだけ言っておきたいことがあったの」と、彼女は声のトーンを落とした。
 「あのときなぜ円塔が崩れたかお解かり?」
 彼女の目は、女性にはあるまじきライオンのような光を発していた。
 「獅子身中の虫よ―――。どんなに頑丈な建物も、どれだけ強固な組織でも、崩壊するのは内部分子からなのよ。獅子身中の虫がどこにいるか見極めて対処なさい。それがどこにいるかはわからない。子ども達の中かも知れないし、協力者の中かも知れない。もしかしたら、あなた自身の中にいるかも知れないわよ……」
 井ノ原はそう言い残して帰って行った。「やり手ですね〜!」と、烏山はすっかり感心した様子で呟くが、午後の分科会が始まり、校長室に一本の電話が入る。
 『市長の五木ですが、烏山先生ですか?』と、その声は市長だった。烏山はてっきりお礼かねぎらいの言葉をかけられるのかと思ったところが、
 『実は県の教育委員会から連絡がありまして、先ほど話題になった運動会の十段円塔ですが、危険だから中止せよとのことです』
 ときまり悪そうに言う。
 「市長、ちょっとお待ちください。つい先ほどは喜んでくださっていたではありませんか……」
 烏山は急な展開に驚きながら言い返した。
 『私も面白いと思うのですよ……しかし県教委からのお達しなもので、どうにもなりません』
 危険なことは烏山も百も承知である。しかしつい昨日、城田の話に共感し、自分もやる≠ニ決めたばかりなのだ。市長に『中止せよ』と言われて「はいそうですか」と簡単に撤回するほど安い男でない。しかも大切な後輩教諭の更なる熱い思いを知った以上、梃子でも動かない烏山だった。次代を担う教育者の防波堤となって城田を擁護しなければならない責任を咄嗟に感じた。
 『ではよろしくお願いしますよ―――』
 「ちょっとお待ちを!」
 電話は無情に切れた。烏山は予想より早く辞表を提出しなければならない事態を予感しながら、深い覚悟のため息を落とす。